ピュタゴラスはエーゲ海のサモス島で生まれ、おそらく40歳のとき(前532/31)に、ポリュクラテス王の僣主制を嫌い、イタリアのクロトンへ移住した。ここで彼は講話活動をおこない、教団が形成されることになったが、当地でかなりの政治的影響力をもったらしい。しかし前6世紀末(前510頃)に、教団への入門を断られたキュロンという人物が中心となって、最初の反ピュタゴラス派運動が起こる。その折りにピュタゴラスはメタポンティオンに亡命し、そこで生涯を終えたとも伝えられる。前450年頃にはふたたびピュタゴラス派の集会所が焼き討ちに遭い、教団員のほとんどが命を落とした。この事件を境に、ピュタゴラス派はいっさいの政治活動から手を退いたという。前4世紀の終わり頃には消滅したらしいが、前1紀になるとローマでピュタゴラス派への関心が復活し、これ以降ピュタゴラスやピュタゴラス派の名を冠した大量の偽作文献が作成されることになりピュタゴラス伝説が成立する。また後1〜2世紀にはプラトン主義との密接な関係において新ピュタゴラス主義が勃興する。さて、次のようにピュタゴラスに対する解釈はさまざまであり、次のように20世紀初頭より、科学的・数学的な面を肯定する立場と否定する立場(文献6を参考しました)が見られる。

20世紀初頭では、バーネットよホワイトヘッドのように、学者として数学者としてのピュタゴラス像と、ツェラーやフランクは逆の立場をとっている。

バーネット
は文献11(1908)において、ピュタゴラスの学者としてのピュタゴラスと宗教家のピュタゴラスの二面性がピュタゴラスの中に共存していたとする。

ホワイトヘッドは「科学と近代世界」(1925 p37-39 p50)において次のように述べている「われわれは思想史のおける彼(ピュタゴラス)の偉大さを確立したいくつかの卓見を知っている・・・数が重要であることを洞察した・・・彼が幾何学を研究し、直角三角形についての有名な定理の一般的証明を発見したことを知っている、・・・ピュタゴラスが科学を形成する際に数学が重要なものになりうることを、おぼろげながら洞察していた」「数学および数学的物理学の始祖ピュタゴラス」「ピュタゴラスは、ヨーロッパ哲学およびヨーロッパ数学の土台を築くにさいして」

ツェラー
は1892年にピュタゴラス派の共同体は、初歩的な宗教団体か、オカルト集団でありピュタゴラスは輪廻転生を説くもの以上ではなく、科学的な面には懐疑的であった。
またツェラーは次のように述べている「ギリシア哲学史綱要」(未来社)「ピュタゴラスの歴史は既に早くから、そしてそれが伝承の内に後世へ伝えられるに従って、益々、多くの非史実的な伝説や推測により肥大せしめられて、特に新ピュタゴラス学派が現れて以来はそこで大規模に行われたピュタゴラス著作の偽造によって、彼の学説には後代のものが著しく混入せあいめられた」さらにフランクは1923年に「後代の著作家によって、ピュタゴラス自身や弟子に帰されている全ての発見は、プラトンの時代の南イタリアの数学者の業績である」とした。

近年においても全く相反するピュタゴラス像が存在する。

1962年にはガスリーは文献5(p181)において「ピュタゴラスは歴史上最も独創的な思想家であり、数学的科学と哲学的宇宙論の創始者であった。直接的な資料はないが、ピュタゴラスが後の思想に独特の影響を及ぼしたことを説明する唯一の理由だと考えなければならない。生涯を通じて宗教上の教祖として、なおかつ科学の才能を発揮して何世紀もの間崇拝された。」同じ年にブルケルトは文献8(英訳版は1972p147,p401-411)おいて、アリストテレスが述べる宇宙論や数理哲学はフィロラオス以前に遡ることはできないとして「ピュタゴラスはシャーマンまたは宗教団体のカリスマであり」「哲学や科学には何も貢献していない」とした。次からのリンクでは、ピュタゴラスの様々な側面を一づつ取り上げていきます。

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