魂とは何だろうか。科学原理主義を掲げるホームページであるから、この問題を片付けておかなければならないと思う。科学による宗教批判に対して、婉曲的な魂やヒトの尊厳を持ち出し、科学で否定すべきではないという反論が帰ってくるであろうことが予想されるためである。
魂なり霊なりを科学的に否定できるか、という問題に答えるためには、まず、魂なり霊なりとは何を指すのか、を定義しなければならない。すると、魂という言葉の表す対象が非常に不明確であることがわかる。そもそも明確な定義があるわけではなく、したがって検証することはできない。魂はヒトだけのものか、生物すべてにあるのだろか。生物といっても、微生物やプランクトンを含むのか、あるいはウィルスは含まないのか。それとも、高等な生物には魂があり、下等な生物には魂はないのだろうか。
一般的に、キリスト教では魂はヒトにしかない特別な存在としているのに対し、日本を含むキリスト教の影響の少ない地域では、動植物にも魂を認める傾向にあるようだ。いずれにしても、各種宗教から民俗学、文学に至まで魂や霊のようなさまざまな概念があり、それがなにを指すのかは明確ではない。科学がこうした検証不可能な事象は肯定も否定もしない、という立場に立つならば、確かに科学が魂の存在を否定することはできない。
多くの心霊主義者なり宗教者は、これをもって科学と宗教に相対主義を持ち込み、どちらも同様に大切なものなんだと説くことがある。しかし、これは間違いである。霊魂が科学では否定できないというのは、科学によって透明人間の存在を否定できないとか、見えざるピンクのユニコーンや空飛ぶスパゲッティのヌードル触手による導きを科学では否定できないということ以上の意味はない。
さて、霊魂の存在そのものを科学では扱えないとしても、霊魂という概念がどのように作られていったかを科学が扱うことならばできる。ここでは、人類が霊魂という考えにいたった経緯を考えてみたいと思う。
ヒトがいつ霊魂という概念を発明したかは明確ではないが、ネアンデルタール人はすでに埋葬の文化を持っていたのではないかといわれている。クロマニオン人になると丁重な埋葬がされていることが知られている。死者を埋葬するという文化は、死を認識し、畏れや悲しみの感情を持ったことを意味する。このことから、おそらくは死後の世界や霊魂を想定した宗教観を持っていたであろうと推定される。
ヒトの脳が発達するにつれ、私たちはさまざまなことを認識するようになった。これは、認識の幅を広げることによって生存競争をより有利に生き残ろうとする進化論的な戦略によるものである。例えば、獲物となる生物がどのような時間帯、どのような場所に出現しやすいかを学習するという程度ならば多くの動物がもっている能力である。見えないものを予測(例:草むらに隠れているかもしれない肉食獣)することも重要な能力である。ヒトでは、まだ起こっていない未来(明日の朝そこの場所にいるかもしれない獲物)を予想し、それにあわせて食品の消費を調節するという考え方ができる。さらに、より抽象的な考え方(数の概念、) を行い、目の前にないものを考えることができることによって、仲間や群れとの共感、情報の共有を可能とした。そうすることで狩猟の成功率をあげるという方向に進化してきた。
この抽象的な概念が、ヒトの大きな特徴である。「あの鹿」と「この鹿」が同じ「鹿」という概念を当てはめることで、「その鹿」を見ていない個体にも情報を共有することができる。さらに鹿も牛も猪も「獲物となる動物」という同じ概念でくくることができる。こうした思考によって、ヒトの祖先は生存競争を勝ち抜いてきたと思われる。
私たちヒトは、抽象的な概念を考える能力によって、さまざまなものをより合理的に把握してきた。私たちが使っている「お金」も、実際には存在しない架空の概念である。実在するのは「硬貨」や「紙幣」であったり、お金と同程度の価値を保障されたデータであったりする。こうした実在する「物」に対応させた概念上の「お金」を用いることで、交易や流通を容易にし、普段のさまざまなことを有利(=生物としての生存に有利)にしてくれる。
未来を予測する能力、抽象的な能力の獲得は、やがて「死」の発見へとつながる。同時に「自分」と「他者」を認識することで、自分の感じている主観あるいは心というものが何なのかを考えるようになる。そして、それを表す魂という抽象的概念が作られる。
また、ヒトの未来を予測する能力は、生き残るための生物としての必要性から生まれたものであり、ヒトが「死」を発見したときの絶望感は計り知れないものであっただろう。こうしたストレスを解消するミームとして原始的な宗教が生まれ、死者の魂を弔い、再生なり輪廻なりを願う文化が作られていったと考える。
「心」と普段私たちが感じているものは、複雑な脳での計算処理の集大成であると考える。しかし、このことを受け入れることは現代人にとっても容易ではないようだ。しかし、そんな感情も「ヒトの脳内での情報処理の産物」である。
2007/12/28