プラトンのアカデメイアにおける役割。

参照した文献

  1. IAN MUELLER、Mathematical Method And Philosophical Truth. in Cambridge Companion to Plato
  2. ヒース「ギリシア数学史」
  3. 廣川洋一「プラトン学園のアカデメイア」
  4. PROCLUS A Commentary on First Book of Euclid`s Elements
  5. ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシア哲学者列伝」(岩波文庫)
  6. Heath、A History of Greek Mathematics
  7. W・D・ロス「プラトンのイデア論」

プラトンは、BC380年代〜365年の間にアカデメイアを設立した。アカデメイアに関する情報は少なくよくわからない事が多いが、Muellerアカデメイアについて簡潔にまとめている。それは、公式なスッタフ(授業者等)がいて生徒がいるのではなく、自治的なコミュニィティのようなもので、授業料も取らなっかた(第ニ学頭のスペウシッポスは取ったようです(DL4ー1)ギリシア中の若者が集い、その中には、20年間過ごしたアリストテレスもいた。プラトンは死ぬまでアカデメイアの指導者であり続け、甥のスペウシッポスがそのあとを継いだ。そこでは、抽象的な形而上学から、具体的な政治、倫理と幅ひろい研究が行われていた。
注、廣川はアカデメイアの設立はBC387年頃であるという説が妥当であるとしている。

プラトン「国家」7巻における予備的な学問(国家の理想的な統治者になるための)がアカデメイアで実際に行われていたという説もあるが、Muellerは、アテネの現状を見てユートピアの実現にむけたものでプラトンの理想であり、歳のことも考えるとあり得ないとし、実際的に不可能であるとし、アカデメイアでは、より簡潔な数学、問答、善に関する議論などが行われており、各自の興味関心に応じて集い研究していたと推測している。さて、その予備的な学問と時期は、次のように述べられている。

「算術や幾何学をはじめとして、哲学的問答法を学ぶために必ず前もって履修されなければならないところのすべての予備教育(数論、幾何学、立体幾何学、天文学、音楽)に属する事柄は彼らの少年定規とコンパスダウこれを課する・・・決して学習を強制してはいけない」その後「体育を義務づけられた期間(2〜3年)」そして20歳になり30すぎまでは「哲学的問答の力」をみきわめられ、選ばれた者が「若い者に適した役職を義務と課せられ」15年後の50になったならば、「善そのものをみとったならば「国家のために支配の役につく」

さて、アカデメイアに集まった人々については、ディオゲネス・ラエルティオスに記録されているが、数学者に関しては、プロクロスの有名な「幾何学列伝」にまとめられている。ディオゲネス・ラエルティオスは20人ほどの名前をあげており、他にも大勢いたとのべている(DL3−46)

 プラトンはこの人たちの後にくるのだが、この学問へのきわめて熱烈な興味を介して、幾何学その他、数学の諸分野の発展に大きな貢献をした。事実、彼がその著作を数学的な論議をもってみたし、あらゆる機会を捉えて、哲学に身を捧げる者の間に数学に対する讃美の念を喚起したことは広く知られている。プラトンの時代には、また、タソスのレオダマス、タラスのアルキュタス、アテナイのティアイトスがいたが、この人々は定理の数をふやし、それらをより学問的な体系に整理した。
 レオダマスより若いネオクレイデスと、ネオクレイデスの弟子であるレオンとは、それまでに知られていたことに多くのものを加えた。こうしてレオンは『原論』をまとめることができたが、それは命題の数の点でも、証明された命題の有用性の点でも、一段とよくできたものであった。レオンはまた、与えられた問題を解くことがいつ可能で、いつ不可能かに関して、いくつかの条件を定式化した。
 クニドスのエウドクソスはレオンより少し若い人で、プラトンのグループと親しい間柄だったが、彼は初めて、いわゆる一般定理の数を豊富にし、(前からあった)三つの比例中頃に新しい三つの比例中頃を付け加え、さらにプラトンが始めた分割に関する研究を解析法を用いて継承した。プラトンの友人であるヘラクレアのアミユクラス、エウドクソスの弟子でありプラトンのグループの一員でもあったメナイクモス、メナイクモスの兄弟のデイノストラトスなどの人々は、幾何学をさらに完全なものにした。マグネシアのテウディオスは、数学においても哲学の他の分野においても名声が高かった。それは彼が『原論を立派に整理し、種々の特殊命題を一般化するのに成功したからである。キュジコスのアテナイオスもほぼ同じ時代の人だが、数学の諸部門特に幾何学において名をなした。これらの学者はアカデメイアに集まり、相携えて研究に従事したのである(PROCLUS、p66〜)

この当時の名だたる数学者が、「アカデメイアに集まり、相携えて研究に従事した」つまり、数学に関して言えば研究センターのようなものであったようである。

アカデメイアにおけるプラトンの講義について。有名な「善について」の講義を行ったことは、以下の資料より、事実であると思われる。しかし、日常的にプラトンが講義を行ったという資料は、私の知る限りない。ここは、口頭での講義については、意見が分かれている、プラトンが行った、行わなかったと説が分かれている。Guthrieは講義は日常的に行われていたとしているが,chernissはなかったとしている。(ロス「プラトンのイデア論」p194〜参照)

アリストクセネス「ハルモニア原論」第二巻(東海大学出版会)
アリストテレスが、プラトンのもとで善の講義を聴いた聴衆の大部分が感じたこととして、つねづね語っているとおりである。アリストテレスが言うには彼たちはそれぞれ何か人に人間的に善と思われるもの、例えば富や健康や権力などを想定して、要するに驚くべき幸運を把むことができるのではないかと思って、やって来たのである。しかし、その講義にさいしては、諸々学問や数や幾何学や天文学についての議論と、善は一つであるという結論とが表明されただけであった。思うにそれは、彼たちにとっては、全面的にある種の逆説であったろう。実際、ある者はこれを軽蔑し、ある者は誹謗した。どうしてこのようになったのか。それは、彼たちが(その講義の性格を)前もって知らなかったからである。彼たちは、論争家がするように、ただ(善という)言葉だけに惹かれて、なにも考えないでやって来たのである。しかるに、思うに、聴衆が全体的見通しを前以って立てておいたならば、聴く積もりのあった者は、途中で聴くのを止めたか、話が気に入れば述べられた考えの中にとどまったであろう。アリストテレス本人は、言うなればまさにこういった理由から、彼の下で聴講しようとする者に対しては、その研究が何についてであるか、また、そもそも何であるか、を前もって語ったのである。
注、アリストテレスは、講義をかなり行ったようである。彼の著作の多くは、講義のためのノートであるとされている。

この講義の出席したのは、「その講義に出席していたアリストテレス、ヘラクレイデス、ヘスティアイオスおよびプラトンの他の仲間は謎的に語られたことを、語られた通りに、記録したが」「また、スペウシッポスから、またクスノクラテスから、そしてまたプラトンの「善について」の講義に出席していた他の人たちから・・・」(シンプリキオス「アリストテレス自然学注釈」)等である。
注、アリストテレスには「善について」という著作があったようである(アリストテレス「断片集」)
注、クセノクラテスにも「善について」という著作があったようである」(DL4−13)
注、ヘラクレイデスにも「善について」という著作があったようである」(DL4−13)

プラトンの講義は、少なくても1回行われた、その他に行われていたかはわからない。では、日常的にプラトンがどのような活動をしていたかについて、わずかな資料が残されている。(文献@Aより)

プラトンは、アドバイザーであり、ナビゲターであり、コーディネーターであり、デレクターであった

エピクラテスの喜劇より
プラトンとスペウシッポスとメネデモスのことについて聞かせてくれないか。彼らは今どんな問題について論議しているのかね。どんな深淵な思想が、またどんな難問が研究されているのか。お願いだ、本当のところをぼくに話してくれないか、それについてなにか知っていたら。
彼らのことならよく知っているから、ありのままを聞かせてあげよう。パナテナイア祭のとき、ぼくはアカデメイアの体育館で一群れの若者たちを目にしたが、その体育館で、ぼくはね、なんとも奇妙な、口ではとても言い表せないような話を聞いたのだ。彼らは自然界のものを定義・分類しようとして、動物の種や樹木の本姓、野菜の種類を区分しているところだった。そしてこの種のものの分類をやっているうちに、彼らはひょうたんがいったい何という種に属するかを探求することになったというわけなのだ
どう決着をつけたのかね、彼らは、その植物が何で、またどの種に属するとして。知っていたら聞かせてくれないか
うん、はじねはね、みんな黙ったままつっ立っていて、しばらくの間例の物におおいかぶさるようにして思索にふけっていた。すると突然にね、みんなまだ依然しの物におおいかぶさるようにして、そいつを調べていたのだが、若者のうち一人が、それを、円形をした野菜である、と言ったのだ、すると他の若者が「草」と言い、また別の者が「樹木」だと言うわけさ。シケリアの医者先生がこいつを聞いたものだからたまらない、先生、連中の話の馬鹿らしさにおもわずおならにおよぶという一幕もあったのだ。
連中はそれにひどく腹を立て、からかったり大先生をやじり倒しやしなかったのかな。だってそういう講堂で怒鳴ったりするのは失敬なことだからね。
いや、若者たちは気にもとめなかった。だけど、そこに居たプラトンはちっとも困ったふうもなく、彼らに親切にこう言ったのだ。もういちど初めからひょうたんの種を定義してごらん、とね。そこで彼らはそのまま定義をつづけていった。
ピロデモス(BC1世紀)
数学の進歩には多大なおにがあった。その時期において、プラトンが一方で、棟梁として働くとともに、諸問題を設定すると、他方で数学者たちが真剣に、それらを探求したものだった。このようにして、計測学そして問題に関すること(欠落)・・・初めて頂点に達した。それは、エウドクソスがヒポクラテスの古い成果を新しく作り替えたように。幾何学も同様に、分析とデオリスミ(条件)に関する(補助定理)も考案された。そして、光学や機械学も同様であった。
注、計測学とは、MUELLERによれば、一般的には、面積、体積の求積だが。通約不能性のことかもしれないとしている。さらに、幾何学が非常に進歩し、光学、機械学について述べられていることから、プラトンのアカデメイアは「国家」に述べられている教育課程をそのまま行ってはいなかったとしている。

エウドクソスの「同心球の仮設」これは、太陽と月と惑星との見かけの運動。特に惑星の留と逆行を説明するために提出された仮設だが、プラトンの助言によって考え出されたものであるとシンプリキオスは、エウデモスの「天文学史」からのソシゲネス(AD2世紀)による引用を使っている。これに鼓舞され、エウドクソスはこの仮設を研究した。ヒースによれば、同じようにヘラクレイデスも一つの解答をみつけたそうです。

シンプリキオス「アリストテレス天について」注釈
この問題、「つまり仮設による、規則的、一定な運動ののうちで、見かけの天体の運動を説明できるのはどんあものか」はプラトンによって設定された。

上記の資料から、指導者、助言者、数学の指導者、数学者が熱心に研究した問題を提出する者、というプラトン像が浮かび上がる。さらに、自身も「国家」でつぎのように述べている。

「そうしたことがら(立体幾何学)は、ソクラテス、まだ完全に発見されたとはいえないように思えます。」その原因は二つあって「ひとつは、どの国家もそれを尊重していなくて、・・・・もうひとつは、研究者たちには上に立つ指導者が必要であり、それなしには発見はありえない。・・・・もし国家が国全体をあげて、この研究を尊重しながら指導監督に協力するならば、研究者たちもそれに従うであろうし、問題しのものも持続的にかつ集中的に探求されて。。。」

いくつかの説話においても同じようなプラトン像が浮かび上がる。

アルキメデス「球と円柱について」のエウキトスによる注釈
 さらにまた、その後しばらく経って或るデロスの人々が祭壇を二倍にせよという神託を受け、同じ難問に出会ったということも
伝えられている。彼らはプラトンのアカデメイアにいる幾何学者たちのもとえ使者を送ってその解法をたずねた。このようなことが人々の心をとらえ、与えられた二つの線分の中間に比例中項を作図するという問題に、大いに精を出させたのである。アルキュタスは半円柱を使ってこれを解き、エウドクソスは、いわゆる曲線なるものを使ってこれを解いたといわれている。彼らはすべて作図で証明することはできたが、実際に装置を作って役立てることは、メナイモスクが辛うじて、それも難解な方法で行った。」
プルタルコス「食卓歓談集」(岩波文庫p203)
だからこそプラトンは、エウドクソスやアルキュタスやメナイクモスが立方体を二倍することを道具や機械を用いる次元のことにしてしまったと非難したわけだ。二つの比例中項を見つけるのに理性を用いずに、手当たり次第の感覚的なものをつかって何とかしようと試みるようなものだからさ。こうして幾何学の美点が失われ壊されてしまうとプラトンは考えたんだな。だってせっかくの幾何学がまた感覚世界へと逆戻りしてしまい、上へとむかって永遠にして物質から解放された形相、それに照らせば神はつねに神であるような、そういう形相をとらえることをしないことになるからだ。
注、皮肉にも、エウキトスはプラトンによる機械的方法も述べている。もちろんこれをエウキトスの間違えだとすることも可能(ヒースはそのように述べている)
プルタルコス「マルケス伝」(岩波文庫p158-159)
この機会技術を初めて起こしたのはエウドクソス及びアルキュタスの一派で幾何学に趣きを加えて美しいものとし論理や図形による証明がうまく行かない問題に感覚的な機械的な模型を当てはめて、二つの中項に関する問題で多くの図形に必要な要素となるものを二人とも機械的な装置に導き、曲線及び線分から一種の中線を作ることができた。しかしプラトンはそれを不満としてこの二人に対し、幾何学の美点を壊滅させて、非物体的な悟性的なものから感覚的なものに外れるようにし、様々な賤しい仕事を必要とする物体を又元のように用いるようになったと非難したために、機会学は幾何学から分離して排斥され、長い間哲学から侮辱されて、軍事的な技術となった。

プラトン自身の数学的な研究は、Muellerによれば、「プラトンの数学での業績を裏付ける説得力のある典拠はなく、さらに、プラトンの対話篇における数学的、科学的な章句は、不可解であり不明瞭さが伴っている」としている。さらに、次のように述べている「プラトンは、数学者としては重要な人物ではなく、数学者たちのチャレンジとインスピイレーションの源であると考えるのがベスト」

プラトンの数学上の業績

ヒースは、「ギリシア数学の発展におよぼしたプラトンの影響は、誇張できないほどである。けれども(われわれの知る限りでは)その影響は、かれ自身がなんらかの数学的発見をしたということよりも、彼が数学の研究に熱心だったことと、門人や友人に数学を研究するようにすすめたことにあった」とし、Muellerと同じ見解を示している。主にHeathE、ヒースAを参考にプラトン数学上の業績を述べるが、たしかに数学の進歩に寄与した事実はなく(Heath、p294)、さらにMuellerが指摘するように、出典が説得力のあるものではないものがある。以下によると、たしかに数の遊びであったり、他の人の業績であったりして、とても数学の理論的な発展に貢献したとは思えない。

@対話篇「パルメニデス」(154D)
「多い方の時間と少ない方の時間に、いずれも同量(等しい)時間を加えるとしたら、多い方の少ない方に対する差の割合(比例)では、前と同じであろうか」「小さいと思います」つまり、a>bならば(a+c):(b+c)<a:b
A「法律」では、市民の数として、便利な数5040を挙げている。これは、12、21、20の積であらわされ、約数は59個あり、1〜12(11を除く)の数全てが約数になっている。
B「ティマイオス」では、5つの正多面体をあげている(このことによってプラトンの立体とも呼ばれている)さらに
ヘロンの「定義集」にアルキメデスが引用され、プラトンは1つの準正多面体を知っていた。
正多面体の理論的な研究は、ティアイトスであるとされている。
C「ティマイオス」では、二つの平方数の間には二つの比例中項がある、立方数も同じ。(原論8巻の命題11、12)
D「メノン」正方形の面積を二倍にするのには、一辺がもとの正方形の対角線のながさの正方形にすればよい
さらに「メノン」では「どんな形にもなる与えられた図形と、面積において相等しい三角形を円に内接させることができるか」という問題を提出しているが、さまざまな解釈があり、Heathによれば1861年にすでに30もの解釈があったそうです。
Eプロクロスの注釈(文献4)にピタゴラス数を求める公式がプラトンのものとされている。(p428)それは、
(2n)+(nー1)=(n+1)である
しかし、これは、AD3世紀のアナトリウスまでさこのぼれる(Burkert)のでプラトンのものなのか疑問
F「ティアイトス」でテオドロスが√3〜√17までを、一つずつ通約不能性を証明したと、しかし、その証明は書いていない。その後ティアイトスがその理論を完成させた。
G「ヒッピアス大」に二つの無理量の和は、無理量、か有理量であると
H「国家」の√50の整数の近似値、つまり7を求めている。結婚数は数の遊びみたいであるのいで略
I立方体倍積問題のプラトンの解法、エウキトス「アルキメデス球と円柱について」注釈。Heathはプラトンによるものではないとしている(p255)