ピュタゴラスと政治(2)
次の歴史家たちの資料より、クロトンがサルガス川での敗北の後、クロトンは衰退していくが、ピュタゴラスはそれを食い止めたという伝承がある。これらは次の歴史家たちの証言にあるが、神話的な色合いが強い。さらにクロトン以外の都市でのピュタゴラス、ないし、ピュタゴラス派の政治との関わり合いを証言する資料もある。


資料 ユスティネス 「地中海世界史」20-2,3
クロトン人は、ロリク人に対して戦争を仕掛けた。この脅しに恐れをなして、ロクリ人はスパルタの人の許駆け込み嘆願して救援を頼んだ。彼らスパルタ人は長い戦役で披弊していたので、救援をカストルとポルックス(神話の双子の兄弟)に求めるようスパルタ人はロクリ人に命じた。そこでロクリ人の使者たちは同盟市の返答を無視せず、近くの神殿へ行き、供犠をして両神の救援を懇願した。犠牲獣の微に吉兆が出たので、求めていたものが得られたと考えて、彼らは神々自身を自分たちと一緒に連れているかのように喜び、それらの神々のために船中に台座を設け幸先よい予兆の下に出発し、彼らの市民に援軍の代わりに慰めを運んで行った。・・・両国が戦闘を交えることになったとき、クロトン軍は12万人の武装兵士から成っていたが、ロクリ人は自軍の少なさを見て(彼らは1万5千人の兵士しか持っていなかった)勝利の希望捨て、定められた死に向かうことを示し合わせた。そして、絶望から生まれた強い熱望が一人一人を捉えた結果、彼らは、無用に死ぬのでなければ、自分たつが勝者なのだ、と思うようになった。しかし、名誉ある死に方をしようと求めているあいだに、彼らは幸運にも勝利をおさめ、勝利の原因はまさに彼らが絶望に陥ったことにほかならなっかた。しかし、ロクリ人が戦っている間、一羽の鷲が戦場から一向に去ろうとせず、彼らが勝つまで彼らの周りを飛んでいた。その上、部隊の両翼には二人の若者がいて、他の者とは異なった武器の装備をし、異常に大きな身体付きで、白い馬に乗り、深紅色のマントを着けていて、戦いがなされている間だけその姿が見られた。・・・・けれらのことがあって後、クロトン人は勇気を養う訓練もせず、武器にも関心をはらわなかった。彼らは、彼らが得た不運な結果を厭まわしく思っていた。もし、哲学者のピュタゴラスがいなかったなら、彼らは贅沢の結果、生活を変えてしまっていたであろう。・・・彼はクロトンへ来て贅沢に陥った民衆を彼の権威で実直な習慣へと呼び戻した。毎日、彼は徳の基づく生活を称え、贅沢という悪徳と、その病気で滅ぼされた国々の没落の例とを数えあげて、実直さえの大衆の努力を喚起したので、彼らのうちにはそれまで贅沢に耽っていたとは信じられない者もでたほどである。


次のディオドロスの記述は、一部分同じ内容を伝えている


資料 Diodorus 8-32 LCL
ロリク人はスパルタに援助を要請した。ラケダイモン人(スパルタの正称)はクロトンの軍事的な強大さのことを聞きつけていたので、次のような、おざなりの返答をした。ロリク人を救う唯一の方法はカストルとポルックスが味方になってくれることだと。そして、特使は、神意のもとに援助がうけられると思い、神に生贄をささげたところ、よい前兆がでたので、船に台座を設けて自国に出航した。

ストラボン 「ギリシア・ローマ世界地誌」 6-1-10
サグラ川・・・この付近でロリク勢と1万とレギオンからの援軍がクロトン勢13万と交戦して勝った話によると、この事件が基で(何かの話を)信用しない人がいると諺風に「サグラの戦いよりもっとほんとうだよ」というようになった。・・・話によるとクロトンはこんな不幸な目にあい、多くの男子が戦いに命を落とした結果、その後、もはやしばらくの間しか生き残なかった。」

次の資料では、ピュタゴラス派がクロトン以外で統治していた地域があったが、ピュタゴラスは間接的な、教育者ないし助言者として描かれている。

資料 ポルピュリオス「ピュタゴラス伝」(21節) イアンブリコス「ピュタゴラス伝」(33-34)
ピュタゴラスがイタリアとシケリアを訪れたさい、諸都市が、積年あるいは最近、互いに隷属状態にあるのを見て、クロトン、シュバリス、カタネ、レギオン、ヒメラ、アクラガス、タウロメニオン、その他の都市を、まちごとにいる自分の弟子をとおして、自由の精神でみたしたうえで解放し、これら諸都市に彼(ピュタゴラス)は、カタネ人カロンダスロクロイ人ザレウコスをして法律をも制定せしめ、これによってまちまちは、多年、近隣の人々に妬まれた。またケントリパ人の潜主シコミスはピュタゴラスの教えを聴いて、支配権を手ばなし、財産の一部を姉妹に、一部を市民にあたえた。

イアンブリコス「ピュタゴラス伝」(129-130)
ピュタゴラス一門は、最善と信じる政策を、意見、建言しつつ、公金には手をつけず、法律を護持しつつ、イタリアの諸国家を治めていたからだ。これらの統治者の向けて中傷が数多く生まれたが、当座、優勢を占めたのはピュタゴラスの有徳諸国家自体の懇請であったので、かようの人士こそ国政を仕置くべしと要望首尾となった。最善の国政がイタリアとシケリアに生まれたのは、実にこの時とみなされている。すなわち、ひときわ目覚ましい立法の一人に数えられる、カタネのカロンダスはピュタゴラス派、立法で名高い、ロクロイ人ザレウコス、テオクレスとティマレスもピュタゴラス派レギオンの政体、すなわちギュムナシアルキアと呼ばれ、テオクレスにちなんで命名された政体を築いた面々、ピュティオス、テオクレス、エリカオンアリストクラテスも、伝えでは、ピュタゴラス派だった・・・一般に、かの人(ピュタゴラス)こそが政治にかかわる教育全般を創案し、かく論じたという

ディオゲネス・ラエルティオス DL8-16
ピュタゴラスはまた、イタリアの地で多くの立派なすぐれた人間に育て上げたのであるが、ながんずく、ザレウコスやカンダロスという立法家を育成した
注、ザレウコスはロリクス、カンダロスはカタナの立法家で、どちらもクロトンではない。

のリンクのシュバリスとの戦いの後、ピュタゴラス派の集会所が放火された後、ポリュビオスは「歴史」(2-39)において「各都市の指導的地位にある人々がこれほど突然に死んで」と述べている。従って、ピュタゴラス派の人々が、南イタリアの各地で、政治的な指導者であったと結論づけることは、可能である。(文献6p7、文献13p61
文献5p174-176)また、前のリンクの、ピュタゴラスの数々の講話に関する資料より、教育者、政治的な助言者としてのピュタゴラス像は真実性が高いと思われる。(文献6p7)資料のように古代の歴史家のピュタゴラスに対する評価と現代の歴史家の評価は一致している(文献5p174-176においてGuthrieは、Dunbabinを引用している)

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