謎の人ユークリッド

 ユークリッド(通常英語読みを用いる、それはメガラ派の哲学者エウクレイデスと区別するため)、の生涯については、次のプロクロスの資料によるが、プロクロスは、ユークリッドの生地、生年、没年を知らなかったようで、プトレマイオス1世の頃活躍していたと推測している。つまり、ユークリッドに関してはほとんど確実なことは言えないさらに、他の資料においてもAD4世紀〜5世紀の資料であり、信頼性には問題がある。ヒースによれば「ユークリッドは、つねに、幾何学原理(原論のこと)の著者と知られ、アルキメデス以後のギリシア人たちはかれの名前を使うかわりに幾何学原理の著者と呼んだ」そうである。つまり、ユークリッドはすでにその当時謎の人であったのである。
 
注、以下の諸資料は、HE,p1〜6、日本語訳「原論」p437〜443にまとめられている。
 
資料1プロクロスの摘要 
 種々の歴史をまとめた人々が、この学問の発展をたどっているのは、ここまである。原論を編纂したユークリッドは、これらの人びと(コロポンのへルモティやメドゥマのピリッポス)よりもさして若くはない。かれはエウドクソスのなした多くのことをまとめ上げ、またティアイトスのなした多くのものを完全にし、さらに先行者たちによって紐雑に証明されていたものを非難のうちどころない厳密な論証にまで高めた。この人(ユークリッド)はプトレマイオスl世のときに生きていた。なぜなら、プトレマイオスl世のすぐあとに生まれたアルキメデスがユークリッドのことに言及しているからである。そしてさらにまた次のようなことも語られているからである。すなわちプトレマイオス王がユークリッドにあるとき、幾何学において「原論」よりももっと手っとり早い道はないかと訊ねたが、そのときかれは「幾何学には王道なし」と答えたというのである。したがってユークリッドはプラトンの直弟子よりも若く、エラトステネスやアルキメデスよりも年をとっていることになる。というのはエラトステネスがどこかでいっているように、この人びと(エラトステネスとアルキメデス)は互いに同時代人であるから」

注1アルキメデス「方法」(東海大学出版)の序文には、アルキメデスからエラトステネス宛の書簡が書かれているので二人は同世代といってよい。また、アルキメデスがユークリッドのことに言及しているとは、アルキメデス「球と円柱について」(朝日出版p315)の第一巻の第二命題の証明にある「ユークリッド原論第一巻命題二により」のことである.「この箇所はアルキメデスがユークリッドに言及した唯一のものであるが、御代の加筆とも考えられる」(アルキメデス「球と円柱について」朝日出版p318訳注)なぜなら「原論の主要な写本はすべて定義の番号を欠いている。番号は後から与えられたものである。命題の番号も最初は存在しなかった可能性がある。少なくとも、原論は命題の番号を必要としない構成になっている。以前に証明された命題に言及する場合は、命題の番号をのべる代わりに、その表現を繰り返す」(斉藤憲「ユークリッド原論の成立」p23)のであり。さらに「ユークリッド原論第一巻命題二はきわめて初歩的な命題であり『球と円柱について』というかなり高度な著作でこのような初歩的な命題を利用するのにいちいち出典を明記するのは不自然である」(同書p17)そうするとユークリッドはアルキメデス以後の人、プトレマイオス1世のときに生きたという章句も疑問視るされる。

注2、プトレマイオスl世の統治は、BC306〜283
アルキメデスBC287〜212
    エラトステネスBC284頃〜204
    よりHeathはユークリッドBC300年ころ盛年であったと推測している(HE、p2参照)

注3「幾何学には一つの道しかない」とメナイモスクがアレキサンダー大王に言ったという資料もある(ストバイオスAD4世紀〜5世紀初めころ)(HE、p1参照)。これは、プラトンのアカデメイアには「幾何学を知らざる者、ははいるべからず」という言葉があるように、幾何学はそう簡単に学べないという比喩で、当時のギリシアでのたとえばなしであると解釈してもよいのではないか。
 
資料2プロクロス「ユークリッド原論第一巻注釈」(p68)
「ユークリッドは原論の最後、(つまり第13巻)をプラトンの図形で終わらせている」とのべユークリッドがプラトン主義に近いと述べている。」

注、プラトンの図形とは、5つの正多面体のこと、これはプラトンのの発見ではなく、対話篇「ティマイオス」に出てくるのでこう呼ばれている。プロクロスはユークリッドをプラトン主義者と考えただけである。
資料3 パッポス「数学集成」(AD320GM2−p564参照)
「アポロニウスは、ユークリッドの弟子たちと長い間、アレクサンドリアで過ごした。そして彼は科学的な思考の習慣を身につけた。」
 
資料4 パッポス「数学集成」(AD320GM2−p564参照)
「ユークリッドはアリスタイオスの円錐曲線の発見を名誉のことであると認め、たとえ少しでも数学の発展に貢献する人に対して、公平で、優しく接した。アポロニウスのようにではなく・・・」
 
資料5ストバイオス
「幾何学をユークリッドのもとで学び始めた人が、最初の定理を学んだときに、ユークリッドに、何の得になるのかと尋ねた。ユークリッドは奴隷を呼んで、3オボロスをこの人にやりなさい、このひとは学んだら何かを得られると思っている」
、塚田孝雄「ソクラテス最後の晩餐」筑摩書房によると、アテネでのBC5〜4世紀頃では、2オボロスが肉体労働者の日給であり、6オボロス=1ドラクマ(軍艦漕手当1日分)
イアンブリコス「ピタゴラス伝」国文社(21節〜24節)
 ユークリッドではなくピタゴラスが若者に「図形の形状をことごとく教えては、努力の報酬として3オボロス与えた」若者は「3オボロスなしでも勉強し先生(ピタゴラス)諸学科の教えを受けられます」と言った。斉藤憲は「ユークリッド原論の成立」においてプロクロスにも同様な記述があり、ユークリッド、ピタゴラスに限らず「幾何学は目先の利益のために学ぶものではない」という思想を表現するための創作と考えるべきと思われると述べている。つまり注3のとおなじように、たとえ話と解釈すればよいと思います。

、ギリシアでは、3オボロスは、とるにたらない小銭とされていたようである。例えば「でも君は3オボロスでこれが買えたら、買いはしなかっただろうか」(DL2-8)というように


資料1ではプロクロスが「アルキメデスがユークリッドのことに言及している」と述べている箇所は、アルキメデスの現存していない著作をプロクロスが参照できたのかわからないが、この箇所はプロクロスにとってアルキメデス自身の記述と考えられていたことになる。従ってこの資料から確実なユークリッドの年代は分からない。「すなわちプトレマイオス王がユークリッドにあるとき、幾何学において「原論」よりももっと手っとり早い道はないかと訊ねたが、そのときかれは「幾何学には王道なし」と答えたというのである」は、たとえばなしを、プロクロスが挿入した可能性もあるなぜならプロクロスは「答えたというのである」と推測で述べているからである(注3参照

資料2〜5ではユークリッドの生涯についての記述はなく。謎の人ユークリドというしかない

原論の著者としてのユークリッドのイメージであるが、ユークリッドは以下にあるように他の著作も多数ある。


ギリシア原典の存在するもの・・・「デドメナ」(原論を補充するもの)、「光学」、「反射光学」、「音楽原論」、「天文現象論」

アラビア訳で存在するもの・・・「図形分割論」、「天秤について」

ラテン訳で存在するもの・・・「重さと軽さのついて」

失われたもの・・・「誤謬推理論」、「ポリスマタ」(定理と問題の中間的なものポリスマタというそうです)、「円錐曲線論」、「曲面軌跡論」


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