ピュタゴラスの知(2)・・・ピュタゴラスが哲学者とされる資料

ピュタゴラスが、哲学者、ないし哲学という言葉を初めて使ったとされる主な資料は、キケローとディオゲネス・ラエルティオスが伝える、次の二つのヘラクレイデス断片である。さらにディオゲネス・ラエルティオスはソシクラテスの断片も伝えている。

ヘラクレイデス(プラトン、アリストテレスに学ぶ。BC4世紀の人)断片87
資料 キケロー(BC106〜43)「トゥスクルム荘対談集」5−8

哲学そのものは非常に古いものだが、その名称は新しいと認めざるをえない。一方、知恵自体についてはその事柄において古いばかりではなく、その名前において古いことを否定できる者はいない。神々や人間のことを知り、それからそれぞれのものの起源と原因を知ることにより、それは古代の人々の間でこの最も美しい名前を獲得したのである。かくして、例の七人の者(七賢人)の者もギリシア人によって「ソポイ」(賢者あるいは知恵ある者)、われわれによって「サピエンテース」(知恵ある者)とみなされるとともに、そう名づけられたのである。さらに何世代も以前に遡ると、リュクールゴス(BC8世紀頃のスパルタの立法者)ーーー彼と同時代にホメロスも生きていたと伝えられる。ローマ建国以前のことであるーーーもそうであったし、さらに英雄時代にまで遡れば、オデュセイスやネストールもサピエンテースとみなされるとともに、そう呼ばれてきたのである。
 アトラースが天体を支えていると言われたり、カウカソス山に鎖でつながれているプロメテウスや、カッシオペイア、義理の息子ペルセウス、娘アンドロメダーとともに星となったケーペウスが言及されるのは、天体についての彼らの自然の観察に関心を示したものはすべてサピエンテースとみなされ、そう呼ばれることになった。そしてそれはピュタゴラスの時代まで続くのである。プラトンの弟子であるポントスのヘラクレイデスは、第一級の学識のある人物であったが、彼が書いているものによれば、ピュタゴラスはプレイウス(コリントス西南の町)に出かけ、その地の支配者であるレオンと、ある事柄に関して学識ある議論をたっぷり行ったと伝えられている。レオンはピュタゴラスの才能と雄弁に驚き、彼にいかなる技術に最もたよっているのかを尋ねた。しかし、ピュタゴラスは、自分はどのような技術も知らない、ただ自分は哲学者なのだと言った。レオンはその名称の新奇さに驚き、「哲学者」とはどういうもので、哲学者と哲学者以外ではどこが違うのかと尋ねた。
 そこで、ピュタゴラスは、人生と祝典は同じようなものの自分は思われると答えて言った。祝典は、ギリシア全土から大勢の者が集まり、壮大な競技会(オリンピック)が開かれ、祝われるところである。ある者は鍛えた身体で冠の栄光と卓越を求め、またある者は売買に利益に引き寄せられているのだが、他方、ある種の人々がいて、この人々は自由民ででも最高の者であり、拍手を求めたり利益をもとめたりせず、観察のためにやって来ていて、何がどのようになされているかを熱心に吟味している、そのように、われわれも、別の町からとある賑やかな祝典にやって来たかのように、別の生と別の存在状態から出発して(輪廻転生)、こちらの人生に入り、ある者は栄光の奴隷となり、ある者は金銭の奴隷となっているのである。だが、稀ではあるが、他のすべてのものを取るに足らぬと考え、事物の本性を熱心に観察する者がいる。こういう者は、自らを知恵の愛好者、すなわち「哲学者」と呼んでいる。競技会で見物する際に自分のために何も得ようとしていないのが最も自由な精神でああるのと同じように、人生においては、事物の本性を観察し、認識することが他のいかなる追求よりもまっさているのである。

ヘラクレイデス(プラトン、アリストテレスに学ぶ。BC4世紀の人)断片87
資料 ディオゲネス・ラエルティオス(3世紀頃)DL1−12
哲学という語を最初に用い、また自らを哲学者(知恵を愛する者)と呼んだ最初の人はピュタゴラスであった。それは、ポントスのヘラクレイデスが「息の絶えた女について」のなかで述べているところによれば、ピュタゴラスがシュキオンにおいて、シュキオンあるいはプレイウスの支配者だったレオンと対談したおりに、神以外には誰も知恵のある者はいないと語ったからだとされている。その営みが知恵と名付けられたり、またその営みに従事していると公言する者は精神的な完成に達しているのだろうとして、知者と呼ばれたりするのはあまりにも性急すぎることであって、哲学者とは知恵を熱心に追求する人のことなのである

さらに、ディオゲネス・ラエルティオスは、ヘラクレイデスではなくソシクラテスが述べているという報告をしている 

資料 ソシクラテス(BC2世紀頃)「哲学者たちの系譜」DL8−8
ソシクラテスが「哲学者たちの系譜」のなかで述べているところによると、ピュタゴラスはプレイウスの僣主レオンから「あなたは何者か」と訊ねられたとき、「哲学者だ」と答えた。そして彼は、人生を国民的祭典にたとえたのであった。つまり、その祭典(の競技会)には、ある人たちには、競技のために来るし、ある人たちは商売のために来るが、しかし最もすぐれた人たちは観客としてやって来るのである。それと同様に、人生においても、奴隷根性の人たちは名誉や利得を追いかけている者であるが、これに対して、知恵を愛し求める人(哲学者)たちは、真理を追究している者なのだ、とかれは言ったということである

資料 イアンブリコス(3世紀)「ピュタゴラス伝」(VP58)
伝えでは、ピュタゴラスこそが史上はじめて愛知者を自称し、この新しい言葉を使い始めるのみならず、その実相をも調法にもかねて教えて余すところなかった。かの人はかく語ったからだ。「人々の人生に登場するや、ひとえに群衆の祭典に集うがごとし。すなわち、祭典へとありとあらゆる種類の人間が足を運び、銘々の必要に応じて到来するがごとし。(ある者は金儲けと利益のために物品販売にあくせくし、ある者は名誉のために、肢体の力を誇示せんとやって来る。しかし、第三の輩がいて、これぞ自由人の最たり者、これが集うのは、風光を眺め、祭典で披露するのが習わしの、職人の手になる能品ならびに競技と詩文の秀悦を見るため)人生においてもまさに同様、ありとあらゆる類の人間が熱意をいだいて一堂に会する。ある者は、金と贅沢への欲求がつかみとり、ある者は支配と覇権への野望と名誉を狂い求める勝利欲がしかととりおさえている。たいして、諸欲の混じらぬ人生の極みは最妙のことどもについて観想を受け入れた人のいきかた。これをこそ称して「愛知者」とは言うぞ。ここで「第一のもの」とはかのもの、万象をつらぬいている数と理法の謂い、これにならって、これら万象は調和ある姿に構成され、あるべき姿に秩序づけられてきた。「知」とは真の知識にして、第一の、神々しい、純粋無雑、常住不二、妙なることどもにかかわって余念なく、他のものもこれをわけ持つがゆえに妙とは称されうる。「愛知」とはかような観想への努力である。教育へのかの人の配慮もまた妙にして、これは人々の善導を目指すものだった。

資料の考察
@祭典とは、BC776年に初めて開催されたオリンッピク競技会をさす。その場所のオリンピアは、ペロポネソス半島の北部の都市。ピュタゴラスが移住したクロトンは、オリンッピクの勝者を多数輩出したことでピュタゴラスと結びつく。

Aプレイウスは、コリントス西部の町。古代のいかなる資料にもピュタゴラスが訪れたという記述はない。しかし、ピュタゴラス派の人々のなかにこの地と結びつく人物は、ディオゲネス・ラエルティオスによると「ピュタゴラス派の最後の人たちとは、・・・プレイウス人のパントスそしてエケクラテス、ディオクレス、ポリュムナストス、この人たちもプレイウス出身のものであるが」(DL8−46)。さらにプラトン「パイドン」ではこの地が対話編の舞台になっており、ピュタゴラス派で、ピロラオスの弟子のケベスとシミアスを登場させている(この二人はピュタゴラス派というよりソクラテスの弟子と考えた方がよいという見方もある。DLにはソクラテスと関連してその名がでてくる)。さらに、対話の人物はプレリウス人のエケクラテスとエリス人のパイドンとなっている。魂の不死を扱うのでピュタゴラス派にちなんで、プラトンが選んだ可能性もあるので、確かな事は言えない。
ピュタゴラスの家系はこの地であるという次の資料もあるが不確かである
資料 DL8−1
ある人たちによれば、彼(ピュタゴラス)はマルマコスの子であるが、このマルマコスはヒッパソスの子で、エウチュプロンの孫、そしてプレイウスからの亡命者であったクレオニュモスの曾孫であったという。
ほぼ同じ記述が、次のようにパウサニアス「ギリシア案内記」(AD2世紀後半)にみられる。なお、ディオゲネス・ラエルティオスの資料に見られるシュキオンという町は、バウサニアスによれば、プレイウスと領土がと奈路あっている町
資料 パウサニアス「ギリシア案内記」(AD2世紀後半)
ヒッパソスは同行希望の一団とともに(プレイウスから)サモス島へ逃れた。このヒッパソスの四代目の子孫が賢人として伝えられているピュタゴラス・・・以上はプレイウスの人々が自らについて語っている故事来歴でありシュキオンの人たちもおおむね彼らの言を認めている。
注、ディオゲネス・ラエルティオスの資料にあるシュキオンは、この資料のシュキオンと考えられる。パウサニアスによれば「フリアシア(プレイウス領)はシュキオン領と境を接している」とある


資料 ポルピュリオスVP4
いずれの生国、ならびに町からピュタゴラスが市民として生まれたか、はっきり知らぬとしても気にかけるべきではない。彼がサモス人という人もいれば、プレイウス人、メタポンティオン人という人もいる。


Bディオゲネス・ラエルティオスにある「神以外のものは誰も知恵のあるものはいない」は、ディオゲネス・ラエルティオスの追加であるかもしれないが、これは明らかにプラトンのものであり、おそらくフィクション(Riedwegによる)。次の資料を参照
資料 プラトン「パイドロス」(278D)
(このような人を)知者とよぶのは、パイドロス、どうもぼく(ソクラテス)には、大それたことのように思われる。それにこの呼び名は、ただ神のみにふさわしいものであるように思われる。
資料 プラトン「饗宴」(204A)
神々にあっては、神はすでに知者ですから、知を愛することなく、知者になろうと熱望することもありません。また、神以外の者でも、すでに知者であれば、知を愛することはありません。

資料 プラトン「リュシス」(218A)
すでに知者であるものは、神々であれ人間であれ、もはやそれ以上、知を愛することがないのです

Cレオンとの対話はおそらくフィクション(Riedwegによる)。レオンという人物については何もわからない。(アルクマイオンの断片とアリストクセネスによるとおもわれるイアンブリコス「ピュタゴラス伝」のピュタゴラス派のメンバーにその名がある)

D三通り人間性については、ヘラクレイデスの報告について、その真偽について論争の的である。まず、ヘラクレイデスは、その師プラトンと同様に対話編を書いた。したがって、歴史的に正確に描いてはいない。おおかた見方は、この三通りの人間性については、プラトン「国家」(581C)における人間性の三通りの類型にあらわれているアカデメイアの観念を、ピュタゴラスに投影したものであるという説。しかし、ヘラクレイデスはBC5世紀の資料に基づいており、ギリシアでは、学ぶ(技術、知恵、知識、探求)ことの価値はギリシアに広く根付いていたとする説。さらに、ヘラクレイデスは、輪廻転生とピュタゴラスの知識を結びつけた。これは、何回も生を受けたことエンペドクレスの断片129に現れているという。また、ヘラクレイデスの資料は、ピュタゴラス本人には直接帰することはできないが、哲学とテオリアはピュタゴラス派の人々には初期から根付いており、それを師ピュタゴラスに帰せられ、魂の輪廻転生に結びつけられた。もともと、ピュタゴラスの知識にたいする情熱は古い資料でも確認できる(前のページ(ここまではGuthrie p160参照)。バーネットも次のようにのべ、三通りの生活は古いものであるという説をとる、長いが引用する。「もしヘラクレイデスを信用するならば、三通りの生活、すなわちアリストテレスが『ニコマコス倫理学』において用いた、観想的生活、実践的生活、快楽的生活を最初に区別したのはピュタゴラスであった。この教説の趣旨はつぎのようである。人はこの世では客人であり、身体は魂の墳墓であるが、しかし自殺によって逃れようとしてはならない。というのは人は神の配下にある家畜であり神の命令がなければ逃れる権利はないからである。(パイドン62B)オリンッピク競技に参加した人たちに三種類あるように、この生活においても三種類の人がいる。最下位は商いを目的に来た人、その上は競技に参加する人である。最上位は観戦に来た人である。したがって何にもまして大きな浄化は、学問であり「生まれ変わりの輪」から最も有効に身を解法する人こそは、学問に献身する人すなわち真の哲学者である。ピュタゴラスがこうした方法で正確に述べたと言うことは、性急すぎる嫌いがある。しかし、こうした考えはピュタゴラス的であり、そうした方法においてのみ、学者としてのピュタゴラスと宗教家としてのピュタゴラスの間隔を埋めることができる。」(Guthrieも賛成している p161)

このさまざまな説を裏付ける諸資料
プラトンは、魂を次の三つの類型に分けている。それは、「欲望的部分」「気概の部分」「理知的部分」(国家441〜)この分類に従って、次の資料のように三通りの人間性についての述べている。さらに、それぞれについて三種類の快楽について述べ、知を愛する人の快楽が最上位のものであるという。さらに「饗宴」では、愛について同様な三通りの道を述べている。

資料 プラトン「国家」(581C〜)
人間の最も基本的な分類として、知を愛する人、勝利を愛する人、利得を愛する人という三つの種類がある。・・・知を愛し言論(理)を愛する人が賞める事柄こそが、最も真実であるということになります。してみると、問題の三種類の快楽のうちで、われわれがそれによって物を学ぶところの魂の部分がもつ快楽こそが、最も快いものであり、そしてわれわれ人間のうちでは、まさにその部分が内において支配しているような人間の生活こそが、最も快い生き方である。

資料 プラトン「饗宴」(205D
その愛する人々のなかでも、さまざまな道、金銭へ愛の道、体育への愛の道、または知恵への愛に道


アリストテレスも同様に三通りの生活について次のように述べている。
資料 アリストテレス「ニコマコス倫理学」(1095b)
およそ主要な生活形態に三通りあるのであって、いまいうごとき生活(享楽的な生活)と、政治的な生活と、第三に観照的な生活(テオレーティコス、観照と訳されているギリシア語テオリアは、日常生活では、観覧、見せ物という意味で使われた)とがそれである。1177a

しかし、次の資料のようにプラトン以前の文献にもみられる。このことが、ヘラクレイデスがアカデメイアの理想をピュタゴラス投影したとする説の反論に用いられる。

資料 ヘロドトス「歴史」(1−139)
ギリシア人も多数エジプトへいったが、その中には、当然のことながら商用でゆくものもあれば、遠征に従軍したものもあり、また単にその国の見物にでかけたものもあって。

F哲学、哲学者について
ソピアという言葉は、ギリシアにおいて最初は、実用的な技術、器用さという意味で使われ、主に音楽の能力に関して使われた。後に、分別、知恵、知識という意味合いでつかわれるようになった(Riedwegによる)。
Oxford Classical Greek Dictionaryには、σοφια(ソピア)には、cleverness、skill、prudence、craft、knowledge、wisdom、philosophyと訳されている。哲学(φιλοσοφιαピロソピア)は、love of wisdom or knowledge,philosofhy,investigation,researchとある。

哲学(φιλοσοφια)という言葉が、フィロソフィ(一般的に、真理のための理論的探求、対象に対する体系的・方法的探求)の意味になったのは4世紀末でプラトン、アリストテレスらによる。それ以前には同類の言葉で二つの例がある.つまり、初めて、積極的に使用したのは、プラトン、イソクラテスである。

(1)資料ヘロドトス「歴史」(1−30)
貴君(ソロン)が賢者(ソピアσοφιησ ここでは哲学者を表すσοφισησはつかわれていない)であることはもとより、ピロソペイン(φιλοσοφεων)しながら、見物のために多くの国を廻られたことも聞いている。(ここでは「知識を求め探ねること」というほどの意味)

注、ストラボンは、実際的な知恵・経験を豊かに内蔵するホメロスの詩作品を昔の人々は一種の第一哲学(φιλοσοφια)と呼んでいたと報告していることからもわかるように、ソクラテスやプラトン的な哲学の意味ではなかった。

(2)資料ヘラクレイトス断片35
ピロポソス(φιλοσοφοσ)はまことに多くの物事について知識をもつ者でなければならない(ヘラクレイトスの批判の対象がピュタゴラス、ヘカタイオス、ヘシオドス、クセノパネスであった、おおかた、イオニア的知の伝統に関連していることを考えると、ピロポソスは、「宇宙論、政治や社会、倫理、歴史、地理までも含めた学者、博識家をさすと解せる」

ソクラテス・プラトン的な哲学は
ソクラテスは、デルフォイに行き「わたしより誰か知恵のあるものがいるか」(弁明)とたずねた。すると巫女は「より知恵のある者はいない」(弁明)と答えた。そこで、ソクラテスは、政治家、詩人、職人のもとへ行き対話しその結果ソクラテスは「この男もわたしも、おそらく善美のことがらは、何も知らないらしいけども、この男は、知らないのに、何か知っているように思っているが、わたしは、知らないから、そのとおりに、また知らないと思っている。つまりこのちょっとしたことで、わたしのほうが知恵があるらしい。」(弁明)ソクラテスは知者ではない、知を愛し求めるものである。弁明にはたてつづけに(28E〜29D)「知を愛しながら」「知を愛し求めることは」「決して知を愛し求めることを止めないだろう」。饗宴では、愛の神(エロス)と共に中間的なものとしている。知を愛することは、愛と同じように、自分には欠けているという自覚のある者に限られている。愛は自分に持っていないものをほしがるのだと。

資料 プラトン「饗宴」(204)
知者でさえあれば、そのうえに知を愛し求めはいたしません。しかしまた反対に、まったくの無知なる者にあっても、知を愛し求めることはなく、知者たらんとの意欲も持ちません。なぜなら、まったく無知者というものは、美しくも、善くもなく、知慮も備えぬ身でありながら、しかも、そのみずからの姿をもって満足しているもので、まことにこの点こそ、彼の救いがたい困難もあるのですから。そして、そのように、我が身に欠けたところがある、と思いもせぬような者は、その欠けているとすら思わぬものを欲求するわけがありません。いったい、知を愛し求める人とは、いかなる人ですか。・・・・それはもう、子どもにさえ明らかなことでしょう。知者と無知者の中間者たちの一つです。・・・愛の神エロスもまた、思うに、その中間者たちの一つです。なぜなら、知とは、最も美しいものに属していますが、しかも愛の神エロスとは、その美しいものへの愛なのですから、当然愛の神エロスは、知を愛するものとなりましょう。

注、廣川洋一によれば、哲学(φιλοσοφια)という言葉は、プラトンにおいての使用は136例あり、イソクラテスでは、56例ある。アイスキスでは1例、デモステネスでは5例、クセノポンでは4例ほどで、この語はプラトンとイソクラテスのために存在したとみても誇張とはいえない。廣川「ギリシア人の教育」(岩波新書)p29

結論、ピュタゴラスの著作が現存しない以上全ては推測の域を脱し得ないが、ヘラクレイデスの資料はおそらく捏造されたものであろう。ピュタゴラスが哲学者という言葉を初めて使ったということは、文献学上では、プラトン以前にその使用例があるので否定はできないが、その場合も、ソクラテス・プラトン的な意味ではなく、得られた知識への愛ぐらいも意味ではなかったのであろう。その知識は、ミレトスから得られたかもしれない。いずれにしろ、前のリンクで、当時ピュタゴラスは大知識人として知られていた。アリストテレは、ソクラテス以前の人々も「哲学者」と呼んでいるが、ピュタゴラス派としており、ピュタゴラス自身については語っていない。ディオゲネス・ラエルティオスは「哲学はギリシア人の間から起こったのであり、哲学という名前そのものも、ギリシア語以外の言葉で呼ばれることを拒否しているのである」(DL1−4)とし、アナクシマンドロスとともに、ピュタゴラスを哲学者の系譜の最初に挙げている。結局、アリストテレスが自然学者(タレス、アナクシマンドロス等)と呼んだレベルで、ピュタゴラスを哲学者と呼ぶことも可能である。しかし、哲学は、知への愛を自覚し、学的に始めたのはプラトンであろう。

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