ピタゴラス派について・・・プラトンはその著作(国家)で一回ずつ、ピタゴラスとピタゴラス派の人々について、つぎのように語っている。ピタゴラス派の特徴は、「ピタゴラス的生き方」をプラトンの時代まで行っていた(資料A)。そして、科学的な研究を行っていたグループもいたようだ(資料B)。これから資料を読んでいくに従って明らかになっていく。このページでは、まずピタゴラスの教え、および教団の性格をみていく。

資料A、ホメロスが彼自身の存命中に或る人々の教育上の指導者となり、その人々は師弟の交わりのゆえにホメロスを敬愛して、ホメロス的な生の道ともいうべきものを、後の人々に伝え残したというような話があるだろうか?ちょうどピタゴラスが、彼自身もそのことゆえに敬愛され、また後継者たちも、いまでもなおピタゴラス的な生き方と呼びながらその道を守り、他の人々のあいだで目立った存在であるとみなされているようにね。(660B)
資料B、目が天文学との密接な関係において形づくられているのとちょうど同じように、音階の調和をなす運動との密接な関係のもとに耳が形づくられているのであって、この両者に関わる知識は、互いに姉妹関係にあるのだ、と。これはピタゴラス派の人々が主張し、われわれもまたグラウゴン、賛成するところだがね。(530D)

ピタゴラスの教え、講義、教団(結社)に関する資料

南イタリアに出奔する以前にピタゴラスは、イオニア(サモス)で学堂をたてたという。しかし資料はこの二点しかなく真偽は不明

ポルピュリオス(9)
イオニアに戻ると、祖国にピタゴラスの学堂を建て、これは今も半円堂と称されて、ここにサモス人は集まって万機を論じている。また、ピタゴラスは郊外におのが哲学にふさわしい洞窟を堀り、ここで昼夜おおかたの弟子を幾人かとともに過ごした。

注、イアンブリコス(26)にも同様な記述がある

ピタゴラスがイタリア渡りクロトンに、教団、または、結社と呼んでもよい、何かしらの団体を組織したのはほぼ確実に思える。その性格を裏づける資料(ピタゴラス派の人々が、南イタリアで政治的な影響力を及ぼしたことについてはリンク4,5,6,のピタゴラスの政治的な面を参照してください)

イアンブリコス(30)
まず、令名も高きクロトンで説き勧めて、かの人(イアンブリコスはピタゴラスの名を用いない)は帰依者をあまた得て、記録によると、かの人は600人を擁し、帰依者らは分かち与えられた哲学へとなびいたのみならず、かの人の勧めるがままに、いわゆる「共住修道士」となった。この者らは哲学に従事したが、一方で、口伝衆と称される弟子が多くいた。人の言うところでは、かの人がただ一人イタリアへ上陸後、はじめて公におこなった、たった一回の説法に2000人に余る会衆が聴聞、聴衆は圧倒されてもはや家に帰らず、女子供と一緒に巨大な声聞堂(ピタゴラス派の学校)を建立、あまねく呼び慣されている「大ギリシア」をみずから築き上げ、さらに法律と戒律を神の提唱さながら、かの人から拝受し、これからはずれず、弟子たちの集まり全体と和合しそこに留まり、あげて四方の人々からほめられ、祝福されていることだが、先に述べたごとく財産を共有し・・・
ポルピュリオス(18)
ピタゴラスがイタリアに上陸し、クロトンに至ったとき、ディアルコスの言うには、あまねく世界を周遊し非凡で、自分の素質については果報に恵まれた人物が到来、その人たるや、姿に気品あり、偉丈夫で、声と人柄とその他諸々に関してこのうえない恵みと威儀を有しているゆえに、クロトンのまちを感化することは甚だしく、長老会を、数多くの立派なことどもを説いて、惹きつけたのち、今度は執政官れに請われて、若者れに若者向けの忠言を授けた。こののち、諸学校から集まった少年たちに、次には女たちに説いた。女たちの集会も彼のために準備されたからだ・・・多くの弟子には、男のみならず、女もおり・・・ところでピタゴラスが会衆になにを説いたかは、一人として確かに示すことはできない。門下の無言戒が並のものではなかったからだ。しかしながら皆にもっとも知られるようになったのは、まず、魂は不死なる言葉、次には魂が他の異類に転生し、くわえて、ある周期ごとに、かつて生起した出来事はまた生起し、まったく新しいものはなにもないという教え、さらに生まれた生き物は皆同族とみなすべしという教えである。
注、BURKERTは「古典期の同好会のようなクラブ」(p115)を反映しているが、とにかく、若者からなる結社のようなものが形成されたと推測してもよいのでは。そこでピタゴラスがなにを語ったかはうよく分かっていない。
ポルピュリオス(20)
ニコマコスのいうところでは、イタリア上陸後におこなったただ一回の説法で、2000人に余る聴衆を言葉で虜にし、聴衆はもはや家に帰らず、女子供ともども広壮な声聞堂を建てた上で、世上呼ぶところの大ギリシアをイタリアに築き、ピタゴラスから法と戒律を、神の教示さながら受けたうえで、これからはずれて振る舞うがごときは絶えてなかった。人々は財産を共有にし、ピタゴラスを神々に数えていた。それゆえ、一門の教理で黙秘の教えのひとつ、これ以外の点では微妙で、自然の数多くの完成した姿に通達するもの、すなわちいわゆる数秘三角形(テトクチュス10個の点からなる正三角形)を選んだうえで、これによってなにか神のようにピタゴラスの名にかけて誓っていたのだった。つまり、自分が証することについて皆が述べていた誓いの言葉は「否、われらが親族に数秘三角形を授けたもうた方にかけて、この三角形は永劫流奔する自然の泉と根を持つもの。
注、Philipは、「財産の共有について」BC4世紀には政治的な団体や、共同体のようなものが見られるが、財産の共有することはなかった、しかし、ニコマコスの時代(AD100年頃)には、ポルピュリオスが報告するような共同体が、見られるので、「財産の共有」は、ニコマコスが過去に投影したものであるという説をとる。(p140)、これは次の資料によりティマイオスまでさかのぼれるが。それ以上さかのぼれない。
ディオゲネス・ラエルティオス
ティマイオスが述べているところによれば、友ののものは共通(みんなのもの)であり、友情とは平等である。と語ったのは彼(ピタゴラス)だのことである。そこで彼の弟子たちは、自分たちの財産を一つにして(共通の)貯えにした。
プラトン「パイドロス」への古注
ティマイオスはその書第8巻においてこう述べている「若者たちがピタゴラスのところへやってきて、仲間になりたいと言うと。彼はすぐにはこれを認めず、彼らの財産もここで交流する人たちとの共有のものとせねばなららいと言った」・・・「友のものは共通のもの」という言葉がイタリアではじめて言われたのは、彼らピタゴラス派のおかげである」
ポリュビオス「歴史」2−39
イタリア内の当時「大ギリシア」と呼ばれていた地方で各地のピタゴラス派の集会所が放火された
ポンペイオス「地中海世界史」
300人もの若者たちが、同胞意識による誓いをたてて団結し、他の市民たちから切り離された生活を送っていたが、あたかもクロトンを掌握しようとするかのように思えた。
ディオゲネス・ラエルティオス
弟子ちは、(最初の)5年間は沈黙をまもり、師の講義に耳を傾けるだけであって、審査を受けて認められるまでは、決してピタゴラスと対面することはなかった。しかし、その資格ができてからは、彼らはピタゴラスの家に入って、かれに直接会うことが許されたのである。(DL8ー10)
ピタゴラスの夜の講義には、600人を下らない人数の人たちが集まったのである。(DL8−15)
    
イアンブリコス(72)
かようにして選抜した若者を、必定、三年間放行し、その間に意志堅固と真の好学心の点でどうか、名声にたいしては、名誉を軽蔑するほど十全に心構えができているか否かを試した。次に、秘儀の制定者らもわれわれに明らかにしているように、他のいかなる自制よりもこれ、舌の支配が難しいとして、入門者らに五年間の無言戒をさらに課し、克己心の点でどうかを試した。この間、一人一人の所有物、つまり財産は共有となり・・・行状と他の修業から判断して、入門者に教えに与る資格ありと判断すれば、五年の無言行のあとで、以後「内なる人」となり、帳の内側でピタゴラスから面々向き合って聴聞した。それ以前、長年、おのれの性格を試されているあいだは、対面は許されず、帳の外でただ声を聞くだけで教えに与っていたのだ。

ピタゴラスは、クロトンに上陸して、若者、女子供らにに、公の説法(講義)をしており、「開かれたピタゴラス」という印象を受けるが、その後の「閉ざされたピタゴラス」というイメージに変わっていく。声聞堂(クラブ的サークル活動)から、厳格で、他を寄せつけない、排他的な結社、と言ってもよい団体と記述されるようになってくる。(上記の3つの資料)次のイアンブリコスの報告は、さらに厳格なものとなっていくが。Plilipは「イアンブリコス(AD3〜4世紀の)は、自分の出身地のシリアの修道院(教会)の様子を過去に投影している」としている。たしかに、次の資料は、帝政ローマやアレキサンドリアの時代の修道院によく見られるもので、イアンブリコスの思いこみか、ピタゴラスを聖人にしたかったのかもしれない。

イアンブリコス(96〜100)
弟子たちにかの人(ピタゴラス)が授けた一日の営為についてこれから述べよう。・・・この人々は早朝に散策、一人ごとに、安らぎと静寂似つかわしく、神殿、森、その他心楽しませるもののある場所へとおもむいた。おのれの魂を落ち着け、思いをひとつにまとめぬうちに人と同道すべきではなく、心を落ち着けるにはかような静寂がふさわしいと考えていたからだ。起床するや人溜まりへと急ぐのは心を騒がせるだけと解していたので、それゆえピタゴラス派一門は皆、浄域に一等ふさわしい寂静処を常々選んでおくのだ。早朝の散策のあとではじめて互いに会したが、それはとりわけ神殿において、これがかなわぬ場所は同様な場所においてであった。この時間を教化、学修、品性の善導のために使った。かような精進ののち、身体への配慮に心を向けた。油を塗り、トラック競技にいそしむ者が大多数だったが、少数の者は庭と森でレスリング、ある者は亜鈴を手にしたり、一人で拳闘の練習をし、体力増強にかなう鍛錬法の選びに意を払った。朝食にはパンと蜂蜜か蜂の巣を食べ、日中は不飲酒。朝食のあとで一門が戒律の命令に従って従事したのは、公にかかわる実務、すなわち、学外との渉外活動と外国との折衝だった。諸般の事柄は朝食後の時間にさばきたかったからだ。昼が遅くなるにつれ再度散策に出たが、早朝の散策のように一人づつではなく、二人、三人と連れだって、学課を反芻し、従容と高歩して英気を養いつつ散策するならいであった。散策の後沐浴、垢離を取ったうえで共同食事に会した。そのさい十人以上が座に連なることはなかった。会食者が集まると、灌ぎならびに薫香と伽羅を捧げた。しかるのち、晩餐の共同食事に着き、日没までに食事を終えてしまった。食事は酒、麦菓子、パン、総菜、煮野菜、供犠にささげられる獣の肉は供されるが、魚の肉はまれ。・・・この晩餐のあと灌ぎがおこなわれ、次に読誦があった。最年少者が読誦し、最年長者がなにを、いかに読誦すべきかを監督するのが慣わしであった。退出するときは酌人が一門のために灌ぎを注ぎ、灌ぎののち、最年長者が訓戒し・・・これが訓辞されたのち、面々は帰宅した。

これらの資料をみていくと、組織化された教団(イアンブリコスの資料)とは言い難い。さて、よくピタゴラスに関する書物で言われている「ピタゴラス教団」というイメージからはかけはなれているが、しかし、ヘロトドスが「これらの風習は、いわゆるオルペス教やバッコスの徒らのそれt一致しているが、実際はエジプト人やピタゴラス派のものである」とのべていることや、次のリンクで扱うアクウスマタ(訓戒)から宗教的な結社という面も持ち合わせていることが明らかになる。

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