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| お寺の由緒については不明ですが、長井豊前守正實開基の曹洞宗のお寺です。 |
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お寺の入口を入って少し歩くとパッと開けて寺入口2の場所に着きます。この参道があるのでお寺が外部から遮断された形になりとても静かで
良い雰囲気が作られていますね。 ここには数度訪問していますが個人的にとても心地良い雰囲気を感じました。
具体的に何があるから!という訳ではないのですが、バイオリズムが私と合うのかな? 空気が澄んでいる、そんな気がします。
山門は確か歴史のある物だったのではないかな?奥の本堂は新しい物だったので写真は割愛いたします。
下写真梵鐘は元は清福寺にあり寛政五年清福寺十一世法印上人慶純の発願により丸山林八長暉によって造られた藤岡市の文化財です。
後に清福寺が廃寺になりここへ移されています。 |
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左写真開基長井正實は武田家臣でした。
信玄勝頼に仕え上野国三山の城にて討死と思ったのですが、石碑に
“天正十二年武州側を北条に封ぜられ浄法寺に移り
隠居す同十八年徳川化方軍の先鋒依田氏峰起し
神流川に敗し大御堂吉祥院に於て切腹 家名断絶し
浦部氏之を継ぐ時に天正十八年庚虎二月二十八日”
とあります。
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| 梵鐘 |
長井家墓所 |
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三山城で討死したのではないのか?と思ったのですが、続く正實の子(?)の説明には
“長井氏の頃御岳三山城姻戒客武将として平塚に住し運命を共にす父子は○○湖畔に於いて三名の遺骸は郷党の者により
開基寺に葬送され〜” とあります、確かに祠は3基ありますね。
私は読解力が無いので石碑全体の意味が通じなかったので、行かれる方はそこで読んでみて下さい。
長井家の鎧冑などもお寺にあった様ですが天保元年の火災で全て焼失してしまった様です。
ちなみに石碑によると永禄八年信玄により領土安堵の書を賜っています。
墓の刻印は何も確認できず、お寺の方もどれが誰の墓かは分からないです。との事でした。
子孫は江戸時代旗本として残り熊谷の龍淵寺を菩提寺としています。 |
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ここは依田家の菩提寺でもあります。というより
本当は天陽寺には依田信守の墓があるかな?
と思って訪問したら偶然に開基が長井正實で
菩提寺でも有ったという事なんですが・・・・
こういう偶然の出会いは嬉しいですね〜
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依田信政 |
信守室 依田信守 |
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ここ天陽寺は依田信蕃の弟にあたる信幸の子信守とその子信政が菩提寺としています。
まず父信幸ですが、武田に仕えた後兄信蕃に従い家康に仕え、信蕃と同じ天正十一年の岩尾城の戦いでやはり信蕃と同じく鉄砲で
腋を撃たれ陣営に帰って三十四歳で死亡。
で信守ですが最初は信盛と称しています。武田滅亡時駿河より甲斐に入国する家康を蘆田(依田)や武川州と共に鰍沢にて出迎え、
刀そして呉服を賜っています。
上記岩尾城攻めにも参加し傷を受けながらも城を落としています。信蕃討死後はその子康国に属して蘆田十六騎、小室九騎興良四騎、
柏木十一騎、小田井七騎 合計四十七騎 更に歩兵二百騎を託されています。
その後も度々戦場にて功をあげ、それにより家康が大久保忠世を遣わし祖父信守が武田信玄より許された黒地のおりかけを用いる事を
許され、名も信盛からその祖父の名信守に改める様達しがありました。
ちなみにその信守(祖父の方)の娘は松井宗直の室となっています。
後主君依田(松平)康国の子康真が藤岡に移封される事に従い信盛もこの地に来たようですね。
最後は信濃上田城の守護の任についていた時に三十八歳で死亡。 室は室賀山城守信俊の娘で、墓に刻印されています。
依田信政は信守の次の当主ですが子でなく弟で信守の養子となっています。主君依田康国殺害の時にその場におり敵一味小林左馬充を
討取っています。
寛文二年正月十一日九十三歳で死亡、墓には室である松平伊豆守信一の娘の戒名も刻まれています。
こういう武田史跡としては知られていない場所で武田家臣の墓に出会える事はホント嬉しいですね。こういう出会いがあるから
マイナー史跡巡りが好きなんです。 |
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現在大河ドラマ真田丸が放送されていますが、結構前になりますが徳川家康の指示で真田昌幸を殺害
しようとして失敗し逆に殺された室賀正武という人物がいました。
それまでシリアスな場面がほとんどなかった真田丸で、結構緊迫感のあるシーンだったので
記憶に残っています。
で左写真は上の依田信守室墓の側面ですが室賀信俊女とあります。 室賀家の系図については
結構難しい部分がありはっきりとは言えないのですが、この信俊の息子が西村雅彦さん演じる
室賀正武だと思います。 て事は上の墓は正武の妹なんですね。 |
| “室賀山城守信俊女” |
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(2016 11.15 追記) |
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(10 8.29 アップ)
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