幾何学は、ピュタゴラス(派)の伝統か。
ファンデル・ヴェルデンは、イアンブリコス「ピュタゴラス派は、幾何学がどのようにして世間に知られるようになったかを次のように説明している。ピュタゴラス派の人々は、その仲間の一人の失敗のためにその財産を失ったが、この不幸の後、その人が幾何学でお金を稼ぐことを許すという決定が下された。こうして幾何学はピュタゴラスの伝統と呼ばれた。」(VP89)に関して、タンヌリの説について述べている。その部分を引用する。
タンヌリは、ピュタゴラスの共有財産のことを持ち出している。タンヌリは、数学的学問について、その学派本来の秘密厳守はあったとは信じていないが、彼はそれでも、この伝承の核には或る真実が含まれているに違いないこと考えている。実際、BC5世紀も半ば過ぎると、学問をもって金を稼ぐことが充分可能になっていた(ソフィストのこと)・・・イアンブリコスの最後の文章は「ピュタゴラスの伝統なる表題の幾何学の教科書・・・があったことを示している。このことはまた後世の著者たちが、ありとあらゆる種類の幾何学の発見を、そのあるもの(たとえば無理量)は確かにずっと後代の発見であるにもかかわらず、どうしてピュタゴラスの功としたかの説明も与えてくれる。要するに「ピュタゴラスの伝統」のなかに出ていたと考えればよい。「数学の黎明」(p147)
大胆な推測であるが、伝統は訳が間違えで、ヒストリア「探求」と訳すところである。日本語訳(佐藤義尚訳)も「探求」、Heathもp166で「inqiry or science」と訳している。いずれにしても、イアンブリコスの時代(3〜4世紀)にはピュタゴラスと幾何学は結びついていた。さて、イアンブリコスはヘラクレイトスの断片「ムネサルコスの子のピュタゴラスは、世の誰よりも一番に探求に努めた」(DL8−6)を探求したのは幾何学であるとしたとBurkert(p408)は推測している。また「ピュタゴラスの伝統」なる書物は存在しなかったと考えるのが妥当である。
注、ヒストリア(ιστορια)は、もともと「調査、探求、知識、学問」のちに「物語、歴史(history)」という意味になる
さらに、「ピュタゴラスの伝統」という書物は、ヘラクレイトスの上の部分に続く「そしてこれらの書物の抜粋をつくって、自分自身の知恵としたのだった、それは博学の詐術であるが」この断片について、ディオゲネス・ラエルティオスは、ヘラクレイトスがそのように言ったのは、ピュタゴラスが「自然論」という書物の冒頭に「・・・この理論に関しては、わたしは断じて非難を受けることはないでだろう」と。「ところでピュタゴラスによって書かれた書物には「教育論」「政治論」「自然論」の三冊がある。」(DL8−6)つまりディオゲネス・ラエルティオスは、ピュタゴラスによる書物の存在の証明をここでしたかったのである(Burkert p408〜9)。一般的にピュタゴラスには著書はなかったと考えられているが、ディオゲネス・ラエルティオスの報告においても、数学や幾何学についての書物ではなかった。
ピュタゴラスの遍歴と幾何学及びピュタゴラス伝説
では、イアンブリコスがピュタゴラスと幾何学を結びつけたが。これはいかなる時期から始まったか、年代順の資料をみていく。幾何学やエジプト以外のピュタゴラスの遍歴に関する資料も取り上げてみていくが、後代になるほど、資料は、年代的にも場所的にも疑問視される。エジプトに加え、東方のい地名もでてくる、これらは、後代、創作されたピュタゴラス伝説である可能性がある。
イソクラテス(BC436頃〜338頃)
資料(ブリシス)ピュタゴラスは・・・エジプトに赴いて、かの地の人々の弟子となり、哲学をギリシアにもたらした最初の人であったが、とりわけほかの人々よりも目立って、供儀や神殿における儀式について熱心に研究した。
注、この資料および、これ以前には、幾何学についての証言はない。
ヘレニズム期(BC334ないしBC336〜AD30まで)に入ると、明確に、ピュタゴラスをエジプトの幾何学と結び付ける資料がでてくる。
資料、アブデラのヘカタイオス(実際に、BC3世紀初頭にエジプトに行ったようである)のもの。ディオドロス(BC1世紀〜AD1世紀)「歴史」の出典
「歴史」(1−96)では、ギリシアの様々人が、エジプトの赴いてそこで知識を得たとしている。その名前は、神話上の人物、ダイダロス、ムーサイオス、メタムブース、オルペス、詩人のホメロス、スパルタのリュクルゴス(立法者)、哲学者のプラトン、サモスのピュタゴラス、数学者のエウドクソス、オイノビデス、デモクリトス
注、プラトン全集にはエジプトに行ったことを裏付ける部分はない。エウドクソスは行ったようである。
「歴史」(1−98)には次の記述があり、ピュタゴラスとエジプトの幾何学を結び付けている
リュクルゴス、プラトン、ソロンは、さまざまなエジプトの習慣を自身の(制定した)法律に盛り込んだ。そしてピュタゴラスはエジプト人から、神に関する教えを学び、幾何学的な比例と数論とともに、魂がさまざまな生き物に転生することも学んだ。
注、デモクリトスとエウドクソスは占星術、オイノビデスは占星術に加えて天文学を学んだとされている
アンティクレデス(BC4世紀末ころ活躍)
幾何学の基礎的な諸原理を最初に発見したのは(エジプト王)のモイリスだが、これを完成させたのはピュタゴラスだということである(DL8−11)
ストラボン(BC63〜AD24以降)「地理書」
この僣主(ポリュクラテス)の頃ピュタゴラスも僣主政が育って行くのを見てこの市を捨てて、学問を学びたいためエジプトやバビロンの方へ去って行った。かの地から帰ったものの僣主政が依然としてつづいているのを見ると、船でイタリアまで行き、その地で生涯を過ごした。
ピュタゴラスと幾何学の関係は、エジプトとの関連で述べられている。まず、エジプトとギリシアの数学についての資料を見ていく。
ヘルメシアナクス(BC4世紀後半)
ピュタゴラスは、なによりもまず、幾何学的な天文学の指導者であった。
カリコマス(BC305頃〜240頃)
@カリコマスは、ピュタゴラスについて、幾何学の問題のあるものは彼が発見し、その他のものはエジプトから彼が最初にギリシアにもたらしたと言っている(ディオドロス「世界史」(10ー6)
Aカリコマスが・・・プリキア人のエウポルボスに帰している発見、たとえば、不等辺(直角)三角形や、三角形一般としての線の理論に関する研究を非常に高度な段階まで推進したのはピュタゴラスだったのである。(DL1−25)
ネアンテス(BC3世紀)、アポロニウス(AD1世紀)
(ピュタゴラスの父)ムネサルコスは、彼(ピュタゴラス)チュロスへ連れて行き、その地のカルディア人に師事させて、さらに多くのことを学ばせたという。そしてその地からイオニアへ帰ったピュタゴラスは、まずシュロスのペレキュデスに、次にサモスですでに年老いつつあったヘルダモスに師事したという。アポロニウスによれば、この二人だけではなく、アナクソマンドロスにも師事したという。(ポルピュリオスVP2)
イアンブリコスVP11
(ピュタゴラスは)ペレキュデス、自然学者アナクシマンドロス、ミレトスのタレスのもとに渡り
注、タレスBC625頃〜、アナクシマンドロスBC610〜540、アナクシメネスBC586〜ピュタゴラスはアナクシメネスとほぼ同世代、タレスに師事するのは無理だが、アナクシマンドロスは不可能ではない
ピュタゴラスは、船で2,3時間の所のミレトス(たとえミレトスを訪問していなくても)の学派の業績に親しんでいたとpilips(p175)は推測している。またkahn(p16〜17)もピュタゴラスはイオニア自然学の伝統の渦中にいた。と推測している。
アリストクセネス(BC4世紀後半)
エリトリアのディオドロスと音楽家のアリストクセネスにいれば、ピュタゴラスはカルダイアのザラトス(ゾロアスター)のもとに赴いた。そこで、ザラトスは、ピュタゴラスに次の原理を示した。父は光、母は闇、その光は暖・乾・軽・速、闇は、冷・湿・重・遅そして宇宙は男と女・・・(ヒッポリュトスDox557)
おそらくアリストクセネスが出典
アラビアでは国王に謁見し、バビロンでは他のカルディア人たちにも接したが、とりわけザラトスを訪ねて、この人によって前世の汚れから清められ、また高尚な人が清浄であるためには避けねばならないことがらについて教えられた。また、自然についての理論と、万有の始原は何であるかも聴講した。というのもピュタゴラスは、これら諸民族の間での彷徨から彼の知恵の大部分を獲得したのである(ポルピュリオスVP12)
以下の資料は年代が特定できないものがあるので年代順ではない。
ディオゲネス・ラエルティオス
彼(ピュタゴラス)は若くして故国を後にして旅に出、ギリシアばかりではなく異国の秘儀にもすべて参加した。・・エジプトに滞在したことがあるが、(サモスの僣主)ポリュクラテスが書状によって彼を(エジプト王)アマシスに紹介したのはその時期のことである。アンティポンが「徳の第一人者たちについて」のなかで述べることによれば、エジプト人たちの言語を十分に習得したとのことである。さらに彼は、(バビロニアの)カルダイオス人(の神官)たちや、(ペルシャの)マゴス僧ところにも滞在していた。次いで彼は、クレタでは、エピデメニスとともにイダの洞窟へ降りて行ったし、またエジプトでも、神殿の内陣深く入り込んで、神々に関することを秘儀のなかで学んだのだった。
注、アンティポンは、年代不詳、ソフィストのアンティホンではなさそう(Burkert p155)
注、イダの洞窟は、ゼウス生誕の地と言われている
ポルピュリオス(VP7)
アンティポンが「徳の第一人者たちについて」において、彼(ピュタゴラス)のエジプトでの忍耐強さについても、次のように語っている。・・・僣主ポリュクラテスに願い、後者の友人であり、かつての賓客でもあったエジプト王アマシス宛の手紙を書いてもらった・・・そしてアマシスのもとに到着し・・・ディオスポリスの神官たちをおとずれた。・・・・(神官たちは)彼(ピュタゴラス)の方が、これは途方もない苦労だと思って計画を放棄するだろう、とかれらは信じて、過酷で、ギリシア的な教育方式とはかけ離れた課業を彼に命じた。ところが彼はこれらの課業を唯々諾々として遂行したので、非常に驚嘆されて、自由に神々に供物を捧げ、彼らの学問研究に参加することを許された。
注、アマシスへの紹介状については、次の章句による、後代の創作であるというZellerの説をBurkert(p112)述べている。「(エウドクソス)は医者のクリュシッポスとともにエジプトに向かって船出したが、その最、アゲシラオスからネクタビ(王)に宛てた紹介状を持参していた(DL8−87)。この、エウドクソスのエジプト訪問は確かなようである(Heath p332、典拠はこの(DL8ー87)そして、その時期はHeathはBC331〜380としている)
注、このZellerの説が正しいとすると、アンティポンはエウドクソスの渡航後となる。後代の資料は、事実を含むこともあろうが、でっち上げに近い。
イアンブリコス(VP19)
22年間、エジプトをあまねく、諸処の奥の院で天文学、幾何を窮め、神々の密議ことごとくの奥義を、あだおろそかにも場当たりにもあらず、授けられたが、やがてカンビュセスの遠征軍に囚われバビロンに連行された。かの地でも博士たちと交歓し、同地の厳かな典礼を仕込まれ、神々の完全な恭敬礼拝を修得、博士らのもとで代数学、音楽、その他諸学の蘊奥を究め、さらに12年間そこで過ごしてサモスに戻った。ときおよそ56歳だった。
注、ポリュクラテスの統治(BC570〜490)、カンピュセスのエジプト征服(BC525)、ポリュクラテスの僣主を嫌ってピュタゴラスがサモスを出た(BC532頃推定)年代的に整合性はない。
注、これは、ダイオレスがデモケデス捕らえた話(ヘロトドス「歴史」3−125〜、DK19章)の話しをもとにした創作であるという。Zellerの説をBurkert(p112)デモケデスはクロトンの医者で、かつてはポリュクラテスのもとにいた、従ってサモスとも関係あり、ピュタゴラス派のミロンの娘と結婚した。
ポルピュリオス(VP6)
彼(ピュタゴラス)の教説(の由来)についても大半の言うところによれば、数学的諸学をエジプト人、カルデア人およびフェニキュア人から学んだ。というのも、幾何学にはエジプト人が昔から精励していたし、数と計算についての学問にはフェニュキア人が、そしてカルデア人は天文学に励んでいたわけである。なお神々を祭る方式と、その他生活にかかわる万般の営為についてはマゴスから聴講した、と彼らは言う。
サモス島の近くのイオニアのミレトスに関する証言は少なく、詳しく述べられていない。圧倒的にエジプトの関係が強調されている。おそらく、初期の証言は、儀礼、宗教的なものであったからだろう。それが、幾何学に変わっていったようだ。
タレスとピュタゴラスに関して混乱した資料
ディオゲネス・ラエルティオスは、タレスが半円に直角三角形を内接させたとき犠牲を捧げた。(DL1ー25)しかし、これはピュタゴラスであるとアポロドロスは言っているとしているとしている。(DL1−26)。また、アポロドロスは、ピュタゴラスが三平方の定理の発見の時、犠牲を捧げたとしている(DL8−11)。プルタルコスは、面積あてはめの問題を解いたとき、犠牲をささげたとしている(食卓歓談集)。
アエティオス(5世紀末〜6世紀初頭)ここでは、数学の神のように語られている
ヒッパルコスの視覚の理論を述べるなかで、ピュタゴラスを「数学における最高権威」としている。
ヘロトドスまでの初期の資料では、エジプトはもとより数学に関しての証言もない、しかし、どのような知識かわからないが、大知識人として知られていたようである。また、これらの資料が存在するということは、この時期には、ピュタゴラス派には、秘密の厳守ということはなかったようである。
ヘロトドスやイソクラテスはピュタゴラスをエジプトの幾何学との関連については述べておらず、エジプトの供儀や儀式について述べている。その後の資料では幾何学が現れる。この間にどのようにしてピュタゴラス伝説が作られたかは推測することしかできない。おそらく、BC430頃から、幾何学上の発見が多数行われ、さらにプラトン(アリュキタス)が学ぶべきものとして、数論、幾何学、音楽、天文学に分類されたことを背景として、アカデメイアにおいて、(おそらくプラトン自身かも「ピレポス」11C参照)ピュタゴラスが数学的原理を基礎においた哲学的知恵の源である、なかば半神の(プロメテウスのような)ピュタゴラスのイメージが作られた。(Khan p14)。つまりアカデメイアにおいて、ピュタゴラスは輪廻転生を主張する宗教指導者から、数学的な哲学の創造者とされた(Khan p13)。プラトンの哲学はもともとピュタゴラス派のものであるとされた(Kahn p71)、幾何学もこの文脈でピュタゴラス起原とされたようである。Burkertは「この伝説は、(以前からある)伝承が伝えられてきたものではなく、数学の創設者はピュタゴラスであるというドグマのもとに、捏造されたものである」(p408)と述べている。ピュタゴラス伝説の創作はこの時代から始まったようである。
その後の資料では、後のアカデメイアでの東方への関心が高まり、ギリシアの宗教、哲学の起原をそこに求めるようになった。この傾向はアカデメイアだけではなかった(Philips p190)つまり、プラトンの知恵の源泉を、ピュタゴラスのみに求めず、ピュタゴラスにおける神の概念の由来を、古い神学、特にオリエントに求めた(Kahn p119)、また、アカデメイア以外でも、BC4世紀にペリパトス派において、ピュタゴラスの旅が、ピュタゴラスの深淵で難解な知がいかにして外国からもたらされたかの説明になってくる(アリストクセネスやポルピュリオスVP12の資料)また、古くからの資料では、宗教、哲学、科学的な知、数学、天文学がピュタゴラスによってもたらせられたとしているが、その後の新ピュタゴラス派では、宗教、イニシエーション、浄化、密議がもたらされたとし、神秘的になり、さまざまな国、地域の名が現れる。(Philips p190)
実際にピュタゴラスが、遍歴をしたかは不明。Guthrie(p218)はエジプト、バビロニアへの旅はソースは、かなり後代のもので、学問的には歴史的価値はないものであるとしながら、当時、すでに活動的なサモス人ならば可能なことであるとしている。バーネット(p130)は、ピュタゴラスに帰せられた旅行は贋物であるが、エジプトの訪問(ポリュクラテスとアマシスの有効関係から)多少とも起こりうる、しかし十分な文献は残っていない。philips(p190〜)はアリストテレスには、ピュタゴラスの旅に関してなにも示唆していないし、このような旅行を裏付ける歴史的な資料はない。つまり、エジプト訪問には若干の可能性があるが、実際のところは分からない。しかし、これらの資料が、プラトンの時代前後に各都市を渡り歩いた、ソフィストを過去に投影したもののように私には思える。
当時エジプトギリシアの関係は親密であった
BC7世紀ころからギリシアでは大植民市時代を迎え、地中海沿岸のほとんどに植民市を建設した。エジプトでは例えば、ギリシアのドリア人の植民市として、キュレネとエウペリデス、イオニア人(中心的役割を果たした都市はミレトス)のナウクラティスがあった。そして、エジプトとギリシアの結びつきに関して、ナウクラティスという町について述べる。エジプトが、ギリシア傭兵の力で、アッシリア軍を破り、第26王朝(サイス朝BC663〜525)を樹てた。そのおりに、王が、恩賞としてギリシア人に町を作ることをゆるした。ここは、貿易の要所で、ギリシアよりもはるかに発達したエジプト文化を吸収するのに貢献した。KRS(p79)では、ミレトスとナウクラティスに親密な関係から、タレスがエジプトを訪問した、または、その可能性があるとしている。バーネットは「おそらくタレスはエジプトを訪ねただろう」(p72)としている。さまざまな資料が、エジプトについて語るのは、このような背景があるのではないか。
エジプトの数学に関する資料(幾何学の起こりを中心として。
ヒースは、次の資料より、エジプトの影響は幾何学より、代数(算術)に見られるとして次のように述べている
「ギリシアの伝統をたどると、幾何学よりは代数学の源は、エジプト人の負っている。ギリシア人はエジプト人の計算方法に習熟していた」(ヒースp381)
資料、「法律」817E〜820d
自由民はこれらの諸学科について、少なくともエジプトでひじょうに多くの子供たちが読み書きとともに学ぶ程度のものは、学ぶべきだといわなければなりません。まず算数に関して、文字どおり子供たちのために遊び楽しみながら学ぶように工夫された勉強があります。たとえば一定数の林檎(玩具の羊)や花冠を、多くの数の子供たちや少ない数の子供たちに分けることや・・・・こうして・・・基礎的な数の使い方を遊びのなかに組み入れ、それを学ぶひとたちに、軍隊の編成、指揮、行進、また家政のも役たたせ・・・・
資料、プラトン「カルミデス」への古注
計算術は、いわゆるギリシアとエジプトの方法、分数の乗法、除法、加法、減法を含む。・・・林檎や(水や酒)を入れる器の問題・・・
さらに、ノイゲン・バウアーやファンデル・ヴェルデンは、エジプトの数学より、バビロニアの数学の影響を重要視している。
ノイゲン・バウアーは「文献上の根拠では証明出来ない」とことわりながら、「無理量の理論」と「幾何学的代数」はメソポタミアで知られた結果を利用しているとしている。(古代の精密科学)(バビロニアでは、、ピュタゴラスより千年も以前に、定理として問題解法に用いれられていた「三平方の定理」や、「連立二元二次方程式」の解法、無理数の近似値、ピュタゴラス数の表等が知られていた)
注、幾何学的代数は、代数を無理量の発見により、幾何学であらわしたもの、これを疑問視する研究者もいる。
従って、エジプトの幾何学の影響については、古代では誇張されていたようであるが、プラトンにとってさえもエジプトは文化的な国であったようである。幾何学に限らないがプラトンは「ティマイオス」において「ギリシアはエジプト人にくらべると常に子どもである」(22)と言っている。この延長上にピュタゴラスと幾何学を結びつけたのかもしれない。なお、ピュタゴラスがエジプトを訪問したことは、当時の状況では可能であるとしか言うことができない。
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