ピタゴラスが菜食主義であったという説に対する疑問点

ピュタゴラスは、肉食をさけたのか、菜食主義であったのか。現存する資料は錯綜している。大まかに分類すると次の3種類である

A、ピタゴラスが菜食主義(肉食の禁忌)であったとする資料(さらに血を流すことや生き物を殺すことも)
資料A1、ポルピュリオス(VP7)
エウドクソスが言うところでは、ピタゴラスは純潔を守り、殺生について忌避し、殺人者を忌避すること甚だしく、生き物を禁忌するのみならず、屠殺人と狩人にも絶えて近づかぬほどだった


資料A2、ストラボン「地理書」
ピタゴラスは、このようなこと(禁忌)について語り、生き物を食らうこと慎むよう命じた

資料A3、イアンブリコス(VP68)
かの人は、生きとし生けるものと、・・・思考にさわりとなる、ある種の食べ物を禁忌した

供儀に関して、犠牲は血を流さないもの、無生物を捧げた

資料A4、イアンブリコス(vp107〜)
哲学者たちで観想することわけても深い最上位の者らには、過剰で禁戒の食物を金輪際断たせて、いかなる生き物もいかなるときも食さず、酒はふつに飲まず、神々に生き物を供犠に捧げず、いかなる生類にも危害を加えず・・・と教導した。みずからも(ピタゴラスのこと)かように生活し、つまり肉断し、血を流さぬ祭壇に拝跪し、他の者もわれらと同族たる生き物の命を奪い取らぬよう切に望み、野生の生き物に思慮を教え、教育するには言葉と行為により・・・すでにかの人は公僕衆のうち立法役にも生き物を禁忌せよと命じた。・・・人の動物への与りは生まれつき、なぜなら、動物は生命と、人と同一の構成物質と、これらの混じり合う混合を人とともにするので、いわば兄弟関係でわれわれと結びつけられてきているからだ
注、ポルピュリオスもAbst(3−26)において、「動物はわれわれと同類である、つまり同じ魂を持ち合わせている。従って、親類関係にあるものを不当な扱いをすることは不敬虔なことである」と述べている。輪廻転生の教義と結びつけているようである。

資料A5、(DL8−13)
われわれのピタゴラスは、魂に関して、われわれと共通な権利をもつ動物たちを、食べることはもとより、殺すこともを禁じたというわけである。これはもちろん表向きの理由であって、彼が(魂をもつ)生きものを食べることを禁じた本当の理由は、生命を維持することだけで満足するように人びとを訓練して、そのことに慣れさせ、その結果、人びとは最も容易に手に入るものを食料とし、食卓には火を使わない料理を並べ、純粋な水だけを飲んですます。というふうにすることであったのである。(次の資料に続く)
注、これは、ティマイオスのものとされる

資料A6、アリストテレス「デロスの国制」(DL8−13)
彼(ピタゴラス)が礼拝していた祭壇は、生命の生みの親である神、デロス島のアポロンの祭壇だけだあった。というのも、その祭壇の上には、火を用いないままの、小麦や大麦や供物の菓子だけおかれていて、犠牲獣はひとつも捧げられていなかったからである

資料A7、(DL8−22)
神々に対して(血まみれの)生贄を捧げるのをやめて、血の流れていない祭壇のみ礼拝すること。

資料A8、ポルピュリオス(VP36)
ピタゴラスは、供犠を「大麦のひき割り、お供えの菓子、乳香ギンバイカで神々をなだめ、生きものは、絶えて捧げなかったが」三平方の定理の発見のとき「牛をより正確な典拠の言うところでは、小麦粉の生地で作った牛を犠牲に捧げた」と変えている。

資料A9、(DL8−20)
ピタゴラスが捧げた犠牲は無生物であった

資料A10、イアンブリコス(VP150)
神々に奉献していた御食は、乳香、きび、お供えの菓子、蜜蜂の巣、没薬、その他香料だった。生きものはかの人みずからも、観想にかかわる哲学者の誰も供儀に捧げず・・・この後資料B12へ

資料A10、イアンブリコス(VP54)
神に捧げんとする物は、みずから手作りし、家の者の手を借りずに祭壇へ捧げ運ぶべきぞ、たとえば、ケーキ、パイ、蜂巣、か伽羅のごときは。これに対して、生きものを殺生する、血なまぐさい供儀で神を敬ってはならず・・・


B、次の、アリストテレスの証言は、宗教上の理由や供儀、犠牲に関連して、食べて良い物や部分が限定されている。

資料B1、イアンブリコス(VP82)
「何が最も正しいことか、供儀を行うことである」
注、このことは、肉食禁忌は儀礼に関することから始まったように思えるが?

資料B2、アリストテレス断片195、(DL8−33)
哲学者たちで観想することわけても深い最上位の者らには、過剰で禁戒の食物を金輪際断たせて、いかなる生き物もいかなるときも食さず彼(ピタゴラス)の主張によれば、潔斎して礼拝するが・・・その潔斎は・・普通の肉や死んだ動物の肉、ホウボウやメラヌゥロスといった魚、卵や卵を生む動物、豆、そしてそれ以外にも神殿で秘儀をとり行う人たちが禁じているものを控えることによってよってもおこなわれる。

資料B3、アリストテレス断片195、(DL8−34)
アリストテレスが「ピタゴラス派について」のなかで述べているところによると・・・白い雄鳥に手をつけてはならぬと(彼は戒めている)。なぜなら、雄鳥は月の神に捧げられた聖なるものであり。また嘆願者だからである。そして嘆願者であることは、善いことの一つであったし、また月の神に捧げられた聖なるものであるというのは、雄鳥は時刻を告げるからである。さらに白は善いものの本性を表すが・・・

資料B4、アリストテレス断片194
ピュタゴラス派の人びとは子宮、心臓、イソギンチャク、その他この種のもののいくつかを慎んだが、それ以外のものは食べたという。

資料B5、イアンブリコス(VP85)
人間の魂は、犠牲として定められた動物だけは生まれかわることはない。それゆえ、犠牲獣だけを食べるのでなければならず、その他のどんな動物も食べてはならない

資料B6、ポルピュリオス Abst2−28
ピュタゴラス派の人びとは、生涯にわたって肉を避けたが、自らの代わりに捧げられた動物の肉は食べた。
注、Abst2−27では犠牲は最初は果物であったが、それが人間になり、動物が捧げられるようになったとしている。さらにポルピュリオスは、ピュタゴラスの時代には人肉を食べることがあった、もちろんピュタゴラスは例外であったが。そのためピュタゴラスは動物の肉を食べるなと説き、それによって人肉を食べることを戒めたとしている(Abst1−23) 

資料B7、イアンブリコス(VP)98
協同食事は・・・供儀に捧げられる(犠牲)獸の肉は供されるが、魚の肉はまれ・・・

資料B8、ポルピュリオス(VP42〜)
「食べてはならぬと定められているものを食べてはならない・・・万物の最初にあるものがそれから生まれるものも「食べてはならない」これによって言おうとしたのは、犠牲にささげられる動物の腰部、睾丸、生殖器、髄、足、頭を食べるのをつつしめとということである。・・・また「人肉を食べるのをつつしむと同じように、そら豆を食べるのをつつしむ」よう勧めた・・・また、そのほかにも例えば(動物の)子宮やアカボラ、イソギンチャク、その他ほとんど海の動物をつつしむように勧めた。

資料B9、ポルピュリオス(VP34)
彼(ピュタゴラス)の食事は・・・神に供えられた動物の肉、それもあらゆる部分の肉ではなく。(を食べた)

資料B10、(DL8−20)
ある人たちによれば、ピタゴラスは雄鶏や雄山羊や、いわゆる乳離れしていない仔豚だけを犠牲に捧げたのであって、子羊を使うことは決してなかった

資料B11、イアンブリコス(vp107〜)資料A4の続き、アリストテレス断片170
@哲学者たちで観想することわけても深い最上位の者らには、過剰で禁戒の食物を金輪際断たせて、いかなる生き物もいかなるときも食さず。
Aかの人は公僕衆のうち立法役にも生き物を禁忌せよと命じた。Bしかしながら、他の、生き方がさして清めきられず、神事にもかかわらず、知を愛するでもない者であれば、ある種の生き物をは捕らえるのを許した。ただしかようの者には、ある一定期間の断食を定めていた。同じ者らに戒律として定めたのは、心臓の禁食、脳の禁食、これらはピタゴラス派のも禁戒とした。これらが中枢器官であり、思考と生命のいわば御座であるからだ。同時に銭葵をも避けよと命じた
注、公僕衆には、実務運営にたずさわるもの「管財役」、諸国の国政指導にあたる「立法役」がいた、従って「管財役」は生き物を禁忌しなくてよいことになる。
注、ポティオス「ビブリオテケ」によれば、ピタゴラス派は、宗教的役割捧げる者、純思弁的な者、自然を研究する者、そして市民派に分かれていたという

資料B12、イアンブリコス(VP150)
他の口伝衆、あるいは公僕衆には、雄鶏、羊、その他の幼獸などの鶏獸はまれに供儀にささげてよいが、牛はゆめ捧ぐべからずと命じた。

資料B13、ポルピュリオス(VP36)
神々に供儀を捧げるにさいしては、仰々しくなく、大麦のひき割り、お供えの菓子、乳香、ギンバエカで神々をなだめ、生き物は絶えて捧げなかったが、雌鶏と柔らかい子豚は例外だった。

C、アリストクセネスは、禁忌はなかったという証言を残している。

資料C1、ゲリウス「アッテカの夜」
@哲学者ピュタゴラスは生き物を食べなかったとか、あるいはまた、ギリシア人が「キュモアス」と呼んでいるそら豆を慎んだとかいうような 誤たった説が、古くから定着し、強まっている
Aこのような説があるために、詩人カリコマスも次のように書いている
    ピュタゴラスが命じたように、われわれも告げよう
    そら豆から手を遠ざけよ、それは人を苦しめる食べ物
Cしかし、音楽家のアリストクセネスは、古い文献にきわめて精通し、また哲学者アリストテレスの弟子とになった人であるが、彼が書き残した「ピュタゴラス伝」という書物において、豆科の植物で、そら豆ほどピュタゴラスがしばしば食べたものはないと言っている。というのは、その食べ物は徐々に腹を軽減させ便通をよくしてくれるからである。
Dアリストクセネス自身の言葉をここに書き加えておく。「豆科の植物でピュタゴラスはとりわけ高く評価したのは空まめであった。空まめは、腹を軽減させ便通をよくしてくれるからである。それゆえピュタゴラスはとりわけ空豆を食したのである。」
Eアリストクセネスはまた、ピュタゴラスがやや小さめの仔豚や、比較的柔らかい仔山羊を食べたと述べている
Fアリストクセネスは、以上のことについて親友だったピュタゴラス派のクセノピロスや、ピュタゴラスの時代より(それほど遠く隔たっていない)頃の、より年長の他の人たちから情報を得たようである

資料C2、アリストクセネス(DL8−20)
ピタゴラス、は他のすべての生きものを食べることゆるしたが、ただ、耕作用の雄牛雄羊だけは控えさせた

資料C3、ディオゲネス・ラエルティオス(8−12)
算数家のアポロドロスによれば彼(ピタゴラス)は、直角三角形の斜辺の上に立つ正方形は、直角をはさむ他の二辺の上に立つ正方形に等しいことを発見したときに、百頭の牡牛を犠牲に捧げたということである。・・・次のエピグラムも残っている。
ピタゴラスは世に知られたるこの図形を発見した折にそのことゆえに、この評判となりし牡牛の犠牲を捧げたるなり

、アポロドロスという名前は、ディオゲネス・ラエルティオスに他に二回出てくる。それは「キュジコスの人アポロドロスも彼(デモクリトス)がピロラオスと一緒に暮らしていたと述べている」(DL9ー38)「タレスが直角三角形を円に内接させた最初の人であり、そして、そのことで一頭の雄牛を犠牲に捧げたとのことである。しかし、これはピタゴラスのことであると言っている人たちもあり、その中には数学者のアポロドロスも含まれる。この資料から、アポロドロスは、デモクラテスとピロラオスについて述べているので、BC5世紀末からBC4世紀以後の人であると推定できる。
さらに、Burkertは、アポロドロスはエピクロス(341〜270BC)の師であった、キュギコスのアポロドロスと同定している。するとこの資料はBC4世紀のものである。

運動選手と肉食

資料C4、ディオゲネス・ラエルティオス(8−13)
「ピタゴラスはまた運動選手たちに肉食をとらせるようにした最初の人」とある。しかし、その後、このピタゴラスは体育教師のピタゴラスであって、「われわれのピタゴラスは、動物たちを食べることを禁じたという」
、この、人の変更は、後代に菜食主義を実践する人々が現れ、つじつまをあわせるため、変更したとも考えられる。
、この運動選手の話は他の資料でも確認できる。

資料C5、ポルピュリオス(VP15)
サモスの闘技家エウリュメネスを指導した。この人は小柄だったがピュタゴラスの知恵のおかげで、たくさんの大きい人を打ち負かし、オリンピアでもでも優勝した。というのは、他の闘技家たちは当時もなお古くからのしきたりに従って、チーズといちじくの食事をとったのだが、この人はピュタゴラスの指示に従って、初めて肉を毎日定められた分量だけ食べて、体力をつけたのである。

資料C6、ポルピュリオス(Abstinence from Animal Food 、Abstと略)
ピタタゴラスは運動選手に、古くからの習慣をやめて、彼らに肉を食べることを許した。そして、それによって筋力が強くなることを発見した。
ある人によれば、ピュタゴラス派自身は、犠牲を神に捧げる時は、肉食を控えなかった。
注、ヘラクレイデスの証言としている。

資料C7、イアンブリコス(vp25)
師(ピュタゴラス)と同名が著した体の鍛練法についての指南書と、当時の運動選手への、乾し無花果の代わりに肉食すべしなる勧めが伝わっている。しかし、これは今日では誤ってムネマルコスの息子のピュタゴラスに帰されている。

伝統的な解釈・・・ピュタゴラスおよびピュタゴラス派は、その輪廻転生の説より、菜食主義者であったという説

バーネットは(1930年)、ピュタゴラスの輪廻転生の説は、ある種の食べものの禁忌に繋がっている。それは、ポルピュリオスがAbstで述べられているように、ピュタゴラス派は、肉を絶つ戒律を守った。しかし、儀式の際に、犠牲の肉は食べた。ここに原始信仰を見る。とし、アリストクセネスの報告する時代には、すでに戒律を厳格に守ることは崩れていたとして、アリストクセネスの否認は、あまり重要視しなくてよいとしている。アリストクセネスの頃のピュタゴラス派は、マテマテコイという、ピュタゴラスの真正な後継者とされた学問生だったのであり、アクウスマタを守るアクウスマテコイという修業生は異端とみなされていた。中期喜劇(BC404〜321上演)に見られる禁忌を守る人びとは、自称ピュタゴラスの追従者のことであるとしている(p137〜)

Guthrie(1962年)も次のように結論づけている
動物を食べるということは、人肉風習につながるという宗教上の理由で、ピュタゴラス主義に肉食の禁忌が、取り入れられた。そして、特別な機会(供儀)においても、禁忌されている肉を食べることは例外ではなかった。(p195)

伝統的な解釈に反し、ピュタゴラスおよび初期のピュタゴラス派は、肉食を禁忌していなかった。それは、ギリシアのさまざまな宗教の禁忌を取り入れていったとされる。菜食主義は、後のピュタゴラス派のものである。

ピタゴラス派の共同体が崩壊したの後、ピタゴラス派の沈黙の掟は守れなくなったようである。(伝承ではヒッパソス、ピロラオスが教えを公開したとされる)いずれにしても、BC4世紀中頃のアリストテレスは、さまざまなアクウスマタを収集できた。例えば「豆をたべてはならない」「神聖な魚を食べてはならない」「テーブルに落ちたパンは食べるな」等。このなかで食物の禁忌が際だっている。アリストテレスの報告には、ピタゴラスや初期のピタゴラス派に人々が菜食主義であったという説を覆すものである。つまり、肉を食べることの禁止はない。菜食主義は、エンペドクレス以降、後期のピタゴラス派にみられる。そして、肉食は、ピタゴラス派の政治的な活動が,広まったことと関連している。(Kahn p9)。その後、ピタゴラス派の崩壊後、プラトンは菜食主義を守る人々(プラトンはオルペス教とのかねあいで)のことについて述べている。がこの説を裏付ける資料を見ていく。

まず、古代ギリシアの古典期には、宗教と国家(ポリス)は分かちがたく結びついていて、市民の宗教行為は一つにまとまっていた。敬神の道とは何よりも市民全体で行うものだった。国家が神々に血の滴る生け贄を捧げるのは、神々に「当然のものを支払う」ためなのだが、敬神の道とは、国家による神々へのそのような生け贄に参加した人の名誉となるような、正義の行いであった。Sorabji(p170)によれば、動物の生け贄は、ホロコーストのように焼いてしまわないで、屠殺した肉はみんなで分け、そして食べた。肉屋が仕入れて売る場合もあった。アリストクセネス「政治学」では、雑多な市民をまとまった共同体にするには、協同の供儀が必要だ」。クセノフォンは「統治者が力を強めるには、供儀が必要である」。と述べている。

宗教的、儀礼的、祭儀のような禁忌は、ピタゴラス派は、後のものを取り入れた可能性もあるが、ピタゴラス派以前に広まっていた,密議やその他民間に伝承されてきた禁忌を取り入れたようである
例えば
・エレウシス教の入門者は、断食し、入浴をさけ、豆、鶏、ザクロ、羊を禁忌した。犠牲獣の心臓は、切り取られて、そのまま生かされていた(これは再生を意味すると考えられる)。殺されたディオニュソスの心臓は聖所のなかでも最もアポロンに近い場所に埋葬された。
・ハローアの祀りでは、ザクロ、羊、鶏、アカボラを禁忌した
・トロポーニオスでは、あったかい風呂、アカボラケ、キジバトをさけた
・デロス島のキュンティオス山に礼拝する者たちは、はだしで白い着物を着て、その前には性交と肉食をさけた。そして、鉄の指輪、鍵、ベルト
・財布、または武器を身に付けてはならない
・リュシスの神聖な法は、生贄のとき、はだしで、白い着物を着て、指輪や金の飾りをしてはならぬと命じている
・アクレビオスの神殿では、床に落ちたものを拾い上げたはならぬ。そしてペルガモンにおいては死者に指輪、ベルト、金の装飾を、してはならぬ

資料Bは次のように説明出来る。当初、食べ物の禁忌は、輪廻転生の説からによる菜食主義からではなく、供儀に関するものであったようである。アクウスマタによてば、「何が最も正しいことか、供儀を行うことである」とある。アクウスマタは完璧な菜食主義に直接つながるものはない。
 アリストテレスによれば、心臓は血液や感情の起源であり、プルタルコスによれば、ピタゴラス派にとって脳や心臓は万物ぼ誕生の始原であり、神聖なものとして考えられていた。生贄獣の特別な部分を食べないということは、かなり古くからあり、それは、死の恐怖、また生贄獣に報いるため、またその再生を意味していた(Burkert p181)。動物の犠牲は、伝統的な宗教の中心であり、とても重要な役割を果たしていた、公的なポリスにおいて、これを拒絶することは、その宗教を改変させてしまう。ピタゴラス派は、ポリスにおいて政治的な影響力を強めていく過程において、これら伝統的な宗教に歩み寄っていった(Burkert p182)。
 これは、資料B11やB12のように、派内のメンバーのランクによって、儀礼の仕方が変えてあることからも確認できる。ドゥティエンヌはつぎのように述べている。「肉食は、国家宗教のもっとも重要な儀礼行為を構成している流血供儀と不可分であり、そうした社会においては肉食の否定がまったく個人的な、たんに美食に関わる奇行の一形式ではあろうはずがない。いわばそれは、神々と人間界のをつなぐある種の伝達様式に媒介される価値体系をいっきに否定することなのである(p125)。
 そして、ピタゴラス派の妥協点は「生肉を食べるときのぬ断つの制約、罪があり有害と認められた動物の肉と、動物のあまり生命と関係ない部分だけを食べる(例えば、心臓や、子宮や、脳など 生命の中枢は食べない)。(Kahnも同様な説を述べている。「ピタゴラス派が政治的に社会に浸透していく過程で、他の宗教と折り合いがつくように犠牲や儀礼を変えていった」(p、9)という。つまり、ピタゴラス派は、犠牲のやり方を変えていったのである。

 菜食主義についても、完璧な形で表明したのは、次の資料により、エンペドクレスである。また、肉食の禁忌は、人肉を食べるのを禁止するため、というのも、エンペドクレスの断片に表れている。(Kahn p21)
、クセノファネスの資料、犬が杖で打たれているのをピタゴラスが見て、哀れみの心にかられて言ったとされている「よせ、打つな。それはまさしく私の友人の魂なんだから。鳴き声をきいてわかったのだ」より菜食主義の始まりと考えることも可能である。しかし、これは一種のパロデーである。この頃は、輪廻転生の説は十分に理論とはなっていなかったと考える。Kahnも「厳格な肉食の禁忌と流血の犠牲の禁止を、エンペドクレスより厳格に表明した資料は、我々が知るピタゴラスに関する資料にはない」(p17)と述べている。、

資料C3、C4〜7、によりピュタゴラスは、肉食をしていたと考えることが自然に思える。ピュタゴラスが強固に菜食主義を守っていたとことを主張するものは、エウドクソス以外にない(Burkert p180)。さて、輪廻転生と菜食主義に関するエンペドクレスの資料を見ていく

エンペドクレス(493頃〜433頃)の主張

資料1、断片117
私はこれまで かつて一度は少年であり 少女であった。藪(植物)であり 鳥であり 海に浮かび出る物言わぬ魚であった。

資料2、断片128
彼らはこの女神をなぐさめるために聖像をささげ、動物たちの絵や巧みに匂いよくつくられた香油を捧げ
混じり気なき香料と馥郁たる乳香を捧げ、飲み物を献ずるには黄金色の蜜を地面にそそいだ
祭壇は牛たちの混じり気なき血によって濡れることがなかった
いな そのことは人間たちのあいだで最大の汚れとされた

資料3、B115
エンペドクレスは、弟子たちに対して、あらゆる生き物を遠ざけるよう勧告している。なぜなら、彼の言うに、食された動物たちの身体は懲らしめを受けた魂の住処にほかならないからである。

資料4、B128
いかなる人間も罪を免れていない以上、われわれに残されているのは、かつて食物についておかした過ちを、今後「浄め」によってつぐなうことである。
ああ、仮借なき死の日が、なぜその前にこのわたしを滅ぼしてくれなかったのか
唇に肉食らう もごたらしい業をたくらむよりも前に(断片128)

資料5、A1(DL8−53)
「エンペドクレスが祭司たちに蜂蜜と大麦粉とからつくられた供物の雄牛をも差し出した」
注、ヘロトドス「歴史」も次のように述べている「貧民は乏しい家計が許さないと粉をこねて豚の形につくり、これをあっぶって神に供えるのである」(2−47)

資料6、B137
父親は姿を変えた自分の親しい息子を持ち上げて
げにおろかにも、祈りを捧げながら殺してしまう・・・殺戮したうえで、館のうちで凶しき食事をっととのえる
息子は父親を、子らは母親をとらえては、そのいのちを奪って、親しい身内の者の肉を食らうのだ

このエンペドクレスによって、菜食主義が明確にされた(Kahnは、エンペドクレスの肉の禁忌と血にそめられた祭壇の拒否は、われわれが知りうるピタゴラス派のおのより厳格なものである(p17)。これによって、説明できてしまうものがあるが、確かなことは言えない。

資料A1等について、Burkertは、これはエンペドクレスの「生命のあるものを殺してはならない」からのものであるとし(p180).。ピタゴラスが菜食主義者であったいう説を疑問視している。

資料A6、A8、A9、A10、A13について、Burkertは、資料5からのものであるとしている(Burkert p181注101)。しかし、これも伝統的な宗教の供儀を取り入れたものか、または、ヘロトドスのように経済的な理由かもしれない。ドゥティエンヌは、数多くの供儀において、あまりにも高価な生贄の代わりにねり粉の牡牛が作られたようである。とし、テラ島のある祭礼では、1メディムノスと2メディムノスの大麦で作られた牡牛を、都市が献上しなければならないと規定されていた。と述べている(p282注127)。また、牛は豚に比べて高価であった。

輪廻転生の説は、ここに初めて明確にのべられており、A4、B5、B6はこの影響か。特に、B6は、エンペドクレスの資料6での「人肉を食べるなと」からのものか。
注、テオプラテスはエンペドクレスと同様に、動物の犠牲は、古い習慣からいつだつしたものとし、罪深いものであるとした。なおテオプラテスによると、犠牲は、飢饉と戦争からもたらせられたとし、はじめは人肉を食べることから導きだされたとした。そうすると、この説、「人肉を食べるので動物の犠牲は避ける」とうい説はは、BC4世紀のものであることになる。

アリストクセネスの報告に関する、宗教的・神話的説明・・・オウィディウスは、ピタゴラスの言葉として残しているもの
まず、ヘシオドスによる5時代の説話より
黄金時代・・・「豊沃な耕地は、ひとりでに、溢れるほどの 豊かな稔りをもたらし、人は幸せに満ち足りて 心静かに、気の向くままに田畑の世話をしておった」(「仕事と日々p110〜」)クロノスの支配した時代で、労働なくして、産物に恵まれ不正と悪がない人類至福の時代
白銀の時代、青銅の時代・・・暴力、人同士が殺し合う
鉄・・・悪徳がはびこる時代

オウィディウス「変身物語」(100〜
われわれが、黄金時代と呼んでいるあのむかしの時代は、木の実や、大地が生む草木だけでしあわせだった。みずからの口を血で汚すような者はいなかった。・・いたるところ平和がみちていたのだ。が、どこかの誰かが、余計にも、獅子たちの食べ物を羨んで肉を食らい、あおれを意地汚い腹へ送りくむことを始めたのだ。こうしたことから、罪への道が開かれた。・・・われわれの生命を奪おうとする動物を殺すことは、道にはずれたことではないとおもう。が、殺すのはよいとしても、食ってもよいというわけではない。ここから罪はいっそう進んだ。そして(資料B10、C1)が、最初の生贄獣として殺されるべきだと考えられた。そりかえった鼻づらで種子を掘り出し、一年の収穫を終わらせるからだ。山羊(資料B10、C1)も、葡萄樹を噛みちぎるというので、それをこらしめるするバッコスの神の祭壇に献げられたという。・・・
(C2、B10)はおとなしい家畜で、人を養うためにだけ生まれてきたようなものだ。・・・あまい乳を貯えているし、その毛はわれわれの柔らかな衣服となる。・・・(C2、B12)たちも、固い土を掘り返し、あんなに収穫をあげることができたのは(牛たちのおかげ)・・・

さらに、デメテルとディオニュソスの秘儀では、最も重要な犠牲は、子豚と山羊と雄鳥であった。アリストクセネスは、ピタゴラスが好んだとすることによって合理化をしている。なぜなら供儀の前に、この神聖な者を食べるということは「神と食をともにする」ことであった。アリストクセネスは、まったくの作り話をでっち上げたのではない。(Burkert p182)

供儀に関する禁忌は、もともと非日常におけるものであったと思われる、日常においてはこれらの禁忌をまもることは、一般的にはないと思われる。しかし、エンペドクレス以後、ピタゴラス派が二度目の迫害にあい、アクゥスマティコイの人々がイタリアをさった頃(BC5世紀中頃)これらの人々の中に、ピタゴラス派の戒律を、日常的に守る人々が現れてくる。なおマテーマティコイの一部の人々(アルキュタス等)は、イタリアに残っていたようである。

これらに関する資料は、プラトンのものと、中期喜劇に述べられているピタゴラス派の人々の生活である。

プラトンは、ピタゴラス派については、一回しか述べていないが、輪廻転生についてはオルペス教に関して述べている。この時代には、ピタゴラス主義とオルペス教の教説の区別がつかなくなっていたようである。諸資料をみていく。

オルペス教とは、BC6世紀以後のもので、以前の研究者は、ピタゴラス派よりも歴史が古く、より広範囲に広まっていたとされていたが、近年の研究により、広範囲のものではなく、オルペスという伝説的な人物のものとされる詩に基づいて実践されていたという(kanh p21)教義としては、魂の輪廻転生、その結果としての、食物の禁忌と菜食主義や、禁欲主義、死後の魂を保証するための浄化等、ピタゴラス主義とよくにている。このような事実をヘロトドスは述べている。

資料「歴史」(2-81)
エジプト人は羊毛を神殿の中に持ち込むことはなく、一緒に埋葬することもない。それは不敬なことだからである。これらの風習は、いわゆるオルペウス教やバッコスの徒らのそれと一致しているが、これらはもともとはエジプトの、またピュタゴラス派のものである。なぜなら、これらの秘儀にあずかりながら、羊毛の上着を身につけて埋葬されることは、敬虔なことではないからである。これらについては、聖なる言説が伝えられている。

肉食の禁忌も、オルペス的生活、ピタゴラス的生活において同様であった。しかし、この二つの起源は、異なる。ピタゴラス派は口述によっての教えであり、オルペス教は「書かれたもの」にゆる教えであり、さらに、ピタゴラス派は、アポロン神、北方のアポロン信仰であった。オルペス教は、バッコスの徒、ディオニュソス信仰であった。また、ピタゴラス派はセクトをもったが、オルペス教にはなかった。しかし、この二つがプラトンの時代には、同じものとされるようになった。プラトンの資料をみていく。

資料、プラトン「クラチュロス」(400C)
からだ(ソーマ)は魂(セーマ)の墓なのだ、つまり魂は、この現世において、からだの中に埋葬しているという意味なのだがね・・・一番本当らしく思えるのは、この名前をつけたのはオルペスの徒である。

資料、プラトン「パイドン」
浄化というのは・・・魂(セーマ)を肉体(ソーマ)のあらゆる部分から自分自身へととりあつめ、

資料、プラトン「コルギアス」493A
われわれは、現在死んでいるのであり、身体(ソーマ)がわれわれの墓(セーマ)なのである。・・・ある才知あにたけた男が、たぶんシケリアの人(エンペドクレス)あるいは、イタリアの人(ピタゴラス派のピロラオス)だったと思うが、こんな物語を作った。

資料、クレアルコス「伝記」(アテナイオス「食卓の賢人」157c
ピタゴラス派のエウクシテオスは、すべての人間の魂は、肉体とその肉体による現世の生活のなかに、罰として閉じこめられていると言った

 ソーマ、セーマは、ピタゴラス派のピロラオス断片14にある。「ある罰のために魂は肉体のうちに繋がれ、墓の中に埋められているように、その肉体の中に埋められている」すでに、プラトンにとっては、オルペス・ピタゴラス教となった。Burkertは、オルペスの徒とは、オルペスに従うものではなく、ピタゴラス派に従うものである(p182)。オルペス教とピタゴラスの融合は、デルヴェニパピルス(BC400頃のもので1962年発掘)により、オルペス教の文書をソクラテス以前の哲学用語で再解釈したもので、ピタゴラスの教義とオルペス教を混同させた。(kahn p22)、そしてオルペスは、ピタゴラス派では、オルペスは、ピタゴラス派の宇宙論のおける音楽では、リラの演奏者になった。さらに、キオスのイオンの証言「ピタゴラスは幾篇かの詩を作って、これをオルペスの作品としたのだ」これは、事実であるかは分からないが、ピタゴラス主義と、オルペス教の繋がりを示唆していると思われる。プラトンは国家(364e)において「ムウサイオスとオルペスの書物なるものをどさっと持ち出し、それにもとづいて犠牲をささげる式典をとりおこなう」と証言している

プラトンは、当時の人々の中に菜食主義を守ったものがいた、これをプラトンは、オルペス教徒の生活としているが、実は、イタリアからのピタゴラス派の人々であった。いいかえると、菜食主義を完璧に守ったのは、これらの人々であった。菜食主義はエンペドクレスが主張し、プラトンの時代に実践された。菜食主義は、ピタゴラス派末期のものであると結論づけられる。つまり、儀礼のときだけの、さまざまな掟が、日常生活にとりいれられた。禁欲生活を実践することにより、死後の魂の救済と再生、なお、以下の中期喜劇の登場するのは、彼らである。

資料、プラトン「法律」(782c)プラトン後期の作品
人々は、肉を遠ざけたのです。当時の人々はいわゆるオルペス教徒の生活を送っており、すべて命のないものだけを口にし、反対に命のあるものすべてから遠ざけた。(オルペス・ピタゴラス主義とでも言える)

資料、プラトン「国家」(600b)
ちゅうどピタゴラスがとりわけ敬愛され、後継者たちが、今日でもなお、「ピタゴラス的な生き方」と名付けて、他の人たちのあいだで何かしら異彩えおはなっていると評判されているように。

次の、プルタルコス(AD45〜)の報告は、その後の菜食主義が長く続いていたことを示すし、菜食主義をピタゴラス本人に由来していると述べており、後代ではそのように考えられていたようである。(わたしは、菜食主義は、ピタゴラス派末期のものであると考えるが。)

資料、プルタルコス「食卓歓談集」(727b)
ピタゴラス派のモデラトゥスの弟子でルキウスという、エルトリア出身のローマ人もいた。このルキウスは、わたしの友人のピリノスが生き物を食べないのを見て、当然ながらピタゴラスの教えの開陳におよんだ。
注、プルタルコスはこの後・「ピタゴラス派の人たち、はこういう訓戒を口承と文書と両方で伝えているのだが、これを守り、徹底的に従っているのはエトルリア人だけだ」と必ずしも、アクゥスマタは厳守されていなかったとしている。

資料D1、アテナイオス「食卓の賢人」・・・これらは中期喜劇の断片(BC4世紀半ば前後、ピュタゴラス派が崩壊したのちのこと)
アンティパネスが(BC375〜311)「覚書」で次のように記しているのだ。
ピュタゴラスの徒はあわれな奴がいるぞ。渓谷でオカヒジキを食いながら。そんな、哀れな食べものを(革袋に)集めている。

そして、文字どおり「革袋」と銘うった書物で言うには
まずはピュタゴラスにしたがう輩のように、生あるものはなにも食わぬ。せいぜい1オボロスで買った大麦パンの黒く焼けたのを食らうくらいさ。

アレクシスが「タラスの人びと」(BC330か320の作品)にこう書いている
A・・・聞くところによると、ピュタゴラスにしたがう輩は、魚もその他どんな生あるものも食うことがなく、彼らだけが酒を飲むことがないそうだ
B・・・とはいえ、エピカリデスは犬を食らったが、ピュタゴラス派のひとりだった。
A・・・むろんそれは犬を殺してからのことさ、そのときはもう生あるものでなかったのだから

・つづいてアレクシス(BC375〜275)はこう言っている
A・・・ピュタゴラス派の繊細な論議と精精な思想がこの人たちを育てていても、毎日食っているのはこういうものさ。めいめいに添えもののないパンを一つと一杯の水。これですべてなのさ。
B・・・牢獄でだす食事のことじゃないのかね。賢者たちがそろいもそろってこんな暮らしをして、これほどひどい目にあっているなんてことがあるだろうか
A・・・この人たちはほかの人にくらべりゃ贅沢しているのさ。知らないのかい、メラニッピデスという弟子とか、パオンとかピュロマコスかいった連中が、五日目ごとに食っているのは1コテュレの大麦だよ。
B・・・ゼウスに誓って、なんとういうるわしく、りっぱなお供物なんだろう。

・そして「ピュタゴラスの信徒」では
A・・・彼らのご馳走は、乾しイチジクとかオリーブ菓子とかチーズとかいったものだろう。だって、これらを犠牲に捧げるというのがピュタゴラス派のしきたりだからね。

・すこしあとの箇所では
     がまんしなければならなかったのさ。わずかな食事、汚物、寒気、陰鬱、沐浴知らずにね

・アリストポンは「ピタゴラス教徒」(338頃の作品)で
     神かけて聞きたいね。昔のピタゴラスの弟子になった
     連中は、ほううとうに自分から、垢だらけになったとか
     喜んで擦り切れた服を着たとか、考えることになってのかねえ
     そんなこと絶対にないと思えるんだがな
     本当はびた一文ないもんで、よんどころなくああなって
     自分たちがけちけちしていることの、いい口実をみつけて
     貧乏な人々のために基準を決めたんだよと思うよ
     彼らに魚とか肉を出してごらんよ
     もしそれを食わない、指も触れないとしたら
     十ぺん縛り首になってやろうじゃないか

資料、ディオゲネス・ラエルティオスが保存しているもの(DL8−37〜)

クラティノスは、「ピタゴラス教の女信者」のなかで、彼をからかっているが、「タラスの人々」のなかでも次のように述べている。
     これが彼らのやり方なのだ、誰か外道の者が、
     彼らの力を試してやろうとして
     どこかからやって来たのをつかまえると
     彼らはその男を、反対命題や最終結論
     対句語法や詭弁、また、大層な言葉を用いて
     巧みに困惑させ、混乱におとし入れているのだ。

ムネシマコスは「アルクマイオン」(BC345頃の作品)のなかでこう言っている
 ピタゴラス教徒のならって、われわれはロクアシス(アポロン)様に犠牲を捧げている。魂をもつ(生き)ものは何一つ全く口に入れることはしないで。

アリストポンは「ピタゴラス教徒」のなかで次のように述べている
A あの人はこう言われたのだ。地下の住居に降りて行って、そこに住いする者たちの一人を見たが、ピタゴラス教徒たちは、他の死者たち  よりもはるかによい生活をしてたのだ。というのも、彼らだけが信心深い者たちであったがゆえに、プルゥトン(冥界の王)ろ食事を共にし  ていたのだから。
B 汚物にまみれた連中と一緒にいるのをよろこんでおられるのだとすれば、なんとも寛大な神様だね。
同じ作品のなかで
 彼ら(ピタゴラス教徒)は野菜を食べて、そのほかには水を飲むだけ。しかし、身体も洗わず、シラミがたかり、すり切れた下着をつけているかれらには、新参の者たちは誰一人、我慢ができないだろうね。

ディオドロスは、イアンブリコスにより、最後のピタゴラス派とされ、派の人数が少なかったので入会を許されたとされる、アクゥスマタを広め自身は、禁欲生活をし、野菜を食べ、肉を控えた。つまり、アクゥスマタに従う、正統的なピタゴラス主義を守った最後の人。資料D3により、アクゥスマタを守る人は、この後、犬儒派に吸収されていった。マテーマティコイは、プラトンのアカデメイアに吸収され、ピタゴラス派は消滅した。

資料D3、ディオドロスについて、アテナイオス「食卓の賢人」163E〜
ディオドロスというのは、小アジア南岸アスペンドスの人で、ピタゴラス派ということになってはいたが、その生き方は犬儒派のそれだった。髪を伸ばしの、体は垢まみれの、靴は履かずのというわけであさ。だもんで、髪を伸ばすのはあピタゴラス派の流儀だと思っている人もいるほどだ。・・・ティマイオスも「歴史」9巻でこう書いている。ディオドロス、はアスペンドスの人。異様な生き方を導入し、かつ、ピタゴラス派相通じているごとく装った。その彼に、竪琴弾きのストラトニコスが、人をやってこう伝えろと命じた「獣の皮かと怪しまれるる、また、傲岸不遜の皮をまとい、柱廊に人だかりを集めたるピタゴラスの子分にもの申す」。ソシクラテスも「歴代の哲学者」第三巻で、ディオドロスが長い髭を生やし、擦り切れた服をまとい、長い髪を伸ばしていたと語り、彼がこんなことをしたのは、ある種の見栄のためで、つまり、彼に先立つピタゴラス派の連中が、きれいな白い衣服をまとい、入浴し、油を塗り、注意して髪を短く切りつめるのを習いとしていた、それの向こうを張ったのだと言っているよ。・・・

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