クロトンとシュバリスとの戦いと、ピュタゴラス派に対する反乱
 ピュタゴラスによって、繁栄をもたらされたとされるクロトンは、シュバリスとの戦いに勝利する。諸資料はこの事件とピュタゴラスを結びつけている(ただし、ヘロトドスにはピュタゴラスの名前は出てこない)
 
資料 ヘロトドス「歴史」5-44 
 シュバリス人の語るところによれば、この頃テリュスを王に戴いたシュバリスが、クロトンの町を攻めようとしていたが、それに恐怖を来たしたクロトン側は、ドリエウスに救援を乞い、その援助を得ることに成功し、ドリエウスはクロトン人と共にシュバリスを攻撃し占領したのだという。・・・クロトン人の言い分では、エリス出身の予言者で、イアミダイ一門の出であるカリアス独りを除いては、対シュバリス戦において彼らが援助を得た他国人はいない。
 
デイオドロス『世界史』12-9
 エポロスが言うところでは、シュバリスの人たちの中にテリュスという民衆扇動家がいて、町の有力者たちを告発し、市民たちのうちでもとくに裕福な人たち500人を追放して,彼らの財産を没収するようにシュバリスの人たちを説得した。追放された者たちがクロトンにやって来て、アゴラの中にある祭壇へ逃げこむと、テリュスは、クロトンの人たちのところに使節を派遺し、追放者たちを引き渡すか、さもなければ戦争を覚悟せよと通告してきた。民会が召集されて、救いを求める者たちをシュバリスの入たちに引き渡すべきか、それとも自分たちより強い国を相手にしての戦争を受けてたつべきかについて協議されたが、議会も民衆も策に窮して、最初のうちは大多数の意見が、戦争を嫌って嘆願者たちの返還に傾いた。しかし、その後、哲学者ピュタゴラスが嘆願者たちを救うように助言すると、意見は一変して、嘆願者たちの救援のための戦争を受けてたつことになったのである。30万ものシュバリス軍がこちらへ侵攻してくると、クロトンの人たちは、10万の兵でこれに対抗し、指揮官に体育競技者のミロンをたてたが、彼は身体的な力において抜きんでいたために、自分に向けられた兵たちを最初に敗走させたのである。というのも、この男はオリュンピア競技で六度も優勝しており、その体つき匹敵するだけの武勇を備えていたが、オリュンピアの花冠を頭に戴いて、ヘラクレスの装いさながらに、獅子の毛皮と梶棒を身につけて、戦いにのぞんだということであり、これが勝利の原因となって、彼は市民たちの間で讃嘆されたと言われている。クロトンの人たちは,怒りのあまり、だれひとりをも捕虜にすることを望まず、敗.走のおりに自分たちの手に落ちた者たちを皆殺しにしたので、かなり多くの人たちが切り殺された。さらにクロトンの人たちは、その国を略奪して、完全に無人の町にしてしまった(前510年)
注、六度の優勝とは、第62回から第67回までのオリュンピア祭期(前532-512年).
 
イアンブリコス「 ピュタゴラス伝
 トラエイス河のほとりで30万もの兵に打ち勝った自分たち(クロトン人のこと)
 
イアンブリコス 「ピュタゴラス伝
 ところで、ピュタゴラスの留守中に陰謀が企てられたことについては、すべての人の意見が一致しているが、その時の旅行先については違っていて、ある人たちはピュタゴラスがシュロスのペレキュデスのもとに赴いたと。また、ある人たちはメタポンティオンに赴いたと言っている。また、陰謀の原因については、一つより多くの原因が語られており、その一つがキュロン党と呼ばれる人たちによってなされた以下のようなものである。クロトンの人キュロンは、生まれと名声と富にかけては市民の中でも随一の者でありながら、他方において、その性格は気難しく、乱暴で、騒々しくて、潜主的なところがある人物であった。そのために、ピュタゴラス的生活にあずかることに非常な熱意を見せて、すでに老齢であったピュタゴラス自身のところにやって来たときにも、いま述べた理由から不適格と見なされた。このことが起きてからは、キュロンも彼の仲間たちも、ピュタゴラスとその弟子たちに対して激しい戦いを始めた。キュロン自身や彼に味方する人たちが抱いた対抗心たるや、非常に強烈で度を越していたために、最後のピュタゴラス派の人たちにまで及んだほどである。このことが原因で、ピュタゴラスはメタポンティオンヘ去り、その地で生を終えたと言われている。一方、キュロン党と呼ばれる人たちは、ピュタゴラス派の人たちと争って、あらゆる敵意を示すことをやめなかったが、それでもしばらくの間は、ピュタゴラス派の入たちの気高い性格と、国制に関することはピュタゴラス派の入たちによって治めてもらいたいという、国々みずからがもっていた願いとが、優勢を保っていた。しかしついに、彼らはこれらの人たちに対して陰謀を企てて、ピュタゴラス派の人たちがクロトンのミロンの家で会議し、国事について検討していたときに、その家に下から火を放ち、アルキッポスとリュシスの二人を除いた人たちを焼き殺した。この二人は、いちばん年も若く、いちばん力も強かったので、なんとか外に逃れ出たのである。こんな事件が起こっていながら、国々はこの起きた災難について何ひとつ語ることをしなかったので、ピュタゴラス派の人たちはこれらの国の世話をすることをやめた。こういう結果になったことには、二つの理由があった。ひとつは国々が彼らを軽視したこと(すなわち、こんなにひどい、こんなに大きな災難が起きていながら、これにまったく注意を払わなかったこと)でありひとつは指導するにふさわしい入たちが亡くなってしまったことである。死を免れた入たちのうちで、二人はともにタラスの人で、アルキッポスのほうはタラスヘ帰り。リュシスのほうは軽視されたことを憎んでギリシアヘ立ち去り、ペロポネソス半島のアカイアで過ごしたが、後に(テバイの人たちから)引熱心に乞われて、テバイに移住した。かの地では、エパメイノンダスが彼の弟子となり、リュシスのことを父と呼んだのである。このようにして彼は生涯を終えた。残りのピュタゴラス派の人たちは、レギオンに集まり、そこで一緒に暮らした。しかし、時が経過して、政治が悪化してくると、タラスのアルキッポス以外の入たちはイタリアの地を去った。そのうちでもっとも優れた人物としては、パントン、エケクラテス、ポリュムナストス、ディオクレスといった人たち(以上はプリウスの人である)またトラキアのカルキスの人たちの中ではクセノピロスという人がいた。ところで、その学派は衰えていたけれども、彼らは、気高く生を終えるまで、はじめの頃からの慣習と教えとを守ったのである。以上は、アリストクセノスが語っていることである、一方,ニコマコスは、その他の点ではこれらの話と同じことを言っているが。ただこの陰謀事件が起こったのは,ピュタゴラスが外遊していたときであったという。
 
ポルピュリオス 「ピュタゴラス伝」
ディカイアルコスやより正確に記録している人たちによると、ピュタゴラスもその陰謀事件の現場にいたということである.
 
ポリュビオス 「歴史」
 ところで、いましがた述べられたような政策に関する事柄や独自の国制は、ずっと以前からアカイア人たちが有していたものである。イタリアの中でも当時マグナ・グライキア呼ばれたこの地域で、彼らがピュタゴラス派の入たちのいくつかの集会場を焼き払ったときのことであるが、これに続いて、各国からこんなに突然に主だった人たちが殺害されたのであるから、当然なことであるが、国制の全面的な変革が起きた。その結果、かの地方にあるギリシア入諸国家は、殺致と内乱とありとあらゆる混乱で満たされることになった。そのとき、ギリシアのほとんどの地方から、調停を目的とした使者が派遣されたけれども、当時の不幸を終結させるために、国々が頼ったのは、アカイア入と彼らが受けていた信用であった。
 
 諸資料の説明は、混乱していて一貫した解釈は難しい。しかし、シュバリスとの戦争の後。ピュタゴラス派にたいする反乱は二度あり、一回目は戦後すぐであり、二回目はBC5世紀半頃である(リュスシはBC379年に死んでいるし、エパメインノンダスBC410頃-362)と推測することは可能である。いくつか問題となる所をあげる。
*第一回目の迫害(反乱)の時に、ピュタゴラスがのときにその場所にいたかについては、アリストクセネス、ニコマコスはいなかったとし、ディアルコスはいたとする。さらにディアルコスは、ピュタゴラスは現場にいて「ロクロイ、タラス、メタポンティオンに逃れて、その郊外のムーサの神殿に逃れ、そこに40日間留まり食料がなくなり死んだ。または友人らを失ったために落胆して自殺した」という。しかし、ニコマコスが報告する「ピュタゴラスがペレキュデスの埋葬のもとに赴いた」ということは年代的につじつまがあわない。大部分の証言は次のアリストテレスの断片によるもの「アリストテレスの言うことには・・・ピュタゴラスに反乱がおこることを予言した。それだからこそ、誰にも見られずに、メタポンティオンへ去った」
諸資料より、ピュタゴラスはメタポンティオンに逃れそこで没したとしてよいのではないかと思う
*アリストクセネスによれば、キュロン及びキュロン党のピュタゴラス派に対する迫害は、最後のピュタゴラス派まで及ぶが、キュロンの個人的な恨みによるものとされているが、次の資料のようにアポロニオスによる報告は、政治的・社会的な原因とされている。さらに、貴族階級だけでなく民衆階級の不満であるとされている。
イアンブリコス「ピュタゴラス伝」
「クロトン人が自国の土地だけを持ち、ピュタゴラスが居た間は、建国以来の法制が変えられずに維持されていた。とはいえそれには不満があり、変革の機会がもたれていたのである。しかし、シュバリスを征服して、ピュタゴラスが立ち去ってしまうと、ピュタゴラス派は多くの人々の希望に反して占領地を分配しないことにした。そこで沈黙させられていた憎悪が爆発し、人々はピュタゴラス派から離れた。反抗の指導者となった人々はピュタゴラス派と血縁や交友の深かった人々であった。その理由は、彼らにも、普通の人々にも、ピュタゴラス派の行動が他の人々と比べて特異である点で不快であったことだった」
 
イアンブリコス「ピュタゴラス伝」
「キュロンとニノンはピュタゴラス派を非難した。キュロンは貴族階級、ニノンは民衆階級出身であった」その後「市民が徒党を組んで攻撃する狼狽におよんだ」

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