このホームページでは、宗教、とりわけキリスト教を疑似科学のひとつに数えている。私は科学者で、無神論者でもある。科学的に考えるならば、キリスト教の主張する教義に正統性はないように思える。
しかし、この考えには多くの反論があるかもしれない。科学を持ち出して宗教が間違っていると断じることは科学万能主義だ、と言われることもよくある。科学と宗教はお互いに不干渉で、したがって共存できるとする意見は、科学者、あるいは一般の人を含めて広く定着している。だが、科学と宗教が干渉しないというのは本当であろうか。
キリスト教と科学の問題を挙げるときに、しばしば創造科学の問題が挙げられる。もちろん創造科学の問題に限れば、科学者側の一人勝ちである。しかし多くの場合、創造論批判者は次のようなリップサービスを行っている。
「私が否定しているのは創造科学であって、キリスト教の教義や、進化論を受け入れる創造論ではない。科学は宗教を否定することはできない。」
つまり、創造科学は科学を標榜したから疑似科学として批判の対象になるが、宗教は科学を標榜していないので、科学をもって評価すべきではない、という理屈だ。創造科学は、創世記を科学的、歴史的な事実とした上で、進化論は間違っていると主張している。その主張は科学の土俵の上にあるのだから、科学的手法による検証を受けることになる。そうなれば、科学的手続き(根拠の提示、反証可能性)を備えていないことは批判の対象となる。しかし、多くのキリスト教徒がそうであるように、創造記を神学的な解釈にとどめるのならば、科学者にとやかく言うことはできない領域なのだというのだ。
聖書や教義を批判しているのではない、という予防線は、確かに、欧米社会では必要かもしれない。キリスト教が社会の基盤となり、科学者を含めた大部分がキリスト教徒の社会の中にいては宗教を否定することは容易ではない。 社会の大半の人間を敵に回し、自分自身の身の危険について心配しなければならなくなる。(多くの日本人が考えている以上に、欧米社会はカルト的である。)しかし、科学の分野は多数決の場ではない。宗教に遠慮する必要はないのである。
科学ではないのだから反証可能性はいらない、という意見もある。科学だけがすべての価値観ではないのだから、科学で否定できるからといって価値がないと否定できるものではない、というのだ。確かに、小説や映画の内容が科学的でないからといって価値がないとはいえない。人間の感情や尊厳を科学によって価値判断することはできない。
しかし、である。科学が何かの価値を判断することはできないから宗教と科学は不可侵である、というのはあまりにも行き過ぎた相対主義である。キリスト教が主張している教義は、この世界がどのようにできたか、とか、ヒトがどのようにできたかといった事象である。宇宙や生物の創造から、人類の歴史と遍歴といったものに関しての何かしらのことを「信仰」している。そして、そうした何かしらのことに対しては、歴史学という科学によって扱うことができる。聖書が編纂されていった過程も、歴史や神話のや考古学といった科学の範疇で理解できるし、そうした科学によって明らかになった事実とキリスト教の主張しているものとには矛盾がある。また、ヒトが性交渉なしに妊娠しで男児を産んだり、その男児は成人後いったん死ぬが数日後に生き返るということが反証不可能だからといって、科学と対等な不可侵の主張であるとはいえない。そうしたありえない事実を「科学とは不干渉だから科学でありえないからといって否定すべきではない」となぜいえるのだろうか。
もはや、宗教だから科学とは不干渉という考え方を尊重するわけにはいかない。
キリスト教が主張しているのは「この宇宙を創造し、なおかつ現在も宇宙や人類に大きく関わっている神」である。そうした神の存在を主張している宗教に対し、科学ではないとしので科学で批判すべきではないという態度は、インチキ健康商品の広告の端っこに小さな文字で書かれた、「これは使用者の感想であり、効果を保障するものではありません」の一文によってインチキ健康商品の擁護に回ることと同じようなものである。
2007/12/28