摘要
科学は、理神論に端を発し、キリスト教文化の中で育ってきた。
やがて科学知識が発達すると、宗教と乖離せざるをえないことになる。
科学の発達は、宗教を科学の土俵から追い出したかにみえたが、実際には、自然の摂理、という神の代替物へと姿を変えた。
神への冒涜、という宗教的な理由は、科学者の傲慢、人間中心主義、科学万能主義者という説明がされてきた。
なるほど確かに、倫理やモラルが科学的なプロセスから導き出されるものではないことには同意せねばなるまい。
しかし、現実には、キリスト教に基づいた価値観が、人類全体のあるべき姿であるかのしょうに位置づけられてきた。
科学が発達する中、科学技術は人類の未来を開拓する有効な手段である。その手段が、宗教の名の下に謂れのない抑圧を受けることは憂うべきことである。
バイオテクノロジーを扱っていく中で、規制や、心、人間側のソフト面の成熟が必要なことは確かだが、合理的で理性的な世界観を形成することが必要である。
科学は、理神論に端を発し、キリスト教文化の中で育ってきた。神、すなわち創造主がこの世界を作ったのならば、そこには一定の法則が見出せるはずだ。ならば、神に基づく自然の法則や宇宙の秩序を定型化しよう、という試みが西洋科学の発端であり、彼らは数学という記述をもって、物理学・化学という様式を作り上げた。ガリレオ、ケプラー、ニュートンなどの中世の科学者はみな敬虔な宗教家でもあるように、科学は神学の枠の中の一部を構成してきた。
やがて科学知識が発達すると、宗教と乖離せざるをえないことになる。自然や宇宙からの神の探求に対し、これを専門とする研究機関が修道院に置かれるようになり、いずれ大学へと発達していく。しかし、これらの研究によって、かえって宗教の主張してきた世界観との大きな矛盾が露呈してきた。もちろん、この過程は平坦ではなく、長い間、科学者によって、聖書の記述と観測される世界との矛盾は調節されてきた。聖書の記述が科学的事実は無関連だという事実は、ごく最近になって認められるようになったか、あるいは現在でも認められていない。このことが私が問題にしようとしていることである。
科学の発達は、宗教を科学の土俵から追い出したかにみえたが、実際には、自然の摂理、という神の代替物へと姿を変えた。欧米では、キリスト教の神はあまりにも文化の根底まで染み付いているので、たとえ宗教を表面上取っ払ったとしても(現実には表面上も取っ払われていないのだが)形を変えて根付いている。
神への冒涜、という宗教的なタブーは、科学者の傲慢、人間中心主義、科学万能主義者と置き換えられ、今でも生きている。遺伝子組み換え食品、医療倫理、ヒト胚の利用、機械、ロボットの氾濫、クローン技術などへの謂れのない偏見や罪悪感がそれである。
ヒトのES細胞は、そのままならば分裂し、人間になる、すなわちES細胞はヒトであり、ヒトと同じ権利を持っている。遺伝子は、精巧に、人間の手には及ばない複雑な作用によって働いているのであり、それを人間が思い通りにしようとすることは、自然の摂理に反する。
こうした意見は、しばしば聞かれるもので、バイオテクノロジー、試験管ベイビーという言葉によって、生命倫理による規制が必要だ、というと、うっかりそのとおりだと思ってしまうだろう。しかし、これには、科学的、合理的に考えうる妥当性はない。合理的、科学的に考えるならば、という賢明な立場は、しかし、科学万能主義、科学至上主義、科学原理主義だというレッテルによって一蹴されることがしばしばある。
なるほど確かに、倫理やモラルが科学的なプロセスから導き出されるものではないことには同意せねばなるまい。モラルがその社会を構成する人間によって―すなわち、地域や民族構成、文化によって―慣習的に、あるいは多数決によって決定されることを認めるならば、生命倫理も同様であるといえる。医療倫理を考えるとき、地球上のヒトのコンセンサスを基準とするべきことが前提である。
しかし、現実には、キリスト教に基づいた価値観が、人類全体のあるべき姿であるかのしょうに位置づけられてきた。植大航海時代、植民地支配から踏襲された不均等な社会システムによって、先進国と発展途上国の分布が偏っている歴史的経緯から、民地に対する侵略行為は、経済的、文化的なものとなって、現代でもなお続いている。
西洋文明が近代化の中心であり続けたことから、多くの一神教の価値観が否応無く近代に内包されている。SF映画で描かれるフランケンシュタイン・コンプレックスのように、大衆文化として、あるいは歴史学のように、西洋に偏った学問体系、同様に西洋の価値観に立脚した医学によって。
たとえば、ヒトの細胞を使った医学の研究や、再生医療、クローン技術の研究について、何が許され、何が許されないかを、医学研究者が集まって議論している場面を想像してみよう。WHOや、各種の国際学会、研究機関で、医学研究者が集まり、医療倫理、医のモラル形成されていく。もちろん、それは宗教の議論ではないし、宗教のドグマを押し付けるものではない。民主的に進められるであろうことも疑いようがない。しかし、その学会を構成する人間は、地球の人種構成、文化構成から比べて大きく有意の誤差があることが想像に難くない。彼らは、たとえそれが地球上に住む人類全体の平均とは偏っているとしても、その事実に気づくことはない。個人のアイデンティティとしてはキリスト教の影響を受けていないと自身が思っている場合でさえ、その文化圏では普遍的な価値観が、人類のコンセンサスではないという簡単な事実は見逃されがちである。
医療者と一般の倫理観をつなぐ懸け橋として、欧米では宗教系のシンクタンクが大きな権限をもっていることも問題である。
科学が発達する中、科学技術は人類の未来を開拓する有効な手段である。その手段が、宗教の名の下に謂れのない抑圧を受けることは憂うべきことである。もちろん、その宗教の信者が科学的な手法を拒絶するならば(たとえば、エホバの信者が輸血を拒否するような・それでさえ、臨床での救急の現場や未成年者への対応で社会問題化しているが)まだよい。彼らは、エホバ信者以外が輸血を拒否するべきだとは言わないからだ。では、エホバの信者が、『人類は、あるいは医療は、輸血を追放すべきだ』と主張したとすれば、どうだろうか。こうしたことは、だが実は、起こっている。再生医療が発達すれば助かるであろう多くの命が、キリスト教の価値観に基づくタブーから、失われている。つまり、ヒトは神の被造物であり、生命は創造主の専売特許であるから、人がそれを思い通りにしようとすればしっぺ返しを食らう、という発想や、ES細胞やヒトの卵子はすでにヒトであり、研究に使うべきではない、という発想である。
しかし、一つの宗教の価値観が形を変えて人類みなの倫理、共通倫理となる世界はあってはならない。バイオテクノロジーを扱っていく中で、規制や、心、人間側のソフト面の成熟が必要なことは確かだが、合理的で理性的な世界観を形成することが必要である。
2007/5/20