ピュタゴラスの生年について(諸資料からBC6世紀中頃というのが妥当であると思われる)
 
資料、アリストクセネスが伝えるものが根本資料です。
ポルピュリオス「ピュタゴラス伝9節」(DK14-8)
 「アリストクセネスの言うところでは、(ピュタゴラス)は40歳のときにポリュクラテスの独裁政治の脅威が強まるのを見ると、専制的に支配に甘んじることは自由人にふさわしくないと考えて、イタリアへ去った。」
 
、次の資料のようにポリュクラテスと友好関係にあったとする資料もある
 
資料、「彼(ピュタゴラス)はエジプトに滞在したことがあるが、サモス島の僣主のポリクリュクラテスが書状によって彼をエジプト王のアマシスに紹介した(DL8-3

古代の歴史家たちはポリュクラテスについて次のように語っている」)
 
資料、ヘロトドス「歴史」
 カンピュセスがエジプト遠征を試みている頃、スパルタはサモス攻略の兵を起こし、アイアケスの子で、革命を起こしてサモスの政権を握ったポリクュラテスを攻撃した。
 
資料トウキュディス「戦史」
カンピュセスの時代にサモス島の独裁者であったポリクリュクラテスも海軍力を充させて
 
 ポリュクラテスの在位はBC540頃〜522(「世界史大年表」山川出版、文献12p224)である。Philip,Pythgorasan and Pythagoreanism(p195-196)によれば、アポロドロスは「年代記」において、おそらくアリストクセネスの書き表したものを参照して、ピュタゴラスがイタリアへ去った年BC532/531年をピュタゴラスのアクメー(盛年)とした。さらにPhilip は、アリストクセネスは何を参照したかはわからない。しかし、次の資料にあるように、アリストクセネスはBC4世紀の終わり南イタリアの都市トラントゥムの生まれで、ピュタゴラス派最後の人々と交流があったからだとする。
 
資料「ピュタゴラス派の最後の人たちとは(アリストクセネスもその人を直接に知っていたのであるが)トラキアのカルキディケー出身のクセノピロス、プレイウスの人パントン、そしてエケクラテス、ディオクレス、ポリュムナストス、この人たちもプレウス出身の者であるがそういった人たちのことだからである。そしてこの人たちは、タラス出身のピロラオスとエウリュトスの弟子だったのである。」(DL8-46)
 
資料 アポドロスの年代記によるピュタゴラスの生涯(Philip p195)
BC571/570 誕生
BC554/553 アナクシマンドロスの弟子となる。ペレキュデスの弟子となる。。
BC532/531 サモス島を去り、マグナ・グレエキアに行く
BC499/498 デロス島において、ペレキュデスを葬る
BC497/496 75歳で死ぬ
 
 さらに、Philipは、哲学史における年代は絶対的年代より相対的な年代の方が重要であるとし、ピュタゴラスの生年がもっと早い時期だと、「ペレキュデスやアナクシンマンドロスのもとに渡り」(文献3)「ピュタゴラスが青年になるとミトレスのアナクシマンドロスのもとに、幾何学と天文学を学ばせるために」(文献4)という記述に矛盾し、もっと遅い時期だと。ピュタゴラスがクロトンで教えを広める十分な時間がないし、ピュタゴラスが指導的役割を努めた、クロトンのシュバリスに対する戦いの勝利(BC510/511)(DK14A-14参照)に矛盾するという。
 
Burkert(文献8p109-111)は次の諸資料よりアリストクセネスの報告が妥当であるとしている。
 
@「ティマイオスは、エンペドクレスはピュタゴラスの弟子であると記している」(DL8-54)
 
A「アルキダマスは・・・・エンペドクレスはピュタゴラスの弟子としてとどまったと記している」(DL8-56)
 
Bヘラクレイトスは「博識は見識を得ることを授けない.さもなければヘシオドスやピュタゴラスにも、さらにはまたクセノパネスやヘカタイオスにもそれを授けたはずではないか」と述べている(DL9-1)
 
C自然学者のヘラクレイトスは、ほとんど叫ぶようにして、こう述べているからである「ムネサルコスの子ピュタゴラスは、世の誰れよりも一番に探求に努めたのだった。そしてこれらの書物の抜粋をつくって、自分自身の知恵としたのだ。それは博学の詐術ではあるが」(DL8-6)
 
Dクセノパネスは、彼(ピュタゴラス)について次のように述べているのである。そしてあるとき彼は仔犬が杖で打たれている傍を通りかかったとき、哀れみの心にかられて、次のように言ったということだ。「とせ、打つな。それはまさしく私の友人の魂なんだから。啼き声を聞いて、それと分かったのだ」(DL8-36)
 
Eアリストテレス「ピュタゴラスが老年の頃、アルクマイオンは齢も若かったからである」(形而上学のある写本にあるそうです)
 
Fイアンブリコス「七賢人はピュタゴラスよりも先に生まれているからだ」(文献3p78)
 
Gアリストクセネスが『ピュタゴラスとその弟子たち』で述べているところによれば、ペ
レキュデスは病死してピュタゴラスのよってデロス島に葬られたということだ。(DL1-118)

注、エンペドクレス BC493-433頃
   ヘラクレイトス BC540-480頃
   クセノパネス BC565-470頃
   アルクマイオン BC500頃活躍
   七賢人 BC6-7世紀 BC550頃活躍
 
@Aではピュタゴラスは5世紀中頃の人になってしまうが、他の資料およびアリストクセネスの証言よりBurkertはピュタゴラスは6世紀中頃の生まれであるとしている。
 
バーネットは、「ピュタゴラスはポリュクラテスの治下(BC532)ころ最盛期であったと言われる。この年代はそれほど間違っていない。というのはヘラクレイトスが、すでに過去形で語っているからだ」(文献11p130)としアリストクセネスの証言に基づいてアポロドロスがこれを記していることは疑えないとする。
 
Guthrieは(文献5p173)アリストクセネスの証言に基づいて、BC720頃か若干それ以前としている
 
注、他にも、次のようなピュタゴラス生年に関する資料がある。
*「ピュタゴラスは、第60オリンピア祭年(BC540〜537)に盛年であった。」(DL8-45)
*エラストテネスは間違えてBC588としている(DL8-47)
*ときにポリクリュクラテスの僣主制が勃興しつつあるなか18歳ばかりになった若者(ピュタゴラス)は事態の行く末を見越し、これがおのれの志となにものにも代え難い学園研究の三昧境に障なろうと推し量って・・・町を出奔した。(イアンブリコス文献3)
*他は文献8p111n6参照

なぜピュタゴラスはクロトンを選んだか(推測です)
 当時のクロトンは、サモスと友好関係にあり、運動競技や医術家で著名な町であった。(バーネット文11p130)そして、ヘロトドスがデモケデスについて語っていることから、クロトンに医術校が、ピュタゴラスの時代よりも以前に建てられたと想像してもよい。BC6世紀にクロトン人によって克ちとられたオリンピック連続優勝は輝かしいものだ(バーネット文献11p132)さらに、Guthreiは文献5p174において「クロトンはアルカイ人の植民地であり、南イタリアでは指導的な町であった。ピュタゴラスがクロトンを選んだ理由は分からないが、デモケデスに勧められたかもしれない」と推測している。Kirk他は文献12において、「オリンピックの勝利で有名なクロトンはピュタゴラスの目的地としては自然であるとし、ピュタゴラスはおそらくポリュクラテスの主治医で、医学校の医師でありクロトン人のデモケデスを知っていた」としている。また、ピュタゴラスと同時代のクセノパネスも南イタリアに渡っている。デモゲネスとポリュクラテスの関係については、次のヘロトドスの資料を参照

資料 ヘロトドス「歴史
 「デモゲネスは医師で医療の技術に関しては、当代彼に並ぶものがいなかった(3-125)」「このデモゲテスがクロトンから移住して、ポリュクラテスの知遇を得るにいったた(3-131)」「ポリュクラテスが2タラントンで彼(デモゲテス)を迎えたのである。クロトン人が医師としての名声を馳せるにいたったのは、この人に負うことが最も多い(3-131)」

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