| 百済復興運動-白村江の戦い-天智天皇
唐の目標は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去する意味があり、唐軍の主力は高句麗に向かう[15]と、百済遺民鬼室福信・黒歯常之らによる百済復興運動が起きた。8月2日には百済残党が小規模の反撃を開始し、8月26日には新羅軍から任存(にんぞん。忠南大興郡大興面)を防衛した[16]。9月3日に劉仁願将軍が泗?城に駐屯するが、百済残党が侵入を繰り返した[16]。百済残党は撃退されるが、泗?の南の山に4,5個の柵をつくり、駐屯し、侵入を繰り返した。こうした百済遺民に呼応して20余城が百済復興運動に応じた。熊津都督王文度も着任後に急死している。 唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できずに、新羅軍が百済残党の掃討を行う。10月9日に、ニレ城を攻撃、18日には攻略すると、百済の20余城は降伏した[17]。10月30日には泗?の南の山の百済駐屯軍を殲滅し、1500人を斬首した。 しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信、僧侶道?(どうちん)、黒歯常之らの任存城や、達率余自信の周留城(スルじょう)などが抵抗拠点であった。 |