| 百済滅亡-白村江の戦い-天智天皇
660年3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方を神丘道行軍大総管に任命し、劉伯英将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じた。唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍した]。唐13万・新羅5万の合計18万の大軍であった。 百済王を諌めて獄死した佐平の成忠は唐軍の侵攻を予見し、陸では炭?(現大田広域市西の峠)、海では白江の防衛を進言していたが、王はこれを顧みなかった。また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同様の作戦を進言していたが、王や官僚はこれを流罪にされた恨みで誤った作戦を進言したとして、唐軍が炭?と白江を通過したのちに迎撃すべきと進言した[10]。百済の作戦が定まらぬうちに、唐軍はすでに炭ケンと白江を超えて侵入していた。 |