ピタゴラス派は、様々な物や属性を数と関連づけた

ピタゴラス派は事物を数にあてはめたと一般的に言われている。たとえば、最近出版されたクラムパッカー「数のはなし」(2008年)では、次のように書かれている。1は原理、2は意見や対立、3調和、4は公正、5は結婚(p33〜)。さて、これらはどのような資料のもとに推測されたのかを記述している日本語で読める書物は、私が知るところでは無い。BulkertやGuthryを参考に資料を見ていく。これは、古代でも様々な説があったようである。基本的にはアリストテレスの証言が基になっている。しかし、後代の新ピタゴラス主義者らの豊かな想像力により、さまざまな説や解釈がある。例えば、8や5や3を正義に、偽イアンブリコス「数理神学」では結婚は3、ニコマコスは10としている(Guthry p304)。さらに、次の資料のように、BC5世紀半のピタゴラス派の名をあげた、ピロラオスの証言が存在するが、Huffman(p357)によれば、これは、プラトンのティマイオスの解釈から導かれたもので、新プラトン主義者らの考えを、ピタゴラス派ないしピロラオスのものとしたもので、疑問断片である。DKではニコマコスによるものとされている。

偽イアンブリコス「数理神学」
ピロラオスは、三つに区分される数学上の大きさは4(に)、自然の示す性質や色は5に、理性や健康や彼が「光」と呼んだものは7に(基づく)とし、そしてそれらにつづいてエロースや友愛や知恵や着想は8に基づいて諸存在に生じていると言っている。

さて、Bulkertは、根本資料はアリストテレスである(とそのアレクサンドロスの注釈)として次のように推測している(後代の新プラトン主義、新ピタゴラス主義の介入がないので)しかし、ピタゴラス派がこれによって論証数学と結びつく資料にはとってもなりえない、数の遊びのようなもので、さまざまな書物が取り上げているが、重要なものではない。

有名な「万物は数である」とは、アリストテレスの次の証言である。

形而上学(985b26)
ピタゴラス派の人びとは・・・数の属性は正義であり、これこれの属性は霊魂であり理性であり、さらに他のこれこれの属性は好機であり、そのほか言わばすべての物事が一つ一つこのように数の或る属性であると解されたが、さらに音階の属性や割合(比)も数で表すことを認めた・・・

Bulkertの推測

1は、理性(ヌース)であり実体(ウーシア)
典拠(アリストテレス形而上学はその所だけを示す)
「これこれの属性は霊魂であり理性であり」(985b30)とアレクサンドロスの注釈における実体は、おそらくピタゴラス派に関するアリストテレスの失われた著作からのものであるとしている。
cf、アナクサゴラス断片55
正しいものとは、アナクサゴラスが言うところのもの、すなわち知性がそれである。・・・それは自律的であり、いかなるものとも混じり合うことなく

2は、憶見(思いこみ)ドクサ
「意見」と「好機」があり、その少し上方あるいは下方に「不正」と「決断」あるいは「混合」があるとしたとき・・・これら各々はそれぞれ数であるとし(990a23)とアレクサンドロスの注釈
cf、ピタゴラス派の人びとは、二を「争い」とよび(プルタルコス)

3は、全体(はじめ、中、終わり)
アリストテレス「天体論」(268a10)
「ピタゴラス派の人たちが言うように、万有やすべての事物は3によって限られている。というのも、万有の数となるものは終わりと中間と始めすなわちトリアス(3)である。」

4は正義で同じ数を掛けたもの(正方形数、平方数)で、テトラクチュスでは、数の全体性
「数の属性は正義であり」(985b29)、ピタゴラスの徒は・・・「好機」とか「正義」とか「結婚」とかのなにであるかを、それぞれの数に結びつけていた」(1078b23)
アリストテレスニコマコス倫理学(1132b)
(ピタゴラス学徒)は「正義とは、他の人に対する応報であると単純に規定している」
偽アリストテレス「大道徳学」(1182a11)
「正義は等しいものを掛け合わせた数」
アエティオス「学説史」
1,2,3,4を加えれば10(テトラクテュス)となる

5は、結婚。最初の男性性の奇数の3と、最初の女性性の偶数2との和
ピタゴラスの徒は・・・「好機」とか「正義」とか「結婚」とかのなにであるかを、それぞれの数に結びつけていた」(1078b23)
なお、2×3=6は結婚というのは、後代の解釈(Bulkert p467)

7は、好機、そしてアテナ(バージナルな素数として)
ピタゴラスの徒は・・・「好機」とか「正義」とか「結婚」とかのなにであるかを、それぞれの数に結びつけていた」(1078b23)
「意見」と「好機」があり、その少し上方あるいは下方に「不正」と「決断」あるいは「混合」があるとしたとき・・・これら各々はそれぞれ数であるとし(990a23)
ピタゴラスの徒は・・・「好機」とか「正義」とか「結婚」とかのなにであるかを、それぞれの数に結びつけていた」(1078b23)
アナトリウス「10という数について」
7のみは、生むことがなければ・・他の数によって生み出されることもない、・・ピタゴラスの徒によって「生みの母をもたぬ処女」とよばれた
プルタルコス「エジプト神イシスとオリシス」
ピタゴラス・・・これらの人びとが7をアテナと呼んでいる
とアレクサンドロスの注釈

10は、完全数
かれら(ピタゴラスの徒)には十という数は完全数であり(986a8)
注、その他の資料は数多い、「ピタゴラス派の業績のページを見てください」

アリストテレスの証言に対してのアレクサンドロスの注釈)
存在し生成する事物と数との間に如何なる類似が存するとピタゴラスの徒は論じたかをアリストテレスは明らかにした「応報と平等」が公正に固有なことであると考え、これが数の中に存在するのを見出して、これ故に、最初の正方形数が「公正」であると彼らは論じた。各々のことについて、同じ定義を持つものの中で、最初のものが、就中、いわれている当のものであるからである。この数を四であると或る人びとは言ったが、それは四が最初の正方形数で、等しいものどもへ分割され、自身も等しいもの(二の倍数だから)であるからである。他の或る人びとは九であると言った。それは三を三倍して成る奇数からの最初の正方形数であるからである。また、彼らは七は時節であるといった。それは、自然的事物は生成と成熟との完成の時節を、人間についての如くに、七数に従って得ていると思われるからである。すなわち人間は七ヶ月にして生まれ、また歯が生えるのもそれだけの月を経てからである。七年が二度めぐった頃に青春に達し、三度めぐった頃ひげを生ずる。太陽もまた(これは時節の原因であると考えられているとアリストテレスは言っているのであるが)彼らが時節であると言っている数、七にあたる所に座をしめていると彼らは主張している。すなわち、中心すなわち炉のまわりを運動している十の物体の中で、それは七番目の順位を持っていて、恒星の天球と遊星の五つの天球との次に運動している。それの次に第八に月が、第九に地、その次に対地星が運動している。十の中にある数の中では七は何も生まないし、何によっても生まれないので、それをアテナであると彼らは言った。すなわち、二は四を、三は六と九を、四は八を、五は十を生み、四と六と八と九と十は生まれる。だが七は何をも生まず、何からも生まれない。このように、アテナも、生みの母を持たず、また、恒に処女である。五は結婚であると彼らは言っていた。それは結婚は雄と雌との結合であり、彼らによれば奇数は雄、偶数は雌で、五は偶数の最初である二と奇数の最初である三とから生ずる最初の数である。私が述べた如く、彼らにとって、奇数は雄で、偶数は雌であるのだから。「一」は理性で実体であると言った(霊魂を理性と言ったのである)。。理性は持続的で、どこでも一様で、支配的であるので単一者にして一であると彼らは言ったのである。実体であると言ったのは、実体が第一のものであるからである。二は思断であると言ったのは両方へ変化し得るものでることによる。二を運動や付加(エピシテス)であるとも言った。事物の数とこのような類似性を選び出して、存在事物は数から成ると論じ、数を事物の原理であると彼らは考えたのである。

最後に
アリストテレスは、「どうして諸属性が、たとえば白いとか甘いとか熱いとかが、数でありえようか」(形而上学1092b12)とピタゴラス派を批判している。たしかにその通り

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