通約不能量の発見「フォン・フリッツ」説 THE DISCOVERY OF INCOMMESURABILITY BY HIPPASUS OF METAPONTUM(1945年)における再構成

「フォン・フリッツ」説とは、通約不能量の発見はBC5世紀の中頃、ピュタゴラス派のヒッパソスが通約不能量(無理数)を正五角形の辺と対角線の交互差引きによって発見したという説。このことがピュタゴラス派に衝撃を与え、秘密にするために「言ってはいけない」とされた。この論文を、資料を補充し、参照しながら、読んでいく。なお、この説は、日本語で読める数学史や、数学の読み物によく見かけるので、以前から元論文を、読んでみたいと考えていた。先日購入した`Classics in the History of Greek matheMathematics`という論文集に、偶然にも収録されていました。なお、著者の意図が一部分、分からない所があったことを断っておきます(私の力量が未熟)。この論文の証明の部分は、数学史や、数学の読みの物に載っている。

まず、フォン・フリッツは、この論文で明らかにする、次の五点をあげている

  1. 古代ギリシアの伝承は、通約不能量の理論の発展の第二段階をBC5世紀最後の四半世紀である、従って(第一段階)通約不能量の発見はそれ以前である。
  2. この伝承は、間接的な典拠からだが十分信頼できる。
  3. 発見はBC5世紀中頃の初等的な数学のレベル(FrankやNeugebauerが主張する)可能である
  4. BC5世紀初頭に発展した科学的な研究の性格から、古代後期の伝承が語る時期に発見されたことは、可能であり、さらに確実性が強い
  5. 後期の伝承は、おそらく、どのように実際に発見されたかを暗示している。

注、Frankは、通約不能量の発見はBC4世紀最初の四半世紀とし、Neugebauerは5世紀の数学はそれほど発展しておらず、通約不能量の発見をアルキュタス(BC362年に政府の要人になった)以前ではないとする。これに対してフォン・フリッツは、BC5世紀の中頃の発見という説で反論している。たしかにヒッポクラテスは(BC430頃活躍)は、最初に原論を著作し、月形方形化や、立方体倍積問題の研究をした、従って、この時代の数学はそれほど初等的でもなかったと私は思う。ニッツという研究者はこの時代にギリシア数学は爆発的に発展したとしている。演繹的な論証数学もこのころ始まったとしている。

 フォン・フリッツは現存する資料について述べている。その部分をプラトン「ティアイトス」、プロクロスの「摘要」から原文を引用する

現存するギリシアの資料で、初めて通約不能量(無理数)について語られているのは、以下のプラトンの対話篇「テアイトス」の次の部分である。

プラトン「ティアイトス」
 それは(ある種の)平方根について、すなわち三平方尺の正方形や五平方尺の正方形などの辺にあたるものについてテオドロスさんは図形のあるものを描きながら、それは長さのままで計ると一平方尺の正方形の辺とは同じ尺度で計りきれない(すなわちこの場合は通約できない)ものでせあることを明らかにされていって十七平方尺の正方形の辺までをおのおの一つ一つ取り出してそういうふうにしてくだすったのですが、それまで来て、どういうことはありませんでしたが、それを止められたのでした。そこで私たちの間には何かこんなふうな考えが浮かんで来たのです。それはこの種(正方形の辺として示されたところの)平方根というものは無限に多くあるものだということが明らかなのですからして、これを一つに総括することを試みようという考えなのです。つまりこの種の平方根をわれわれが全部その言い方で呼べるようになるものを見出そうと試みたのです。(その後ティアイトスがこの理論を完成させる。原論10巻、13巻はティアイトスのものとされている)
プロクロス「ユークリッド原論第一巻注釈」
 ピュタゴラスはこれらの人々の後に現れた人だが、この学問を一個の自由学芸の形に変貌させた。すなわちピュタゴラスはこの学問をいくつかの第一原理から検討し、種々の命題を、具体的な表現を使わず純論理的な思考によって研究しようと努めた。無理量(もしくは比例)の理論や宇宙的立体(すなわち正多面体)の作図も、彼の発見である。ピュタゴラスの後に、クラゾメナイの
アナクサゴラスが幾何学上の多くの問題を扱い、アナクサゴラスよりやや若いキオスのオイノビデスのまた同じことをした。プラトンはこその『恋がたき』の中で、この二人のことを名高い数学者と述べている。その後、弦月形の求積法を発見したキオスのヒポクラテスや、キュレネのテオドロスが幾何学者として有名になった。ヒポクラテスは実に『原論』の編集者として記録されている最初の人であった。
 プラトンはこの人たちの後にくるのだが、この学問へのきわめて熱烈な興味を介して、幾何学その他、数学の諸分野の発展に大きな貢献をした。事実、彼がその著作を数学的な論議をもってみたし、あらゆる機会を捉えて、哲学に身を捧げる者の間に数学に対する讃美の念を喚起したことは広く知られている。プラトンの時代には、また、タソスのレオダマス、タラスのアルキュタス、アテナイのティアイトスがいたが、この人々は定理の数をふやし、それらをより学問的な体系に整理した。

 フォン・フリッツによれば、ティアイトスが書かれたのはBC368/367、対話の設定はBC399(この年はソクラテスが死んだ年)であり、ティアイトスは17歳とされている。上の資料より、テオドロスは、平方根3〜17までの通約不能性の証明を示したという。しかし、フォン・フリッツはこの対話篇はフィクションであり、さらに、この対話篇は、コリントス付近の戦闘で傷つき、それが原因で若くして死んだ、無理数や通約不能量の理論の発展に多大な貢献をしたテアイトス捧げられてたものである。そしてプラトンは、友人のテアイトスの数学的業績を、誰か他人のものとして表現していると推測していると、フォン・フリッツは言う。さらに、ティアイトスが17歳の時には、すでにテオドロスが証明したことは、すでに知られていたと、結論づけている。
注、「ティアイトス」(143B〜C)において「ソクラテスがその問答相手だと言っておられた、幾何学のテオドロスと若いティアイトスとを相手に問答されることにして(この対話篇)を書いてみたんです」とプラトンはエウクレイデスに語らせておりフィクションであることは明らか。

さらに、プロクロスの「摘要」より、アナクサゴラスはBC500頃生まれ、プラトンはBC428生まれた。これよりフォン・フリッツは、テイドロスはBC470〜460に生まれたとする。対話篇の設定年BC399に老人だったとつじつまがあう。プラトンは、当時(BC399)テイアトスや若者たちに、テオドロスが示した証明の内容は明らかにしていない。さらこの証明が、当時の完全に新しい発見であるとは言っていない、テオドロスが一つ一つ取り上げていることから、まだこの理論は、それほど進んではいなかった。仮に、テオドロスがさほど遠くない時期に証明を初めて作り上げたとしても、プラトンの対話篇は、次のことを暗示している。とフォン・フリッツは言う。つまり、平方根2の無理性または、正方形の辺と対角線の通約不能量は、(テオドロス以前に)すでに誰かが発見したと。そして、テオドロスがなぜ平方根3から始めたのかは、テオドロスの、数学的な理論への貢献がどの時点でを始まったのかを、テオドロス自身が歴史的な手がかりを、示さない限りわからない。、しかし、これだけでも、通約不能量の発見は、遅くともBC5世紀の最後の四半世紀より以前であると言うことを示すには十分であるとフォン・フリッツは結論づけている。さらに、その当時数学の研究は非常にゆっくりと進歩していたので、発見はもっと遅かったと推測している。ここで、フォン・フリッツは、FrankやNeugebauerの説を否定している。私もこの意見には賛成。フォン・フリッツは、HasseとScholz(私はこの論文はよんでいない)がBC590に生まれたエレア派のゼノン論議は、通約不能量の発見と関係があるという説をとなえたことからも、発見の時期がBC5世紀中頃であるという傍証になるという。

注、このフォン・フリッツの説つまり、この当時通約不能量に関しては一般的に知られていたということは、サボーも次のように述べ、賛成している
サボー「ギリシア数学の始原」
テオドロスの講義では、前から生存していた当時の数学者にとってはすでによく知られていた知識を、アテネの青年たちに伝えたという印象をうけることにならないか・・・少なくともプラトンの章句に基づくかぎりでは、テオドロスはほとんどなにも新しいことを発見していないのである。(p61〜62)
テオドロスが通約不能性を全ての場合にすでに証明できたという想定については、プラトンの原文はなにも言及していない。また青年テアイトスは自分自身の証明を全く述べていない。だれかが、われわれの問題としているプラトン原文に関連して、青年テアイトスの証明について何か述べたとしても、それは全くとるに足らぬことである。プラトンの原文自身これに対して何も述べていない。(p69)
アテナイの青年たちはその先生であるキレネの数学者の理論をすぐに理解し、そして全く驚くべきほど容易にこれを認めている。テオドロスの証明、それが正しくやられたとしても、この青年たちはことさら興味をもたなかったと思われる。彼たちは証明に苦心するよりすぐさま全く別のことを始めようとしたのであった。・・・無理性の理論の発展史がキレネのテオドロスとともに始まったという想定は、一つの全く勝ってな歴史的創作にすぎない(p69)

注、伝統的な見方は、テオドロスがルート3〜17までを証明したので、それ以前には、ルート2は発見されていた。(サボーはルート2も発見されていたということも根拠がないものとしている)その後ティアイトスが一般的な概念を作り上げた。また、そのテオドロスの証明については、幾何学的証明、代数的証明、間接証明であったという、さまざまな再構成が行われているが、決定的な結論は得られていない(BURKERT。p463n81)。また、ティアイトスが分類したという長方形数、正方形数については、すでにピタゴラス派によって分類されてたとする研究者もおり、この部分は、これ以上わからない。

次の章句によって、通約不能量がギリシアではよく知られていないので、これを典拠に、発見の時期は、プラトンより遠くない時期であるとする研究者もいる
「法律」(818C〜)
しかし、またもしそれがどんな意味でも通約可能ではないのに、私が言ったように、私たちギリシア人すべてが、可能だと考えているとしたら、みんなのために恥ずかしく思いながら、彼らにたいしてこう言うべきではないでしょうか。『ギリシア人たちの中で最も優れた人々よ、これはあの基本的なことがらの一つです。すなわち、それを知らないのは恥ずべきことだが、そのような基本的なことを知っているからといって、何もたいしたことではないとわたしたちがいった、あの基本的な事柄の一つです』と  
「通約可能なものと、通約不可能なものとの相互関係が、いかなる性質のものであるかということです・・・」

フォン・フリッツは以上から、明らかにすべき第一点古代ギリシアの伝承は、通約不能量の理論の発展の第二段階をBC5世紀最後の四半世紀である、従って(第一段階)通約不能量の発見はそれ以前である。」をしめしたことになる

第二段階における通約不能量の発展の資料とは対照的に、最初の発見(第一段階)は、非常に遅い時期のイアンブリコスが典拠であり、発見は、伝説的な人物メタポンティウムのヒッパソスによるものであるとフォン・フリッツは言う。フォン・フリッツは原典を引用していないので、ここにすべて引用するが、イアンブリコスの記述は混乱しており、フォン・フリッツは「異議のない」と言っているが、その信憑性については疑問がある。

ヒッパソスの年代についての資料

イアンブリコス「共通なる数学的知識について」(DK18ー4)
ヒッパソスには次のように伝えられている。この人は、ピタゴラス派のひとりであったが、秘密をもらして、最初に12の五角形からできた球(正12面体)を描いたことから、不敬虔のゆえに海で溺死した。そして、これを発見した者としてヒッパソスは名声をえているが、このような発見はすべて「かの人」によるものであるという。彼らは、ピタゴラスのことをこのようなしかたで語り、名前で呼ぶことはない。秘密がもらされた後は、この学問は(ギリシア全土で)発達し、(当時の数学者たちの中でも)とくに抜きんでた二人の者が(第一人者として認められた)。すなわち、キュレネのテオドロスとキオスのヒッポクラテスである。しかしながら、ピタゴラス派の人たちによれば、以下の次第で幾何学が明るみにでたのだという。すなわち、ピタゴラス派のうちのだれかがその財産を失って、このような不幸がおきたために、幾何学で金を儲けることが彼には許されたということである。
イアンブリコス(257)
同門で教えを受けた者らが社会で奇矯な振る舞いにおよんでいるのを世間がしるかぎりで、かようの戒律は、先述のとおり、皆をひとしく苦しめていた。一方学派一門が右手をさしのべるのはピタゴラス派学徒にだけで、家族にも父母をのぞいて誰にもさしのべず、加えて、財産を互いの共有物として提供し、家族から見れば他人のものとなってしまうがゆえに、ひときわ親類縁者は憤慨し、怨恨を抱いたのだった。親類らが離反しはじめるるや、他の者はわが意を得たりとばかり、憎しみに身をゆだねた。それで、千人議会そのものからヒッパソス、ディオドロス、テアゲスが発言して、万人が国政と議会に与り、執政の任を終えた者は全市民から籖(くじ)で選んだ者らの前で行跡を公にすべきと訴え、これに対抗して、ピタゴラス派アルキマコス、ディナルコス、メトン、デモゲネスが論陣を張り、受け継いだ国政が廃絶せぬよう護持せんとしたが、つまるところ大衆の代弁者が勝った。
注、ピタゴラス派に対する反乱はおそらく二度あり、第一の反乱(BC6世紀終わり〜BC5世紀初め)はキュロンが中心的役割。二度目は(BC5世紀中頃)でピタゴラス派が集まっていたミロンの家が焼き討ちにあった。ディモゲネスは、ミロンの娘と結婚していた。

ここで、フォン・フリッツからはなれて、よく知られていない、ヒッパソスにつての資料を検討するが、資料は後代のものがほとんどである。Guthrie`A History of Greek Philosophy(p320ー322)参照

まず、生年、没年は不明であり、イアンブリコスの資料 および注から、第二の反乱の渦中に盛年であったと推測でき、ピタゴラスより、生まれたのは遅いが、二人は同時代に生きていたた可能性がある。以下の資料をみていくと、ピタゴラス派では造反組のようであった。イアンブリコスの資料の「不敬虔で海で溺死した」はそのことを象徴していると思われる

ピタゴラスの反乱について、さらに資料を見ていく、ここでは、キュロンとニノンという人物が重要な役割を果たした。

イアンブリコス(257)の続き
ここのち大勢が集まったところで、演説を分け合って、千人議会が名指ししたのと同じ者らを弾劾せんとしたのが、弁論家キュロンとニノンであった。前者は富裕層、後者は庶民の出身。キュロンが学派弾劾の長広舌をふるったのち、ニノンがさらに続けて、ピタゴラス派の秘伝を調査した振りをしつつ、実際には一門をことさらに論難する事由を捏造し、成文したうえで、書記に本を渡し、読み上げよと命じた。これらの題名は「聖なる言葉」(ピタゴラスの言葉とされているがBC5世紀までさかのぼれない)・・・ピタゴラス一門の哲学は民衆に対する陰謀ばりときっぱり言明し。ニノンがかように中傷で満場の聴衆を暴徒化したために・・・市民が徒党を組んで(ピタゴラス派を)攻撃するの狼狽におよんだ
注、キュロンとミノンを並べているのはイアンブリコスの混同、キュロンは第一回めの反乱に指導者。ニノンは二回目の反乱の渦中にいた。ヒッパソスも同様。

ヒッパソスは、自らピタゴラス派の分派を作った。

イアンブリコス(81)
ピタゴラスの哲学に携わった人たちにも二つの種類があって、一方の人たちは「聴従派」ともう一方の人たちは「学究派」(マテーマティコイ)といった。これらの人たちのうち、・・・「学究派」の哲学的ないとなみを、ピタゴラスのものではなく、ヒッパソスのものだとした。

ヒッパソスはピタゴラスを中傷したとする資料がある

DL8−7
「秘儀論」という書物は(ピタゴラス学徒の)ヒッパソスがピタゴラスを中傷するために書かれたのだとヘラクレイデスは述べている。

ヒッパソスは、始原や魂を「火」とした。これについては、Guthrieは、アエティオスが報告する「ピタゴラスは世界は、火と5個の要素なるから由来する」をテオプラトスがヒッパソスのものとしたと推測している。他の報告も疑わしいものがあるという。さらに、ヒッパソスはピタゴラス派としては「数」と考えていた(p321)としておるが、よく分からない

アリストテレス「形而上学」(987a7)
ヒッパソスとヘラクレイトスは、火を始原とした

次の資料からは、ピタゴラス派らしい姿が見られる

クラウディア・マメルティヌス
ヒッポン(ヒッパソス)は、ピタゴラスと同じ学派の人であるが・・・「身体と魂は別のものである」といっている。

フォン・フリッツは、ピタゴラス派に対する迫害は、BC5世紀はじめの四半世紀の起こり、BC445に終わったとし、先に示したテオドロス(460〜470生まれ)の一世代前のヒッパソスが生きたことが確証できるとしている。この部分はアリストクセネスによるもので、プロクロスの伝えるエウデモスからの情報とは独立したものであり信頼できると言う。

次に、ヒッパソスの業績が4点まとめられている。(すべてDKより引用する)
@プラトン「パイドン」108Dへの古注
グラウコスの技術、これは、容易につくれないものについてか、あるいは、非常に入念に、巧みに作られたものについて用いられる。というのも、ヒッパソスという人が、四つの青銅板の円盤をつくって、それらの直径はどれも等しい長さでありながら、1番目の円盤の厚さを、2番目の円盤の厚さの4/3倍になるように、3番目の円盤の厚さの3/2倍になるように、4番目の厚さの2倍になるようにして、これらを叩くとある協和音をつくりだすとうにした。・・・アリストクセネスが「音階論」、ニコクレスが「観察について」において言及していることである
スミュルナのテオン
これらの協和音をつくるのは、重さの違いによると主張する人たちもいるし、大きさの違いによるとか、動きと振動数の違いによるとか、あるいは、容器の違いによるとする人たちもいる。伝えるところでは、ヘルミオのラソスはーーーメタポンティオンの人で、ピタゴラス派のひとりであったヒッパソスの弟子たちもそうであるがーーー協和音がそれによってつくられる動き(振動)の遅速は・・・数にしたがうと考えて、容器の上にこのような比例関係を作りだした。つまり、すべての容器の大きさも等しく同じような形にしておいて、それらのうち一つは空にしておき、もう一つは半分のところまで液体で(満たしておいて)、両方の容器で音を鳴らすことによって、1オクターブの協和音をつくったのである。そしてふたたびひとつの容器を空にしておき、もひとつ1/4のところまで注いでおいて、これを叩くことによって4度音程を、さらに、これを1/3のところまで満たして、5度音程をえたということである。空の容器ともうひとつの容器の間の比は1オクターブの協和音では2:1、5度音程では3:2、4度音程では4:3になっている。
Aボエティウス「音楽教程」
しかし、エウブリデスやヒッパソスは、これ(他のピタゴラスが定めたものと)とは違った順序の協和音を定めた。すなわち彼らによると、数の増加は、きまった順序のもとに、部分超過比(1+1/xn形)の減少と対応しているーーーこのようにして、2倍は1/2なしにはありえないし、3倍は1/3なしにはありえないことになる。それゆえ、2倍があれば、それから1オクターブの協和音がえられるし、1/2があれば、逆数であるこのものからは1+1/2の割合のもの、すなわち5度音階が生まれる。これらのものを、すなわち1オクターブの協和音と5度音程を混ぜ合わせる、その両方の音程を含んだ3倍の音程を生じさせることになる。しかし、反対に3ではなく逆数の1/3を割り当てるならば、そこから4度音程が生まれることになる。また、3倍と4/3とを掛ければ、4倍の割合のものをつくりだす。このように1オクターブと5度ーーーこれらはひとつの協和音であるがーーーから、これに4度音程をひとつ掛け合わせると、これから4倍の音程、すなわち2オクターブと呼ばれる音程をえるわけである。かくして、これらの人たちによれば、次のような順序になるーーーつまり、1オクターブ、5度音程、1オクターブ+5度音程、4度音程、2オクターブである。
(ニコマコスによる)
Bイアンブリコス「ニコマコスの数学入門」
昔の、ピタゴラスや彼と同時代の数学者たちの頃には、三つの平均だけがあった、すなわち「算術平均」と「幾何平均」であり、順序において3番目にくる平均は、あるときには「小反対平均」と呼ばれ、アルキュタスやヒッパソスらの仲間の数学者たちの頃に「調和平均」という呼び名になったのである。
Cイアンブリコス「ピタゴラス伝」(88)、「共通なる数学知識について」
ヒッパソスについては次のように伝えられている。この人はピュタゴラス 派のひとりであったが、秘密をもらして、最初に12の五角形からできた球 (正十二面体)を描いたことから、不敬虔のゆえに海で溺死した。そしてこ れを発見した者としてヒッパソスは名声をえているが、このような発見はか の人(ピュタゴラス)によるものであるという。彼らは、ピュタゴラスをこのようなしかたで語り、名前で呼ぶことはない秘密がもらされた後は、この学問は(ギリシア全土)で発達し(当時の数学者たちの中でも)とくに抜きんでた二人の者がその第一人者として認められていた。すなわち、キュレのテオドロスとキオスのヒッポクラテスである。しかしながら、ピュタゴラス派の人たちによれば、以下のような次第で幾何学が明るみにでたのだという。すなわち、ピュタゴラスのだれかがその財産を失って、このような不幸がおきたために、幾何学で金を儲けることが彼には許されたのだということである。
イアンブリコス「ピタゴラス伝」(246−247)
とにかく、教義にあずかるに値しない人たちに、最初に通約性と非通約性の本質をもらした人は、ひどく忌み嫌われて、共同生活や共同食事から締め出されたばかりではなく、人びとは、かつては仲間であったこの人が人間たちとの生からもはや離れてしまったと考えて、彼の墓を作りさえしたのである。
また、ある人たちの言うところでは、神霊もまたピュタゴラスの教えを出版した人たちに憤ったという。というのも20の頂点をもつ図形の構成を公にした人は不敬虔な者として海で溺死したからだということである。これは立体とよばれる図形の一つである正十二面体を球に内接させるという意味である。しかし、このような不運に遭ったのは、無理数と非通約性についての教えを口外した人たちであるともいう

フォン・フリッツは@Cが重要、ABは@を補足するものであると言う。ヒッパソスの時代には、Aのような科学的な実験は行われていたが、その後、BC3世紀までは、アリュキタスのもの以外ない。同時代に最も多くの実験を行ったのは、シシリー生まれの、クロトンにも住んだことがあるエンペドクレスの例を挙げている。エンペドクレスは、ピタゴラス派ではないが、ピタゴラス主義に影響された人物。エンペドクレスの行った実験をフォン・フリッツは4つ挙げている。

@アイリアノス「動物誌」
エンペドクレスもまた、海には甘い水(真水)があって、すべての人に明らかになっているわけではないが、魚の栄養になっていると語っている。そしてこの海水の中で甘くなる原因は自然的なものであると彼は言うが、それを諸君は先の実験から知るであろう。
注、先の実験とは、空洞の軽い容器を蜜蝋で作って、それを空のまま海に下ろして一昼夜経過した後に一杯になったのを汲み上げるならば、それは甘く飲める水で一杯になっているというのである
(アリストテレスによる)
Aアリストテレス「天体論」
エンペドクレスのごとき人々は・・・・コップの中の水のように大地の運動を妨げるものだという。というのも、コップが旋回するとき、水はしばしば青銅の下になることはあっても、依然として同じ原因のよって、本性的には運動するものでありながら、下へ行くことはない(遠心力のことをいっている)
Bガレノス
錆や明礬やカドニウムや銅を細かく砕き、粉末状にして混ぜ合わすならば、それらのいずれも他から分離して取り扱うことができないが、それは、そのようにそれら第一の諸元素が互いに混ざり合うことによってである(化合のことか)
Cアリストテレス「呼吸について」
「原典Bー100」女の子が輝ける青銅製のクレプシュドラ(水取り器)で遊ぶ時のような
すなわち少女が管の口をかわいらしい手の押し当てて
白銀色の水のしなやかな体の中に浸すとき
水は少しも容器に入ってこないで、それを閉め出している。
注、エンペドクレススは詩の形で自らの思想を語っている、フォン・フリッツはここでは実験のことには触れていないが、実際に行われたはずだと言う。

注、アナクサゴラスも同様の主張をしている(DKAー67、68)
次の、アルキュタスの資料は、観察から分かるものだが、絶えずこれらを確かめるために実験を繰り返していたのだとフォン・フリッツは言う。
ポルピュリオス「音階論」、ニコマコス「数学入門」
「数学上の諸問題について、彼らは立派に認識したと私は思う。そして個々の事柄について、それがどういうものか、彼らが正しく思惟していることは、何ら意外ではない。なぜなら、万有の本性について立派に認識するほどの者は、その部分にわたる問題についても、それがどういうものか、立派に洞察するだろうからである。かくして彼らは、星の速度や出入りについて、また、幾何学、算術、天文学について、そしてとりわけ音楽について、明確な認識をわれわれに与えてくれたのである。これらの数学的諸学科は、互いに姉妹関係にあると思われる。というのも、それらは(互いに)姉妹関係にある存在の第一のものたる二つのもの(数と大きさ)をめぐって、その存立を有するものだからである。さて、まず最初に彼らは、音というものは何かあるものが互いに衝突することをなくしてはありえないということを洞察した。衝突というものが起こるのは、運動するものが互いに遭遇してぶつかるときであると彼らは言う、逆方向に運動するものが遭遇する場合には、(衝突して)お互いが共に勢いを失う際に音を発し、また同一方向に運動するのも、速度が等しくないために、後から追ってくるものに追いつかれて打たれ、音を発する。ところで、それらの音の多くは本性上われわれに認知されることのないものとなっているが、それはひとつには衝突の弱さのためであり、ひとつにはわれわれからの距離が遠いためである。またある場合にはその大きさが超過しているためである。すなわち、音のなかでも巨大なものはわれわれの耳に入ってこないのであって、それは口の小さい容器に多量に注ぎ込もうとしても、注ぎ込めないのと同様である。さて、感覚に達するもののうち、衝突の後すぐ、そして(強く)耳に達するものは高い音として現れ、ゆっくり弱々しく達するものは低い音として現れると彼らは考えた。なぜなら、杖を取ってゆっくり弱く振るとき、衝突による音は低いものとなろうし、速くて強ければ、高いものとなろうからである。だがわれわれは以上のことから認識するだけでなく、また話すときでも歌うときでも、大きな高い声を発したいと思うときにはわれわれは激しい息で声を出し、・・・・(欠落)・・・・なおまたこのことは飛道具の場合と同じである。強く放たれたものは遠くに飛び、弱いものは近い。なぜなら、強く飛ばされるものには空気もいっそう譲るが、弱いものにはそのことは劣るからである。同じことは声の場合にも起こるであろう。強い息によって発せられる場合には、大きくかつ高いが、弱い息による場合には、小さく低いであろう。さらにまた次のきわめて強力な証拠によっても、われわれはこのことを知ることができる。すなわち、同じ人であっても、大きな声をだせば、遠くからでもわれわれはそれを聞き取るが、小さいと近くでも聞き取れないということである。さらにまた笛の場合でも、口から吹き込まれた息が口の近くの孔に入ると、きわめて強力であるがゆえに高い響きを発するが、遠くの孔に入ると、低い。従って明らかに、速い運動は響きを高くし、遅いのは低くする。さらにまた密儀で振り回される唸り独楽でも同じことが見られる。静かに振り回せると低い響きを発し、強く振り回されると高い響きを発する。また、アシ笛にしても、下まで孔を塞いで息を吹き込むと、われわれにむけて(低い)音を放つが、その半分か、あるいは任意のところまでだと、高い音を発するであろう。同じ息であっても、長い距離を通れば、弱くなって出て行くが、短い距離であれば、強いままであろうからである。」音の運動が音程に関係するということについてさらにその他のことを述べた上で、アルキュタスはこの論議を次のように総括している。「かくて、高い音は運動が速く、低い音は遅いことが、多くのことからわれわれに明らかとなった」

以上の資料から、フォン・フリッツは次のように結論づけている。
アルキュタスは、これらの理論はだれのものか、それはどんな観察や実験から得られたかを明らかにしていないが、つまり名前を挙げていないが、数学者の貢献であるとしている。これらの理論と観察は、ヒッパソスが立証した結果を、科学的に発展させたものである。それは、協和音は、音を出すものなら何でも当てはまる、普遍的な、音の物理的な理論である。一方、アルキュタスとヒッパソスは同じ南イタリアに住み、二人とも物理的な音楽理論の発展に貢献したことから、ピタゴラス派に科学的な研究に従事した分派があり、そこで音楽理論が発展した。そして、フォン・フリッツは、音楽理論の始まりはヒッパソスであり、アルキュタスがこの本「音階論」を書く前にはさらに発展していたと結論づけている。さらに、このことから、古代の伝承が伝えるように、ヒッパソスは南イタリアにおいて、BC5世紀中頃この実験を行ったという想定は蓋然性が高いことが、立証されたとフォン・フリッツは言う。

注、ヒッパソス、アルキュタスはピタゴラス派とされる

ここから、フォン・フリッツは、通約不能量の発見を哲学的に考察していくが、様々なことを発見に結びつけており、長々と述べているので、その要点をまとめて述べる。

青銅版やタンブラーの実験と通約不能量の発見の関連について。フォン・フリッツは、BC5世紀の哲学者たち(ヒッパソスも含めて)の実験は、すでにある理論を検証(追試)したものである(エンペドクレスの例をフォン・フリッツはあげている)。2つの弦をある比の長さで弾くと協和音を発生する。これをヒッパソスは、ただ、青銅版、タンブラーのように楽器以外でたしかめようとしたにすぎないが、重要なことは、次の点であるとフォン・フリッツはいう。それは、弦は一次元的なものである。フルートも、同じフルートから異なる音が発せられるが、同じフルートであるから一次元的だという。ヒッパソスが青銅版を使ったときに、二つの次元が同じ(三次元空間の立体のことを考えているのか?)で、もし、協和音が発生させられるならば、3つ目の次元として、長さとか、厚さとかよばれるものは、重要ではなく(たぶん、名前か単位がつくものつまり測度)さらに、材質、音質、音色とは独立しているもの、つまり、協和音を生じさせるものは、一次元の数の比に依存するということである。また、ヒッパソスは、音楽理論だけでは満足せず、協和音を生ずる数比の数学的な関係の研究を行ったとしている。(これは、フォン・フリッツは具体的に何であるか説明していないが、算術平均、幾何平均、調和平均のことを指すのかも?)
ここから、非物体における数の「比」から、哲学的な長い論議が始まり、通約不能量の発見に結びついていく。
ここで、フォン・フリッツは、アリストテレスが述べた「万物は数」について取り上げている。(数の「比」とピタゴラス派のものとされる教義と関連させていく)アリストテレスは何カ所でこのことを述べている、原典を見ていく

アリストテレス「形而上学」986bー20〜
あのいわゆる「ピタゴラスの徒」は、数学の研究に従事した最初の人々であるが・・・この数学の原理をさらにあらゆる存在の原理と考えた。・・・音階の属性や割合「比」(ロゴス)も数で表されるのを認めたので・・・他のすべては、その自然の性をそれぞれ数にまねることによって、作られており、それぞれの数そのものは、これら自然において第一のものである。
アリストテレス「形而上学」(1080、10b〜)
ピタゴラスの徒も数学的の数を認めるが・・・この数学的の数から感覚的な諸実体が合成されると言っている

アリストテレス「形而上学」987a19〜
イタリアの徒(ピタゴラスの徒)は、数がすべてのものの実体であると言われたのである。
注、ピタゴラスの徒が、どの時代のピタゴラス派なのか、アリストテレスは明らかにしていない。最近の研究Hfuman、BURKERTによれば、アリストテレスは、ピロラオスの断片を参照していることが明らかになっている。従って、問題はピロラオスの述べていることが、ピタゴラス派のどの時代まで遡れるかということである。ピロラオスはヒッパソスより後の人(BC470頃〜)

フォン・フリッツは、アルキュタスの「音階論」によれは、当時音楽だけではなく、他の算術、幾何学、天文学は、かなり長い時間をかけて進歩してきた、そして、互いに数を通じて関係している。この4科も、「万物が数である」という根本的な原理にさかのぼるものであるという。

プロクロスによれば、後に「等しい」とよばれるものを、タレスは「相似な角度」と名付けた。(よくわからないのでHeath p130〜131を引用する。)
まず、フォン・フリッツは、プロクロスが伝える「すべての二等辺三角形の底辺上の二つの角は相い等しいことを知り、そう語ったと伝えられている、ただし「相い等しい」というのを、より古めかしく『似ている(similar)』という言い方をした」このことについて言っていると思う。heathによれば、タレスが、「角度が等しい」ではなく、「相似」という用語を使ったのは、角の大きさというよりは、図形の形に関して用いたとしている。そして、このことは、セケド、エジプトのseqed(コタンジェント)つまり、リンド・パピルスのピラミッドと記念碑の問題で用いられている「比」のことと同じことではないかと推測している。つまり、セケドは物事の本性(性質)、いいかえると、相似性、傾きをあらわしている。タレスはプロクロスが伝える「円に直径によって二等分される」これに関してHeathは、エジプトの記念碑や壺の絵に描かれていた、円を、2、4、6本の直径で扇形に分割された図形を観察して発見した。(カントールの説)を紹介している。フォン・フリッツの言う装飾的な図形とは、これらのことではないか?さらに、物事の本性と数の関係に、また、たどり着くということかも?いずれにしてもフォン・フリッツは次のことを言いたかったのである。それは、ピタゴラス派の音楽理論と、この幾何学的な装飾の図柄の類似がある。その理由は、音楽の耳によって聴(知覚する)音は、実は弦の長さの数の比であるように、幾何学な図形は目によって見える(知覚する)が実は、図形を形作る辺の長さの比に基づいている。つまり、数の比によって表されるということである。

フォン・フリッツは、三平方の研究はさらに進み、プロクロスの伝えるピタゴラス数を求める公式を取り上げている。この公式はピタゴラスに帰せられるているが、真相はわからないが古いものであるという。ここで、フォン・フリッツは、
3:4:5や、8:15:17の辺の比をもつ直角三角形について、ユークリド的、現代的には「相似」ではないが、装飾的な図形の直角という意味では「相似」であるという(ここの所はよくわからないが以前のタレスに関する部分のことかも)そして、この二つの三角形は同じ公式から導かれると言う。

より重要なのは、主にアリストテレスが報告する、ピタゴラス派による図形数であり、要点だけ述べると、長方形数では、対角線で二つに分けると、合同な二つの直角二等辺三角形ができ、正方形数では、大きさがちがう二つの直角二等辺三角形ができる。このことから、ピタゴラス派では、テオドロス以前に、ルート2は知られていた。さらに、ピロラオスが報告する偶数・奇数論はピタゴラス派のものであり、アリストテレスが証明の概略をのべたものは、すでに知られていたと、なぜなら、通約不能性や通約可能性の用語はティアイトスでも使われていたので、それ以前であると。しかし、フォン・フリッツはそれ以前(ルート2)に、正五角形をつかって、ヒッパソスによって発見されていたと言う。この所はあまりつじつまが合わない、やはりルート2ではないかと私は思う。ヒッパソスに関する資料は先に挙げているので参照してください。次のリンクでヒッパソスが行ったという証明のフォン・フリッツによる再構成および他の再構成について述べます。

フォン・フリッツはヒッパソスの証明ののちに次のようにのべており、現在でもさまざまな書物に「ピタゴラス派の危機説」がくりかえし述べられているが、この説を支持する研究者はほとんどいない。斉藤憲は次のようにのべている。「フォン・フリッツの晩年にはスキャンダル説は支持を失いつつあった・・・今日スキャンダル説に固執する研究者はほとんどいない」(Fowler The Mathematics of Plato’s Academy p356は、危機説を徹底的に批判している)

フォン・フリッツの危機説
logosは「比」という意味と「言葉」という意味をもち、alogosは「比を持たない」「言ってはならない」とうい二つの意味を持つ従って、言ってはならないことを公にしたヒッパソスのスキャンダルについて、フォン・フリッツこう述べている「それまでのピタゴラス派の哲学全体の基礎である、万物が数(整数の比)で表せるという信念を一撃にもとに破壊したのだから、通約不能量の発見はピタゴラス派にとって衝撃であったにちがいない。このおそろしい発見を公にしたヒッパソスが、神によって罰せられたという伝承に映し出されている」このことが、現在でもさまざまな書物で述べられていることである。