数の起源については、SMITHのHistory of Mathematics(DOVER)p6ー14に次のように簡潔にまとめてある。

初期の努力(p6)

 原始的な野蛮人たちが数字の名前を発達させ始めたとき、その過程はゆっくりしたものであった。彼らにとって必要なことは単純なことであった。家族の大きさ指摘したり、敵の人数を数えたり、同様の小さな数字の使用。それらが彼らの貧弱な生活で数学を必要とするすべてであった。狩猟生活から牧畜へとかなりの程度移行した後でさえ、数字は世界の生活の中では小さな役割しか演じていなかった。貨幣の発明は、まだ、数千年も後のことであった。そして、そうした交易の媒介なしには、私たちの算術の大部分は消滅してしまっていただろう。牧夫は羊の一匹がいなくなったことは羊の群を数えることができなくても、知ることができただろう。犬でさえ同じことはできただろう。この点においては、人間と犬の必要性はまったく同等のものである。人類が誕生してから長い間、2とか3とかの単純な数字で、人の群(lot)、かたまり(heap)、群衆(crowd)、(魚の)群れ(school)、(猟犬の)群れ(pack)や羊の群(flock)のような、衆多名詞で表せないすべての目的のためには十分であった。有名な、数を数えることを教えられる前に、自分の指を観察することから数字の知識を得た聾唖の少年の例が示しているように、数の観念は話し言葉の発達を待つ必要はない。それで野蛮人は二を越える数字の名を知らなくても三を認識できるのかもしれない。

数字と言語(p6)

 しかしながら、一般には、数の感覚の発達は、数の言語の成長と歩調を同じくしている。そして、この言語は先の世紀[19世紀]にずっと研究されてきた未開人たちの低いタイプの言葉から推論できる。例えば、オーストラリアの原住民の言語を三十選んでみても、その数詞は決して4を超えることはなく、それらを使っている種族は、数を数える基盤として、片手の指の数を認識するところまでもいっていない。多くの場合、数字の名前としてあるのは、1と2だけである。一般に、2を超えるすべてのものは、「たくさん」あるいは「いっぱい」と表現される。これらの特殊な言語はあまりにも貧弱で、基数詞だけが存在して序数詞は知られていない。しかし、この語彙の欠如はオーストラリアの原住民の言語すべてがそうというわけではない。なぜなら、ある言語地域では、数詞が15あるいは20まで存在するから。さらに、人類学者たちの報告には疑いをはさむ余地がある。第一に、それらは必ずしも原住民自らによる正しい情報とは限らないからである。また、数の名がないということが原始的な未開の種族たちが2や3をひとまとめにした名を持っていないということには、必ずしもならないからである。後者の考えの例証が、大洋に住むネグリトの一種族であるアンダマンの場合に見られる。彼らには数の名は1と2しかないが、彼らは次のようにして10まで数えることができる。いずれか一方の指先で鼻を軽くたたき、小指から始めて「ひとつ(ubatul)」「ふたつ(ikpor)」と数え、その後は「そしてこれ」という意味の「anka」という言葉を繰り返して数えていく。両方の手を数え終わると両手を合わせる。それは 5+5 を意味し、「すべて(arduru)」という言葉が話される。別の例を挙げると、クイーンズランドの種族であるピッタピッタ(Pitta-Pitta)は数体系を持たずに手と足の指を数えることができるが、砂に印を付けることによってである。しかし、オーストラリアのほかのさまざまな地域では、原住民たちは片方の手の指の数については通常不明確である。

ものの数え方(p7)

 低い知性のほかの種族から判断して、原始人は数えるものを一つ一つ指さすことによってだけ数を数えることができただろう。ここでは、初期のあらゆる民族の度量法の場合がそうであったように、ものがすべてにわたって重要である。その習慣は、foot、ell、thumb、hand、span、barleycorn や furlong(furrow long)のような単位の使用に見られる。時の経過と共に、そうした用語は初めの意味を失い、抽象的な単位として私たちは考えるようになっている。同様に、数を数えるのに用いられた原始の言葉は、最初は具体的なものと結びつけられていたが、数千年の年月の経過と共に、抽象的な段階に達し、具体的なものはほとんど意味を失ってしまっている。実際、この変質はその効果が余りにも完全なので、それを可能にするのにどれほど大きく人間精神が発達したのか、私たちが正しく認識するのは困難である。「七」と私たちは言うが、私たちはもはや、何かあるものを考えてはいないし、数を数えるのに、そうしたものを必要としていない。果てしなく続く数のつながりの中の一つの言葉、つながりの中の「六」のすぐ後で、「八」のすぐ前に来る言葉として考えている。しかし、マレー語やアズテク語では、数の名は文字通り「一つの石」「二つの石」「三つの石」などを意味している。一方、南太平洋のニウエ(Niues)語では「一つの果実」「二つの果実」「三つの果実」を用いるし、ジャワ語では「一つの穀物」「二つの穀物」「三つの穀物」を用いていて、これらすべては具体的なもので数を数える段階の名残である。ズールー族は「六」という数字を表現するのに「親指を取る(tatisitupa)」という。これは、左手のすべての指を数えて右手の親指から始めた」という意味である。「七」は「彼は指さした(u kombile)」と言う。指さすのに使う指に達したという意味である。世界が数を数えるのにものを使ったり、数える手助けとしてものを用いたりするのをやめた後、数字の名を無限に発達させる可能性が生まれた。そして、そこから時の経過と共に、数字を分類したり、何らかの簡単な計画に基づいて数字に名前を付けたりする必要性に迫られることになる。

数体系の底(p8)

 基本的に、数の名の数え方は、名前そのものは同じではないにしても、すべての民族は同じようなものであったろう。いくつかの数が底として、すなわち数を数える基として選ばれた。10と言うのは、私たちが指を十本持っていることから、広く好まれた。それで私たちは、10を基にして数えている、あるいは十進法を使っている、という。しかし、10は、原始の時代に用いられた底ではなかった。最初に使われたのは、2である可能性が高い。「一、二、二と一、二が二つ、たくさん」と数えるクイーンズランドのあの原住民たちのように。彼らは、4より大きい数字すべてを表するものとして、「たくさん」あるいはそれによく似た言葉を用いている。同じような数え方は、アフリカのピグミーにも見られる。彼らは「a,oa,ua,oa-oa(2ー2),oa-oa-a(2-2-1),oa-oa-oa(2-2-2)」などと数える。この習慣の名残は、braces,couples,pairs,casts で数えたり、上図(図省略)で示されたような、初期シリアの数体系の中に見られるだろう。

初期の進法(p9)

 初期の数え方について言うと、2よりも3を底とした方が、容易に証拠を見いだせる。3で大きな数字、その数字を越えるとすべて単に「たくさん」であるという意味を表すのに3を用いた様々な例がある。ラテン語で ter felix (三倍幸せである)といえば「とても幸せである。」の意味であり、ギリシア語で trismeg'istos(τρισμεγιστοs)(三倍一番大きい)といえば「飛び抜けて大きい」の意味である。英語では Thrice is he armed that hath his quarrel just. と言うし、これに関連するフランス語には tres bien がある。3のこれによく似た用法は、時折、未開の民族の間に見られる。たとえば、タスマニアの現地民たちは、「一、二、たくさん」と数える。三進法は、いくつかの例に現れる。ティエラ・デル・フエゴの部族であるヤーガン族(Yahgan Fuegians)は、数の名を「kaueli,kombai,maten,akokombai(他の二),akomaten(他の三)」と数える。アフリカのデマラ族(Demaras)は、三を越える数の名を持っていないと報告されている。それで、その数(3)は、おそらく、3以上の数を数える必要のある時には、おそらく底としての役割を果たしていただろう。初期の数記法のいくつかは、古代のフェニキア人の数え方のように、原始の時代の三進法的な数え方の思い起こすことができるように、三つずつのグループに印をまとめていた。
 また、4も大きな数を意味し、一種の底のように使われてきた。それで、ホラティウスは、ter quaterque beati(三倍また四倍祝福された)人々のことを語っている。しかし、底として4が用いられたよりいっそう明白な痕は、ある南アメリカの部族の中に見いだせる。そこでは、一、二、三、四と数えはじめ、四と一、四と二などのように、人々がただ必要とする限り、数えていくのである。

五進法(p9)

 広く用いられることになった最初の進法は、五進法であった。2や3,4は、人類にとってかすかな試みにすぎなかった。人類がかなりの大きさの数を数えるための根拠が必要とされるようになるとすぐに、手の五本の指が用いられるようになった。一般に、左手が用いられ、右手の人差し指で数える物を指さしそれから指をさす。これを五本の指を数えてしまうまで繰り返し、それからまた同じことを、時々小石や棒きれを使って五つごとに印を付けながら繰り返す。ある南アメリカの部族は、一つ、二つ、三つ、四つ、手、手と一、手と二という風に数えることが観察されている。マンゴ・パーク(Mungo Park 1771-1806)は、アフリカの部族の一つに、同じような体系を見いだしているし、パラグアイのある地域では、5は「片手の指」、10は「両手の指」、20は「両手両足の指」と呼ばれている。かなり詩的な表現として、カリブの部族の一つは、10のことを「両手の子供たち」といっている。私たちのそれほど詩的でない言語でも、小さな数字(1,2,3,4,5,6,7,8,9,0)のことを digits (digiti = 指)といっている。シベリアのユカギール(Yukaghirs)族の場合のように、より原始的な進法が五進法と混同されることも時々ある。この人々は、「一、二、三、三と一、五、二つの三、もう一つ、二つの四、一つ足りない十、十」と数える。同様な進法の混同はしばしば見いだされており、実際のところ、私たち自身の言語(英語)でも、12の数字まで特別な名前を持っており、その後英語で言えば thirteen (3,10) で十進法に戻っているように思える。

十進法(p10)

 六進法から九進法までは、ほとんど痕跡が残っていない。人間が片手の指の助けを借りて、数を数えることができるということを発見するとすぐに、両手の指を使うようになり、十進法を作り、また、手足の指を使うことにより、二十進法を・み出したのは自然のことに思われる。しかし、時々、それ以外の進法の痕跡が見いだせる。アフリカの西海岸のボラン族やブラマン族が、6を底として数を数えているように。この底の名残は、南ブルターニュでも見られる。そこでは trioueek(三つの6)は、今でも18の意味で使われている。
 十進法が広く採用された一つの理由は、そうした底を使うと、数字を書くさいに、少しの数字で事足りるということである。それは、八進法や十二進法でも同じように便利である。しかし、一番重要な理由は、人間の手の指が十本であるという事実である。いつ世界がこの十進法を採用するようになったか、知る方法はないのだけれど、その[十進法が使用されている]地理的に広い領域を考えてみると、人類が全般的に移動をする以前のことであったに違いないと信ずるようになる。70以上のアフリカの言語を調べてみると、十が底としてどの場合にも用いられており、これは、直接指の本数によったものかもしれないけれども、共通の言語的起源によると考えることも同じように可能性がある。十進法の起源は非常に遅く、五進法が捨て去られたその後すぐのことである、というおもしろい説がある。この説は、ホメロスやアイスキュロス、プルタルコス、アポロニウスが数を数えるの意味で、 pempa'zein(πεμπαζειν,文字通り「五にする」の意味)という単語を使っていたという事実によるものである。しかしながら、この推測は十進法の採用をあまりに遅くとらえるので、他に知られた事実を説明できず、まじめに考える価値はほとんどない。にもかかわらず、そうした五進法の痕跡は五進法そのものは捨てられた後も長く生き残っていたことは、確かである。

十以上の進法(p11)

 イタリアでは、初期のエトルリア人たちが十進法と二十進法を組み合わせて使っていたように思える。私たち(英語)の祖先が two score years and ten とか two score and twelve と言っていたように。しかし、ローマ人たちにとっては、十が一般的に数を数えるときの唯一の底であり、オウィディウスの詩片が証言しているように、大いなる名誉が与えられていた。

  一年とは、月が十回満月になるときであった。
  この(十という)数字は、当時大いなる名誉が与えられていた。
  ・・・なぜなら、私たちが数を数えるのに常に用いる指の数であるから。
  [Annus erat, decimum cum luna receperat orbem;
   Hic numerus magno tunc in honore fuit
   ...quia tot digit, per quos numerare solemus.
                     Fasti, III,121]

 十二進法が、世界の様々な地域で先史時代に好まれていたと信ずるに足る理由があるが、主として度量衡の関係であった。十二進法は一年の月期(lunation)の数で決められたのかも知れないが、疑いのないのは、2、3、4と言う数字によって割り切れ、単位分数を扱いやすい数字であったことだろう。これは魅力的なことであった。それが広く用いられていることは、1フットが12インチ、古代のポンドが12オンス、1シリングが12ペンス、1インチが12ライン、そして1ダースが12であることから知られる。すでに述べたように、私たち自身の(英語の)数の数え方に十二進法の痕跡が見られる。というのは、10まで数えると、数は普通の十進法の数え方をしないで、oneteen, twoteen と言わないで eleven, twelve というから。別の痕跡は、古いフリースランドの言語にも見いだせる。それは、120を twelvety(tolftich)と言う。さらに他にも痕跡はヨーロッパ各地に見られる。

二十進法

 二十進法―the vigesimal あるいは vicenary scale―は、先史時代、まれというわけではなかった。それは、人類が裸足で生活していた時代の名残であり、その時、人類は手の指と共に足の指を使って数を数えたのである。その痕跡は、今日でもマレーの言語に見られるが、早い時期に、熱帯地方から遠く離れた世界の各地に伝えられた。ある時代、古代ケルト人に好んで用いられたことは、現代のフランス語の用法から明らかである。たとえば、80を huitante といわずに quatre-vingt(four-twenty, for four twenties)、90を nonante といわずに quatre-vingt-dix(four-twenty-ten)といったり、また120を six-vingt, 140を sept-vingt, 160を huit-vingt という言い方、また quinze-vingt という言い方があるように。さらにゲール語では51を「一、十と二つの二十」と、デンマーク語では50を「20の二倍と20の三倍の平均(すなわち (2+1/2)×20)」と、ウェールズ語では36を「二十より一と十五大きい数」と、またブルトン語では71を「十一と三つの二十」言ったりする用法に痕跡が見いだせる。ユカタン半島のマヤ文明とメキシコのアステカ文明には二十を基調とした精巧な体系があった。またグリーンランドの住民はそれほど精密な体系では全くないけれども、20を「一人の人間」、40を「二人の人間」などと表現している。同様の用法がオリノコ川流域のタマナク族(Tamaancs)の間にもあり、二十を「一人の人間」、二十一を「次の人の手の[指の]一つのように言う。その他様々に二十進法が用いられた証拠のうち、アフリカのヴェイ族(Vey)に用いられたものに触れておこう。この体系では、16は 10+5+1 というように19まで数える。その後、99まで二十という数字が主役になる。つまり、30は 20+10, 40は 2×20, 50は 2×20+10, 70は 3×20+10, 99は 4×20+10+5+4 となる。

英語のscore(p12)

 私たち自身の言語(英語)では、score がきわめて普通に用いられ、私たちの祖先が二十を基にして数を数えるのを好んでいたことを示している。欽定訳聖書は、ほんの三世紀前、この言葉がいかに一般に用いられていたかを示しており、それ以前にはさらにいっそう口にされていただろう。この一つの例は、「アーサー王の死(Morte d'Arthur)」として知られている古代の詩の中に見いだせる。「Att Southamptone on the see es sevene skore chippes,(海に面したサウザンプトンには140隻の船がいる。)」のように。また、さらに、フランス語の影響が見られるが、1331年スコットランドの大蔵省の会計報告書の項目の中に、総計£6896 5s.5d.が次のように書かれているのが見いだせる。

     m    c    xx
     vj    viij    iiij   xvj     ij     vs     vd

 20が、かつては数えられる限界であったということが、限りなく大きな数字を表すのに"score"を使う私たち[英語]の用法から推論されるかも知れない。たとえば、"a score of times"という表現やフランス語の "vingy"のよく似た用法など。
 これと関連して、私たちは十のように数体系の基盤を形成しているわけではないのだけれど、一種の底として特別な数を使っているある民族の間に、先史時代の習慣のようなものを考えることもできよう。こうした習慣の例の一つは、"forty days and forty night"のような、40の聖書の用法に現れている。また、同様の例は、マルケサ諸島の住民(Marquesas Islanders)やハワイ人の言語の中にも見いだせる。
 原始の人類が、どの程度の数体系を持っているかと言うことは、もちろん、彼らの必要性によって決定されるだろう。たとえば、オーストラリアの原住民たちは、交易をすることがほとんどなかったので、数字の名は2,3,4だけで十分だと感じていた。また、ホッテントット族は5で十分だった。パプアの民族の中で、パライド(Paraido)族は10まで数えるが、ずっと奥地に住んでいるパウウィ(Pauwi)族は、それほど数字の必要性がないことから、5で十分であった。しかし、家畜の群を飼っていたカフィール(Kafirs)族は、百、それ以上数えることができるし、ヌビア人やアビシニア人たちは、より高度な文明を表現するのに、千あるいは百万まで、ヨーロッパの明らかな影響もないのに、数えることができる。同様の理由から、ポリネシアの言語の一つは、数千まで数の名称を持っている。ヒンドゥー人は、半ば宗教的なことで大きな数が必要であったため、ヴェーダの書物から明らかなように、初期の段階で、実際には無限ともいえる、古代の人々の中で最も広範囲に及ぶ数体系を発達させていた。一般に、数字については、原始の生活において、数字が必要になるにつれて、数学が発達したと言うことができるだろう。

さて、現在使われている、十進法の位取り記数法においては、空位の0が必要である。ゼロはいつ発見され、現在アラビア数字と呼ばれている数字の起源と伝搬については、吉田洋一の「零の発見」が有名だが。カジョリが指摘しているように諸説があり不明な部分があるが。一般的には「インド数字は、インドから東アラビア(首都バクダッド)へ伝わり、東アラビアから西アラビア(首都コルドヴァ)に伝わりローマに伝わったと考えるのが妥当である」(大矢真一他「数字と数学記号の歴史」p23)。この伝搬について「数字の歴史」(平凡社)により年表まとめると。

紀元初頭の数世紀 1から9のインド数字はまだ位取りの規則には立脚していないと思われる時期
458年8月28日 ジャイナ教の文献「ローカヴィバーガ」の日付。この著作にはサンスクリット語の「数象徴語」を用いた最古の資料で、その用法はゼロの完璧な概念と十進法に従った位取りの規則を含んでいる。
510年ころ インドのアールヤバタの著作。これは数象徴語の二つの使用例があり、そのうえ位取りの原理とゼロについて明確に示唆している。
575年ころ サンスクリット語の「数象徴語」、インドの天文学者ヴィラーハミヒラによって(ゼロとともに)かなり豊富に用いられている。この時期からこの方式はインドの天文学者と数学者の専門的な方式となる
595年 位取り原理に従った9個の数字の用法が認められるインド最古の金石文(寄贈に関する銅板証書)の年代。この新しい方式(使われた記号は9個の数字を予告する)は現代のものと同一の構造による十進記数法をなす。
598年 カンボジア最古のサンスクリット語による碑文の年代(シャカ歴520年代というゼロと位取り原理に従ったサンスクリット語の「数象徴語」を用いて表現されている。
628/629年 インドの天文学者バースカラ1世は、サンスクリット語の「数象徴語」による位取り方式のほかににゼロ記号と9個の数字も用いている。インドではすでに十進法の位取り記数法とゼロ記号が完全に確立している。
7世紀 シリアのアルファベットによる記数法が出現
662年 9個の数字を用いたインドの計算方法についてのシリア主教セヴェール・セボクトの証言
683年 インド起源の9個の数字とゼロを用い位取り原理に従った方法による年紀のあるクメール(クメールはカンボジアの一部族)の古い碑文。
683/686年 古マレー語で記され、インド起源のゼロと9個の数字で年紀が付けられた碑文
687年 位取り原理に従った数の記号で表された年紀を含むチャンバの古いサンスクリット碑文
718/729年 インド人で中国に定住した仏教徒の天文学者が、インドの9個の数字を用いた計算方法とゼロを書き記す。
732年 位取り原理に従った数の記号で表された年紀を含むジャワの古いサンスクリット碑文
760年 インド起源の9個の数字とゼロを用い位取り原理に従った方法による年紀を含むジャワの土語(カヴィ方式)の古い碑文
8世紀 アラビアのアルファベットの記数法が出現
8世紀 中国の十進法の位取り記数法(算木)にインド起源のゼロが出現
8世紀末 イスラムにインドの十進法の位取り記数法とゼロが導入される
813年 インド起源の9個の数字とゼロを用い位取り原理に従った方法による年紀を持つチャンバの土語による古い碑文
875/876年 ゼロとナーガリー文字の9個の数字を用いて表された数記載を含む最古のインド石碑文
9世紀 マグレブとスペインのアラビア人の間で、ゴバール(その記号の字体は中世ヨーロッパの、そして現代の数字を予告する)といわれる数字が出現
976/992年 非イスラムのスペインから出た二つの写本がゴバール型に近い形の9個の数字の字体を示している。こらは(アラビア)数字の使用を確認できるヨーロッパ最古の文献
10〜12世紀 ヨーロッパの計算係は、シュベールやその弟子たちが改良した列のある計算版で計算した。シュベールらは(インドアラビア)起源の9個の数字を一つずつ彫った骨角製のコイン(アクベス)を用いて計算した
12世紀 西洋へのゼロの記号の導入。ヨーロッパの計算係は桝目を用いず、砂上に9個の数字とゼロを書きながら計算するようになり、これがアルゴリズムの出現となる。これ以降(アラビアの数字の字体は安定する。
13〜14世紀 数字を用いた紙上でのペンによる筆算が西ヨーロッパで出現
15世紀 ヨーロッパにおいて(アラビア)数字の使用が一般化し、しだい規範かする。

注、これらの中のいくつかの数字は、カジョリ「初等数学史」(p18)にあげられている。

注、アルゴリズムについて
  773年にひとりのインド人がバクダッドの都に「インド式の数字と計算術を伝えた」。これをアラビア語で紹介したのが、ムハンマド・イブン・ムーサ・アル・フワーリズムの著書「インド式算術による加法と減法である。この本によってヨーロッパの人びとはインド式の算術を知った。この本は、十字軍遠征をきっかけに、12世紀以降、くりかえしラテン語に訳された。ムハンマド・イブン・ムーサ・アル・フワーリズムのラテン名である「アルゴリズム」が、そのままヨーロッパにおけるインド式算術の名称になった。1200年頃ラテン語で書かれた「アルゴリズムの詩」という本には次のように書かれていたという。「われわれが、5かける2個のインド数字で行っているこの術を、アルゴリズムという」(「数の歴史」平凡社)また、初めてゼロを数字と認識した書物である。 

注、負の数も同じようにインドで6〜7世紀に生まれた。これは借金を負の数で表したもの。ヨーロッパでは15世紀に負の数が現れた。しかし、17世紀のデカルトでさえ、方程式の負の解を「偽の解」と呼んだほど、理不尽な数と考えられていた。

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