(No20) 
『行ってきました!』  そういう名前のお土産がありました。 このページは、お土産を食べてはいただきませんが、“チョットでかけてきました” −ご紹介いたします− のコーナーです。
 お気軽にご覧にいただき、お楽しみください。
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 メ モ: ◇所在地 : 九州・熊本にあり「天草5橋」「ハイヤ節」などが有名
         ◇「キリシタン」とは英語のクリスチャンに当たるポルトガル語
 

熊本・天草は大きく上島、下島と二つに分かれ自然豊かで、西岸を東シナ海に面し夕日100選にも上位に入るという美しい島である。

 天草が外国文化、とりわけ宗教におけるカトリック教と出会ったのは、長崎と同じく、日本のどこより早くかつ濃密にかかわった所といえる。豊臣秀吉から徳川江戸時代が終わるまで、苦難の道を歩みながら、この地はキリシタン(カトリック教)の文化と風土を培って来た。
 天草を訪れる機会があり、天草とキリシタンとの結びつきを少し考えながら、この地に立派な姿を見せている二つの教会−「大江教会」「崎津教会」を訪ねた。

−キリシタン、天草に伝わる−

 西暦1543年、ポルトガルから種子島に鉄砲が渡来する。その6年後、フランシスコザビエルにより日本にキリスト教が初めて伝えられた。日本は桶狭間の戦いが火花を散らす戦国時代である。
 ザビエルによるキリスト教伝来の7年後、1566年天草下島北部の領主志岐麒泉の招きでポルトガル人宣教師ルイス・デ・アルメイダがこの地にやって来た。天草でもっとも有力な領主の力添えで、またたくまに多くの人が洗礼を受けクリスチャンになる。2年後にはこの地で「全国宣教師会議」が開催されるほどの基盤が出来上がり、それと共に西欧の新しい文化(コレジヨ(神大学校)、印刷、時計組立など)が天草へ大きなうねりとなって流れ

崎津教会

込んできた。

 −天草四朗時貞−

 徳川家康により江戸幕府が開かれた1603年以降、鎖国の強化と共に異教への禁教令が布告(1612年)される。これ以降、天草キリシタンの苦境の時代が始まる

加えて1634年九州西部一帯が凶作に襲われ、これが3年間も続くという最悪の事態に見舞われ餓死者も出るほどであった。こんな中でも領主の徴税の厳しさは弛まず、ついに長崎島原・天草地方に圧制に対する反乱が巻き起こった。「天草、島原の乱」である。
 その時、一揆軍は天草キリシタン大名小西行長の遺臣益田氏の子、四郎時貞を天童に仕立て、団結の象徴として結束を固め戦いに臨んだ。その人物が弱冠16歳の「天草四郎時貞」である。しかし、この戦いは結果的に破れキリシタン苦難の時代がさらに深まることになる。

 −天草・二つの教会−

 時が流れて徳川幕府が大政奉還を行い、時代は明治に移って6年後、キリスト教解禁が決定された。苦難の時代に幕が閉じられ、こころ穏やかに信ずる道に身

大江教会

をおくことが出来るようになった。
 その天草で、次の二つの教会を訪ねてみた。

 「大江天主堂」 (所在地:天草郡天草町)
 1873年2月キリスト教禁制が撤廃されると長い信仰の歴史がある大江地区では、いち早く教会堂が建てられた。現在の白いロマネスク建築は1933年(昭和8年)フランス人神父が私財を投じて建てた。やや小高い場所にあり清らかな白で塗られた教会は、この地の人のシンボルであることが十分に理解
できる。

教会の脇で‥「スノーフレーク」    天草四郎像

 また、明治40年の初めにこの地を訪れた北原白秋、与謝野鉄幹ら5人の詩人達が、紀行文「5足の靴」を発表。天草の名を全国に高めた。

「崎津天主堂」 (所在地:天草郡河浦町)

 大江教会からさらに南東へ約5キロ、内海の洋角湾に面して建つ。崎津地区は大江教会の巡回地(支部)であった。神父は海と山を越え往来し信者たちの指導に献身していたが、昭和3年ハルブ神父が主任神父として定住し大江教会から独立した。現在の教会は昭和9年そのハルブ神父が建立した。洋角湾に臨む教会は周囲を漁師の家に囲まれ、地域生活の中に溶け込んだ教会としての姿がうかがえた。静かな湾に写る天主堂の風情は一服の絵そのものである。

(注)昔は、教会は天主堂と呼ばれており、当時の名残で今でも特にカトリック系教会をそのように表現することがある。九州の初期教会にはその傾向が強いという。

 天草は四方を海に囲まれ、島の西方面は東シナ海と接し、その海の向こうは中国大陸である。「シャンハイの鶏の鳴き声が聞こゆっと」と天草の人はシャレを言う。
 つまり天草の風土・文化は常に島の外に意識が向けられ、気持ちが大きく度量の広い土壌であったものと思う。温暖な気候と豊かな海の幸に恵まれ穏やかに過ごせるこの土地柄のなかでこそ、キリシタン迫害という苦難な道を切り抜けられたのではないか。九州の西端に位置し、そして島という独特の地域性を持つ土地柄が、キリシタンを広め定着していった背景は何だったのだろうかとの疑問が、現地を訪れ、霧が陽の昇ると共に消えていくたとえのように解消できた。

                                                   
        −参考文献−   「キリシタンの島・天草」   片岡弥吉著           (行った時期 平成16年3月)



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