プラトンがコンパスと定規の制限をした。この主張を裏付ける資料はない。

作図において、コンパスと定規における制限はプラトンによるものであると一般向けの書物には述べられているがプラトン全集にはその記述はない。唯一コンパス(日本語訳では「ぶんまわし」)という用語がみられるのは「ヒレポス」のみである。よく制限について引用されるのが次のプルタルコスの二カ所である。しかし、この章句から、プラトンがコンパスと定規の制限したという主張は無理があると思われる。

資料Aプルタルコス「食卓歓談集」(岩波文庫p203)
だからこそプラトンは、エウドクソスやアルキュタスやメナイクモスが立方体を二倍することを道具や機械を用いる次元のことにしてしまったと非難したわけだ。二つの比例中項を見つけるのに理性を用いずに、手当たり次第の感覚的なものをつかって何とかしようと試みるようなものだからさ。こうして幾何学の美点が失われ壊されてしまうとプラトンは考えたんだな。だってせっかくの幾何学がまた感覚世界へと逆戻りしてしまい、上へとむかって永遠にして物質から解放された形相、それに照らせば神はつねに神であるような、そういう形相をとらえることをしないことになるからだ。

資料Bプルタルコス「マルケス伝」(岩波文庫p158-159)
この機会技術を初めて起こしたのはエウドクソス及びアルキュタスの一派で幾何学に趣きを加えて美しいものとし論理や図形による証明がうまく行かない問題に感覚的な機械的な模型を当てはめて、二つの中項に関する問題で多くの図形に必要な要素となるものを二人とも機械的な装置に導き、曲線及び線分から一種の中線を作ることができた。しかしプラトンはそれを不満としてこの二人に対し、幾何学の美点を壊滅させて、非物体的な悟性的なものから感覚的なものに外れるようにし、様々な賤しい仕事を必要とする物体を又元のように用いるようになったと非難したために、機会学は幾何学から分離して排斥され、長い間哲学から侮辱されて、軍事的な技術となった。

プルタルコス「食卓歓談集」(岩波文庫p203)の引用の部分の前の部分を引用する、この部分においてプラトンは幾何学は常に思惟によってとあるように、感覚世界を排除していることから、コンパスと定規を使用するということはありえない、さらに、「マルケス伝」においても同じよう感覚世界を排除している。そもそもコンパスも定規も感覚的であり、道具である。従って、プルタルコスの章句からプラトンが制限したという結論を導きだすことは出来ない。近藤も次のように述べている「プルタルコスの伝えるプラトンの主張のなかから我々が確実に直接に引き出せるものは何か、それは器具的作図や解法で以て数学的証明に代用させたことによる非難である。だがしかしそこから直ちに円、直線より以外の作図手段を禁じたというハンケル的見解を読み取ることは出来ない」(p371)

資料プルタルコス「食卓歓談集」(岩波文庫p201ー202)
ディオゲネスがこう口火をきった「・・・プラトンが神はつねに幾何学をやっていると言っているのはどういうことなのか考えたりしてね。もっとも、この断言がほんとうにプラトンの言葉だと決めていいならばだけれど」私(プルタルコス)が答えて、この言葉はプラトンの著作にのどこにも明記されているわけではないが、十分信頼していい理由があるし、いかにもプラトンが言いそうな言葉である・・・チェンダレスがこう言った「彼(プラトン)は、幾何学を賞賛して、幾何学は我々を、我々がしがみついている感覚の世界から引き離し、思惟によってとらえらるべき永遠なものへとむかわしめると言っているだろう。・・・とくに幾何学はピロラオスも言っていうように(断片A7)諸学の源であり母国であるから、我々の思考を引き上げ、方向を転じさせいわば思惟から感覚的なものを洗い清め、感覚的なものからそっと解放する。
(このあと資料Aが続く)

注、プルタルコスは「The E at Delphi」において、「プラトンが言うように、立方体倍積問題(デロス問題について「最も高等な幾何学的な能力が必要であると」述べており、矛盾している。

では、プラトン自身の著作ではどうか、プラトンのとってイデアは、いかなる感覚の使用によってもそれは知られるようにはならず、純粋な思考によってのみ知られるとされる。したがって、プラトンにおいても感覚的なものは排除される。例として「パイドン」を引用する。

資料 プラトン「パイドン」(65e-66a)
思考する働きの中に視覚を付け加えることもなく、他のいかなる感覚を引きずり込んで思考と一緒にすることもな、純粋な思惟それ自体のみを用いて、存在するもののそれぞれについて、純粋なそのもの自体のみを追求しようと努力する

さらに、イデアの世界と幾何学の関係についてプラトンは「国家」でつぎのように語り、幾何学は「つねにあるもの(イデア)を知るためのものであるとする。もはや、道具的、物体的なコンパスや定規とは無縁の世界である。

資料 プラトン「国家」(527a-b)
「この学問(幾何学)はもっぱら知ることを目的に研究されているばずなのに」「それ(幾何学)が知ろうとするものは、つねにあるものであって、時に生じたり滅びたりする特定のものではない」「幾何学は、つねにあるものを知る知識」「それは(幾何学)は魂を真理へ向かって引っぱって行く力をもつものだということになるだろうし、哲学的な思考のあり方をつくりあげて・・・」

プラトンは、「国家」の有名な三つの比喩のなかの、「線分の比喩」で数学についてその位置ずけをおこなっている。このことによっても上記の結論を補強できると思う。

資料 プラトン「国家」(509-510)
上記の線分において、プラトンはACを「みられるもの」(可視界)、CBを「思惟によってしられるもの」(可知界)に分けて、CEは魂がそれを探求するにあたって、先の場合(DCつまり動物や植物や人工物)には現物であったものをこの場合は似像として用いながら仮説から出発して、始原にさかのぼることなく結末へと進む。EBはCEと違い似像を用いず仮説ではない始原におもむく。そしてプラトンはCEの部分について次のように述べている「幾何や算数やそれに類する学問を勉強している人たちは、奇数とか偶数とか、さまざまの図形とか、角の三種類とか、その他これと同類の事柄をそれぞれの研究に応じて前提して、これらは既知のものともみなし、そうした事柄を仮説として立てた上で、これらのものについては自分自身に対しても他の人々に対しても、もはや何も根拠を説明するに及ばないと考えて、あたかも万人に明らかであるように取り扱う。・・・彼らは目にみえる形象を補助的に使用して、それらの形象についていろいろと論じるということを。ただしその場合、彼らが思考しているのは、それらの形象ではなく、それらを似像とする現物についてなのであり、彼らの論証は四角形そのもの、対角線そのもののためになされるのであって、図形に描かれる対角線のためではなく、その他同様である。・・・彼らは実物を別の立場から、今度は似像として用い、思考によってしか視ることのできないようなかのものを、それ自体として見ようとしている」

プラトン全集には、コンパスという言葉は「ピレポス」に2回出てくるだけである。一つは、平面や立体を作る道具の一つとして(51c)、建築術の道具として(56b)しかし、いずれの場合も、コンパスと定規による作図には触れていない。

資料Aの部分をプラトンによるコンパスと定規の制限の根拠することがある。上垣渉は「ギリシア数学のあけぼの」(日本評論社)において資料Aを引用して「古代ギリシアにおける作図では、定規とコンパスしか使用されなかったということである・・・作図においてコンパスと定規だけが使用されるべきものであるとする考えを明確に述べたのはプラトンであって・・・」と述べているしかし、ソクラテスはプロタルコスに「常にそれ自身において美しく」の例として単純な図形をあげているのであって作図とは無関係。さらに、コンパスと定規以外にも物差しや曲尺を例としてあげており、さらに立体やまた、曲線(円ではない可能性もある)という用語からも、この章句から作図におけるコンパスと定規の制限をプラトンが主張したという結論を下すわけにはいかない。また、資料Bにあるようにプラトンはこれらを道具として扱っており、理論的な幾何学にはむいていない(とくに曲尺)

資料A プラトン「ピレポス」山田道夫訳(西洋古典全集)
プロタルコス「それで何をまた、ソクラテス、真実の快楽として捉えれば、正しく考えることになるでしょう」
ソクラテス  「美しいと言われている色や形、大多数の匂いや音、その他それの欠如は感覚されず、苦痛もないが、その充足は感覚され、快を与えることになるもの、そういったものにおける快楽だよ」
プロタルコス「それがそうであることを、ソクラテス、私たちはまたどのよに言うのでしょうか」
ソクラテス 「・・・形の美しいというのにしても、僕が今言おうとしているのは、動物の美とか何かの絵画の美といった、多くの人が想定するだろうようなものではなくて、言論が語るにはだね『直線とか、曲線とか、それからコンパスを使って、また物差しや曲尺を使って作られる平面や立体のことを言っているのです』・・・それらは他のもののように何らかの観点で美しいというのではなくて、常にそれ自身において美しく、何らか固有の快楽を備えていて・・・」

資料B プラトン「ピレポス」山田道夫訳(西洋古典全集)
ソクラテス「だが建築術となるとだよ、思うに、たいへん多くの測定具や大工道具を使うので、それらが多大の精確さをそれにもたらし、それを他の多くの知識よりももっと技術性のあるものとしているのだ。
プロタルコス「どのとうにしてでしょうか」
ソクラテス「船を建造する場合や家を建てる場合や、その他材木を扱う技術の多くにおいてだよ。思うにそういったものは、物差しや針糸コンパスや二股コンパスや墨糸や、そして精妙に作られたある種の曲尺を用いるのだからね。

注、「ピレポス」山田道夫訳(西洋古典全集)注より
ここの部分の測定具や工具の「物差し」(κανων)「針糸コンパス(τορνοζ)」「曲尺(γωνια)」は51cでそれぞれ、直定規、コンパス、角定規に相当するものと考えられる、しかし、τορνοζには旋盤や轆轤の意味もあるという。(p133)いずれにしても、コンパスと定規による制限とは無関係