バーネット(文献11p132)において「ピュタゴラス教団は、はじめのうちはただの宗教団体にすぎなっかたのであり、よく言われるように政治的な同盟ではなかった。そこにはどこからみても『ドーリス人貴族制の典型』と言えそうなものはなかったのである。・・・ピュタゴラスの徒が貴族的な部族に好意をよせたという証拠はなにもない、」と述べているが、諸資料からピュタゴラスの政治的な面に関して、ある程度の影響力を発揮したと推測することは可能であると思われる。次のように四つの時期のわけ裏付ける諸資料を検討していく。

(1)クロトンにおいて、ピュタゴラスは講話を通じて、クロトンの人々の尊敬をうけ、弟子が増えた。

(2)クロトンは、元々豊かな都市であったが、ピュタゴラスがクロトンに来る数十年前サグラス河の戦いで大敗北し、衰退していくところであったが、ピュタゴラスの助言により、また以前のように繁栄をもとらした。さらに、ピュタゴラス、及びピュタゴラス派の政治との関わりについての資料もある。

(3)その結果シュバリスとの戦争にクロトンは勝利をおさめた。

(4)その後、ピュタゴラス派に対する迫害や反ピュタゴラス運動がおこり、ピュタゴラスはメタポンティオンに亡命しそこで生涯をおえた。ピュタゴラス派の人々は各地に散らばり、ピュタゴラス派の政治的な活動は終わる。
 
(1)ピュタゴラスの演説ないし講話について
ピュタゴラスの講話について、最も古い証人はアンティネスであると特定されている。(文献7p36-35)アンティネス(c445-c365)は、ソクラテスの弟子でありピュタゴラスを次のように賞賛している(文献13p12より引用) 

資料 アンティネス 
「各々個人に適している知をそれぞれ見つけられることは、知者の印である。さらに、色々な人がいる所でただ一つの話しかできないのは、愚か者の印である」
 
資料 ディカイアルコスが伝えるもの、「ポルピュリオス(文献4、18-19)」
 ピュタゴラスがイタリアに上陸し、クロトンに至ったとき、ディカイアルコスの言うのには、あまねく世界を周遊し、非凡で、自分の素質については果報に恵まれた人物が到来、その人たるや、姿に気品あり、偉丈夫で、声と人柄とその他諸々に関してこのうえない恵みと威儀を有しているゆえに、クロトンの町を感化することは甚だしく、長老会を、数多くの立派なことどもを説いて、惹きつけたのち、今度は執政官たちに請われて、若者ら若者向けの忠言を授けた。こののち諸学校から集まった少年たちに、次には女たちに説いた。女たちの集会も彼のために準備されたからだ。こういった次第で、ピュタゴラスの命名はいや増しに高まり、当地だけから採った多くの弟子には、男のみならず、女もおり、その一人テアノの名前は賞嘆もされ、さらに近隣の外国諸邦から参門の王と権力者も数多くいた。ところでピュタゴラスが会衆になにを説いたかは、一人として確かに示すことはできない。門下の無言戒が並のものではなかったからだ。しかしながら皆にもっとも知られるようになったのは、まず、魂は不死なる言葉、次には、魂が他の異類に転生し、くわえて、ある周期ごとに、かつて生起した出来事は生起し、まったくあたらしいものはなにもないという教え、さらに生まれた生き物は皆同族とみなすすべしという教えである。伝えでは、ギリシアにかかる教説を初めて請来したのがピュタゴラスであるからだ

ここでは、ピュタゴラスの講話の内容については述べられていないが、ディカイアルコスもまた魂の輪廻転生の教説をピュタゴラスのものとしている

 
資料 ディオドロス「歴史」10-3
 アテナイでテリクレスが執政の時、つまり第61回オリュムピア紀年、愛知者のピュタゴラスは、教育においてすでに一頭地を抜いていたので、周知の人物となっていたということ。というのは、教育で閑つぶしした人たちに、他に誰かいたとしても、彼こそ記録に値する人物であったからである。生まれはサモス人であった。もっとも、〔エトルリア〕テュッレノス人だと主張する人たちもいる。彼の言説における説得力と優美さたるや、国のほとんど全体までが彼に心を傾注したほどであって、あたかも一種の神が顕現したかのように、毎日、全都市が傾聴するために蝟集したほどである。さらに、彼が偉大であったのは、語る能力においてのみならず、魂の在りようも沈着冷静、知慮深い生活の模倣の点でも、若者たちにとって驚嘆すべき手本たるの実を示したことで、交わりを結んだ人たちを、贅沢と無駄遣いから転向させたのである。ふつうは誰しも、豊潤になると、身体であれ魂であれ、消費と卑しい堕落の方へとすっかり蕩尽してしまうものであるにもかかわらず。
 
資料 ユニアノス抄録「地中海世界史」
 彼はまた夫たちのためのとは別に婦人たちのための、両親たちのためとは別に少年たちのための教えをしばしば説いた。前者には夫への貞潔と従順とを、後者には中庸と学芸の勉学とを教えた。この間に、彼は皆に実直さを、あたかも種々徳の母であるかのように教え込み不断に談論を続けた。その結果婦人たちは金で飾った衣服や、自分たちを高貴に見せる他の飾りを贅沢な道具として捨て、そして、それらすべてをユノーの神殿へ運んでその女神に捧げ、婦人の真の飾りは衣服ではなく貞節だということを誇るようになった。若者たちの間でも逸楽がどんなにひどかったかは、女たちの頑固な心さえも彼らに負けたということがそれをしめしている。
 
資料 イアンブリコス「ピュタゴラス伝」ではより具体的に次の三つの部分でその内容にもふれている
@体育館での若者に対する説法
「かの人は体育館にはいった。若者らが取りまくと所伝では若者らに説法し、これによって長上には真摯に対せよと説きすすめ(37節)若者らに、おのれ自身よりも父母を大事にさせるために(38節)ついで節制について語り(41節)若者らを教養に向けて促さんとして(42節)かような説法を体育館で若者らに語った。」
A千人議会における講話
「ムーサらの神殿を建設して、今ある和をまもりたまえ(45節)国家を天下蒼生からの預かりものとして、相いともに治めていると心得られよ・・・課されたつとめを果たすに正義に則らぬ輩は、取りも直さず世界秩序全体を害している(46節)家を管理すべきは当然である。・・・子息にたいしては高潔であれ・・・不貞の子を儲けない(47節)行動を起こすごとに怠惰をさけるべし(49節)議員らは聴き終えるや、ムーサの神殿を建立し、妾を蓄えるのが土地の習わしだったのを、これを去らせ、アポッロン神殿では少年たちに、ヘラ神殿では妻たちに、別々に説教してくれと懇請した。(50節)」
B女たちにたいして
供犠について「捧げんとする物は、自ら手作りし・・・生き物を殺生する、血なまぐさい供犠で神を敬ってはならず・・・婚姻関係のない男のもとから聖所に近づくのは許されない。(54節)また、講話の後、女たちは質素な服を求めた(55節)
 
 諸資料は、ピュタゴラスが、政治家、少年、青年、女性などに講話をしたとしているが、その内容について伝えているのはイアンブリコスのものだけであるBurkertはその内容については、後代の追加であるとしている(文献8p115)。しかし、後代の追加・訂正があるが、イアンブリコスが伝える講話の内容に、クロトンの創始者としてのヘラクレス(40.50節)植民市の指導者に対するアポロンの神託(52節)オリュンピア競技でのクロトン人の勝利(44節)等クロトンの地方史よ地誌にふれていることから、講話自体は、内容は別にして、歴史的事実ではないか(文献7p39-40)と思われる。従って、これらの資料からは、ピュタゴラスが政治的な活動をしたとは結論づけられない。むしろクロトンのさまざま人々に対する、公的な教育者であった。そして、贅沢を戒め、クロトンを衰退から繁栄に導いたと解釈できる

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