論証数学の起源の社会的背景
論証数学の起源は、Nitzによれば、BC440年ころ、キオスのヒポクラテスの時代であった。この時期は、アテネは経済的発展をとげギリシアにおいて強国となった。それとともに文化が花咲き後に黄金時代とよばれた。それは、この時代の民主制が、個人が自由に意見を言うことができ、民会や法廷での演説、討論等、デベートの技術が背景になっていると考えられる。そして、その技術を教授したのがソフィストたちであった。まず、民主化への足跡を、できるだけ資料を参照してみていく。なお、君主が人民を治めていたオリエントやエジプトなどでは、このような事態は起こらず、個人が意見を言うことはなかった、論証数学の成立もなかった。スネルによれば、ギリシアでは「個人の覚醒」がすでに、初期叙情詩に見られるという。
 
ヒポクラテスについて、プルタルコスは、次のように語っている。この時代にアテネは、海外に進出し、経済的にも富んでいた。
 
資料、プルタルコス「ソロン伝」
商業により名声を得ることもあった。交易商人は異国の事情に精通し、また、異国の王たちと親しくなって、さまざまな経験を積んでいたからだ。商人のなかには、大きな都市を建設した者もいた。・・・タレスとヒポクラテスも交易に従事したと言われ・・・
 
アテネの発展・・・経済では、農業国から商工業国、政治では、貴族制から民主制へ、主要な人物を通じてのべる。
注、この背景として、戦術の問題がある。重装歩兵戦術は、ブロンズや鉄製の武具を身にまとい、横長の密集隊形を組んで戦う。貴族だけでは数が足らず、平民も参加した。この戦法では、平民と貴族の差異はなく一体化している。さらに武具は各自自前であった。政治的には平民は貴族の支配下にあったが、経済的には自立していた。おそらく、ギリシアの植民や貿易、さらに商工業の発展によって富を得た裕福層があらわれてきたと思われる。平民の社会的経済的地位が向上してきたことが、民主化を促進していく原動力になったと思われる。
ソロン以前(BC7世末紀頃)のアテネの社会状況い関するアリストテレスの報告
資料、アテナイ人の国政(二章)
彼らの国政は他の点でも全く寡頭的であったが、特に貧民に至っては男も子供も妻も富者に隷属していたからである。彼らはペタライ(原義は隣人)とかヘクテモロイ(六分の一、収穫の六分の一を納めるという解釈が有力、他に六分の一を得て残りを納めるとい解釈もある)と呼ばれていた。それは彼らがこの割合の地代で富者の土地を耕したからである。すべての土地は少数者の手にあった。(この部分は誤りであるというのが定説、自由農民もいたようだ)そしてもし地代を支払わねば当人もその子供らも奴隷におとされた。そしてソロンの時までは借財には誰でも身体を抵当にしたのであった。この人がはじめて民衆の指導者となったのであった。そこで大衆にとっては当時の制度のうち奴隷となるのが最も苦痛なことであった。しかしその他の点についても彼らは不満であった。彼らはいわば荷物にも与り得なかったからである。
注、非貴族市民層の政治参加要求と、土地の少数者への集中、市民団の奴隷制的分離の危機が当面の問題であったことについては意見の一致がある(資料集p35)
ソロン(BC640〜560)の改革(BC594)ソロンは「調停者」と呼ばれていた。
・負債の帳消し
・債務奴隷の廃止(農民が海外に奴隷として売られることはなくなった)「重荷おろし」と 呼ばれる
・オリーブ以外の農作物の輸出禁止(農業を保護した)
・商工業の振興(アテネ制の陶器が海外でみられる)
・市民を四階級に分け参政できる範囲をさだめた(富にもとづく民主制の道を開いた)
 注、背景には、すでに述べたように、市民の経済力の向上とともに発言力が増した。
ソロンは自らの改革を次のように振り返っている
資料、アリストテレス「アテナイ人の国政」(12章)
その土地から私はあちらこちらに立てられた抵当標を引き抜き、かくて土地は以前の隷属の状態からいまや自由となった。多くの人々を私は神の造れる祖国アテナイに連れ戻した。彼らは或いは不当に、或いは正当に奴隷に売られ、或いはやむなき事情で故国を棄て、諸処に流浪せるためにもはやアッティケの言葉を語り得なかった。私はまたこの土地で恥ずべき奴隷の地位に下り、主人の恣意の前に身震いする人々をも自由の身となした。
アリストテレス自身のソロンの改革への評価
資料、アテナイ人の国政(9章)
ソロンの制度では次の三点が民主的にみえる
第一に、そして最も重大なのは身体を質にとって金を貸すことの禁止であり、次には何人でも欲する者は不正を加えられている人々のために償いをもとめることができる点で、第三には法廷への回付であり、(これにより)大衆は最も勢力を得たといわれる。なぜなら民衆は投票権を握ったとき国政の主となるからである。
ペイシトラトスの?主制(BC561〜527)生年はBC600頃
・中小農民の保護育成・・・?主制を維持するために、不満を吸い上げた。後にアテネ市民 団の中核になる中小農民はその地位を確保した。次のアリストテレスの資料参照
・文化的な面では、アテナ生誕を祝うパンアテナイア祭の拡充、劇の上演をともなう大ディ オニュシア祭を創始した。パルテノンを建てる。
 
このような?主制について、アリストテレスは、独裁制(?主制)について次のように語っている。
資料、アリストテレス「政治学」
こうした独裁制が長つづきしたのは、被治者のあつかいが適正だったこと、?主自身が法律に従っていたからである。・・・?主たちは総じて、民衆び配慮を示し、人気をお得ようとした。
クレイステネスの改革(BC508)・・・アテナイの民主制の確立
・貴族制社会の基盤であった部族制の改革
アリストテレスはこの改革について述べている
資料、アリストテレス「アテナイ人の国政」
全国民を四つの部族のかわりに十の部族に分かった。かれはまた全国土を数個の区よりなる三十の部分に分けた。そのうち十は都市とその周囲からなり、十は沿岸から、十は内陸部からなるようにした。これを「トリチュス(三分の一」とよび、各部族がすべての三つの地域に与り得るように、各部族にトリッチュスを抽籤で帰属させた。
注、籤に関しては疑問視されている
 この改革では、部族制は存続するが、それは血縁的ではなく、まったく地域的なものとなった。この新しい部族制によって評議会は五百人(各部族ごとに五十人)となった。貴族制の基盤はなくなった。
・陶片追放の制度を創り、独裁制を防いだ。
この改革によりとり多くの市民が国政に参加できるようになった。民主制の基盤が築かれたと考えられる。
 
ヘロドトスは、貴族制から民主制への移行について語っている
資料、ヘロドトス「歴史」
政治的平等がいかにすばらしいかは、次の例でわかる。つまり、?主の支配下にあったアテナイ人は、近隣のどの国よりも戦力が劣っていたが、?主から解放されると他をしのぐ強国になった
 
その後の年表
BC490・・・マラトンの戦いでペルシアに勝利
BC480・・・サラミス、ブラタイアの戦いでペルシアに勝利(テミストクレスが海軍を増強し勝利に導いた)
BC478・・・デロス同盟設立、後のアテナイ帝国のはじまり
BC460〜448・・第一次ペロポンネソス戦争
BC450頃〜・・・アテナイの最盛期を迎える
反ペルシアの戦いで、ギリシア人たちは民族意識の高揚し、BC5世紀のギリシア全土の発展の原動力になった。それは、政治、経済、文化における発展であり、その中心はアテネでり、いよいよペリクレスの時代、後に黄金時代とよばれる時代を迎える。
 
ペリクレス(BC495頃〜429頃)とその時代
ペリクレスについてトゥキュデスは、人格者であり、政治的な手腕について次のように語っている。
資料、トゥキュデス「戦史」
ペリクレスは、その名声と知性において実力者であるここと、誰もが知る金銭的な高潔さによ、民衆の自由を尊重できると同時に、民衆を抑えることもできた。民衆にしたがうのではなく、民衆を導いていた。邪な動機から権力を求めることはなかったので、民衆にへつらう必要もなかった。
 
出自と生
・名門貴族の出身であり、師は、ソフィストであり音楽家のダモーンという優れた才能の持ち主であった。ダモーンはペリクレスの政策のブレーンであった。また、エレア派のゼノンの講義を聴いたといわれているが、人格形成に影響を及ぼしたのは、アナクサゴラスとの交わりであり、重厚で理知的な人柄を培った。アナクサゴラスの原理は「ヌース(知性)」でさらに、悲劇詩人ソフォクレスとも親交があり、彫刻家のフィディアスとも親しかった。まさしくトゥキュデスの言う知性の人でありこの時代を象徴している。。
 
民衆政策
・民衆法廷の審判人に日当を創始
・ディオニュシア祭にともなって催される演劇のための観劇手当を設ける
・ソロンの四階級のうち、第三階級の農民までアルコン職の資格を認めた
・土地に恵まれない下層市民に、トラキア、エーゲ海の島々、南イタリアに入植できるよう 取りはからった。
完成したアテネでの民主制
・民会・・・市民の総会で、民主制の最高決定機関である。つまり直接民主制であった。定例の民会は、一年間の40回開催され、法案の承認、重 要な官職の選挙、外交政策等を討議した。市民の発言は平等で、外国の使節も演説できた。ただし出席できるのは成年男子(18歳以上)つまり 女性は参加できない。
・評議会・・10の部族から30歳以上の50人ずつ計500人 が籤で選ばれ、外交、経済、祭事等の国事を把握して行政を監督し、民会に提出する議案の作成を行う、ときには裁判もする。普段は、50人が一組で36日ぐらいを担当。毎日の議長は籤で選ばれた。

・民衆裁判所・・・部族から籤で30歳以上の男子600人ずつ、計6000人選ばれる。事件によって、200人〜1000人と陪審員の人数が変わる。 判決は投票で決める
注、将軍職は籤ではなく、民会で部族ごと10人選ばれた。
 
このようにアテネにおいて市民社会の中では、政治的、社会的平等はぼぼ実現した。つまり市民の間に支配、被支配の関係はなくなった。経済的にも他人の支配を受けることはなかった、独立した農民、手工業者、商人であった。しかし、外国人や奴隷には一種の支配、被支配の関係があったので、ペリクレスは、市民法において、「両親ともアテネ人ではないと市民ではない」という法律を作った。内には開放的な民主制、外には閉鎖的であった。
 
デロス同盟・・・BC477にペロポネソス同盟のスパルタに対抗する同盟。本部はデロス島に置かれた。ペリクレスはアテネのデロス同盟のアテネへの従属化の協力な担い手になった。転機はBC454の同盟金庫のアテネへの移転である。資金がアテネに移ったことでアテネの同盟支配は決定的になり「アテネ帝国」の成立となる。この豊富な資金をもとにしてペリクレスは、パルテノン神殿(二代目)に象徴される、アクロポリスの丘の上にさまざまな建築物を造営した。プルタルコスはパルテノン神殿について語っている。
 
資料、プルタルコス「英雄伝」
アテネにはもっとも多くの歓喜と装飾をもたらし、また他国の人々には最大の驚異を与え、いまに語り伝えられているギリシアのあの国力といにしえの繁栄とがけっして偽りではないことを証言してくれるただ一つのもの・・・              
 
この事業は市民の大量の雇用を生み出す公共事業であったか。れの次の言葉のように。ペリクレス自身も意識していた。それは「ポリスはポリス自身によって養われる」さらに、公共事業の収支報告も市民団の監督下においた。このように、市民を中心にした徹底した民主制であった。また、下層市民にとっては、三段橈船の日当とともに、公共事業による収入が生活の糧になっており、民主制を支えた一因でもある。

ペリクレスの政治理念・・・トキュデスが保存している、戦没者に対する追悼演説

資料、トキュデス「戦史」
われわれの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独裁を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主制治と呼ばれる。わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによって、すべての人に平等な発言が認めらる。だが一個人が才能の秀でていることが世にわかれば、無差別なる平等の理を排し世人の認めるその人の能力に応じて、公の高い地位を授けられる。またたとえ貧窮に身を起こそうとも、ポリスに易をなす力をもつ人ならば、貧しきゆえに道をとざされることはない。われわれはあくまでも自由に公につくす道をもち、また日々互いに猜疑の目を恐れることなく自由な生活を享受している。よし隣人が己の楽しみを求めても、これを怒ったり、あるいは実害なしとはいえ不快を催すような冷視を浴びせることはない。私の生活においては互いに制肘と加えることはしない。だが事公けに関するときは、法を犯す振る舞いを深く恥じおそれる。時の政治をあずかる者に従い、法を敬い、とくに、侵された者を救う掟と、万人に廉恥の心を呼びさます不文の掟を、厚く尊ぶことを忘れない。・・・われわれのポリス全体はギリシアが追うべき理想の顕現であり、われら一人一人の市民は、人生の広い諸活動に通暁し、自由人の品格を侍し、己の知性の円熟を期することができると思う。そしてこらがたんなるこの場での高言ではなく、事実をふまえた真実である証拠は、かくの如き人間の力によってわれらが築いたポリスの力が遺憾なく示している。・・・国力を衆目に明らかにした我らは、今日の世界のみならず、遠き末世にいたるまで世人の賞賛のまととなるだろう。

しかし、アリストパネス、プラトン、伝クセノフォンの作者らは、民主制に批判的であった。

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