ギリシア史概観(青銅器時代から、ホメロス、ヘシオドスまで)

エーゲ文明は、主に、ミノア文明、ミケーネ文明のことをさす。

ミノア文明・・・BC3000年ころ、青銅器文化をもつ人々が小アジアのアナトリア方面からケレタ島などに移住し、2500年ころにはいくつかの小国を形成した。民族は不明。エヴァンスはホメロスの伝説的な王ミノスの名をとって、ミノア文明と呼んだ。テラ島にも同様な文明が栄えた。これらの小国のなかでクノッソスが有力で2000年頃統一したようだ。そこでは、迷宮のような宮殿の遺跡がある。この宮殿の特徴は、支配者の拠点であり、民を支配・統合するための祭祀活動のための中心であるとともに、巨大な倉庫でもあった。それは、各領地から集まった農産物や工芸品を一時的に保管し、必要に応じて各地に配分する機能ももっていた。
・線文字Aが発見されているが、Aは読解されていない。
・フレスコ画には、ナイル川の風景が描かれたものがあり、エジプトではヒュクソスと呼ばれる異民族の宮殿には、ミノア文明に特徴的な「牛飛び」の絵が描かれているものがあ。さらに、クレタに由来する土器がエジプトで出土しており、新王国の時代の貴族の墓にはファラオに朝貢するクレタ人も描かれている。エジプトと交流があったことを示している。こらの交流は、メソポタミアのマリ宮殿でも確認でき、海外との結びつきがあった。

ミケーネ文明・・・BC2000年頃から、インド=ヨーロッパ語族がバルカン半島や小アジアに進入してきた。ギリシア人の祖先である。その一部のアカイア人が、ミケーネや他の地域の王国をつくった代表的な王国のミケーネから名付けられた。

線文字B・・・この読解により、ミケーネ人が古いギリシア語を用いたことがわかった。文書の内容は、王の財産とか、貢ぎ物の記録で行政文書であった。

豊かな財産と交易・・・ミケーネでの墓の埋葬品からは、黄金の仮面、冠、衣装、金銀の装飾品、アメジスト、琥珀、ファイアンス(陶器)、駝鳥の卵でできた水差し、象牙製品等が発掘されているが、外国との交易にがあったことがわかる。西アジアやエジプトで発達した技術を習得した、象牙細工やファイアンスの職人もいた。クレタ島でも同様で、ラビスラリ(宝石)はメソポタミアから、金、象牙、アラバスター(石膏)はエジプトから、駝鳥の卵はエジプトやリュビアから琥珀ビーズは北方から、銅はキュプロスから。逆に、ミノアやミケーネからは、オリーブオイル、葡萄酒、特に陶器は、広くキュプロス、エジプト、スーダン、西アジア、シチリア、エルトリア、マルタ、で発見されている。しかし、ミノア文明とちがうのは
・武器などの戦争に関わる遺物や遺構が多い。なかには、二頭だての戦車が描かれているものもあった。はたして丘陵地帯では実戦的であったかは不明、この戦車は、エジプトやアナトリア高原では戦争の主役となった
・宮殿建設よりも墓の造成に力をいれていた。これは、支配者に権力が集中してきたと解釈される。
・また、海外との交流はより盛んであり。

暗黒時代・・・「BC1200年の破局」と呼ばれる急激な変化は各地の青銅器文明を崩壊に導いた。アナトリアでは、鉄製技術の独占によって富強を誇ったヒッタイト帝国が前12世紀の初めに忽然と姿を消した。同じように、クレタ、キュプロス、ウガリト、レバントの南の諸都市が破壊された。エジプトでは「海の民」の進入を第二十王朝のファラオたちに退けられたが、王朝は弱体化した。ミケーネ文明の諸宮殿は緩やかに破壊されてきた。ギリシアの地域にあってはなお繁栄をわずかな間であるが続けていた。ティリンズ、ミケーネ、アテネ等では、従来の海外に逃れたという説に反し、居住し続けた。

原因は、諸説があり論争中である
・海の民の進入説
・ドーリス人の南下
・地震や環境の変化
・宮殿支配のシステムの崩壊

海の民・・・クレタ島の王宮から出土した、BC1600年頃の土製の円盤に、絵文字が描かれており、そこには羽毛つきの兜と高く尖った舳先をもつ船を描いたものがあり、これらは数百年後の地中海アジアの武装集団として姿を現す「海の民」、とくにペリシテ人の兜や彼らがエジプトに乗りつけた船に似ている。また、BC1360年頃のエジプトの資料「アマナル文書」の中の書簡にルカの海賊やシュルデン人の王たちについての言及がある。彼らは後の「海の民」の構成要素でありペリシテ人と同類であった。また、BC1286年のガッデシュの戦いについてのエジプトの記録によると、ヒッタイト軍にはルカ人が、エジプト軍にはシュルデン人が傭兵として参戦した。こららの人々が、地中海諸都市の崩壊を導いたとする説。たしかに、エジプト王のメルエンブタハ(在位BC1224~1204)による記録によると、進入者は「海の民」といわれ五つのグループがあったとされたいる。その50年後ラムセス3世の治世(在位1184~1153)の1177年にいくつかの集団がおしよせたとある。この時に初めて現れたのがペリシテ人で、侵攻には失敗し現在のパレスチナに定住した。この人々がエジプトだけではなく、エーゲ海の崩壊をもたらしたという説は、ドーリス人の南下説とともに、現代では疑問視されている。

フェニキュア人とともに、ギリシアも地中海での交易を再開する。東方との接触にかんする遺跡。ミケーネ文明のギリシア人は、すでに海を越えてキプロス、エジプト、シリアとの交易関係をもっていた。暗黒時代には一時途絶えていたが、前10世紀末から前9世紀頃再開されたらしいそれを物語る遺跡がある

東方との関わり(考古学的資料)

レフカンディ遺跡・・・10世紀には東方との関係を示す遺物が発掘されているが、前9世紀のものとされる、より具体的な考古学的証拠が現れる
・ヘマタイト製の小型円筒印章、BC1800年に北シリアで制作された伝世品
・フェニキアやキプロスの土器
・秤と推測される青銅製品および石製の分銅。これは交易に従事していたことを示す。
・シリアやエジプト様式の護符

アル・ミナ(北シリア)
・約1500点のギリシアの幾何学紋様土器が出土。シリアやフェニキアからも出土。さて、多くはギリシアのエウボイアのものである。現地で作られた形跡がないので、エウボイ人自身がもたらした。この地でギリシア人がBC9世紀から交易を始めBC6世紀まで続いた。

その他、前9世紀~7世紀にかけての出土品の例
・シリアやメソポタミアやキリキアの印章(ピテクサイ、オリュンピア、サモス、デロス)
・フェニキアのスカラベ(エレトリア)
・フェニキアの青銅製や銀の椀(キュプロス、ギリシア本土、イタリア)
・クレタで出土した青銅の飾り板はアッシリアのモチーフが見られる
・象牙の彫刻(後にギリシア人hs自分たちで彫るようになった)
・シドンからのクラテル(瓶)(オリンピア、南イタリア、ファイリで出土、最後のものには、アラム=フェニキア語の碑文が記されている)
・ダマスカス(シリア)のハサン王が献納した青銅の板が、聖地エレトリアのアポロン、サモスのヘラで発見されている。これらは碑文から
 BC8世紀中頃のもの。

ホメロスの中の記述にもあらわされている。
・「混酒器を手に入れた」(イリアス23-741)
・「一番高価な器をあげよう、それは見事なつくりの混酒器で、総銀造り、縁には黄金が施してある」(オデッセイ4-615)
・「金具の光る帯、その下につけた腹帯と、鍛冶やが作ってくれた腰帯」(イリアス4-183)

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