タレスの旅

シケリアのディオドロスの「歴史」によれば、ホメロス、ソロン、スパルタのリュクルゴス(立法者)、プラトン、サモスのピュタゴラス、エウドクソス、オイノビデス、デモクリトスなどが、エジプトに行き、さまざまな知識を得たとされている(1−96、98)。さて、ディオドロスの資料には、タレスの名がないが、プルタルコスは、「ソロン、タレス、プラトン、エウドクソス、ピュタゴラスある人のいうところによれば、スパルタの立法者リュクルゴスもそうで、これらの人たちはエジプトをた訪ねて祭司たちと交わったといいます」(イシスとオリシスの伝説について)。このようにギリシア人の知識の源は、エジプトであると考えられていたようである。以下に述べるように実際にそうであった。数学的・天文学的なものに関しては、プラトンやストラボンは次のよう語っている。

資料、プラトン「パイドロス」247C
「エジプトのナウクラティス地方に、この国の古い神々のなかのひとりの神が住んでいた。この神には、イビスと呼ばれる鳥が聖鳥として仕えていたが、神自身の名はテウトといった。この神様は、はじめて算術と計算、幾何学と天文学、さらに・・・将棋と双六などを発明した神であるが、とくに注目すべきは文字の発明である。
、テウト・・・ヘルメスに当たる発明の神
 
資料、ストラボン(BC64/3〜AD24以降)「地理書」
「一年(の真の長さ)とか同様な他の多くのことどもは、そのときまでギリシアの人の間に知られていなかった。それが知られるようになったのは、後の天文学者、エジプト人の神官たちの覚え書きをギリシア語に訳した人びとから、それらのことを学んだからである。これらの学者は今日でもなお、このエジプト人の記録やカルデア人の書きものから、多くのものを得つづけている」
資料、プラトン法律」817E〜820d
自由民はこれらの諸学科について、少なくともエジプトでひじょうに多くの子供たちが読み書きとともに学ぶ程度のものは、学ぶべきだといわなければなりません。まず算数に関して、文字どおり子供たちのために遊び楽しみながら学ぶように工夫された勉強があります。たとえば一定数の林檎(玩具の羊)や花冠を、多くの数の子供たちや少ない数の子供たちに分けることや・・・・こうして・・・基礎的な数の使い方を遊びのなかに組み入れ、それを学ぶひとたちに、軍隊の編成、指揮、行進、また家政のも役たたせ・・・・

資料、プラトン「カルミデス」への古注
計算術は、いわゆるギリシアとエジプトの方法、分数の乗法、除法、加法、減法を含む。・・・林檎や(水や酒)を入れる器の問題・・・

根本的な資料は、次のプロクロスのものである。これはエウデモスの「幾何学史」によるものとされている。

資料、Puroclos「幾何学者列伝」、DK11ーA11   
多くの人びとが語っているように、幾何学は最初エジプト人によって発明され、土地を測量することから生じたのである。なぜならこの土地の測量は、ナイルの増水が各人に所属している境界を消してしまうゆえに、かれらにとって必要なものだったのである。・・・幾何学はエジプトにおいて発明されたのである。タレスはエジプトにやってきて、この学問(幾何学)を初めてギリシアにもたらした。彼みずからも、また多くのことを発見したが、ある人びとにはより一般的な仕方で、他の人びとにはより感覚的な仕方で多くのことの原理を後継者たちに伝えた。

こらは次の、ヘロトドスの記述によるものと思われる。

資料、ヘロトドス(BC484〜425)「歴史」
 王(ギリシアでは、セソストリスと呼んだ、BC1878年に即位したセンウセルト3世)が国土を運河で切り刻んだのには理由があった。・・・祭司たちの語るところでは、この王はエジプト人一人ひとりに同面積の方形の土地を与えて、国土を全エジプト人に分配し、これによって毎年年貢を納める義務を課し、国の財源を確保したという。河の出水によって所有地の一部を失うものがあった場合は、当人が王の許へ出頭して、そのことを報告することになっていた。すると王は検証のために人を遣わして、土地の減少分を測量させ、その後は始め査定された納税率で(残余の土地について)年貢を納めさせるようにしたのである。私の思うには、幾何学はこのような動機で発明され、後にギリシアへ招来されたものであろう。現にギリシア人は、日時計、指時針(グノーモーン)、また、一日の十二分法をバビロニア人から学んでいるのである。

エジプトの「リンド・パピルス」は、計算法、いろいろな容器の穀物の量、パンや小麦の分配、いろいろな形の面積、ピラミッドの傾斜(セケド問題)など実用的な問題の解法であ り、証明を伴うギリシアの幾何学とは別のものである。すでに、デモクラテスの時代には、数学に関してはギリシア人は、エジプトから学ぶものがなかったと推測できる。プラトンも、エピノミスで「ギリシア人は、異国の民からうけとったものを、みな最後にいっそう美しく完成する」と述べている。

資料、クレメンス(AD150頃〜215頃)「雑録集」DK68B299
彼(デモクリトス)はここでも確かに自分自身についても(書いている)。ある箇所で博識を誇って次のように言っているのである。「私こそ同時代人のうちで最も広く大地を遍歴し、最も広範囲を探究した、そして最も数多くの気候風土と土地を目のあたりにし、最も数多くの学識ある人びとの言葉を聞いた。そして、証明を付して図形を構成することにかけては未だかつて私を凌いだものはだれ一人いない。エジプト人のうちアルペドナプタイと呼ばれる者たちさえもである。(他の)すべての人びと(と交わった)後、私はこの者たちとともに80年間異国ですごしたのだが」実際、彼はバビロン、エジプトに赴いてマゴスたちや神官の弟子となったのである。
、アルペドナプタイ・・・字義どおりには網を結ぶ者、土地測量技師のこと。

タレスの出身地イオニアのミレトスによる植民(ミレトスの繁栄を裏付ける諸資料)

黒海沿岸等への植民
BC7世紀にギリシア人は黒海に進出するようになった、とりわけイオニア人によって拡大され、その中心であったポリスはミレトスである。ストラボンは「この市(ミレトス)があげた功績は多いが、一番大きな成果は植民市が多いことで、黒海全域、プロポンティス海、その他いくつもの地域に植民市を築いた」と述べている。誇張があると思われるがプリニウスはその数を90としている。

エジプトとギリシアの関わり
エジプトでは組織的な植民活動はなかったが、重要な役割を担ったには、傭兵と商人である。主な資料はヘロトドスである。彼の資料にでてくるおもな人物の年代をまず確認する。「年表古代オリエント史」より

簡単な年表・・・ギリシア人との関わりについて
BC663年・・・プサムティコス1世即位(〜610)、第26王朝(サイス王朝)成立(〜525)
        ・分裂していたエジプトを再統一
        ・ギリシアを厚遇
BC610年・・・ネコス2世即位(プサムティコス1世の子)
BC595年・・・プサムティコス2世即位(プサンミス)
BC589年・・・アプリエス即位
BC570年・・・アマシス、エジプト軍内部の反乱で、アプリエスより王位を簒奪(さんだつ)
        ・サモスの支配者ポリュクラテスおよびキュレネ軍和し、交易を促進
        ・デルタ地方のギリシア人活躍
BC574年・・・アマシス、ペルシアに対抗してリュディア・バビロニア・スパルタと同盟
BC525年・・・ペルシアのカンピュセス2世エジプトを征服、ペルシア王とエジプト王となる(第27王朝)
BC521年・・・ペルシアの王ダレイオス1世エジプトを統治

ヘロトドスが語るエジプトにおけるギリシア人傭兵の始まり

資料、ヘロトドス「歴史」(2−152〜)
プサムティコスは他の王たちから受けた仕打ちを非道なものと考えていたので、自分を放逐した彼らに報復せんものと念願していた。・・・レトの神託所に使者をやったところ、青銅の男子らが海より出現する時、復讐は遂げられん、という神託があった。プサムティコスは、青銅の人間が自分の救援に来るようなことには、大いに不信の念を抱いていたのであったが、それから程もなく、掠奪目当てで海に乗り出したイオニア人およびカリア人の一隊が、エジプトに漂着することが起こったのである。・・・神託が実現したことを悟ったプサムティコスは、このイオニア人およびカリブ人と諠しみを通じ、多大の褒賞を約して自分の味方になるようにすすめた。そして彼らの説得に成功すると、自分に従うエジプト人とこの援軍を率いて王たちを打倒したのであった。・・・プサムティコスは彼のエジプト統一に協力したイオニア人およびカリア人に土地を与えて住まわせたが、この居住地はナイルを中にはさんで相対しており、「陣屋」という名がつけられた。王は彼らに居住地を与えたばかりではなく、はじめに約束した恩賞もことごとくこれを授けたのであったが、また、エジプト人の子弟を彼らにあずけてギリシア語を学ばせた、今日エジプトで通訳を業としている者たちは、この時ギリシア語を学んだ子孫である。・・・後にアマシス王は、彼らをこの地から立ち退かせてメンピスに居住せしめ、エジプト人を措いて自分の護衛隊に抜粋した。

ヘロトドスの記述を裏付ける考古学的資料・・・アブ・シンベル(アスワンにある)に建立されたラムセス2世(在位BC1304〜1237)の巨大な像に、刻まれた落書きのなかに、BC7世紀後半のギリシア人が書き残した、ギリシア語の碑文が次の資料である。王の名前から年代が推測できる。

資料
プサンティコス王がエレファンティネ(アスワン対岸の小島)を訪れたとき、王に同行して船旅をしてきた者たちがこれを書いた。一行はケルキスを越えて、川をさかのぼれるところまで船を進めた。ポダシムト外国語を話す者たちを率い、アマシスがエジプト人を率いた。アモイビスコの息子アルコンとエウダモスの息子ペレコスがこれを書いた。

また、ギリシアに帰った傭兵の資料も現存する。それは、イオニアのプリエネ近郊の洞窟で発見された彫像である。それは、プサムティコス(1世か2世)の時代に、エジプトでの傭兵としての活躍の恩賞として、王が宝飾品とポリスを与えられたペドンという人が奉納したものである。その碑文には次のように書かれている。

資料
アンフィネオスの息子ペドンが私(この彫像をエジプトから持ち出して奉納した。このペドンに、エジプト王プサムティコスは、その武勇に対する褒賞として、黄金の頭飾りとポリスを与えた。

さらにヘロトドスは、プサンティコス王の息子ネコスが、エジプト王になり、シリア軍を破ったとき、自分の衣装をミレトスのアポロン神殿に奉納したと報告している。(後述するナウクラティスにもアポロン神殿が建設された)また、ストラボンによれば、プサンティコス1世の時代に、デルタに「ミレトス人の城壁」とういう要塞があったとしている。

資料、ヘロトドス「歴史」(2−159)
ネコスはこの偉業(シリア軍を破った)を遂げ時身につけていた衣装を、ミレトスのブランキダイへ送りアポロンに奉納した。

さて、タレスのエジプトへの旅は、プラトンが語る「エジプトのナウクラティス地方」とミレトスと密接に関係している。

商業の中心地ナウクラティス

ナウクラティスは、ギリシア人に居住が許された土地で、商業の中心地であった。ヘロトドスの報告から、プサンティコスと同じように、アマシスが、ギリシア人に居住地を与た。ナウクラティスを発見したのは、イギリス人のピートリーで、彼は1883年にカイロで偶然手にしたギリシア彫刻の発見場所を求めていたところ。古い屋敷跡の石をひっくり返したら、ギリシア語が刻まれており、そこには、ナウクラティス市民が神に捧げたものと書かれていた。

資料、ヘロトドス「歴史」(2−178)
マシスはギリシア贔屓の人で(アマシスはギリシア各地にさまざまな奉納品を献納した「歴史」2−182)、そのことは幾人ものギリシア人が彼に好意を示したことによっても明らかであが、なかんずくエジプトに渡来したギリシア人にはナウクラティスの町に居住することを許し、ここに居住することを望まぬ渡航者には、彼らが神々の祭壇や神域を設けるための土地を与えた。それらの中で最も大きく、最も有名で、かつ参詣者の最も多い神域は、ヘレ二オン(ギリシアの神社)と呼ばれているもので、これは次のギリシア諸都市が協同で建立したものである。イオニア系の町ではキオス、テオス、ポカイア、クラゾメナイの諸都市、ドーリス系ではロドス、クニドス、ハリカルナッソスおよびパセリス、アイオリ系ではミュティレスが唯一の町であった。この聖域は右の諸都市に帰属するもので、取引所の監督官もこれらの町から出ていた。従って右の諸都市以外の町でこれに参与しているものは、実は何の特権もなく外見上参与しているにすぎないのである。ただアイギナ人は独立にゼウスの神殿をそれぞれ建立しサモス人はヘラの、ミレトス人はアポロンの神殿を建立していた。
注、キオス産のアンフォラ(ギリシアの壺の一種)はこの時期のエジプトでもっとも広く観察されるギリシア系の遺物である。また、サモス産のも同様である(周藤)。また、これらの考古学的資料によると、アマシスの時代以前(神域はBC650頃、ナウクラティスのアポロン神殿はBC620頃建設)、にギリシア人はナウクラティスに居住していた(Grady)。アマシスの贈り物は、ギリシア人に特権を与えたことである(Grady)。次の資料参照。さらに、ナウクラティスでは、「ソストラトス(以下の「歴史」(4−152)参照)がアフロディア女神に奉納した」という碑文が刻まれた、キオス産のアンフォラが出土している。さらに、ミレトス産の野山羊式土器は、エジプトや東地中海の各地において出土されている。

資料、ヘロトドス「歴史」(2−179)
昔はナウクラティスがエジプト唯一の開港市で、他には一つもなかった。ナイルの他の河口に着くようなことがあると、故意のきたのではないことを誓言せねばならず、誓言した後船もろともカノボス河口へ廻らなければならなかった。逆風で船を進めることができぬ場合には、積荷を土地の小舟にのせてデルタを迂廻し、ナウクラティスまで運搬するほかなかった。ナウクラティスにはこれほどの特権が与えられていたのである。

アマシスとサモスのポリュクラテスの友好関係は、「歴史」(2−182、3−39)に描かれているが。ヘロトドスはサモスの商人のエジプトへの航海についても語っている。

資料、ヘロトドス「歴史」(4−152)
サモスの船が漂流してこのプラテア島についた。・・・サモス人はこの島を発ち東風に流されながらもエジプトを目指して航行を続けた。しかし風は弱まらず・・・彼らは、神の導きでタルテッソス(スペイン南部)に着いたここは、まだ商用地として未開拓であったので、彼らが帰国したときは、積荷によって挙げた収益が、われわれが確実な資料の基づいて知る限りにおいて、かつていかなるギリシア人も挙げたことがない膨大な額に上がった。もとっも彼らといえども、アイナギ人のラオダマスの子ソストラトスには及ぶべくもなかった。ソストラトスと肩を並べることのできる者は一人もいないからである。
参考、(1ー163)には、タルテッソスは、ギリシアのポカイア人が発見したとある

このように、ナウクラティスはエジプト唯一のギリシア商人の居留地として繁栄した。しかし、ナウクラティスだけがギリシア人の居住地だったことを意味するものではない。BC7世紀後半からBC6世紀にかけてエジプトにおけるギリシア系遺物の分布状況は、多くのギリシア人傭兵として、あるいは商人として訪れていたことを示唆している。これらの人びとによって、エジプトの思想や制度、美術や技術は古典期ギリシアの発展に大きな影響をもたらした。上記のディオドロスやプルタルコスの報告によれば、ギリシアの知識人や政治家がエジプトを訪れた。真偽は不明だが。ヘロトドスは「ソロンは、エジプトのアマシス王を訪ね・・・」(1−30)と述べている。また、プルタルコスは「プラトンはエジプトでオリーブ油を売って滞在費にあてた」(英雄伝)。なお、有名なクーロス像の様式はエジプト起原のものである。

タレスのエジプトへの旅・・・上記の当時の状況から、ミレトスとエジプトの関係は密接であり、タレスがエウデモスやプルタルコスの報告は信憑性が高いと思われる。ただしヘロトドスはタレスについて3カ所でのべているが、エジプトへの訪問については述べていない。しかし、エジプトのピラミッドの高さの計算や、ナイル川の氾濫についての説(ヘロトドスは名前をあげていないが、アエティオスはタレスのものとしている。)はタレスのエジプト訪問を示唆している。また「タレスはヒュアデス星団には二つある」(DKB2)が事実だとすると、こらはギリシアの緯度ではなく、エジプトでの緯度による観測に一致する(KRS)。また、ミレトスとエジプトの距離は770qであり、ホメロスは「オデッセウスは、クレタを出発して5日目にナイル川の河口いついた」(14−240)と述べ、ミレトスからは、東風が吹けば3日と半日で着く(Grady p257)距離である。つまり、ナウクラティスとミレトスの関係からも、距離的にも、容易に行ける環境であった。タレスが商人であったという資料からは、商用で行った可能性もある。

タレスがエジプトは行ったとする資料は、他にも、ヒエロニュモス、パンピレ、アエティオス、イアンブリコス等であるが、アリストテレスとプラトンは語っていない。なお、研究者の中でも、Guthireは「疑えない伝説によれば、タレスは自分自身でエジプトへ訪問した」(p、58)さらにバーネットは「おそらくタレスはエジプトを訪ねただろう。というのは彼がナイル川の氾濫について一説をもっていたからである」(p、72)と述べて訪問は実際に行われたとしている。「タレスがエジプトを訪れたことは十分ありうる」(KRS)。Grady(p258)は、さらに次に述べる、東方への旅が行われたとしている。

ギリシアは、他の地域との交易も盛んであった・・・この当時のギリシアにおける出土品には、さまざまな国からのものがある。例えば、シリアやメソポタミアの印章、シリアの護符、フェニキュアのスカラベ、および青銅製や銀の椀等。

タレスの東方への旅・・・東方との関係はわずかな資料しかなく、状況証拠となるものである。

ヘロトドスによると、イオニアのエペソスからサルディスまで3日間、サルディスからスサの都(メソポタミア)までは、111の宿場があり、30日間の行程であるとしている。この道は「王の道」(ROYAL ROAD)と呼ばれていた。当時、陸路で行くことは可能であった。また、サルディスという町には、ギリシアの知識人が訪れたと報告している。

ヘロトドス「歴史」(1−30)
これらの諸民族がクロソスによって征服されリュディアに併合された後、殷賑の頂点に達したサルディスへは、当時世にあったギリシアの賢者がことごとく訪れた。・・・ソロンもその一人であった。・・・(サルディスでは)王宮でクロイソスから、歓待を受けた・・

タレスと東方との関わり合いについての資料は、次のヘロトドスの報告である。

ヘロトドス「歴史」(1−74)
ある合戦の折、戦いのさなかに突然真昼から夜になってしまった。この日の転換は、ミレトスのタレスが、現にその転換の起こった年まで正確に挙げてイオニアの人びとに預言していたことであった。

日食の予告は長期にわたって連続した経験的観測に基ずいたもので、科学的なものではなかった。タレスの後継者も日食の原因は知られていなかった。バビロニアの神官たちは、宗教上の目的から、日蝕についての観測を行っていて、それはBC721年いらいつづいていた、そしてBC6世紀までには、おそらく彼らは、どこかある地点で日蝕が起こりうる場合の太陽の周行を確立していたであろう。タレスの功績がこのバビロニアの記録文書に依拠していた公算は、圧倒的に高い。これを、タレスは、ミレトスか、サルディスで手に入れたか、バビロニアで手に入れたか、全ては仮説の域をでない。さらに、カルディア人から直接学んだかもしれない。エジプトではこのような長期にわたる観測は記録に残っていない。タレスが一年間の幅をもたしているのは次の理由からだ。、神官たちは、日蝕が起こりそうだということになると、バビロニアの各地に派遣されたそうだが、予期されたことが起こらなかったこともあったという。つまり精確になデーターを予告することはできなかった。(KRS)また、サロス周期つまり、約6585と三分の一日の周期で日蝕が起こることを、BC600年ころ、バビロニア南部のカルディア人が発見して、カルディア周期と呼ばれているもがあるが、それをタレスは知っていたかもしれない。しかし後のカルディア人も正確には予知出来なかったようである。ディオドロスは「日蝕について彼ら(カルディア人)は、起こる時を正確に予測することは出来なかった」(「歴史」2−31)と述べている。タレスが予測できたのは、全くの幸運であったと思う。いずれにしても何らかのバビロニアとの関わりがあったようだ。カルディア人から学んだという資料はあるが信憑性には疑問がある。                   

資料、ヨセフス「アピニオン論駁」
シュロスのペレキュデスやピュタゴラスやタレスなどがエジプト人やカルディア人から学んで、ごくわずかな著作をしたにすぎないことは、万人が声をそろえて認めており、しかも、それらの著作がどれよりも古いものだとギリシア人は考えているが、しかし実際に彼らが書いたものだとは、ほとんど信じられないのである。

次の資料も、東方との関わり合いを示唆している

ヘロトドス「歴史」(1−75)
クロイソスはハリュス河畔に達し軍を渡河させたが、その渡河が当時かかっていた橋によったとするのが私の説であるのに対し、ギリシアで広く語られている話によれば、渡河はミレトスのタレスがクロイソスのために、軍の左手を流れていた河を右手にも流れるようにしたという。・・・しかし私にはとうていこの話は信じられない。だいいち帰りはどうして河を渡ったというのであろう。

クロイソスはリュディア王で、サルディスでソロンと会っている。また、ギリシアの知識人が訪れたとされている。そうすると、タレスが、東方のサルディスを訪問した、または、この資料から、クロイソスとともにハリュス河あたりまで行ったと推測することは可能に思われる。

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