多くの宗教者、そして科学者の中にも、科学と宗教がお互いに不可侵で、矛盾することなく共存できるという考えの人がいる。例えば、創造科学批判サイトの最大手だと思われる、NATROM氏のホームページのスタンスは、このようなものである。
「進化論と創造論〜科学と疑似科学の違い〜」
http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/index.html
http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/scientism.html
だが、これはあまりにも宗教に遠慮しすぎではないだろうか。もちろん、日本には「宗教の自由」や「思想信条の自由」がある。(これほどの自由は世界的にも珍しい部類だろう。)しかし、だからといってその自由は、科学とも明らかに矛盾する事柄に対する合理的疑問や論理的追求を棄却するものなのだろうか。
例えばここに、「た写真を撮ると魂が抜ける」と信じて疑わない個人ないし集団がいたとする。
昔の人はそう考えていた、という話は、今では笑い話のようにも聞こえる。しかし、初めて写真というものに触れた人たちの中には、本当にそう信じていた人もいるかもしれない。
写真技術者は、光の反射とスペクトル特性、レンズの光学的な屈折、ハロゲン化銀の反応、あるいは半導体撮像素子に入射した電磁波から電気的な情報への変換やアナログ-デジタル変換回路を通した情報処理理論のような科学によって、「写真を撮ると魂が抜ける」ことを否定できると考える。「写真を構成するのはフィルムでの化学反応、デジタルカメラにおいては半導体撮像素子に入射した光によって発生する電流である。よって魂が抜けるなんてデタラメだ。」というわけだ。
また、魂というものは科学的な概念ではなく、精神や心、というものこそ人のアイデンティティなのだという。精神や心は脳内でシナプスの間に流れる電流のようなもので、それによってもたらされた豊かな発想によって、霊魂という概念が作られたんだというかもしれない。
さらに、写真を撮ると魂が抜けるという考えが生まれた背景として、いろいろな仮説が考えられるかもしれない。未知のもの、理解できないものへの不信感、あまりにもそっくり写るので「これは、魂が抜かれて写されたものに違いない」と思ったのだろう。
あるいは、昔の写真は長い時間ずっとじっとしていなければならず、背中に首に固定用具をいれて耐えながらとっていたので普段とは違う精気の無い顔に写ったということがあったのかもしれない。写真で魂が抜けるなら、世の中のみんなは魂が抜けた抜け殻のはずだが、そうはなっていない。
しかし、だからといって「写真を撮ると魂が抜かれる」という迷信を科学で否定することはできない。もちろん彼らが、「写真を撮ると魂が抜けるというのは科学的な理論である。」といえばそれは疑似科学であり、否定される。しかし、それが「写真を撮ると魂が抜かれる学」に基づく論争にとどまるうちは、科学者には口出しできないし、すべきでもない。
そもそも、「魂」が科学的な学術用語として定義されていない以上、どんな理不尽な説だって科学によって反証することはできない。だから、科学者が口出しすべき問題ではない。
「科学ではない別の分野でそう考えている人がいる、そしてそれに価値を見出している人がいる。」と受け入れなければならない。
「写真を撮ると魂が抜かれる」という主張と科学は相容れないものではないのだ。科学を受け入れながら、写真を撮ると魂が抜けると信じているひとがいたっていい。
「写真を撮るということは科学的には光が云々だ。一方、写真魂学的には写真は魂のフィルムへの念写であり、写真に写った像は人の抜かれた魂なのである。」
あるいは、科学的な説明を許容しない人もいるかもしれない。「写真を撮ると魂が抜かれるというのは科学的な理論である」といえば、それは疑似科学である。しかし、「現代科学は間違っている。写真を撮ると魂が抜けるという主張は真理である。」という主張は、「科学」を名乗っていないので科学をもって否定すべき事柄ではないのだ。
科学万能主義はいけない、科学原理主義はいけない、だから、「写真を撮ると魂が抜ける」という主張を全否定してはいけないのだ。(?)
2007/12/28