| 大伴氏 |
| 概説 |
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概要
おそらく「大きな伴造」という意味で、多くの氏族を束ねていたと思われる氏族。
そのため、物部氏と共に軍事の管理を司っていた。
軍事氏族としての大伴氏と物部氏の違いは、あえて言えば、親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏といえる。
主に、現在で言う皇宮警察や近衛兵のような役割をしていた。
本貫地
大和盆地東南部(橿原市・桜井市・明日香村付近)
皇室・蘇我氏の本拠と隣接する。
紀氏とも本拠を接していた。
氏姓
姓(かばね)は連(むらじ)。
八色の姓の時宿禰の姓になる。
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| 系譜 |
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大伴氏系譜 |
兄弟姉妹 |
兄弟姉妹 |
同時代の人物 |
備 考 |
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| 始祖 |
天押日命
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| 1 |
道臣命
みちおみのみこと |
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初 :神武 |
初名は日臣命(ひのおみのみこと)。
神武天皇の東征の先鋒を務めその功績により神武天皇から名を改めて道臣と名乗るよう言われる。 |
| 2 |
味日命 |
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| 3 |
稚日臣命 |
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| 4 |
大日命 |
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| 5 |
角日命 |
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| 6 |
豊日命 |
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7:孝霊
8:孝元 |
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| 7 |
大伴武日 |
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10:崇神
物部十千根 |
物部連十千根とともに五大夫という要職にあったとされる。 |
| 8 |
大伴武持
たけもつ |
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四大夫の一人として名を連ねる。 |
| 9 |
大伴佐彦 |
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| 10 |
大伴山前 |
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| 11 |
大伴室屋
むろや |
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大連を賜わる。 |
| 12 |
大伴談
かたり |
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21:雄略
紀小弓 |
談は雄略朝の対新羅派遣軍の大将。戦死。 |
| 13 |
大伴金村
かなむら |
歌
うたふ |
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武烈・継体・安閑・宣化・欽明 |
武烈天皇の代に大連(おおむらじ)になった。
武烈天皇の死後、継体天皇の擁立に関わる。 |
| 14 |
大伴阿被比古 |
狭手彦
さてひこ
糠手古 |
磐 いわ
咋 くい |
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| 15 |
大伴咋子
さくこ |
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32:崇峻 |
金村の子糠手(ぬかて)の女小手子(おてこ)が崇峻天皇の妃となる。 |
| 16 |
大伴長徳
ながとこ |
馬来田
まぐた |
吹負
ふけい |
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649年、大伴長徳が右大臣。 |
| 17 |
大伴安麻呂 |
御行
みゆき |
古麻呂 |
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732年古麻呂は遣唐留学生として入唐。
鑑真を日本に密航させた。 |
| 18 |
大伴旅人
たびと |
宿奈麻呂 |
坂上郎女 |
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| 19 |
大伴家持
やかもち |
書持 |
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758年、因幡国国守。 |
↓
大伴氏後裔へ |
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| 事績 |
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神武期
日臣命(ひのおみのみこと)が、大久米命を率いて山を踏み分け、宇陀までの道を通す。
この功により道臣の名を賜わる。
道臣命(記では大久米命が同行)は天皇の命をうけ、菟田県の首長兄滑(えうかし)を責め殺す。帰順した弟滑(おとうかし)を饗する宴で、来目歌が奏される。
神武即位の翌年、道臣命は築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜わる。
景行期
日本武尊の蝦夷征伐に吉備武彦と大伴武日が従う。
日高見国での蝦夷征討の後、甲斐国の酒折宮で武日は靫負部を賜わる。
垂仁期
垂仁天皇紀二十五年、阿倍臣の遠祖武渟川別・和迩臣の遠祖彦國葺・中臣連の遠祖大鹿嶋・物部連の遠祖十千根・大伴連の遠祖武日の五大夫に、厚く神祇を祭祀する旨の詔を垂れる。
第14代仲哀期
四大夫は、中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連(武持とも。武日の子)。
伴氏系図によれば武以は初めて大伴の姓を賜わり、大臣に任じられる。
第19代允恭期
室屋が登場し大伴氏は政界に重きを置くようになる。
大伴氏において実在がはっきりと信じられるのは室屋以降である。
第21代雄略期
471年
天皇即位の時、大伴室屋は物部目と共に大連を賜わる。
またこの頃、室屋とその子談(かたり)は靫負三千人を領して左右衛士府に分衛した。
479年(雄略9年)
談は紀小弓と共に新羅に派遣され、戦死。小弓は陣中に病死。
清寧期
清寧即位前紀
室屋は東漢掬直に命じて星川皇子の乱を鎮圧させる。
481年(清寧2年)
室屋は子のいない天皇の名を遺すため、諸国に白髪部を置く。
仁賢期
498年
仁賢天皇の死後、平群真鳥(へぐりのまとり)、鮪(しび)父子を征討し、武烈天皇を即位させて自らは大連(おおむらじ)の地位についた。
武烈期
506年
武烈天皇の死により皇統は途絶えたが、応神天皇の玄孫である彦主人王の子を越前から迎え継体天皇とし、以後安閑・宣化・欽明の各天皇に仕えた。
継体期
512年(継体6年)
金村は任那四県を百済に割譲。代償として翌年、百済は五経博士を日本に送る。
527年(継体21年)
筑紫で磐井が反乱を起こすと、金村は物部麁鹿火(あらかひ)を将軍として派遣し、翌年、鎮圧に成功。
安閑期
金村は各地に屯倉を設置する。
宣化期
宣化二年(537年)、大伴磐、狭手彦、新羅の任那侵攻に際し、任那救援の命を受ける。
磐は筑紫の那津官家(大宰府の起源)で執政し、狭手彦は朝鮮に渡り、任那諸国・百済救援に活躍する。
欽明期
539年(欽明元年)
金村は三韓政策の失敗を物部尾輿らに責められ、住吉の自宅に病と称して引き篭る。
(黒岩重吾は実際には即位していない安閑・宣化と欽明天皇の王位継承争いに巻き込まれて失脚したと主張)
大伴氏は物部氏・蘇我氏との権力争いに敗れ、政治的指導権を失う。金村のこの事実上の失脚により、大伴氏の黄金時代は幕を閉じる。
以後、主として蘇我氏の勢力下に入り、命脈を保つ。
一方、天皇家は東国の豪族層を中心とする舎人を直属の兵として、大伴氏の軍事力からの自立を推進する。
欽明二十三年(562年)
狭手彦は大将軍として高句麗を討つ。
用明期
用明二年(587年)、大伴咋子は、蘇我馬子による物部守屋討伐軍に参加。物部氏は滅亡。
崇峻期
588年(崇峻元年)
金村の子糠手の女小手子が妃となる。
591年(崇峻4年)
金村の子咋子が任那再興のため筑紫に派遣されるが、崇峻暗殺により中止。
孝徳期
649年
大伴長徳が右大臣
弘文期
672年
壬申の乱で、咋子の子吹負、馬来田、長徳の子御行、安麻呂が吉野方に参戦、功を挙げる。
吹負は将軍に任じられ、大和を平定する。
天武期
天武十三年(684年)の八色の姓制定で大伴氏は宿禰を賜わる。
持統期
696年(持統10年)
大納言大伴御行は資人八十人を賜わる。
文武期
705年(慶雲二年)
安麻呂は、藤原不比等の勢威に圧倒されつつも、大納言になる。
孝謙期
754年
大伴古麻呂は鑑真を日本に密航させた。
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| 大伴氏の人物 |
| 道臣命 |
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概要
初名は日臣命(ひのおみのみこと)。天忍日命(あまのおしひのみこと)の後裔。大伴氏の祖。
神武天皇の東征の先鋒を務め、神武天皇即位の際には宮門の警衛を務めた。
生涯
神武東征において、八咫烏の先導により久米部を率いて菟田(宇陀)への道を開いた。
その功績により神武天皇から名を改めて道臣と名乗るよう言われる。
兄猾(兄宇迦斯、えうかし)が神武天皇に押機(おし)という罠を仕掛けた際、道臣は兄猾に「おまえが作った屋敷には、貴様自身が入れ」と述べ、剣の柄を握り、弓に矢をつがえ追い込み、兄猾は自身の罠に押しつぶされて死んだ。
道臣はその死体を切り刻み、その地は宇陀の血原と呼ばれる。
国見岳で八十梟帥が討たれた後、天皇の密命によりその残党を討ち取った。まず忍坂の邑に大室を造り、精鋭を率いて残党と酒宴を開き、宴も酣になったとき道臣の久米歌を合図に兵たちは剣を抜き、残党を殲滅した。
神武天皇即位後はじめて政務を行う日、道臣命は諷歌(そえうた)・倒語(さかさご)をもって妖気を払った。神武天皇即位の翌年、東征の論幸行賞として築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜わり、特に目をかけられたと記されている。
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| 大伴室屋(おおとものむろや) |
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概要
允恭、雄略期の連(むらじ)。
父は大伴武以(たけもち)とされるが(『公卿補任』)、世代が合わない。
また、大伴談の父(一説に兄)、大伴金村の祖父とされる。
『新撰姓氏録』によれば佐伯連・佐伯宿禰の祖。
生涯
允恭天皇から顕宗天皇まで5代の天皇に大連(おおむらじ)として仕えた。
允恭天皇期
妃の衣通郎姫(そとおりのいらつめ)のために藤原部を定める。
458年(雄略天皇2年)
百済の池津媛を犯した石川楯を、来目部に命じて処刑させる。
479年(雄略23年)
天皇崩御に際して後事を託され、直後に起こった星川皇子の叛乱を東漢掬と共に鎮圧。
481年(清寧天皇2年)
諸国に天皇の御名代として白髪部舎人・膳夫(かしわで)・靱負(ゆげい)を置いた。
501年(武烈3年)
天皇の詔に従い、役丁を徴発して城の形を水派邑(みまたのむら、奈良県河合町?)に築いた。
(ただし、これは金村の事績とすべきとの考えもある)
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| 大伴談(おおとものかたり) |
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概要
雄略朝の対新羅派遣軍の大将。
『新撰姓氏録』左京神別中によれば、談は父(一説には兄)の室屋とともに衛門の左右を分衛したと記述され、また同じく右京神別上によれば佐伯日奉造(さえきのひまつりのみやつこ)は大伴氏(天忍日命の後裔氏族)と同祖で、談の後裔とされる。
生涯
466年(雄略9年)
天皇の命を奉じて紀小弓らとともに新羅を討ったが、反撃されて戦死したという。
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| 大伴金村(おおとものかなむら) |
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概要
生没年不詳。
武烈、継体、安閑、宣化、欽明の各天皇に仕えた。
生涯
498年
仁賢天皇の死後、平群真鳥(へぐりのまとり)・鮪(しび)父子を征討し、武烈天皇を即位させて自らは大連(おおむらじ)の地位についた。
506年
武烈天皇の死により皇統は途絶えたが、応神天皇の玄孫である彦主人王の子を越前から迎え継体天皇を擁立した。
512年
百済からの任那4県割譲要求があり、金村はこれを承認し、代わりに五経博士を渡来させた。
527年
磐井の乱の際には物部麁鹿火を将軍に任命して鎮圧させた。
だが、欽明天皇の代に入ると欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭して、金村の権勢に翳りが見え始める。
540年
新羅が任那地方を併合するという事件があり、物部尾輿などから外交政策の失敗(先の任那4県割譲など)を糾弾され失脚して隠居する。
これ以後、大伴氏は衰退していった。
晩年
大伴氏の館のあった摂津国住吉郡(大阪市住吉区)に住み、そこで死去。
住吉区にある帝塚山古墳は、大伴金村あるいはその子の墓とされている。
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| 大伴長徳(おおとものながとこ) |
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概要
生年不詳 - 白雉2年(651年)
姓は連(むらじ)。別名馬飼・馬養(うまかい)ともいう。
生涯
632年(舒明天皇4年)
第1回の遣隋使とそれに伴った唐使高表仁(こう ひょうにん)を難波で出迎えた。
642年(皇極天皇元年)
舒明天皇の殯宮では誄(しのびごと)を蘇我蝦夷に代わって奏上している。
645年(大化元年)
大化の改新では中大兄皇子側であったようである。
649年(大化5年)
大紫位・右大臣に任じられている。
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| 大伴安麻呂(おおとものやすまろ) |
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概要
姓は連、後に宿禰。
大納言大伴長徳の六男。大納言兼大将軍正三位、贈従二位。
生涯
685年(天武13年)
大伴連が宿禰の姓を与えられた。
701年(大宝元年)1月
文武朝のはじめまで、大伴氏の氏上は兄の御行であり、安麻呂が政治の中枢に加わることはなかった。
しかし大宝元年(701年)1月15日に御行が死ぬと、安麻呂が大伴氏の最高位となり、翌年には朝政に参議するようになった。
同年3月
大宝令にもとづく官位が授けられたとき、直大壱大伴宿禰安麻呂は正従三位に進んだ。
同年6月
従三位大伴宿禰安麻呂は、兵部卿になった。
702年(大宝2年)1月
従三位大伴宿禰安麻呂は式部卿になった。
同年5月
粟田真人、高向麻呂、下毛野古麻呂、小野毛野とともに、朝政に参議することを命じられた。
これが参議のはじめで、このときは参議という官職に任命されたのではなく、「参議する」という仕事を命じられたのである。
705年(慶雲2年)4月
従三位大伴宿禰安麿が中納言になった。
705年(慶雲2年)8月
従三位大伴宿禰安麻呂が大納言になった。
714年(和銅7年)5月
大納言兼大将軍正三位大伴宿禰安麻呂が死んだ。従二位を贈られた。
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| 大伴古麻呂(おおとものこまろ) |
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概要
生年不詳-757年 正四位下・左大弁。
生涯
732年
遣唐留学生として入唐。帰朝後、天平10年(738年)兵部大丞。天平勝宝元年(749年)左少弁。
752年
遣唐副使に任じられ、大使藤原清河とともに入唐。
753年
正月、玄宗臨御の諸藩の朝賀に出席。
古麻呂は日本の席次が西畔(西側)第二席で、新羅の東畔第一席より下であったことに抗議し、新羅より上席に代えさせている。
754年
帰国の際、遣唐使一行は鑑真を同行させようとしたが、唐の官憲がこれを禁じた。
大使藤原清河は鑑真一行の乗船を拒否したが、古麻呂は独断でこれを許して副使船に乗船させた。
帰路、大使船は暴風雨に遭い、南方に流されて帰国できなかったが(藤原清河は唐で客死)。
副使船は無事帰国して鑑真を来日させることができた。
同年、左大弁に任じられる。
757年
3月、聖武天皇の遺言により皇太子に立てられていた道祖王が孝謙天皇の勘を受けて廃太子される。
4月、孝謙天皇は群臣に新太子を諮ると、右大臣藤原豊成は塩焼王を適当とし、古麻呂は池田王を推したが、天皇の意中は大納言藤原仲麻呂の推す大炊王であり、大炊王が立太子された。
藤原仲麻呂は孝謙天皇の信任厚く、専横が著しかったため、古麻呂はこれに不満を持ち兵部卿橘奈良麻呂と結んで仲麻呂を除こうと画策する。
橘奈良麻呂・古麻呂らが一味して兵を起こして仲麻呂を殺して皇太子を退け、孝謙天皇を廃し、塩焼王・道祖王・安宿王・黄文王の中から天皇を推戴するという計画であった。
6月、古麻呂は陸奥鎮守将軍兼陸奥按察使兼任となり、陸奥国への赴任を命じられ、橘奈良麻呂は左大弁に移され兵権を奪われた。
7月、山背王らの密告により反乱計画は露見。
奈良麻呂、古麻呂、道祖王・黄文王らは捕えられ、藤原永手、百済王敬福、船王らの監督下、杖で何度も打たれる拷問の末、絶命した。(橘奈良麻呂の乱)
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| 大伴旅人 |
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概要
665年 -731年
奈良時代初期の政治家、歌人。大納言・従二位。
生涯
714年(和銅7年)
父の安麻呂が亡くなる。
718年(養老2年)
中納言に任じられる。
720年(養老4年)
山背摂官となり、その後征隼人持節大将軍として隼人の反乱を鎮圧した。
724年-729年(神亀年間)
大宰帥として九州の大宰府に赴任し、山上憶良とともに筑紫歌壇を形成した。
730年(天平2年)大納言に任じられ京に戻る。
731年(天平3年)
従二位に昇進するが、まもなく病を得て没した。政治的には長屋王派と言われていた。
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| 大伴家持 |
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詳細は、「大伴家持へ」
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| 大伴氏に関する諸説 |
| 磐井の乱と大伴氏 |
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古事記では
麁鹿火と金村の二人を派遣して磐井を討ったとある。
また継体紀には、天皇の征討命令に対する麁鹿火の返答に大伴氏の祖先について言及する矛盾があり、本来は金村が将軍の任に当たったのではないかとも考えられている。
書紀では
金村が百済から賄賂を受け取ったことを示唆するなど、金村に対し批判的な意見が目立つ。
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| 天智朝と大伴氏 |
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孝徳朝末期以後、天智朝まで大伴氏の動静は伝わらず、また斉明末年から天智初年(661-663年)にかけての百済救援にも大伴氏の活躍は見られない。
この期間大伴氏は中央政界から疎外されていたことが窺える。
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| 参考資料 |
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「日本書紀 上・中・下」 (教育社 1992 山田宗睦訳)
「日本書紀 上・下」 (講談社)
「古事記 上・中・下」 (講談社 1977)
「口語訳 古事記」 (文藝春秋社 2002)
「古代豪族系図集覧」 (東京堂出版 1993)
ウキペディア「大伴氏」 |
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