1  古代ローマ帝国
2012.3.20 Tue 
BC 753年  伝説上のローマ建国

BC 509年  王制廃止、共和制樹立

BC 494年  平民が蜂起し、護民官が置かれるようになる。(聖山事件)

 聖山事件・・当時ローマでは執政官(コンスル)、任期一年二名(独裁政治にならない為)選ばれていたが、国家存亡の非常事態には対応が遅れては困るので、臨時職に独裁官(ディクタトル)を置いて、半年任期で一名置かれた。執政官も独裁官もみんな貴族(パトリキ)から選ばれる。平民(ブレブス)は重装歩兵として武器自弁で戦場に出る為、期間が長期になるほど、農業などが出来ない等貴族との間の   貧富の差が広がり、また政治的権利が無い為、平民が貴族に対して、ローマ北東にある聖山に立て籠もって、自分たちの発言力の強化を求め、抗議活動を行った。その結果護民官制度(二名)生まれた。 BC 445 カヌレイウス法(貴族と平民の通婚が認められる)

BC 396 ウェイイ陥落させる。

ウェイイ・・ローマの北北西16kmの地点に有ったエトルリア人の需要な古代都市。 エトルリアの南端に位置する裕福な都市。300 年渡って共和制のローマ戦争と同盟 を繰り返した。BC396 年ローマのマルクス・フリウス・カミルスの軍がウェイイを 陥落。ウェイイはローマに同化したが、その後のウェイイは徐々に衰退して行き、 中世になると廃墟と化し、最終的には耕地となって忘れられたが、十七世紀に発見 された。市内の丘に通じる長いトンネルが見つかっており、ウェイイとの戦いでロ ーマが勝利した要因に挙げたトンネルを使った奇襲の証拠といわれている。

BC 390  ケルト人の来襲

ケルト・・中央アジアの草原から馬と車輪つき乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来した。古くはローマ人からはガリア人とも呼ばれていた。ヨーロッパの各地に定住していたが、ゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は西のフランスやスペインに移動し、紀元前一世紀には青銅器時代から鉄器時代にかけて繁栄した。その後ローマのガイウス・ユリウス・カエサルによって征服される(ガリア戦記)。ローマ帝国の支配を受けたガリアのケルト人はゲルマン系のフランク人に吸収され、フランス人に変質していく。画像はケルトの銀器。

BC343 サムニウム(サムニテス)戦争

サムニウム(サムニテス)戦争・・ラティム地方に本拠を構える共和制ローマとアペニン山脈に居住するサムニウム人部族との間で勃発した戦争。イタリア半島の諸部族の主導権を巡っての戦い。大まかな区分として第一次サムニウム戦争(BC343〜341)、第二次サムニウム戦争(BC326〜304)、第三次サムニウム戦争(BC298〜290)に区分される。平野での決戦を得意とするローマと山岳でのゲリラ戦を得意とするサムニウム人部族の間では一進一退で続いたが、ローマに有利に進み、最後にはサムニウム地方はローマの影響下に入った。画像は第二次サムニウム戦争の際大敗したローマは後世「カデイムの屈辱」と呼ばれた降伏を呑まされた。画像は「カディムの屈辱」

BC340 ラティム戦争

ラティム(ラテン)戦争・・イタリア半島において共和制ローマと近隣のラティム人及びラティム同盟の間の戦争。一度目はBC498〜493、二度目はBC340〜338。王政ローマの第七代王であったタルクイニウス・スベルプスはBC510年にルキウス・ユニウス・プルトウスらによって王位を追われ、ローマより追放された。タルクイニウスの援軍となったラティム人達によって起こされた戦争であった。激戦の末にローマ軍がラティム軍を撃退した。第二次ラティム戦争はローマから自立する為の圧力が戦争開始の原動力であった。両戦争によりラティム同盟解体と同盟がローマの影響下に入る結果となった。

BC289 この頃最初の銅貨、最初の銀貨が発行される。それ以前は不定形の銅の塊や銅の延べ板が使われていた。

BC280 第一次ポエニ戦争起こる。

ポエニ戦争・・共和制ローマとカルタゴの間で地中海の覇権を懸けて争われた戦争 である。ポエニとはラテン語でフェニキア人を意味する言葉。BC264年からBC146年 のカルタゴ滅亡まで三度に渡って繰り広げられた。

第一次ポエニ戦争・・シチリア島を巡る一連の戦闘と海戦が主になる。当初シチリ ア島は西半分をカルタゴが押さえ、西半分がギリシャ人勢力のシラクサ・メッシー ナ領に属していた。メッシーナを押さえていたマメルティニに対し、シラクサのヒ エロンがカルタゴと結んで討伐に掛かり、メッシーナがローマに救援を求めた。こ のことが直接の原因。結果シチリアはローマによって陥落した。イタリア半島以外 の領土であるシチリアを属州として統治するようになった。

第二次ポエニ戦争・・ハンニバルはイベリア半島を制圧し、諸部族を纏め軍隊を養 成。五万の兵と三十七頭の戦象を連れ、アルプス山脈を越えてイタリアへ進軍し、 第二次ポエニ戦争が始まる。イタリア各地でローマ軍を撃破し、BC216年カンナエの 戦いではローマ軍を完敗させたものの、ローマの持久戦法で会戦を避け、ゲリラ的 に戦闘を仕掛けハンニバルを悩ませた。その後のザマの戦い(BC202)で破れ、第二次 ポエニ戦争はカルタゴの敗北で終わる。これによって、サルデニア、コルシカも属 州に組み入れた。海外領土は安価な穀物をローマに流通させ、自作農の窮乏を招く 一因にもなっていった。図はハンニバル。

第三次ポエニ戦争(BC149〜146)・・小スキピオをして、カルタゴを滅亡させ、住民 を殺すか生き残った住民の殆どを奴隷にした。ローマはカルタゴが復讐をするのを 恐れ、塩を埋め尽くして不毛の土地にしょうと試みようとした。第三次ポエニ戦争 はローマの力をして地中海を「われらの海」としてしていった。ローマの属州が増 えると中小の自作農家を没落させ、軍隊の弱体化を招いた。

BC215 第一次マケドニア戦争(〜BC205)・・フィリッポス五世がハンニバルと同盟しローマと戦う。

BC200 第二次マケドニア戦争(〜BC196)・・フラウミニヌスよりローマ勝利。

BC171 第三次マケドニア戦争(〜BC168)・・マケドニア王ベルセウスが敗北し滅亡。

BC149 第四次マケドニア戦争(〜BC148)・・マケドニア、ローマ属州と成る。

BC133 ティベリウス・グラックスが護民官となり、土地問題の改革を目指すが、元老院派に殺される。

BC121 ガイウス・グラックスが護民官となり、諸改革に乗り出すが元老院に襲われて自殺。

BC111 ユグルタ戦争(〜BC105)・・共和制ローマとヌミディア王ユグルタで行われた戦争。ヌミディアはアフリカ北部、現在のアルジェリアに位置していた王国。この戦争によってこの時期の共和制ローマの問題点が浮き彫りになった。ユグルタが買収によってローマ軍を押さえ込んで、ローマの支配体制への影響力を行使した事でローマ体制内の倫理的な退廃がはっきりした。ローマ軍の組織力の低下とそれらの体制を変更させたマリウスの権威が上昇した。またユグルタをほばくの決定的な役割を担ったスッラの出世の先駆けとなった戦争であり、後のマリウスとの内戦のきっかけとなった。図はヌミディア地方

BC107 マリウスの軍制改革

ガイウス・マリウス・・ローマ軍がイベリア半島の完全征服を目指してケルティベリア戦争を引き起こすと、兵士として志願した。その後軍内で昇進を重ねて、遠征軍を率いる小スキピオに20代で幕僚に指名されている。共和制末期にの英雄として、財務官、護民官、法務官、民衆派、及び七回の執政官就任を果たした。軍制改革では市民兵制から職業軍人への切り替え、武器自弁から装備の一律支給、訓練内容と指揮系統の改革、果ては退職金等多岐に渡る改革を成し遂げた。この制度は帝政時代を含め、長らく軍事制度として継承された。彼の妻はガイウス・ユリウス・カエサルの叔母であり、カエサルの政治的基盤に影響を与えた。

BC91 同盟市戦争(〜BC88)

同盟市・・同盟市とは、独立自体は認められていたものの、実質的には外交権を認められておらず、軍事的にはローマに従属する形であり、一種の保護国である。紀元前91年都市国家ローマと同盟を結んでいたイタリア各地の都市国家や部族が、 ローマ市民権を求めてローマに対し蜂起した戦争(内戦といったほうが正しい)。ローマは都市国家、部族に対して個別に同盟関係を結んだ事で支配を確立していく。同盟ではなく、属州を始めるのは、第一次ポエニ戦争後のシチリアから。

BC88 一次ミドリダデス戦争(〜BC85)・・紀元前90年から85年にポントス王国と共和制ローマの間で3度にわたるミドリダデス戦争のうち最初にして最大のものである。戦前まで小アジア全域を制圧したポントス軍はギリシヤでローマ軍と戦って敗れた、ミドリダデスはローマの優位を認めつつ、現状復帰の条件で講和が結ばれた。図はポントス王国と周囲の国

BC83 二次ミドリダデス戦争(〜BC82)・・第一次ミドリダデスで敗れたミドリダデス六世は返還を約束していたカッパドキアの一部を占領しており、ローマが後押しするアリオザルパネス一世は復位できずにいた。紀元前83年ローマ軍はカッパドキアを占領し、さらに進んでポントス領を攻撃した。ミドリダデス六世はローマの元老院へ使者を送った。それを無視し、ローマ軍は攻撃を続けた。ミドリダデス六世は迎撃のため出陣して、ローマ軍を破った。ローマ軍はカッパドキアから退いた。アリオバルサネス一世の復位の実行を求めて交渉した後ミドリダデス六世はカッパドキアの一部を得ることになった。

BC75 三次ミドリダデス戦争(〜BC65)・・ミドリダデス六世が率いるアルメニア、ボスポロス王国と同盟を結び、大挙して、先手を打って、ビテュニアに攻め込んだが、ローマが逆転し、グナイエウス・ポンペイウスの遠征軍がポントスを滅ぼした。ポンペイウスは余勢をかってアルメニア、シリア、ユダヤまでローマの勢力圏に納めた。

BC73 スパルタクスの反乱(〜BC63)・・紀元前七十三年から七十一年にかけて共和制ローマ期に起きた剣闘士、奴隷による反乱。反乱軍首謀者はスパルタクスの名に因んでスパルタクスの反乱と呼ばれている。紀元前七十三年春、カプアにある剣闘士養成所から脱走を計画、それに同調した数百の奴隷と共に脱走した。その奴隷に同調した周辺地域の奴隷が加わって、中心の剣闘士から教育を受けて次第に多く、強くなり、各地でローマ軍を破って、最終的には70,000名迄膨れたといわれるが、最終的には反乱軍に加わった残りの6,000名の奴隷が捕虜となり、カプアからローマに向かうアッピア街道沿いに行きながら、十字架に磔にされた。この反乱以降奴隷の待遇は向上したと言われる。図はスパルタクスの行動範囲。

BC70 ポンペイウス、クラッススが執政官になる。

BC60 第一回三頭政治(ポンペイウス、クラッスス、カエサル)始まる。

第一回三頭政治・・民衆派として民衆から支持を得るカエサル、元軍団総司令官として軍事力を背景を持つポンペイウス、経済力を有するクラッススの三者が手を組むことで、当時強大な政治力を持っていた元老院に対抗できる勢力を形成した。紀元前54年にポンペイウスに嫁いだカエサルの娘ユリアが死去、紀元前53年にパルティア遠征に向かったクラッススがカルエラの戦いで敗死すると三頭政治は崩壊した。ポンペイウスと元老院は互いに接近。紀元前49年ガリア戦争で成果を挙げたカエサルを警戒して、元老院最終勧告を発令、カエサルはこれを無視して、当時イタリアの国境線であったルビコン川を軍団を率いて渡り、イタリアに侵攻して、内戦は勃発した。この時のカエサルの言葉が「進めばこの世の地獄、戻ればこの世の悲惨、賽は投げられた。」ポンペイウスはカエサルに敗れた後エジプトへ逃れた後暗殺され、他の元老院派もムンダの戦いで敗北し、内戦は終わった。画像はカエサル。

ローマ軍
(1)アレシアの戦い (2)ローマ軍団 (3)百人隊長 (4)兵士


BC58 カエサルのガリア征服が始まる。画像はアレシアの戦い

BC49 カエサル、ルビコン川を渡り、ローマに進軍。画像はローマ軍団

BC48 ファルサロスの戦いでカエサルがポンペイウスを破る。カエサルが独裁官になる。

BC45 この年から1年を365日とし、四年に一度閏月を加えることにした。(ユリウス暦)

BC44 カエサルが終身独裁官になる。カエサルが暗殺される。

BC43 第2回三頭政治(アントニウス、オクタビアヌス、レピドウス)

BC42 フィリッピの戦い。(オクタビアヌス支持派とアントニウス支持派の戦い)

BC31 アクティムの戦い。オクタビヌアスがアントニウスを撃破。

BC30 オクタビヌアスがエジプト征服。

皇帝
(1)アウグストウス (2)ティベリウス (3)カリグラ (4)ネロ
BC27 オクタビアヌスがアウグストウス(尊厳なる者)の称号を受ける。初代皇帝。(〜AD14)・・志半ばで倒れた養父カエサルの後を継いで、内乱を勝ち残り帝政を創始、パックス・ロマーナを実現した。オクタビアヌスは元老院で全特権を返上して共和制への復帰を宣言をする。これらは当時有名無実化しているもので、イタリア本国を支配する執政官は放棄せず、徐々に自分への権力を集中させていった。

AD14 アウグストウス死去。2代皇帝ティベリウス即位(〜AD37)・・アウグストウスの養子で、イエス・キリストが刑死した時のローマ皇帝。イエスの言葉で「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」のカエサルとはティベリウスのこと。

AD37 3代皇帝カリグラ即位。(〜AD41)・・短い在位期間にカリグラは建設事業と領土拡大に力を注いだ。最高権力者としてその威信を高めることに努め、陰謀から自身の地位を守り続けたが、元老院も関与した陰謀により、41年親衛隊の一部将校によって暗殺された。

AD41 4代皇帝クラウディス即位(〜AD54)・・カリグラの皇帝就任後カリグラと共にコンスルに就任後に元老院議員に加えられた。先帝カリグラが文字通り崩壊させたローマの財政を立て直した、ブリタニア遠征も本格的に行われ、実際にブリタニア南部の征服に成功している。アウグストウス以来初めてガリア出身の元老院議員を認めている。

AD54 5代皇帝ネロ即位(〜AD68)・・ネロはローマを暴政の下に混乱させ、キリスト教徒を迫害した為暴君の典型とされる。治世初期は名君の誉れが高かったが、AD64ローマ大火、キリスト教徒迫害など執政による反乱が各地で起きて、AD68年反乱を受けて自殺。

兵士の装備
(1)グラディウス (2)スパタ (3)ブギオ (4)スクトゥム (5)ピルム
グラディウス・・一般の兵士が持つ剣
スパタ・・馬に乗る兵士が持つ剣。グラディウスに比べて幅が若干狭い。
ブギオ・・兵士が持つ短剣
スクトゥム・・盾。時代によって四角とか、楕円形。マニカ・・腕宛防具。グレアウエ・・脚部防具。
AD 68 ガルバ即位(〜AD69)・・ガルバがネロ打倒の行動を起こした時、オトを初めとして周りから支持を受け皇帝に即位。一月ローマ公共広場にて殺害される。

AD 69 オト即位(〜AD69)・・ガルバを支持し、彼を皇帝とする協力を取り付けて即位したガルバをその後子供が居なかった為、後継は自分だと思っていたオトは他の人物を後継者にした為、即断してガルバ急襲して、葬ったオトは皇帝に即位した。

AD 69 ウィテリウス帝即位・・ガルバが暗殺された後皇帝になったオトの軍とクレモナの戦いで勝利を収める。オトは自害し元老院はウィテリウスの帝位を承認する。

AD 69 ウェスパシアヌス帝即位・・69年秋 ウィテリウス軍は、ウェスパシアヌス軍側に付いた軍とヘドリアクムの戦いで敗戦を喫した。ウェスパシアヌス軍はローマへ進軍した。12月 ローマはウェスパシアヌスの手に落ち、ウィテリウスは逃げたところで、捕らえられ、無残な最期を遂げる。ウェスパシアヌスは皇帝に即位した。

AD 79 ティトウス帝即位(〜AD81)・・AD69年 父と一緒にユダヤ人反乱鎮圧の為、パレスチナへ向かう。当時クアエストル(財務官)となっていたティトウスは同地で指揮官として勤務する。ガルバに祝辞を述べるためにルーマに戻った所、ガルバ殺害、オト自殺、ウィテリウスが皇帝即位と情勢が混沌としているのを知ると、現地に戻りユダヤ戦争に専念する。ついにユダヤを平定し、ウェスパシアヌスと共同統治する。父の死後を継いで皇帝となる。市民の同情と支持を得るため、剣闘士試合を煩雑に行った。AD79年在任中にヴェスビォス火山が噴火し、ポンペイが埋没した。その後ローマ市が三日間延焼する大火災が発生した。その途中で熱病で死んだ。

AD 81 ドミティアヌス帝即位(〜AD96)・・ローマ11代皇帝。81年九月、兄ティトウスが重病に付すと速やかに行動し、兄が生存中に帝位を掌握した。治世の最初は穏健に始まったが、次第に暴虐となり、ユダヤ人、キリスト教徒を迫害した。その他86年にコロッセオを完成させ、四年ごとに陸上競技や戦車競争からなる大会を催した。ゲルマニア防壁の建設を始め、ローマの防衛に寄与することになった。治世の末期には元老院議員や騎士階級の者も度々死刑にした。占星術によって、己の死を予告されて警戒していたが自宅内で暗殺された。死後は元老院によってネルヴアが皇帝に指名された。

AD 96 ネルヴア帝即位(〜AD98)・・304年ナルニアにて出生。66年法務官に叙任される。71年最初の法務官に叙任。90年二度目の執政官に叙任。それまで単に帝位を追認だけの存在に成り下がっていた元老院の主導で皇帝選出初の事件となった。ネルヴア帝は既に65才と当時ではかなりの高齢に成っていたから臨時的な皇帝を就任と考えられ、ドミアヌス帝の時代に迫害された人々の名誉回復に努めた。即位15ヶ月でネルヴア帝は病没。97年トラヤヌスが義理の息子として帝位を継承した。

AD 98 トラヤヌス帝即位(〜AD117)・・文武の両面で辣腕を振るう。帝国内の公共施設の強化と領土の拡大に成功した。外交面ではダキア、パルティアで功績を挙げ、ローマ帝国史上最大の版図を現した。五賢帝の一人でトラヤヌスは現代に至るまで優れた君主として尊敬を受けるローマ皇帝であり、後世の君主からも称えられた。

AD 91、98、100、101、103、112コンスル就任

AD 101 ダキア遠征(一次、二次・・ダキア王国を属州として併合)

AD 117 セリヌスにて病没

AD 193 ベルティナクス即位(〜AD193)・・僅かな統治期間(86日間)は常に政治的に直面し続けた。コンモドウス暗殺に功績のあった近衛隊長を始め功績の有った近衛隊に皇帝即位時の慣例であったドナティブム(近衛隊に対する特別給金)を行わないなど支持基盤を冷遇し、近衛隊長のラエトウムとの関係も冷却した。元老院のラエトウム派議員も処刑を行った。元老院とベルティナクスの不和も決定的になった。次期皇帝を即位させようとする元老院派についにベルティナクスは宮殿において暗殺された。

AD 193 ディディウス・ユリアヌス即位(〜AD193)・・コモドウス帝が暗殺され、更にベルティナクスが元老院と近衛隊の支持を失い、僅か三ヶ月で暗殺されるなど不安定な情勢が続いていた。ベルティナクス死後、適当な皇帝候補が見つからない事から、元老院に相談も無く、近衛隊主催による「帝位競売」が行われた。ユリアヌスは25,000セルティウスを支払うと宣言した。暫らくしてユリアヌスに「皇帝陛下」叫んで向かい入れた。元老院は近衛隊に恫喝されて、皇帝即位を了承した。金で帝位を買った新皇帝は、民衆に人気が無く、やがて各地の隊が反旗を翻した。AD193年6月1日近衛兵によって暗殺された。
(1)セウェルス帝 (2)セウェルスの凱旋門
AD 193 セプティミウス・セウェルス即位(〜AD211)・・セウェルスは元老院で順調に出世を重ね、要地である属州パンノニアの総督に任命されていたが、コモドウス暗殺によって帝位を得たディディウス・ユリアヌスが民心を得れていない事を目の辺りにすると、自らも請求に向けて動き出した。シリア総督、ブリタニア総督を破って帝位に就いた。外征で勝利を重ねる一方、国内では元老院との不和を抱えた皇帝の一人だった。げんろういん内で蔓延していた退廃や汚職、謀議の一掃を行い何十人もの元老院議員を処刑台に送った。近衛兵隊についても粛清を行い、ベルティナクスとユリアヌスの帝位簒奪と暗殺の双方に協力した隊員らに追放を命じた。遠征地で危篤に陥ったセウルスは息子たちに平穏に暮らすように言い残しした上で、「兵士を優遇せよ、他のものは無視せよ」と伝えたという。

カラカラ帝 ゲタ帝 カラカラ浴場
AD 211 カラカラ即位(〜AD217)・・セプティミウス・セウェルス帝はカレドニア遠征中に、属州ブリタニアのエボラクムで病没した。父の遠征中に同行していたカラカラは同じ立場であった弟ゲタと実権を掌握して、本格的な統治を開始した。やがて兄弟は仲違いし、弟を殺してしまった。カラカラ帝はゲタと共に描いていた通貨や絵画からはゲタの姿が切り取られ、胸像は打ち壊された。更に貴族や元老院議員にも粛清の手は伸び亡父の重心を含めた大勢の人間が処刑された。212年カラカラ帝はアントニヌス勅令を発布し、全属州民にローマ市民権を付与した。正規の国民には相続税や奴隷解放税の納税を義務付けられるから、この勅令は税収の拡大を狙った物とされている。当方属州に移住した213年からは当方属州の諸都市、諸地域に対する略奪と反対するものに対する虐殺を費やされた。が、エデッサに入城したカラカラ帝は近衛兵に殺された。

AD 217 マクリヌス帝(〜AD218)・・ムーア人の血を引く初めての皇帝であり、元老院の議席を持たずに皇帝に推挙された人物として最初となった。属州マウレタニアの植民市ロル・カエサリアで騎士階級の一族に生まれ、上流階級としての教育を受けたと伝えられる。当初は元老院の人事に極力干渉しない考えを見せていたが、属州総督に関しては入れ替えが必要であると認識した。対外面では、軍事に頼らず和平工作によって周辺関係を改善する努力をした。ダキア地方の騒乱は捕虜となっていた反乱者達を釈放する事で鎮め、アルメニア王国との戦いは収監されていたアルメニア貴族の子息テイリダス二世を傀儡君主に据える事で対処した。またカラカラの出した通貨切り下げを廃止すべく、デナリウス銀貨の銀含有量を51.5%から58%に増やすことでデナリウス銀貨の信用性を回復させた。しかしアンティオキァの戦いで自軍に叛乱が起きた事で敗北を喫した。引き上げの途中カッパドキアで殺害された。画像はマクリヌス帝を描いた金貨。

ヘリオガバルス帝 ヘオガバルス帝を描いたデイナリウス銀貨
AD 218 ヘリオガバルス帝(〜AD222)・・第二十三代ローマ皇帝。僅か十四才で即位。統治は今までに登場した暴君たちの悪名すら超えた最悪の君主記録される事となった。同性愛自体は古代ローマでは問題視されていなかったが、少年の役割であった女性的受身を好んだ為、当時のローマでは許されない性癖だった。三人の女性と結婚しているが、男性とも数限りなくあり、同性愛者だったようです。一才年下のアレクシアヌスの殺害を親衛隊に命じたが、見放していた親衛隊は殺害に向かう処か、ヘリオガバルスに襲い掛かり、殺してその死体は、ティベル川に捨てられた。

AD 222 アレクサンデル・セウェル帝(〜AD235)・・第二十四代ローマ皇帝。彼の死を以って五十年続いたセウェルス朝の皇帝としては五人目(先代セウェルス、カラカラ、ゲタ、ヘリオガバルス、)で終わりを告げた。東方で勢力を伸ばしつつ有った、ササン朝ペルシアの脅威に晒されつつも軍事行動を控えていたが、ゲルマニア方面での消極的な態度(軍人は蛮族をライン川の向うに押し返し、勢いのついた軍人達は更に渡河して防衛線を押し広げようとしたが、アレクサンデルは蛮族に賠償金を払って矛を収める事にした。)を繰り返した為軍はアレクサンデル帝を見放していた。ライン川の防衛線を破った蛮族がガリア北部に侵入して来た為、下級軍人を中心に反乱が起き、反乱は次第に大きくなり、陣中で親子共殺された。

AD 235 マクシミヌス・トラクス帝即位(〜AD238)・・アレクサンデル・セウェルスのゲルマニア遠征に従軍していたが、同皇帝に不満を持つ兵卒によって皇帝に擁立され、アレクサンデルを殺害し、元老院に迫って即位を承認させた。元老院を嫌ったマクシミヌスはローマに戻らず、ゲルマニア遠征を継続し、ライン、ドナウ領河畔で戦果を挙げた。遠征費を捻出する為に、富裕者から財産没収や増税を繰り返し、周囲の支持を失っていった。イタリア進軍したが、アキレイ包囲戦の最中に配下の兵士に殺された。

AD 238 ゴルディアス一世・二世即位(〜AD238)・・アフリカ総督ゴルディアスが皇帝即位を宣言すると、ローマ元老院はゴルディアス一世とその子供のゴルディアス二世の両名帝位を承認した。ゴルディアス父子の叛乱が失敗すると、元老院はマクシミヌスとの関係修復は不可能と考えて、元老院議員ブビヌエスとバルビヌスを皇帝に擁立し、マクシミヌスに対応したアフリカ属州に隣接する属州ヌミディア総督カベリアヌスはコルディアス父子の帝位を承認せず、自分の軍を進める。息子コルディアスの戦死を受けて一世は自室に引き篭って自害した。僅か二十日間の帝位は終わった。

AD 238 プピエヌス帝即位(〜AD238)・・イタリア出身の元老院議員。コルディアス父子の皇帝擁立に失敗した元老院によってバルビヌス帝と共に新たに皇帝に選ばれた。ブビアヌスはマクシミヌスの軍と決戦を挑む為に、イタリアを北上し、ラベンナで自軍を再編中、配下の兵士によって暗殺されたマクシミヌス首が届けられた。内乱の収束によって二人共皇帝に即位したが、政権の主導権を巡って両皇帝の指揮下に入っていた兵士の叛乱を招、捕らえられ殺された。

AD 238 バルビヌス帝(〜AD238)・・プピエヌス帝と共に皇帝に選ばれた。両皇帝はマクシミヌスが死んだ後共通の敵を失い、政治の主導権を巡って仲違する様になり、この事態を見て取った軍隊は両帝を見限り、親衛隊営舎に拉致。両帝を見せしめの為、ローマ市外を引き回された後に殺され処刑された。

AD 238 ゴルディアヌス三世(〜AD244)・・パリビヌスとプピエヌスの副帝として、元老院は当時十三歳でコルディアヌス一世の孫コルディアヌス三世に「カエサル」の称号を与えて任命した。二人の治世は始めから危機に瀕していた。民衆の暴動、軍団の不満、238年6月のローマの大火等が相次ぎ、二人は暗殺され、ゴルディアス三世がローマ皇帝と宣言された。ゴルディアス三世が弱年だった為、実際の政治は周囲の貴族達が行い、元老院を通じて国政を支配していた。親衛隊長官の娘と結婚して、親衛隊を後ろ盾として、実質的に皇帝となった。攻めてきたペルシャ軍はサエナの戦いで敗北した。このとき養父ティメシエウスが死んだ。244年ペルシア軍は逆襲を掛けてきた。この戦いでゴルディアヌス三世は死んだ。後任の親衛隊長官アラブスが次期皇帝になった。

AD 244 フィリップス・アラブス帝即位(〜AD249)・・属州シリア出身の軍人。ゴルディアヌス三世のペルシア遠征中死去したティメシテウスの後任として親衛隊長に昇任した。ティメシテウスの死によって、動揺するゴルディアス三世を見限った軍隊の支持を集めたフィリップスはコルディアス三世を謀殺、遠征先で皇帝即位を宣言した。更にペルシア王シャープール一世とメソポタミアを放棄し、毎年の献納金を支払う等不利な条件で講和を結び、ローマ市へ帰還した。ゴート族の侵入に対して、元老院議員デキウスをパンノニア総督に任命し、ドナウ前線に派遣すると、デキウスはゴート族の撃退には成功するものの、軍隊に擁立されてしまう。フィリップスはデキウス討伐の為、遠征軍を組織し、イタリア北部のヴェローナで迎え撃ったが、敗北し、戦死した。フィリップス二世は父がデキウスに敗れた時に親衛隊によって殺害された。画像は左側がフィリップス二世 右側がフィリップス・アラブス

AD 247 フィリップス二世(副帝AD244〜AD247 正帝AD247〜249)・・父がデキウスに敗れた時に、親衛隊によって殺害された。

AD 249 デキウス帝即位(〜AD251)・・属州パンノニア出身の元老院議員。ゴート族の侵入を撃退する為にパンノ二ア総督に任命されると現地で軍隊によって皇帝に擁立される。ヴローナで迎え撃った、フィリップスの軍勢を撃破し、首都ローマに入城。元老院に自身の皇帝即位を承認させた。トラキアにゴート族が再び進入すると、デキウスは前線にとって返し、二年に渉ってゴート族との紛争を続けた。デキウスの息子エトウルスクスが戦死したとの報を受けたデキウスは復讐戦を企図して、前線に駆け付けたが、ゴート族の待ち伏せに会い、多数の兵士と共に戦死した。

AD 251 トリボニアヌス・ガルス帝即位(〜AD253)・・ペルージア出身の元老院議員。デキウスがドナウ遠征で戦死したときには、高地モエシア総督の地位にあった。ガルスはデキス配下の軍を引継ぎ、その支持を元に皇帝即位を宣言した。ガルスはゴート族と貢納金と引き換えに和睦を結び、ゴート族をドナウの北岸へ退去させた。その後ローマに入城。元老院の支持を取り付ける為に先帝デキウスの息子ホスティリアヌスを自身の養子として名目上は共冶帝として遇した。

ローマの街並み
(1)古代のローマ市 (2)帝政期のローマ市 (3)元老院議場 (4)フォロ・ロマーノ
AD 253 アエミリアヌス帝即位(〜AD253)・・属州アフリカ出身の元老院議員。ガルスが皇帝になるとローマに帰還したガルスの後任として高地モエシア総督となった。ゴート族へ貢納金を支払うという屈辱的な和約に不満を持った軍隊の支持を取り付け、アエミリアヌスはゴート族と先端を開き、これに勝利し、皇帝即位を宣言する。ガルスと決戦を挑むべきイタリアに進軍するが、ゲルマニア軍はアエミリアヌスの帝位を認めず、元老院議員ヴアレリアヌスを対立候補に擁立する。アエミリアヌスは北イタリアでヴアレリアヌスを迎え撃とうとしたが、スポルトで配下の兵によって殺された。

AD 253 ヴアレリアヌス帝即位(〜AD260)・・名門貴族出身の元老院議員。ガルスが殺さ れ、アエミリアヌスに帝位が移ると、ゲルマニア軍の支持を背景にヴアレリアヌスは皇 帝を宣言。 軍勢を率いてイタリアに進軍すると、アエミリアヌスは配下の兵士に殺さ れた。ヴアレリアヌスがローマに入城すると元老院はヴアレリアヌスの帝位を承認し、 更に息子ガリエヌスを副帝を共治帝に指名した。ヴアレリアヌスはエデッサの戦いでシ ャーブール一世の率いるペルシア軍に敗れ、捕虜と成り、多くの元老院議員を含む多数 の兵士と共にペルシアに連れて行かれ、そのまま現地で死去したと言われる。画像はヴ アレリアヌス城壁

AD 253 ガリエヌス帝即位(〜AD268)・・ヴアレエヌスの息子。東方遠征に自ら従軍して いたヴアレリアヌスによってガリエヌスの西方の統治を委ねられていた。ゲルマン系の 蛮族との戦闘を繰り返していた。ヴアレリアヌスがペルシアで虜囚の身になった事がロ ーマ領内に知れ渡ると、属州各地で僭称皇帝が乱立する事となる。属州パンノニア、属 州モエシア、属州シリア、属州エジプトで帝位を僭称した。ガリエヌスは配下の軍司令 官を各地に派遣してこれらの叛乱を鎮圧。シリアの占領を繰り返すペルシアに対しては 、パルミュラの領主オダイナトウスに東方属州の指揮権を与えてこれを防がせた。イタ リアの守備を任せていたアウレオルスは帝位を僭称する。ガリエヌスはイタリアにとっ て帰し、アウレオルスの軍には勝利したが、ミラノ包囲戦の最中に配下の兵によって暗 殺されてしまった。画像はガリエヌス帝。

(1)ポストゥム (2)ガリア帝国(緑色部分)
AD 260 ポストウム帝(ガリア)(〜AD268)・・低地ゲルマニア総督。エデッサの戦いで、 ヴアレリアヌスがペルシアの捕虜と成ったことを契機に、ライン軍の支持の下帝位を僭 称。ガリア、イスパニア、ブリタニアを勢力圏とし、いわゆる「ガリア帝国」を建設し た。体勢を立て直したガリエヌスの遠征軍に抵抗し、占領地を保持、しかしアウレオル スのローマへの叛乱に呼応するのを拒否して、イタリア侵攻の機会を逃すなど消極的だ った。ポストウムは軍内の兵士によって殺害された。ポストウムの死後、ガリア帝国は 崩壊課程を辿る事となり、ローマ皇帝クラウデイスはガリアを奪還し、ヒスパニアもロ ーマ帝国の勢力圏へ復帰させた。
(1)クラウディウス硬貨 (2)クラウディウス胸像
AD 268 クラウデイス二世即位(〜AD270)・・皇帝ガツリエヌスを殺して帝位を簒奪した。 268年帝位について程なく、パンノニアに侵入したゴート族を自ら出陣して破った。この 時に後に皇帝となるルキウスも将軍として従軍した。この後数ヵ月後、アルプス山脈を越えて、ゲルマン人の一氏族アラマンニ族が来襲すると直ちに軍を向けてこれを破った。又ガリアやヒスパニア割拠していたガリア帝国の攻略取り組むも、ガリア側の奮戦に遭った。ヴァンダル族がパンノニアに来寇すると兵を向けたが、陣中で疫病に罹ると、270年1月に没した。キリスト教殉教者ウアレンティヌス(聖ヴアレンタイン)を269年2月14日処刑した。

AD 268 ウイクトリヌス(ガリア帝国の皇帝)即位(〜AD270)・・268年ポストウムが暗殺、 後継皇帝となったマリウスも269年に殺害された為、ガリア帝国皇帝に推挙され皇帝に即 位した。ウィクトリヌスはその治世の間クラウディウスガリア帝国討伐軍の侵入を許し 、ヒスパニアとローヌ川よりローマ寄りの領土を奪われるに至った。ウィクトリヌスは部下の一人に殺された。ウィクトリヌスの母ウィクトリアは軍団に多額の金銭を支払って歓心を買い、ウィクトリヌス神格化することで、権力を維持し続けた。ウィクトリアによって、テトリクス一世がガリア帝国皇帝に即位した。

(1)ティトリクス一世 (2)ティトリクス二世
AD 270 ティトリクスガリア帝国最後の皇帝。274年アウレリアス 帝にシャロン・スュル・マルヌで敗れ、降伏する。これにより、ガリア帝国は消滅し、ローマ帝国の支配下に戻ることになった。ティトリクスは敗れたものの殺されることも無く、ルカニア総督の地位を与えられ、安楽な余生送ることが出来た。また彼の息子ティトリクス二世も元老院議員となる事が出来た。

AD 270 クィンテルス帝即位(〜AD270)・・クラウディウス二世の弟。クラウディウス世 が前線で病死した時は、アクレイでイタリアの守備を任されていた。クィンテルスは元老院によって、皇帝の即位を認められる。しかしその直後にドナウ軍はクィンテイルスの即位の承認を拒否し、騎兵隊司令官アウレルアヌスの皇帝即位を宣言した。元老院もアウレリアヌスの即位を追認する。クィンティルスはアウレリアヌス挙兵の報を聞くと、元老院も見放してしまった状況に絶望し、自殺した。

AD 270 アウレリアヌス帝即位(〜AD275)・・ガリエヌス配下の武将。僭帝アウレオルス討伐の際のミラノ包囲戦におけるガリエヌスの暗殺はアウレリアヌスの主導によるものと言われる。アウレリアヌス即位時のローマ帝国は、西方のガリア帝国と東方のパルミュラによって、多くの属州はローマの支配が及ばない状態に有り、ローマ帝国へ進入を繰り返えす蛮族への対拠も求められる状況に有った。ガリエヌス、クラウディウス二世が継続していた蛮族との紛争為に、即位後すぐにドナウ沿岸に引き返し、ヴァンダル族、サルマタエ族の侵入を阻止した。更にイタリア半島まで侵入していたユトウンギ族とマルコマン二族を苦戦の上に撃退した。ドナウ北岸に侵入しゴート族に打撃を与えた物の、属州ダキアの維持は困難であるとして領有を放棄した。アウレリアヌスはパルュラとがガリア帝国征服によってローマを再統一し、蛮族に対しても、幾度も勝利を重ねたが、属州ダキアとローマ城壁を築かせるという、決断はローマ帝国が衰退している事を端的に示している。

タキトゥス帝
AD 275 タキトゥス帝即位(〜AD276)・・テルニの出身のコンスル格の元老院議員。アウレリアヌス麾下の軍隊の要請により、元老院が選出し、帝位についた。七十五歳という、高齢の為小アジアでゴート族に勝利した後ペルシア戦役に向かう途中で小アジアの都市ティアナで熱病の為寿命を終えたかシリアで暗殺されたとされる。

AD 276 フロリアヌス帝即位(〜AD276)・・在位期間は三ヶ月に満たなかった。タキトゥス帝が276年死去した後、ヒスパニア、ブリタニア、ガリア、マウリタニアの西方属州の軍隊により皇帝に推挙された。当初は元老院の支持が無かった事から、硬貨を鋳造する時に、元老院に対して自身の支持を要請したとされる。一方東方属州の隊はブロブスを皇帝として選出、フロリアヌス軍はヘルール族と戦う為軍を率いており、フロリアヌス軍はブロブス軍とキリキア近郊で遭遇したものの、兵力の劣るブロブスが決戦を避けた。後にブロブスが徐々に優位に立った事から、フロリアヌスは部下の裏切りにあって殺害された。
ブロブス帝
AD 276 ブロブス帝即位(〜AD282)・・AD276年皇帝タキトゥスがシリアで陣没した後、東方属州の軍の支持を受けて皇帝に名乗りを上げ、西方属州及び元老院が支持したフロリアヌスと対峙した物の、フロリアヌスが暗殺された事で解決を見た。治世の大半をライン、ドナウ川戦線蛮族迎撃に従事、軍人としての能力は高く、ローマ帝国への進入は撃破、逆に蛮族の地に攻め込み、国境の安定を計る事をなしえた。282年ペルシア戦役に向かう途中で兵達に暗殺された。
AD 282 カルス帝即位(〜AD283)・・ガリア出身の武将。ブロブスが暗殺された際には、ライン川近郊で新兵の訓練に従事していたが、軍隊がカルスを皇帝に指名すると、シルミウムに駆け付け即位した。皇帝になったカルスは自身の息子のカリヌスとアメリアヌスを副帝に指名し、更に長子のカリヌスは正帝に昇進させ西方属州の統治を任せた。カルス帝自 身既にブロブスがけいかくしていたぺるしあえんせいを実行移す。カルスの遠征軍はメソポタミアを征服し、セレウキアとクテシウォンを無血開城した。カルスはこの遠征中に突然落雷によって亡くなったと伝えられている
AD 283 カリヌス帝即位(〜AD285)・・カルスの長男。カルスが即位すると、弟のヌメリアヌスと共に副帝(カエサル)の称号を与えられ、カルスのペルシア遠征の直前には正帝(アウグストウス)に昇進した。カリヌスは西方の統治を委ねられていた。ドナウ国境でリアディ族を打ち破り、ブリタニアにも遠征している。ペルシア遠征で父であるカルスと弟のヌメリアヌスが死んでしまった。最終的に、東方で皇帝に擁立されたディオクレティアヌスとカリヌスはアグス川で戦ったが、信望の無かったカリヌスはその戦闘中に配下の兵士によって暗殺されてしまった。

AD 283 ヌメリアヌス帝即位(〜AD284)・・カルスのペルシア遠征中にヌメリアヌスも従軍していたが、元々病弱だった事も有り、メソポタミアで眼病を患い失明していた。カルスが死んだ後、ペルシア遠征軍の指揮権を引き継ぎ皇帝となった。遠征からの撤退命じる。しかしその途中、ニコメディアに到着する前に輿に乗ったまま死亡していた。

(1)ディオクレティアヌス帝 (2)ディオクレティアヌスの宮殿
AD 284 ディオクレティアヌス帝即位(〜AD305)・・本来はディオクレスという名で、一兵卒から、親衛隊長官にまで出世し、先帝ヌメリアヌスの死後軍に推戴され小アジア西北のニコメディアで即位し、皇帝になった。当時広大なローマ帝国の統治と防衛を単独で行うのは困難だと考えられた。そこで軍の同僚だったマクシミアヌスを共同皇帝として、西方担当させ自身はニコメディアを拠点に東方を治めた。彼らは国境防衛に便利なように前線に程近い都市に宮殿を置いた為、既に荒廃していたーマの重要性は益々低下し、ローマ帝国の中心は東方に置かれる様になった。305年彼は健康を崩したことも有って退位し、アドリア海に臨むサルナ近郊に宮殿を造って隠棲し、数年後に亡くなった。

AD 293 ディオクレティアヌスによる帝国の四分割当時。

AD 286 マクシミアヌス帝即位(〜AD305、AD306〜AD308、AD310)・・統治期間中、マクシミアヌスはドイツ北部のアレマンニ族やブルグント族との戦い、ドナウ国境のカルピ人との戦い等軍事面でいくつもの勝利を挙げた。AD305年ディオクレティアヌスとマクシミアヌスは揃って引退した。マクシミアヌスは三度目となる皇帝を名乗ったが、コンスンティヌスと対立し、アッシリアに逃亡したが、再び破れ、牢に入れられて退位した。最後は自殺か暗殺かは不明だが、310年死亡した。

AD 305 コンスタンティウス帝即位(〜AD306)・・コンスタンティヌスの父親でコンスタンティヌス朝の創始者である。293年皇帝ディオクレティアヌスがテトラルキア(四分統治)を制定し、ローマ帝国を西側と東側に分割した。どちら側も正帝が支配し、副帝が補佐した。ディオクレティアヌスは東側帝国の正帝となり、ガレリウスを副帝とした。コンスタンティウスは西側の正帝マクシミアヌスを補佐する副帝に任命された。293年コンスタンティウスはホノニアの近くでカラシウスのぐんだん(ブリタニアと北部ガリアで自ら皇帝を僭称していた)を破った。296年コンスタンティウスが近衛兵を送ってブリタニアのローマ支配が復元した。コンスタンティウスは306年ブリタンニのヨークにおいて逝去した。

AD 304 ガレリウス帝即位(〜AD311)・・ガレリウスはダキアの首都セルディカ(現ブルガリアの首都ソフィア)の近くで生まれた。アウレリアヌス帝やブロブス帝といった皇帝の下で名を上げた。293年に四分割当時が開始される時、コンスタンティス・クロルスと共に、副帝に任命された。296年ササン朝との開戦にあたり、ガレリウスは、ドナウ川流域からユーフラテス側流域へ持ち場を変えた彼の最初の戦役は壊滅的な敗北に終わり、メソポタミアを失うことになった。297年ペルシアのナルセ一世に対して今度は決定的な勝利を収め、首都クテシフオンも占領した。298年ナルセ一世は降伏した為メソポタミアはローマの支配下に戻り、更にチグリス川の東の一部までも、ローマ支配化に置かれた。ガレリウスはいずれコンスタンティウスが亡くなる時に全ローマ帝国の唯一人の支配者になることを狙っていたコンスタンティウスがヨークで亡くなるとコンスタンティウス一世はすぐに皇帝の位を継ぐと宣言し、その息子マクセンティスはイタリアで共同皇帝になると宣言したので、ガレリウスの目論見は崩れた。311年死亡した。

AD 306 マクセンティウス帝即位(〜AD312)・・テトラルキア時代の皇帝の一人。マクシミアヌスの息子である。セウエル帝を破ったマクセンティウスはアルプス山脈に至るまでの、北イタリアとイストリア半島を支配下に置き、セウエル帝の後に空位となった正帝の位を名乗るようになった。支持基盤強化の為に父マクシミアヌスを帝位に呼び戻す。しかし308年父帝はコンスタンティヌスの元に逃げ込むことになる。312年コンスタンティヌスに攻められて、ティベリス川で溺死する。遺体は翌日発見され市中を引き回された後、彼の死をはっきり誇示する為、アフリカに送られた。

AD コンスタンティヌス一世即位(〜AD337)・・ローマ帝国の皇帝。帝国を再統一し、専制君主制を発展させたことから、「大帝」と称される。キリスト教を公認して、その後の発展の政治的基盤を用意したことから、正教会、東方所協会、東方典礼カトリック教会では聖人とされる。ディオクレティアヌスの時代に西の副帝を勤め、後に正帝となったコンスタンティウス・クロルスの子として生まれたコンスタンティヌスは、312年に西の帝国の正帝となり、ディオクレティアヌス退位後の内乱を集拾して324年に帝国を再統一した。330年帝国東方の交易都市であるギリシア人の植民都市ビザンティオン(後のコンスタンティノポリス、現イスタンブール)に遷都した。ネロ以来禁止されていたキリスト教に信教の自由を与えて公認した。

AD 308 リキニウス帝即位(〜AD324)・・308年ガリレウス帝はリキニウスを正帝の座につけた。これによってリキニウスは、イリュリクム、トラキア、パンノニアの属州を支配することになった。ガリレウス帝が亡くなるとリキニウスは東側の帝国をマクシミアヌス・ダイアと分割することになり、その境界をヘレポントス海峡及びボスポラス海峡とした。313年3月、コンスタンティヌス帝と連名でミラノ勅令を発してローマ帝国内でキリスト教を公認し、没収していたキリスト教会の財産を還付した。314年リキニウスとコンスタンティヌスが衝突し、コンスタンティヌス帝がパンノニア属州のキバラエの戦いを制した。その二年後トラキア属州のマルディアの戦いで二人は再び戦ったが、和解した。324年二人は再び戦いを再開し、リキニウス軍はコンスタンティヌスにハドリアノポリスの戦いで敗れ、ビュザンティオン城壁の内に封じ込められた。そしてコンスタンティヌス帝によって処刑された。

AD 310 ソリドウス金貨の発行が始まる。

AD 310 マクシミヌス・ダイア帝即位(〜AD313)・・出身はダキア属州(マケドニア属州と共にイリリウムに属した。)のドナウ川周辺に生まれた農民であった305年には伯父ガリレウス帝に引き立てられて、副帝の地位を授けられ、シリア属州とアエギュトプスを支配するようになった。311年にガリレウス帝が死去し、マクシミアヌス・ダイアはローマ帝国の東半分をリキニウス帝と分割することになった。リキニウス帝はコンスタンティヌス帝と連携を始めたので、マクシミアヌス・ダイアは副帝を僭称して、イタリアを支配するアクセンティウスと陰で連携した。312年にリキニウス帝とはっきり決裂したが小アジアのヘラクレア・ポンティカ近郊にてツィラッルムの戦いで大敗した。その後タルススに逃亡し、8月に死亡した。

AD 313 ミラノの勅令(キリスト教徒に信仰の自由を認める。)

AD 324 コンスタンティヌス大帝、共治帝リキニウスを倒し、ローマ帝国の再統一を実現

AD 325 ニカイア公会議(キリスト教の教義を統一)

AD 330 コンスタンティヌス大帝、都をビザンティウムに移し、コンスタンティノポリスと名を改める

AD 337 コンスタンティヌス二世帝即位(〜AD340)・・コンスタンティヌス二世はローマ帝国の共同皇帝。コンスタンティヌス一世が死去し、葬儀がコンスタンティノープルで行われたが、暫らくしてコンスタンティノープル居た親族は粛清された。その後三人の兄弟は会議を行い、揃って即位した。三人は独立君主として政治を行った。コンスタンティヌス二世は、ブリタニア、ガリア、ヒスパニアを統治していたが、三弟コンスタンティス一世に北アフリカの領土の分割を要求したが、拒否された為アルプスを越えて、弟の領土へ攻め込んだ。340年北イタリアニ侵攻するが、アウレィア近くで行われた戦闘で捕らえられ、殺害された。

AD 337 コンスタンス帝即位(〜AD350)・・コンスタンティヌス一世の第四子、コンスタンティノポリスでギリシャ、ラテンの教育を受け、父帝死後兄弟と共に正帝としてイタ リア、アフリカ等を統治、340年ブリタニアに渡ったが、これがローマ皇帝がこのちに足を踏み入れた最後になった。ガリアのアグネンティウスのクーデターの為に殺された。

AD 337 コンスタンティウス二世即位(〜AD361)・・コンスタンティウス一世の息子。兄弟で帝国を分割統治し東方領土を統治した。兄と弟の内乱等経て再び帝国を統一する。父コンスタンティヌス一世の死の直後に起きた、クーデーターで殆どの皇族が殺害されているが、その黒幕と言われている。

AD 360 ユリアヌス帝即位(〜AD364)・・副帝355〜363年、最後の異教徒皇帝として知られる。335年後半コンスタンティウスは東方のペルシヤだけでなく、ガリアの問題にも直面していた。355年11月メディオラヌムにてユリアヌスは副帝に任じられる。355年末ユリアヌスはスタンランラィウスと共にガリアに向かっていた。フランク族によってコロニア、アグリッピナ(現ケルン)が陥落したとの報告を受ける。ここからユリアヌス自身の指揮による戦闘が始まる。ついにはコロニア、アグリッピアをフランク族の支配から取り戻した。こうしてガリアの安定を取り戻した。その後ペルシア軍と戦っている際に投槍を受け陣中で没した。

AD 363 ヨウイアヌス帝即位(〜AD364)・・撤退中に選ばれた新たな皇帝ヨウイアヌス。対ペルシア線で戦没したユリアヌスは副帝を指名しておらず、また適当な親族も残っていなかったので、軍隊によってヨウイアヌスが皇帝に選出された。糧食乏しく敵中に残されたヨウイアヌスはペルシアと屈辱的な和議を結び撤退する。コンスタンティノポリスへの帰還の途中彼は火鉢によるガス中毒で死亡したと言われる。

AD 364 ウアレンティニアヌス一世即位(〜AD375)・・321年生まれ。父はパンノニアの農民 であったと言われる。ヨウイアヌス没後の364年2月に皇帝に選出され、弟ウアレンスを 共同正帝として東方を任せ、自らは西方を担当し、治世の殆どを国土防衛の戦いに費や した彼自身はキリスト教徒であったが、異教にも寛容な政策を採った。375年に侵略軍の 使者を引見中、激憤の余り卒中で死亡する。

AD 376 西ゴート族の移住(ゲルマン民族の大移動始まる)

AD 378 ハドリアノポリスでウァレンス帝が西ゴート族に敗れる。

AD 391 テオドシウス帝がキリスト教を国教化する。

AD 395 テオドシウス帝死去。ローマ帝国の東西分裂。

AD 364 ウアレンス帝(〜AD378)即位・・ハドリアノポリス(英:アドリアノープル)の戦い。378年ローマ皇帝ウアレンス率いる、ローマ軍とゴート族の戦いである。この戦いではローマ軍は敗退し、以後トラキア地方ゴート族に占領されることになった。西ゴート族と東ゴート族は連合してローマ帝国を破った為、これにより、西ゴート族は武力を保持したままで、ローマ帝国内居座ることになった。帝国中央部に進入を許した為、東西ローマの分裂は決定的となり、いよいよ持って、ローマ帝国内の蛮族化が進むことになった。皇帝はゴート族に囲まれ、小屋の中で焼き殺された。

AD 367 グラティアヌス帝即位(〜AD383)・・ウアレンティアヌス一世の長男で七才か八才で正帝の称号を受ける。父帝死亡にも未だ十六になってなかった。彼はミラノの司教アンブロシウスの影響で父帝の穏健な宗教政策から離れ大神祇官の称号を拒否したり、女神ウィクトリアの祭壇を元老院から撤去させたりした。383年マグヌス・マクシムスの叛乱の時歩兵長官メロバウデスの裏切りで敗走し、リヨンで殺害される。

AD 375 ウァレンティニアヌス二世(〜AD392)・・ウアレンティニアヌス一世の息子でグラティアヌス異母弟にあたる。ウアレンティニアヌス一世の死後、四才でグラティアヌスの副帝に任ぜられる。383年にグラティアヌスが殺されるまで彼の保護下に有り、その後はミラノに移り、母親ユスティナが実験を握る。387年にアグヌス・マクシムスがイタリアに侵攻するが、テォドシウス一世の力で地位を回復する。392年に軍司令官アルボガデスに殺される。

(1)親衛隊 (2)騎兵将校 (3)兵士
AD 379 テォドシウス一世即位(〜AD395)・・古代ローマ帝国の皇帝でテオドシウス代帝と呼ばれる。僅か一年であったが、東西に分裂していたローマ帝国を統一し、一人で支配した最後の皇帝となった。死後はローマ帝国は東西に分けられ、永久に統一される事は無かった。392年キリスト教を東ローマ帝国の国教に定め、西ローマ帝国及び統一ローマに於いても同じくした。東ローマ帝国はテオドシウスの統治に比較的安定していたが、ハドリアノポリスの戦いの後ゴート族その他の北方蛮族の対策に謀殺されていた。

AD 392 エウゲニウス即位(〜AD394)・・ローマ帝国テオドシウス一世の対立候補として僭称した帝位簒奪者で、当時西ローマ帝国を掌握していたアルボガデスの傀儡である。エウゲニウスの治世は一つの時代の終わりと新しい時代始まり告げるものと言える。395年のテオドシウスの死去に伴い、アルカディウスは東ローマ帝国、ホノリウスを西ローマ帝国をそれぞれ分割して相続した。フリキドウスの戦いで初戦はアボカディウスが優勢だったが、アボカディウス側の将校数人が寝返ってエウゲニウスに付いたりした為エウゲニウスが勝利した。アルボガデスは自決し、エウゲニウスもテオドシウスの兵営で首を晒された。

AD 395 (東)アルカディウス即位(〜AD405)・・東ローマ帝国テオドシウス王朝の初代皇帝である、テオドシウスはゲルマン民族に対応出来るように分割統治させた。弟のホノリウスと同じく無能な人物だったが、帝国有力者のアンテミウオらが実際の政務を司り、帝国が揺らぐ事は無かった。統治のローマ人は分割統治を何度か行ったことも有り、その後再統一されることの無い完全な分裂であるとは思っていなかった。

AD 395 (西)ホノリウス即位(〜AD423)・・テオドシウス一世の次男。西ローマ帝国の亡の一因作った暗君として知られる、ホノリウスの治世は社会的に不安定な時代だった。まずアフリカでギルトの反乱が起こる、ゲルマン人がイタリア中を蹂躙し、属州ブリタンニアでは軍隊の司令官が皇帝「コンスタンティヌス三世」を僭称して地方を征圧してしまうような時代で、西ゴート族がイタリアに侵入するとラベンナに遷都し、以後そこに篭り切りになる。その後イタリアは西ゴート族のアラリック一世が侵攻してくる。西ローマでは対抗できる力は無くローマ市は占領され、略奪された。423年39才で子供を残さずに死去した。ホノリウスの時代には西ローマ帝国はイタリア半島を支配するのが精一杯の状態となっていた。

AD 408 テオドシウス二世帝即位(東)(〜AD450)・・AD401年にアカディウスの唯一の息子として生まれ、402年共治帝とされ、408年父の跡を継ぐ。統治は初めは民生総督アンデミウス後には、姉ブリケリア、妻エウドキア等様々な人間の強い影響を受け続けていた。450年落馬が元で死亡する。アッチラ軍に率いられたフン族との戦いを避けて、金で平和を買うことになった。(422 年から毎年金350リプラ、434年から毎年700リプラ、443年からは2,100リプラ)。

AD 425 ウアレンティアヌス三世即位(西)(〜AD455)・・父はコンスタンティウス三世。父が没すると母はホノリウスと決別して、東ローマ帝国の皇宮に出奔、テオドシウス二世の元に身を寄せた。ホノリウスが没するとテオドシウス二世はいとこのウァレンテニアヌスを副帝(カエサル)に指名、425年西方正帝に任命した。僅か六才で正帝になった為、幼少期には母プラキディア、433年以降はフラウイクスの手に握られた。451年アエティウスがフン族の王アッティラに対して大勝利を収め 、ガリア南部の西ゴート族に対する武勲、ライン川やドナウ川への侵入者に対する武勲が有った。アッティラがイタリア北部を荒らしまわると、ウアレンティアヌス三世はローマに逃げ出している。454年暗殺された。

AD 450 マルキアヌス帝即位(東)(〜AD457)・・兵士の息子として、トラキアかイリュリクムに生まれ、自らも軍隊に入り、424年ペルシア戦争に参加その後アルダブリウス、アスパル父子に副官として仕え、431年のアフリカ遠征にも同行した。450年テオドシウス二世の死後、アスパルによって東帝に擁立された。アッテイラに対しては貢納金支払い停止など、強硬策を摂り、アッティラ死後はフン族に服属していた諸部族を帝国領内に移住させ、東ゴートとゲビダエ族はこれを同盟部族とした。

AD 455 ペトロニウス・マクシムス帝即位(西)(〜AD45)・・455年に即位し、二ヵ月半位した皇帝である。西ローマ皇帝ウアレンティヌス三世の暗殺に関与したと言われる。マクシムスはアエティウスを粛清するよう皇帝ウアレンティヌス三世を唆しその結果、皇帝自らの手によってアエティウスが殺害されたと言う。西ゴート族支援を受けようとしたヴァンダル王ガイセリックとの間で口実で、ヴァンダル族はイタリア侵攻を準備していたが、マクシムスは全くの無為無策であった。マクシスムス帝はヴァンダル族によるローマ掠奪の際に殺害された。

AD 455 アウィトウス帝即位(西)(〜AD456)・・ペストロニウス・マクシムス帝が横死すると、西ゴート族の後ろ盾を得て、西ローマ帝国に即位したが、翌456年に廃位させられ、ブラケンティア司教にされたが、程なく殺害されている。アウィトウス帝の権力は5世紀中頃の西ローマ帝国を取巻く全ての主要勢力の支持如何に掛かっていた。イタリアの住民の間では異邦人のアウィトウス帝に対する憤激が高まっていた。最後はガリア逃げる最中に死んだと言われる。

AD 457 マヨリアヌス帝即位(西)(〜AD461)・・皇帝アウイトウスの時代にフランク族とアラマニ族の侵略を阻止したことで、将軍として注目を浴びることになった。457年アウイトウス帝が殺害された後、西ローマ帝国の最高権力者であったリキメロスによって帝に擁立された。当初はリキメロスの傀儡と目されたものの長年の課題でもあった税制改革や中央集権から一部権限を委譲するなど実施した。西ゴート族の略奪を撃退する等一定の成果を挙げた。461年ヒスパニアからイタリア本国へ帰国の途中に兵士の叛乱に有って殺害された。

AD 457 レオ一世即位(東)(〜AD474)・・東ローマ帝国レオ朝の初代皇帝。トラキア生れの帝国軍人で先帝マルキアヌスが男子なくて没した後軍事長アスパルに支持されたレオが、皇帝として即位することになった。治世前期のレオ一世はアスパルとその息子アリパリウスの傀儡あったが、471年アスパル父子を打倒し、皇帝の地位を確固たるものにした。

AD 461 セウエルス三世(西)(〜AD465)・・西ローマ帝国の末期皇帝の一人となった。権はリキメル握られており、何の権力も無く帝国を脅かす諸問題も解決出来なかった。彼の治世の四年間とアンテミウスが即位するまでの二年間を「空白の六年間」と言われる。治世の当初はリキメル将軍の存在、そして幾つかの属州が彼の即位を認めなかった。リキメルによる支配が明確であることは、464年アラン族の王ベルグルがリキメルに敗れて死んだ記録が残っている。

元老院議員
AD 467 アンテミウス帝即位(西)(〜AD472)・・コンスタンティノープルの名門貴族で東帝マルキヌスの女婿。西の帝国で実権を握っていたリキメルから対バンダル戦で援助要請に応える見返りとして、東帝レオが西帝に推挙、リキメルの勢力を抑える事に苦心し、娘をリキメルに嫁がせる一方で、彼に対抗する勢力基盤を求めて、ガリア貴族層に接近したが、472年にはリキメル対立が内乱まで発展。五ヶ月に及ぶ内乱の後ローマ市でリキメル軍に殺害された。
夫婦(ポンペイ)

AD 467 オリプリウス帝即位(西)(〜AD472)

AD 473 グリケリウス帝即位(西)(〜AD474)・・ブルグンド族の力で即位したが、474年に東ローマ帝国レオ一世によって西ローマ帝国に指名されたネポスが討伐軍を率いて進軍して来るとブルグント族は戦闘を拒否し、撤退した為、一戦も交えず降伏した。追放され、ダルマティアの都市サロナの主教に叙任した。

AD 474 ユリウス・ネポス帝即位(東)(〜AD475)・・475年8月以降に、ダルマティアに逃れてからは対立候補として、西ローマ皇帝ロムルス・アウグストウスへの抵抗を続けた。西方帝位に於いて東ローマ帝位にあった妻の伯父レオ一世の支持を得て挙兵した。ネポスが挙兵に及ぶとたちまちブルグンド族は逃散してしまい、後ろ盾を失ったグリケリウスは退位を宣言した。ネポスはグリケリウスを助命して、ダルマティアへ追放した後自らが西方帝位を継承した。480年ネポスは自らを警護する護衛兵の手によって暗殺された。

AD 474 ゼノン一世帝即位(東)(〜AD491)・・皇帝レオ一世の下で実権を握っていたゲルマン人のアスパル父子を倒した功績でアリアドネの婿となり、レオ一世の死後息子のレオ二世の後見役となるが、レオ二世が夭折した為、自ら即位。即位して間もない475年反乱によってバシリスクスに帝位を追われるが、一年後帝位を奪回する事に成功した。皇位に在るまま生涯を終えた。

AD 475 ロムルス・アウグストウス帝即位(西)(〜AD478)・・一般に、西ローマ帝国は47年9月4日にオドアケルがロムルス・アウグストウス帝を廃した時に滅亡したとするが、493年オドアケルがテオドリック大王に掃討されたが、テオドリックは東ローマ帝国のゼノン徴募されていて東ローマ帝国に従属しその副王に任ぜられていた。が政治的には自立していた。テオドリックが526年没した時西ローマは東ローマとは別物になっていた。

AD 476 西ローマ帝国の滅亡

AD 527 ユスティアヌス一世即位(ビザンツ皇帝)(〜AD565)・・476年西ローマ帝国滅亡。生き残った東半分の皇帝は理念的には全ローマ帝国の皇帝であると主張していた。ユスティアヌスは失われた帝国西半分を回復しょうと、ペリサリウスに遠征させる。(後にはナルセスを派遣。)その派遣は一応の成功を収めるが、費用を負担した住民たちは戦争、疫病、飢饉の三重苦に苦しめられる。治世五年目のニカの乱の時、宮殿から逃げ出そうとするが、皇后テオドラに叱咤激励されて、何とか反乱を鎮圧する。

AD 1457 東ローマ帝国の滅亡。