ピュタゴラスの知(1)・・・ほぼ同時代の証言による、知識人とされる面とその源泉(ピュタゴラスの旅)
ピュタゴラスについて確実に言えることは、輪廻転生の教義のもとにおそらくクロトンで、宗教結社らしい教団において活動し、南イタリアで政治的な影響を及ぼしたことは確実に言える。(リンク2〜6参照)しかし、現代のわれわれは、ピュタゴラスと言われると、哲学者、数学者としてのピュタゴラスと思い浮かべる人は多いであろう。しかし、リンク1(はじめに)で述べたように、ピュタゴラスは哲学者、数学者であったとする学者や、その反対にただ宗教指導者であったにすぎないとする学者もいる。ここでは、この議論に決着をつけることなどは、わたしにはとても出来ないが、いったいどのような資料が現存するのかを提示したい。案外これらの資料は、われわれには知られていないであろう(私もこれらの資料を読んだことがなかった) 結論を先に言うと、時代が下がって行くほどピュタゴラスの哲学者、数学者、科学者という側面が強調されていくように思える。また、さまざまな奇談(リンク13〜15)のように、哲学者、数学者、科学者というイメージからかけ離れているピュタゴラス。これらが二つのイメージ両立しているのも不思議なことである。

ピュタゴラスとぼぼ同時代の証言

おそらく最も古く、最もよく知られているのはヘラクレイトス(BC540頃〜480頃)の断片である。
資料(DL9-1,DK22B40)
博学は見識を教えはしない。もし教えたとしたら、そらはヘシオドスにもピュタゴラスにも、さらにまたクセノパネスやヘカタイオスにも教えたであろうから
資料(DL8-6,DK129)
ムネサルコスの子のピュタゴラスは、世の誰よりも一番に探求に努めたのだった。そしてこららの書物の抜粋をつくって、自分自身の知恵、博学、詐術としたのだった
注、
ディオゲネス・ラエルティオスは、この部分はピュタゴラスが書物を書いた証拠としているが、現在ではこれは否定されている。(Burkert、p131)
注、ヘシオドスは詩人、ヘカタイオスは地理学者、クセノパネスは自分の思索を詩の形で著した。

 ヘシオドスとピュタゴラスと述べられいるのは、この当時すでに故人であり、クセノパネスとヘカタイオスは存命だったからである(DK40に対する注)これに対して、Brukertは、年代的にみて、ピュタゴラスとヘシオドスとの差は、クセノパネスやヘカタイオスとピュタゴラスの差は大きいとし、むしろその知的な部分つまり、ピュタゴラスの知はヘシオドスの「神統記」のようなものであるとしている。さらに、ピュタゴラスの探求は、オルペス文書を参照しその抜粋を作ったと推測している。(Burkert、p129−131、p210)たしかに、探求(ισποιηヒストリア)には、多数の書物を参照するという意味もある。また、キオスのイオンは「ピュタゴラスが詞を作り、それをオルペスのものとした」と述べている。ピュタゴラスの師とされているペレキュデスは「神統記」を著したとされている。
 この説に対し多くの学者は次のように主張している。ピュタゴラスはサモス島に生まれ、ミレトスにおける初期のギリシア科学と自然哲学が最高潮に達していた時代であった。同時代には、アナクシメネスやクセノパネスがいた。ミレトスとサモスは地理的に近く、ピュタゴラスは、この新しい科学と接しでいたならば、ミレトス的な宇宙論に慣れ親しんでいたであろう。(Kahn、p6)探求(ισποιηヒストリア)はもともと、観察を通して得られる知識tいう意味もある。その根拠としてKahnは上記のヘラクレイトスの章句と、ヘロトドスの次の章句を引用している。「サルモクシスは多年ギリシア人の間に存り、ギリシアでも有力な知識人であるピュタゴラスにも親しんだので、イオニアの生活に通じ・・・」また、フィロラオスの伝えるピュタゴラス派のものとされる限定される、限定されないは、もともとミレトス学派のアナクシマンドロスの説である。この説は一世紀も前、バーネットも主張し(バーネットはισποιηヒストリアは、イオニア自然学で行われていた観察に基づいた探求であるとし、ピュタゴラスは科学的な探求を行ったとヘラクレイトスの断片を解釈している。85節、97節)。最近のPhilipもつぎのように述べている。「ピュタゴラスはミレトスに行かなかったとしても(行った可能性はつよいなざなら、サモスとミレトスの間は船で数時間の距離である)ミレトス学派の説に通じ、アナクシマンドロスの書物を読む機会はあったと思われる。タレスやアナクシマンドロスは、バビロニアの数学の知識を得ていたとすると、ピュタゴラスにも同様な知識を得ていたかもしれない」(p175、p94f)

エンペドクレス(BC490頃〜430頃) 
資料(DK31B129)
 彼らの中に並はれた知識をもつひとりの男がいた。その人は智恵の最も豊かな富をわがものとして、ありとあらゆる賢い業に比類なく通じていた。・・・
十度も二十度も人間の生を受けることによって。
 
キオスのイオン(イオンはBC490頃の生まれ、おそらくピュタゴラスの死より少し後)
資料(DL1-119,DK36B4)
キオスのイオンはこう言っている・・・死しても、その魂にとって喜ばしい生を送っている、まことに賢者ピュタゴラスが、万人を超越した、さまざまな見識をえて、これを学びつくしたのならば
    
ヘロトドス(ヘロトドスは、だいたいイオンと同時代の人でBC485/4に生まれた)
資料「歴史」(4-95)
サルモクシスは多年ギリシア人の間に存り、ギリシアでも有力な知識人であるピュタゴラスにも親しんだのでイオニアの生活に通じ・・・ 

以上のように、ピュタゴラスに年代的に近い資料から確実に言えることは、ピュタゴラスが大知識人として知られていたということである(Guthrie)

ピュタゴラスの旅

このような知識をピュタゴラスはどこから得たか、資料は、ピュタゴラスの諸国への旅であるという、諸資料によれば、エジプトの名がよくでてくる。ギリシアでは、幾何学はエジプトから伝わったとする資料があり、プラトンは算術の文章題もエジプトからのものであるとしている。また、ピュタゴラス伝説が成立したアカデメイアでは東方の関心強く、プラトン哲学の源泉はピュタゴラスであると考えられてたので、このような資料が作られたのかも知れない。なお、バーネット、ツェラー等以前からこれらの資料はあり得ないとされている。Philipによれば、古代では、哲学者やソフィストと呼ばれる人々は、町から町へ、国から国へ渡り歩いた。(ソクラテスは例外、プラトンもシケリアに何度か行っている)そこでさまざまな研究成果を学んでいた。この姿をピュタゴラスに投影し、サモスから南イタリアに行く前に、さまざまな地方に旅したとされた。そしてアカデメイアでは、東方の関心が高まり、そこが、ギリシアの宗教と哲学の始まりではないかと考えられた。これは、アカデメイアの外部でも想定され、紀元前4世紀のペリパトス学派では、ピュタゴラスの難解な知は、ピュタゴラスが外国からギリシアにもたらしたもので、それはピュタゴラスの旅のためであるとされている。以下の資料でも、アカデメイア以外のイソクラテスの資料もある。また、アリストテレスの弟子のアリストクセネスも資料を残している。アリストテレスはピュタゴラスの旅には何も語っていない。Philipもこれらの資料は、歴史的事実ではなく創作されたものであるとしている(p189)。次のアリストクセネスの資料は、アカデメイアにおいてゾロアストレスに対する熱狂的な崇拝が起こり、アリストクセネスがゾロアストレスとピュタゴラスを結び付けたと考えられ、後代の追加であろう

アリストクセネス(BC4世紀、アリストテレスの弟子)
資料、ヒッポリュトス「全異端派論駁」DK22−11

アリストクセネスとエレトリアのディオドロスの言うところによれば、ピュタゴラスはエジプトだけではなく、東方のゾロアストレスのところにも行った。

注、ゾロアストレス(BC618〜630生)ゾロアスター教の教祖、ピュタゴラスと同じように輪廻転生を説いた
ピュタゴラスとは年代的にあわない

イソクラテス(BC436〜338)
資料「ブリシス」DK22−4

彼(ピュタゴラス)はエジプトにいたってその地の人々の弟子となり、他国の哲学をはじめてギリシア人にもたらした


資料,ポルピュリオス[ピュタゴラス伝VP6」

彼(ピュタゴラス)の教えについていえば、大多数の人がいわゆる学問生たちの知識のあるものはエジプト人から、あるものはカルダイ人(南部バビロニアに定住)、あるものはフェニキア人から学び取ったものであるという。なぜなら、幾何学は昔からエジプト人が励んでいたものであるし、数と計算に関することはフェニキア人が、天界に関することはカルダイ人が意を用いてきたからである。神々にかかわる祭礼とか、その他、生活上の諸々の流儀についてはマゴス僧(古代ペルシャの僧侶)から聞き取り入れたと人々は言う。そして、前者のほとんどは覚書に書かれていたがゆえに人多くの人が見届けているが、あとの日々の生き方に関することはあまりよく知られていない。

資料,ポルピュリオス[ピュタゴラス伝」より抜粋
「ピュタゴラスは、ペレキュデスとヘルモダマスのみならず、アナクシマンドロスからも教えを受けた」(VPアッポロニオスによる)
「ピュタゴラスがエジプトの神官らの善道をよしと認め、僭主ポリュクラテスに友人であるエジプト王アマシスに手紙を書くのを懇願し・・・エジプトに向かった(VP7アンティポンによる)「アナクシマンドロスのもとに、幾何学と天文学を学ぶために入門した。エジプト人、アラビア人、カルダイオイ人、ヘブライ人のもとの行った。エジプト人こ言葉を修め、書簡文字、神聖文字、象徴文字を修めた。バビロンでは、ザラトスに入門した(VP11−12、ディオゲネスによる)

資料,イアンブリコス[ピュタゴラス伝」より抜粋
「自然学者アナクシマンドロス、ミレトスのタレスのもとに渡り」(VP11)「22年間エジプトで、天文学、幾何学を学び、カンビュセスの遠征軍に囚われてバビロンに連行され、そこで、神々の礼拝を習得、代数学、音楽、その他を学び12年間過ごした」(VP19)「エジプト人から幾何学、天文学。フェニキア辺の人々がら算術と数論。を学びピュタゴラスは知識を前進させた。」(VP158−159)

資料、擬イアンブリコス
彼(ピュタゴラス)はカンビュセス(在位BC529〜521)によってエジプト王と共に捕虜にされることを選び、その地で神官たちと共に過ごし、また、バビロンにも付きしたがい、異国の秘儀を学んだと伝えられている。そしてそのカンビュセスはポリュクラテスの僭主政治と同時代であった。このポリュクラテスの僭主政治を逃れてピュタゴラスはエジプトへいったのである。

アンティポン(年代不詳)DL8−3
アンティポンが「徳の第一人者たちについて」のなかでのべているところによれば、(ピュタゴラス)はエジプト人の言語を十分に修得したとのことである。さらに彼は(バビロニアの)カルダイオス人(の神官)たちや、(ペルシアの)マゴス僧(ゾロアスター教の司祭)たちのところにも滞在した・・・エジプトでも、神殿の内陣奥深く入り込んで、神々に関することを秘儀のなかで学んだ。

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