いわゆる四科が、西洋中世にどのように伝搬したか、その結果、ピタゴラスが数学のスーパースターであるという伝説が西洋に根付き、現代まで語り継がれている

ギリシア語で数学を意味することば(単数形μαθημαマテーマ、複数形μαθηματαマテーマティケー)は学ぶべきものという意味で、動詞μανθανωマンタノー(学ぶ)に由来する。

主な参考文献
GREEK MATHEMATICL WORKS(Harvard up)・・・ギリシア数学史の資料集
ギリシアの数学(共立出版)
ソクラテス以前の断片集(岩波書店)DKと略
プラトン「国家」(岩波文庫)
Boethius His life Thought and Influence(Oxford up)
「中世における古代の伝統」、所収リーゼン・フーバー「ボエティウスの伝統」上智大学中世思想研究所編

古代ギリシアでは、一般的にはピタゴラス派に帰せられる四科、以下資料のように、数学的諸学科をさしていた、その後「数学」を表すようになる。

アルキュタス、プラトンは同時代の人であるが(プラトンはアルキュタスを訪問している「プラトン第七書簡」参照)において、マテーマタの内容が四つにまとめられてくる。後に、ボエティウスによって呼ばれた四科(quadrivium)が成立する。まず、アルキュタス、プラトンの資料を挙げる。

ポルピュリオス『プトレマイオス「音階学」注解』(DK47B−1)
ピタゴラス学徒のアルキュタスのことばを取り上げておきたいと思う。彼の書いたものは最も信頼できるものであるといわれている。彼は『数学について』において、その議論をはじめるにあったて次のように語っている。「数学上の諸問題について、それがどういうものであるか、彼らが正しく思惟していることは、何ら意外ではない。なぜなら、万有の本姓について立派に認識するほどの者は、その部分にわたる問題についても、それがどういうものか、立派に洞察するだろうからである。かくして彼らは、星の速度やその出と入りについて、また、幾何学、算術(数論)、天文学について、そしてとりわけ音楽について、明確な認識をわれわれに与えてくれたのである。これらの数学的諸学科は姉妹関係にあるように思われる。というのも、それらは、(互いに)姉妹関係にある存在の第一のものたる二つのものあ(数と大きさないし量)をめぐって、その存在を有するものだからである。

注、Burkertはプラトンの「国家」のこの部分を後代に挿入したものだと信憑性を疑問視している。Huffmanは真性なものとしている。Huffman、Archytas of Tarentum。いずれにしても、プラトンの「国家」における記述より、この時代に数学的な4科が成立したと考えてよい。

注、ニコマコス「算術入門」、イアンブリコス「ニコマコスの数学入門」にも同じ記述がある

プロクロス「ユークリッド原論第一巻注釈」によれば、ピタゴラス派の人々は、数学的諸学科を、数と量、さらに静止と運動に分けた。数論は数自体(静止)、音楽は他の数との関係で(静止)、幾何学は静止における量、天文学は運動における量。

プラトン「国家」525〜
数のもつ右のような性格は、真実性へと導くものである・・・・この学問(計算術と数論)は魂をつよく上方へ導く力をもち、純粋の数そのものについて強制する・・・(プラトン第二に、幾何学、第三に立体幾何学、第四に天文学、そして音楽をあげて次のように述べている)目が天文学との密接な関係のもとに耳が形づくられているのであって、この両者に関わる知識は、互いに姉妹関係にあるのだ。とこれはピタゴラス派の人々が主張し、われわれもまた、グラウゴン、賛成するところなのだがね。

その後、つぎのように「数学」は幾何学と数論をあつかうものとされた。

ヘロン「定義集」、アナトリウス(3世紀の司祭)の著作より。数学という名の由来
なにゆえ「マテーマティケー」と呼ばれたのかペリパトス学派の人々は次のように言っている。修辞や詩やすべての大衆音楽は、学ばずとも人はこれらを理解することができる。しかしマテーマタと呼ばれている学科は、予めそれらの教育課程をふんでおかなければ、何人もその知識を身につけることができない。このゆえに、これらの学科の研究がマテーマティケーと呼ばれるのだと彼らは考えている。ピタゴラス派の人々はマテーマティケーという特別の名称を幾何学と数論にのみ与えたと言われている。以前はそれらのいずれもが別々によばれていて、この二つの学科に共通する名称はなかったのである。

ボエティウスがギリシアと西洋中世へもたらし、教育課程に取り入れられた

ボエティウスが四科という言葉を使い、中世に伝え、その後、リベラルアーツ「自由七科」としてまとめられる。以下ボエティウスの貢献を見ていく。

ボエティウス(480ー524)
科学史における貢献は二つあり、一つはアリストテレスの論理学書を翻訳による論理学の部分であるが、もう一方の数学的な部分が重要である。それは、ギリシアの科学書をもとに数学的四科の手引き書・抜粋書をつくり、ギリシアの数学的科学の内容の要約の形で中世に伝えたことである。
算術、音楽、幾何学、天文学の「四科 クワドリウィウムquadrivium」という言葉もボエティウスが初めて使い、各科の順番もこの順にした。

(1)ボエティウスの中世世界における受容の諸段階

@5世紀〜8世紀以前
ボエティウスの死からカロリングルネサンスまでの約300年間は、僅かな例外をのぞけば、写本や彼に対する言及、あるいはその思想の影響などのかたちで彼の著作の痕跡を窺わせるものが存在しない。
例外、カッシドロス(485頃ー582頃)における報告(後述)、マクシミアヌス(6世紀)によって書かれた詩の一節と惜辞にみられる「哲学の慰め」との類似、最後に6、7世紀に由来する「算術教程」の1つの断片が存在するのみ。

A8世紀〜9世紀
それまで忘れられていたボエティウスの個々の著作が次々と陽の目を浴び、写本が作られるとともに、欄外または行間の注解が施された。こうして彼の著作活動の全貌、すなわち四科に属する数学的著作から、ポルフェリオスとアリストテレスについての論理的著作、そしてアウグスティヌスに範を採った神学的著作、さらに「哲学の慰め」に及ぶ全著作が知れわたり、特にその数学的・論理的著作群は、カロリング・ルネサンスの学問形成に多大な貢献をはたすことになる。

B10世紀初頭〜11世紀末
この2世紀の間は、新たな欄外・行間註記や註解書はわずかしか現れておらず、このことはこの時代の文化一般の衰退を反映している。しかしながら、この時代でもボエティウスを手引きとして数学論理学の研究が続けられた

C12世紀ルネサンス
ボエティウスの思想は新たに広範な影響を及ぼした。彼の著作は、サン・ヴィクルト学派において講義され、シャルトル学派では、もはや欄外・行間註釈にとどまらない浩瀚(こうかん)な註解書が著された。四科については彼の全著作が熱心に研究された。

D13世紀
大学が誕生して、哲学・神学研究に携わる教師と学生の数が増加するにともなって、ボエティウス研究は少なくとも量的には頂点に達したのとは、現存する写本から明らかである。ボエティウスの著作のいくつかは大学教育の必修の教科書とされたものの、その際には彼の研究を超えるものが求められるほどに、その思想は一般化した。

E14世紀
13世紀には神学的著作が、14世紀にはその数学的・論理学的著作もまた背景にしりぞいた。しかし、「哲学の慰め」は市民階級において好評を博し続けた。

(2)四科についての個々の著作の受容と解釈

@[算術教程」

*四科は哲学に通じる(プラトンの国家に読み取れる)
四科(算術、音楽、幾何学、天文学)はプラトンとアルキュタスに遡るが、ボエティウスは四科にたいして哲学の導入、またはそれの本質部分としている。ボエティウスは、真理と哲学にいたる道はただ四科を通してのみ拓かれるという、ボエティウスは「もし、探求する者がこれら四つの学科にについての知識を欠くなら、彼は真理を見出すことができない。この種の真理の把握がなければ、誰も正しく知ることができない。つまり真理は、真に存在する事物についての認識と完全な把握である。このような知識の道を悔いる者は、正しい仕方で哲学することはないと私は断言する。まことに哲学が知恵の愛である以上、これらあ(四科)を悔いる者はすでに哲学をないがしろにしたことになろう」と述べている。明らかにプラトンの影響が見られる。さらにボエティウスは「まさに四科によってこそ、われわれは優れた魂を、感覚によって得られた知識から、知性のより確実な対象にまでもたらすのである」という。
さらにボエティウスは「算術教程」の冒頭で、ピュタゴラスの名を挙げながら「四科」という表現を導入し「いわばこの四重の道を通してこのような高貴な理解を辿っていかなくては、哲学の諸学科の最高の完全性に達しうる者などはありえないだろう。」と述べている。

*実用的な算術ではない
ボエティウスが目指したのは、数と数学的比率の本質についての哲学的解明であった。中世、特に13世紀以降の思想家たちは、ボエティウスのイトに従って、中世末期まで「算術教程」を基礎として研究されていた理論的・哲学的数学を「アルゴリズム」と呼ばれた実用的な計算方法と区別していた、実用的な計算方法は発展していったが、ボエティウスの数の理論は13世紀以降何ら発展を加えず、基本的に変化はなかった。

*算術がすべての基礎
四科(算術、音楽、幾何学、天文学)の共通の主題は大きさと多数性、すなわち量である。量の基本的要素は数であるが、ボエティウスはその理論を新ピュタゴラス主義者のニコマコスの「算術入門」に立脚しながら展開している。数とは純粋に理性的な可知の原理、すなわち割合、比率、順序であるという。数という根本原理は、四科に属する四つの学科において順次展開されている。数はそれ自身としては算術において、また他の数との関係あるいは比率において音楽によって、ついで連続量の原理としては、静的には幾何学、動的には天文学において考察される。ボエティウスは次のように述べている「多数性のあるものは、3,4,・・・のようにそれ自体存在する。・・・またあるものは、倍や半分・・・のように、それ自身では存在せずに、他のものとの関係で存在する。・・・大きさのうち、あるものは静的で運動を欠き、またあるものはたえざる変化の内に変転し、止まることを知らない。ところでこれらの種類の内、算術全体は、それ自身で存在する多数性を考察する。音楽における音程の測定は、他のものとの関係のうちにある多数性を把握する。幾何学は不動の大きさについての知識を提供する。運動するものについての知識は、天文学の考察が獲得した」

*「算術教程」の伝搬・受容
1,8世紀末・・・ボエティウス受容の最古の証言は、8世紀末のアルクイヌスの「文法学」でボエティウスの「算術教程」の冒頭の文章を窺わせている。

2,10世紀まで・・・ボエティウスの「算術教程」は180を超える数の現存写本が示すように、算術的知識、および哲学・神学にまで関係する中世の数学的思考の基盤となるばかりか、ルネサンスにおいてすら、1488年から1570年のあいだにおよそ250刊本が公刊されるほど注目されていた。それどころか、この著作における比率の理論は、音楽や文学だけではなく、建築や倫理学にまで影響を及ぼしている。すでに9世紀のカロリング・ルネサンス期には、カール禿頭王(在位840〜70)のための美麗写本を含む現存の10の写本から裏付けられるように、この書物は広い範囲で読まれていた。

3,10世紀〜11世紀
「算術教程」は基礎文献として学校において読まれたため、10世紀以降はその要約が作られ始めた。

4,11世紀以降
論理学的知識が増大し、カルキディウスによるプラトン「ティマイオス」の翻訳を手がかりとした宇宙論的思弁が繰り広げられるにともなって、12世紀においては少なくとも四種類存在した註解が示すようにボエティウスの著作はより深い仕方で受容されることになった。その際には、天界の諸元素と諸天球の調和とが数学的構造をもつというだけではなく、神による創造、および人間の理解そのものが数学的性格をそなえているものとされており、シャルトルのティエリ(1100〜56)は、三位一体の考察から始めて、ボエティウスを踏まえながら、あらゆる実体的存在の数学的本質を提示し、次のように述べている「『算術教程』の序文にあるように、数は、創造者の精神の内に第一の範型として実存した。おなじように、ソーズベリのジョン(1115〜80)は「メタロギコン」もこの文と同じように数学的に解釈されたイデア論に触れている。一方サン・ヴィクトルのフーゴー(1096〜1141)の「学習論」および同時代の註解書を通じて、四科は数学の内に組み込まれた。ここでいう数学とは、アリストテレスの学問論が適用されることによって、存在関わる三つの理論的学ゆまり、自然学、数学、神学的・形而上学神学の一つとして、七つの技術的学芸、および実践的諸学である、倫理学、家政学、政治学の上位に置かれた。このようにアリストテレス的認識論および抽象理論の文脈の内に位置づけられることによって、ピュタゴラス・プラトン的かつ合理的をもつア・プリオリな数論は、ボエティウスによって認められていた中心としての機能を弱めることになった。

5,13世紀のトマス・アクィナス(1225〜74)「三位一体論註解」
トマス・アクィナスがボエティウスの神学的著作についての最後の大きな註解である「三位一体論註解」において学問の分類の問題に取り組んだ際には、四科の中での第一の地位を算術にあて、次のように述べている「最初に生徒には論理学から教えられる・・・第二には経験を必要とせず、想像力を超えることもない数学である。第三は自然学・・・第四は道徳学・・・・」これに対してウィンケンティウス(1190〜1264)は数学的諸学科を経験的自然学の後に学ぶことを奨励している。

6,13世紀
このようにして13世紀において算術の逸に変化が現れ、パリ大学学芸学部においても、ストア派の学問分類に従って、哲学の三部門つまり論理学、倫理学、自然学を自然学、すなわち存在者についての理論的知に従属させるようになるが、それでもボエティウスの「算術教程」の評価は損なわれることはなかった。この時代の数学の水準に照らすならば「算術教程」は初歩的ではあるが、数、比率、秩序についての哲学的見解ゆえになおも大学における基本文献であり続けた。

A「音楽教程」
四科の配列では二番目にあたるボエティウスの「音楽教程」は、「算術教程」とは独立して伝承されたにもかかわらず、すくなくとも中世の読者は「算術教程」と内容的に一貫性のあるものとして受け取った。なぜなら、その内容は、ニコマコスやプトレマイオスの影響のもとで、ピュタゴラス的な精神に即して、音楽を数学的観点から扱っているからだ。

「音楽教程」の伝搬・受容
カッシドロスやイシドロスは、自身の音楽論を起稿する際には、ボエティウスの音楽論を手にしていなかった。カロリング・ルネサンスまでの数世紀の間にも「音楽教程」への言及は見られない。ベーダ・ウェネラビリス(673ー735年)の名のもとに伝えられていた「音楽理論」は、ボエティウスの音楽論についてのおそらくイングランドおよびアイルランドに由来する初期(9、10世紀)の註解と欄外註記の集成であることが判明している。ヨーロッパ大陸では9世紀中頃、カロリング・ルネサンスの最初の音楽理論家であるアウレリアヌスがボエティウスの音楽論を抜粋し、解説を施した。さらに、アウレリアヌス「新音楽論」はビザンティンの伝統に由来すると思われる比較的自由な和声法をもった古来の八つの教会旋法を、ボエティウスによるはるかに厳密な量的・数学的比率の理論によって表現する試みを行っている。
音程やテンポに関してボエティウスが展開した複雑な数学は、9、10世紀の著作家たちにとっては相当難解なものであったために、たとえばレギナルト(915没)においては、ボエティウスの抜粋にのみ依拠し、それになんの註解も与えていない。これに対してジュベールのような数学的逸材は、ボエティウスの音楽論についての註解を二種類著している。また、フクバルト(840ー930年頃)は「和声論教程」において、ボエティウスの音楽論をさらに内容的に忠実に解釈し、教会旋法をボエティウスの体系に組み込むことを成し遂げた。さらに、ヘルマン(1013ー54年)の「一弦琴についって」「音楽論」はボエティウスの思弁的音楽論を正確に把握したために、彼はボエティウス音楽論(あるいは写本の伝承)における間違いを最初に指摘した。ジュベールあるいは彼に先駆けてフクバルトは、オルガンおよび一弦琴についての詳述の際に、ボエティウスの音楽論を実践的に適用することの限界を認め、それとともに実用的な音楽論と思弁的・哲学的音楽論の区別を導入していたが、11世紀においては、ボエティウスの厳密な比率理論は、古来の教会旋法における緩やかな和声法に取ってかわっていったのである。ボエティウスの音楽論は、現実の音楽、特に多声音楽に対して適用不可能になっていくとともに、またいくつかの学芸学部においてはヨハネス・デ・ムスリの「思弁的音楽」のような摘要がボエティウスのテクストの代わりに用いられていたとはいえ、それでもやはりその音楽論は、大学における音楽理解の基盤であり続けた。思弁的音楽の部門と理念は、諸大学において16世紀まで、またオックスフォードでは17世紀まで引き継がれていくのである。

C天文学
カッシドロスによって伝えられたテオドリクスの書簡によれば、ボエティウスは天文学についても。プトレマイオスの翻訳に基づいて教科書を著していた「あなたの翻訳のおかげで、イタリア人によって、音楽者ピュタゴラスや天文学者プトレマイオスが読まれ、算術者ニコマコスや幾何学者ユークリッドがローマ人によって語られています」ボエティウスは「算術教程」において天文学の主題について「天体の運動そのものにも音程の調和が讃えられる。」と述べている。ボエティウス本人に帰せられた天文学の著作は現存しないため、なんの手がかりもない。

自由七科とは・・・、文法、修辞学、弁証論の「三科」と幾何学、天文学、算術、音楽の「四科 quadrivium」との総称で、中世の学問の中核となった。いくつかの基本的学科をまとめて「自由学芸」として、学問の土台とすることは、前一世紀のワッロに始まっているが、これがこの七つに限定されてくるのが五世紀から六世紀にかけてである。これは、マルチィアヌス・カッペラ(四世紀から五世紀)の「フィロギアとメルクリウスの結婚について」という書物で自由七科についての書物を著した。このカッペラの書物と、のちのカッシドロス(478−583)がこの七科を修道院教育の基礎学科として採用し、その研究を奨励したことが相伴って中世の教育の基準的カリキュラムになった。カッペラの書物には、ユークリッド原論の一部とニコマコスの算術の一部が述べられている。

自由四科の中で算術は一番高い地位を占めており、トマス・アクイナスは「形而上学諸作集12巻」で算術を第一位においている当時大学では使用された教科書の第一はボエティウスの「算術教程」である。内容はピュタゴラス的数論、比についてであった。

ピタゴラスの名前が西洋に伝わっていった理由

Burkertは、ギリシア数学はピタゴラスもたらしたものであるという根強い確信がヨーロッパに伝わったのは、西洋の教育の伝統によるとしている。(p406〜407)。それは、ニコマコス、ボエティウスらの以上に述べた伝統による。ニコマコス「算術入門」のはじめには「古代の人々は、ピタゴラスのリーダーシップのもとに、初めて科学を体系的なものとした。」ボエティウス「算術入門」にも「古代の人々はピタゴラスに導かれて・・・ピタゴラスによってもたらせられた四科により」、生徒たちは、ピタゴラスの名前をたえず目にしてきた。さらに、次のベーコン(1214年〜)のような人々に受け継がれていったと思われる。

ロジャー・ベイコン「大著作集4巻」2章
ボエティウスは「算術」の第二序文でこう述べている「もし探求する者が数学の四部門をかいているならば、実際その人は全く何も発見しえない」「精神の一層純粋な理性をもった指導者ピュタゴラスによって栄えていた」