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甲斐武田を探検っ!! |
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景徳院 武田四郎勝頼墓所など |
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武田氏滅亡の地と言われてます曹洞宗天童山景徳院。天正十年(1582)三月十一日、織田軍らに追い詰められた武田勝頼一行が最期を遂げた場所として有名です。境内には勝頼・勝頼夫人・子の信勝の墓所などがあります。景徳院までの道のりですが、国道20号から入っていきますが、国道に案内がありますので、道なりに行けばたどり着けます。駐車場も広いものがありますのでご安心を。ただ、冬には路面凍結などありますのでご注意ください。 こちらにお寺を創建したのは、広厳院(こうごんいん)弟七世拈橋(ねんきょう)。彼は勝頼らとともに討死した小宮山内膳友晴の弟で、天正十年七月、甲斐に入った徳川家康の命によりこの地にお寺を創建し武田勝頼をはじめ、家臣を手厚く葬ったのが始まりです。 |
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写真の山門は創建当時の建築と言われています。他の建築物は後年火災にあい焼け落ちてしまいました。山門は焼け残ったとのことです。 山門手前に写る木は桜。春は絶景だそうです。う〜んいやいや、冬の雪の積もった三門もよいかと。 |
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真ん中2枚の写真は、勝頼生涯石・信勝生涯石。彼らはこの石の上で命を絶ったと伝わります。ちなみに勝頼などの墓所は甲将殿裏手になります。 |
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| 武田太郎信勝墓 勝頼と織田信長養女の間に生まれた武田の後継。信勝・北条夫人・勝頼の3人が描かれた絵が残っていますよね、非常に珍しい設定の絵なんだそうです。家庭は円満であったようです。 法名「法雲院殿甲厳勝信大居士」 |
武田四郎勝頼墓 信玄と側室諏訪氏(由布姫・湖衣姫とも)の子であり、諏訪氏の「頼」の字を継いで、結局は甲斐の人々には見放されてしまった、勝頼。最後まで彼を見捨てず戦ったのは諏訪と高遠の人々でした。 法名「景徳院殿頼山勝公大居士」 |
武田勝頼夫人墓 北条氏康の娘、天正五年(1577)勝頼に嫁ぎます。19歳で亡くなります。韮崎の武田八幡宮の切々とした願文があまりにも有名ですよね。 法名「北条院殿模安妙相大禅定尼」 |
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景徳院の牌子には勝頼・夫人・信勝のほか、以下の人物など残されています。カッコ内は法名。
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秋山紀伊守(秋峯道純) |
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永禄五年(1562)、勝頼につけられた士隊将八名のうちの一人。信濃出身。 |
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秋山宮内(清寒霜白) |
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信濃諏訪社関係奉書に多く見られます、信縄・信虎期家臣宮内丞昌満の子孫? |
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秋山源三郎景氏(堅英了雄) |
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金丸虎義の七男。秋山親久。秋山昌詮の後を継ぎます。 |
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秋山杢介(水村山谷) |
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恐らく山下杢之介と同一人物。信勝に仕えていました。 |
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秋山民部光明(観応月心) |
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秋山光次の一族。 |
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秋山宗九郎(傑伝宗英) |
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民部光明の子。 |
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跡部大炊助勝資(跡叟道張) |
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勝頼側近として有名です。特に信玄死後、表舞台に顔を出すようになりました。 |
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穴沢次太夫(天真了然) |
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詳しくは不明。 |
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安倍加賀守貞村(慶室道賀) |
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安倍宗貞・勝宝とも。永禄五年(1562)、勝頼につけられた士隊将八名のうちの一人。 |
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有賀善左衛門(賀屋道養) |
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有賀勝慶。勝頼の諏訪時代からの家臣。 |
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安西伊賀守(西安道伊) |
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安西有味。年輩であり田野では勝頼夫人に小田原へ帰国するよう説得したといわれます。 |
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岩下総六郎(月窓江海) |
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右近という子がいたようです。 |
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円首座禅師 |
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麟岳和尚の弟子。 |
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小原源太左衛門(実山金性) |
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詳しくは不明、小原氏一族でしょうか。 |
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小原下野守(一峯宗誉) |
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詳しくは不明、小原氏一族。 |
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小原清二郎(原清道資) |
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詳しくは不明、小原氏一族。 |
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小原下総守忠国(空岸東海) |
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永禄五年(1562)、勝頼につけられた士隊将八名のうちの一人。信濃出身。 |
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小原丹後守忠次(鉄岩恵船) |
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永禄五年(1562)、勝頼につけられた士隊将八名のうちの一人。信濃出身。下総守は兄。 |
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小山田於児(久桂芳昌) |
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16歳という若さで討死。 |
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小山田平左衛門(中源実宝) |
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小山田信茂の従兄弟とも言われ、鉄砲の名手であったとか。 |
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小山田弥介(明鑒道白) |
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鉄砲の名手で、天目山では小山田平左衛門とともに30数名を撃ったとか。 |
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小山田義次(洞谷宗谷) |
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小山田信茂家臣の中でも有名な人物であったとか。 |
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金丸定光(金渓道助) |
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金丸虎義四男で昌直後継。勝頼妻子を介錯したと伝わります。 |
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河村下総守(阿白道城) |
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河村下総守道雅。信玄・勝頼に仕え、勝頼らの衣服・調度などを取り仕切りました。 |
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神林清十郎(清神道林) |
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詳しくは不明。 |
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小宮山内膳(忠叟道節) |
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長坂・跡部らと不仲で、彼らにより勝頼より遠ざけられるが、天目山に駆けつけ討死。 |
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多田久蔵(円応寒光) |
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信虎・信玄に仕え、その武勇から二十四将にも数えられる三八郎(淡路守満頼)の子。 |
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土屋源蔵(源与道屋) |
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詳しくは不明。 |
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土屋惣蔵(忠屋存孝) |
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金丸虎義五男。昌続の実弟。片手切りは有名です。 |
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内藤久蔵(即応浄心) |
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詳しくは不明。 |
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貫井新蔵(松峯道鶴) |
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貫名新蔵とも。 |
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温井常陸介(常叟道温) |
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信玄近習、その後信勝に仕えます。 |
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薬袋小助(本光道如) |
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信勝に仕えました。 |
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山野井源蔵(虚屋道幽) |
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信勝に仕えました。 |
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麟岳和尚 |
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長坂・跡部らと政策決定に関与しています。恐らく、武田逍遥軒信綱の子。「黒衣ノ丞相」。 |
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参考文献・定本武田勝頼/上野晴朗・新編武田二十四将正伝(武田神社)/平山優 他 |
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境内甲将殿のさらに崖側の斜面には、「没頭地蔵」があります。首のない武田勝頼・信勝父子をこの地に埋めたと伝わります。 |
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また、本堂手前には旗竪松(はたたてのまつ)があります。織田軍が間近に迫っているなか、武田累代の御旗(日の丸の旗)を松の根元に立て楯無鎧を着用し、武田信勝は正式に武田家を継承したと伝わっています。 |
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<2006/8/11 2009/2/25 2010/2/3 追加> |
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2007年4月2日現在武田勝頼・勝頼夫人・信勝らのお墓は、整備のため場所が移されています。甲将殿の裏から横に移動しています。甲将殿の裏のお墓の場所からは江戸時代の※経石などが出土。多分、今分析されているんじゃないでしょうか! ※経石(けいせき)・・・小石に経文を記したもの。一字一石が多いそうです。 |
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2007年4月22日(日)甲州市大和町では「武田勝頼公まつり」が行なわれていました。いい意味でのどかなおまつりでしたよ!その会場内で景徳院の勝頼墓所の調査報告を配布物でしていました。実際に墓石の下から出土した経石も展示されていて、とても興味深く拝見することができました! その配布物によると、経石は計5415点見つかったそうです!また、その経石は「多字一石(石に経文が数行に書かれている)」もので、全国的にも墓から経石が出土したことは稀少な事例なんだそうです。さらに信勝・勝頼・夫人墓の両脇は殉死した者たちのモノと考えられていましたが、その下からも勝頼らの法名が記された石が出土したため、ここのところも再考していく必要があるんだとか。いや、新たな発見ドキドキします! |
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<2007/4/2 4/22 追加> |
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