無理数(通約不能量)の発見は、ピュタゴラス派に帰せられ、ある伝説とともに、一般的に次のように語られている。
カジョリ「初等数学史」
 「ピュタゴラス学派は無理数を、言えないものの象徴と考えた。だから、はじめてこの理論をもらした者は、それがために破船の悲運にいたった。言えないものと見えぬものは、いつも秘密にしておかねばならないから」
 
ヒース「ギリシア数学史」
 「ピュタゴラス学徒たちによる通約できない量の発見は、大きな波紋をまきおこさずにはおかなっかった・・・この難局を切り抜けるためには、別種の可能な証明を求めなければならないだろう。しかし幾何学は、エウドクソスが通約できない量にも応用できる新しい比例論を発見するまでは、疑いなく重大な支障をこうむった。とにかくするうちに、ピュタゴラス派の内輪では、この発見を学派外に知らせたくないという希望がおこったのもむりからぬと思えるほど事態は悪化したのである。それを最初に公表したピュタゴラス学徒(ヒッパソスであったか、別の人であったかはともかく)不従順のかどで海に投げ込まれたとか、別説では、学団から追放されたあげく、まるで死んでしまったかのように彼の墓が建てられたとかいう伝説も、おそらく以上のことから説明がつくだろう」
 
最近出版された、スティルウェル「数学のあゆみ」では、次のように述べ、ヒースを引用している
 「ピュタゴラスとその弟子たちは、・・・ピュタゴラスの定理によって、通約不能な量へと導かれたときの彼らの驚きはどれほどだっただろうか」と述べあとはヒースにある伝説を引用している
 
ファンデル・ベルデン「数学の黎明」では、連立二元方程式の幾何学的な解法が関係しているとし次のように述べている。
「原論第二巻にみられる幾何学的代数がバビロニアの代数から派生である・・・ピュタゴラス派はその代数を幾何学的な形式へ変貌させたのは理論的必然性であって・・・そのきっかけは無理数の発見であり、パッポスが言っているように、ピュタゴラスの学園でおこっていたところであるj    

エビングハウス他「数」
実数を完全に整えられた体の要素として定義する今日では、有理数ではすべてが表しきれないという発見が、かつて教育・世界観上の危機を呼び起こし(往時の伝説を信ずれば)その発見者にいかに厳しい?神の罪をもたらしたかということはもはや想像すらできない。ここで考えられているのは、紀元前5世紀頃ピュタゴラス派のヒッパソスによると思われる通約不能な線分の発見であるが、これはピュタゴラス学派に衝撃を与えたことであろう。結局のところこの発見は、すべてのものは数全体で表現されうるという、ピュタゴラス学派の哲学仮定に疑問を投げかけたのである。

 
通約不能量(無理数)の発見をピュタゴラス派とする資料は次のものである。

①「パッポス「原論第10巻注釈」はアラビア語で現存する。(Fowler p295-296)そこでは次のように述べられている」
「無理量の理論はその起源をピュタゴラス派にもっている。それはアテナイのティアイトスのよって大いに発展させられた。ティアイトスは数学の他の部門と同様に、この部門で証明を与えたまさに尊敬すべき有能な人であった。彼は人間のうちで最も天分の与えられた人であった。そしてすぐれた熱心さをもって諸所の学問の真理を追求することに没頭した。これはプラトンがティアイトスの名をつけた著作において証言したとおりである。上述の無理量の正確な分類やこの理論に基づく諸命題の厳密な証明に関しても、その大部分はこの数学者がなしとげたものである。そして後代になって、数学において最高の天分をもったアポロニオスが多くの努力と苦心の結果、ティアイトスの発見にさらに多くの著しい理論を付け加えた。そして、ティアイトスは長さにおいて通訳可能な平方根と通約不能なものとに分類した。そして無理線分の種類をその平均によって分類し、幾何平均に対しては中項線分を、算術平均に対しては二項線分を、調和平均に対しては余線分を付与した。これは、ペリパトス派のエウデモスが述べているところである」
「ピュタゴラス派は、この知識を崇拝によって動揺し、おそらくたとえ話しだろうが、次のような話しが流布した。つまり、無理量、通約不能量の知識を、初めて公開した者は、おぼれて死んだのだというのである。これは第一には、彼らは、これによって、無理性または、世界の知ることが出来ないことはを秘密にしておいたほうが良いことをしめそうとした。」
注、パッポスは、ピュタゴラス派の発見についての暴露に関して「おそらくたとえ話だろうが、」「次のような話が流布した」と述べていることから、象徴的なものである。(Fowler p296)従ってパッポスはこの話を信じてはいないと考えられる。
 
原論10巻古注
「ピュタゴラス派は、数の考察から通約性の問題を最初に発見し、この研究の端緒をつくった。というのも、単位はすべての数の共通の尺度であるが、しかし、かれらはすべての量の共通の尺度を見いだすことはできなっかたからである。その理由は、すべてのどんな種類の数も、いかに分割しようとも、それ以上分割できない最小の或る部分を残すが、これの反しすべての量は限りなく分割され、最小のものであることによって、もうそれ以上分割を許さないような部分をの残すことはなく、その残りも限りなく分割されて無限な部分っをつくり、その部分の各々がまた限りなく分割されるというふうになっていることである・・・実際この事柄の真相を暴露したピュタゴラス派の最初の人は、船が難破して死んだという話しである。」
注、Jung(1948)は、この古注はパッポスのものであるとしている (Fischler p66)
 
イアンブリコスによるものは次の三つの部分にある(DK18-4)
①ヒッパソスについては次のように伝えられている。この人はピュタゴラス 派のひとりであったが、秘密をもらして、最初に12の五角形からできた球 (正十二面体)を描いたことから、不敬虔のゆえに海で溺死した。そしてこ れを発見した者としてヒッパソスは名声をえているが、このような発見はか の人(ピュタゴラス)によるものであるという。彼らは、ピュタゴラスをこのようなしかたで語り、名前で呼ぶことはない秘密がもらされた後は、この学問は(ギリシア全土)で発達し(当時の数学者たちの中でも)とくに抜きんでた二人の者がその第一人者として認められていた。すなわち、キュレのテオドロスとキオスのヒッポクラテスである。しかしながら、ピュタゴラス派の人たちによれば、以下のような次第で幾何学が明るみにでたのだという。すなわち、ピュタゴラスのだれかがその財産を失って、このような不幸がおきたために、幾何学で金を儲けることが彼には許されたのだということである。
②とにかく、教義にあずかるに値しない人たちに、最初に通約性と非通約性の本質をもらした人は、ひどく忌み嫌われて、共同生活や共同食事から締め出されたばかりではなく、人びとは、かつては仲間であったこの人が人間たちとの生からもはや離れてしまったと考えて、彼の墓を作りさえしたのである。
③また、ある人たちの言うところでは、神霊もまたピュタゴラスの教えを出版した人たちに憤ったという。というのも20の頂点をもつ図形の構成を公にした人は不敬虔な者として海で溺死したからだということである。これは立体とよばれる図形の一つである正十二面体を球に内接させるという意味である。しかし、このような不運に遭ったのは、無理数と非通約性についての教えを口外した人たちであるともいう
注、③は異なる二つのソース、つまり正十二面体と無理数があり、パッポスのソースは後者のものである(Fischler p66)
注、ヒッパソスは「最初に12の五角形からできた球(正十二面体)を描いたことから、不敬虔のゆえに海で溺死した」「20の頂点をもつ図形の構成を公にした人は不敬虔な者として海で溺死したからだということである」であり、「しかし、このような不運に遭ったのは、無理数と非通約性についての教えを口外した人たちであるともいう」ここからヒッパソスが無理数とつながる可能性があるが、ほとんど信憑性はないと結論できる。しかも、これらの資料からピュタゴラス派が危機に陥ったと結論ずけるには無理がある。従ってピュタゴラス派と無理数を結びつける資料はパッポスのものであるが、イアンブリコスは3世紀、パッポスは4世紀の人でありかなり後代のものである。(他の資料に関しては次のサイトで全て揚げる予定です。それらの資料からも危機とか衝撃があったとは言えないことがわかる)
 
注、ヒッパソスは5世紀前半の人、この記述が史実に基づいているとすると、ヒッパソスは、古代の資料における数学者として言及されている最初のピュタゴラス派の人ということになる。(Fischler p64)

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