科学と宗教は、その探求する領域を異にするためにお互いに不干渉で、したがって共存できる、とする楽観的観測は、宗教者の側からのみならず、科学者、あるいは一般の人を含めて広く定着している。しかし、科学と宗教が干渉しないというのは本当であろうか。
多くの創造論批判者は、宗教が科学を標榜していないならば、科学がでてきて否定するべきではないとも言う。もしもある創造論者が、創世記を科学的、歴史的な事実であって、進化論は間違っていると主張したならば、その主張は科学の土俵の上にあり、科学的手法による検証を受けることになる。そうなれば、科学的手続き(根拠の提示、反証可能性)を備えていないことによって、批判の対象となる。しかし、多くの創造論者がそうであるように、創造記を神学的な意義をもつものとして解釈し、また科学を標榜しないのならば、それは科学が肯定も否定もできない領域なのだという。
多くの創造論批判は、こうした文言を盛り込むことで、キリスト教そのもの、聖書そのものを否定しているものではないと予防線を張る。『創造論は科学的に正しく、進化論は科学的に間違っている』といった著書を出版する特定の創造論者を問題視する一方で、それ以外の『無害な創造論者』は、科学と共存していると考えている。しかし、何が『科学的か』などということに関心をもつ一般市民は多くはない。『科学的な事実』と、『科学的ではないが、神学的には意味がある物語』とを区別は、創造論批判者が考えているような明確な境界をもっていないのだ。
科学には絶対はない。もしかしたら創造論の方が正しいかもしれない。一部の創造論者がいうように、この世界は6000歳かもしれないし、そうでないようにみえるのは、創造主は百数十億歳の宇宙と四十数億歳の地球を作ったから、とすると説明がつく。恐竜などの存在しなかった生物の化石を埋めたのかもしれない。なぜかって?人間が些事に惑わされずに信仰を保てるかどうか試すため。あるいは、悪魔が信仰を奪うためにしている悪戯かもしれない。
こうした考えに、科学が否定することはできない。この主張は科学の命題を満たしていないのだから。アドホックな仮説であり、反証可能性も持たない。
科学者にとっての、科学的ではない(科学で否定できない)という捉え方は、多くの一般大衆の共有するものではない。多くの一般大衆にとっては、科学的とはさまざまな環境汚染や自然破壊をするようなことだったり、物理や生物の教科書に載っていたりすること、という意味合いでしか捉えられていない。科学的ではない、という科学者の否定を受け入れながら、創造論者にとっては『創造論は科学的な事実』であることがしばしばあるのはこのためである。
一般にみる例ではもっと簡素である。すなわち、『科学的に』という文言を盛り込まないのと同様に、『科学的ではないが』という文言も盛り込まないだけである。ただ、淡々と聖書にそった真理を説くだけである。(科学者は、これは科学を標榜していないのだから神学的な意味しかないと考えるが、多くの信者は、それが科学的なものなのかそうでないのかを考えていないし、そうした考えを持つことを意味のあることと考えてさえいない。)
創造論には、若い地球をとるか否か、あるいはID論などの立場の違いによって、ますます混沌とした情勢をみせている。創造科学のように自然科学は創造を支持しているという主張があり、宗教性を排除してもなお創造主を議論する価値があるとする主張があり、その上で、多くの福音派の教会では『科学的に』という言葉を使わずに創造を教えている。
疑似科学にしても、似非宗教にしても、一般大衆の科学リテラシーの無さにつけこんだものは後を絶たない。
産業革命以降、西欧列強によるキリスト教世界観を世界の共通認識とされ、また、あらゆる学問が、修道院、キリスト教教会の研究機関より発達していった。現代でさえ、宗教と自然科学との決別は未だに成し遂げられていない。ニーチェによる神の死亡宣告から長い年月、神は未だにこの世に蔓延っている。宗教を信じている限りにおいて、神により選ばれし個人としての地位を約束される。直視すれば、葛藤や悩み、苦悩に直面しなければならない現実世界において、宗教は夢を見せることができる。まさに、宗教は麻薬なのである。
実際には法の助けや、医学、精神医学の助け、合理的価値判断の助けに与らなければならないおおくの場面において、しかし、人間は安易に宗教に走ってしまうことがある。今、私達人類は、宗教に代わる理性的判断と、理性的世界観を求められているのだ。
青年:学校の理科の授業で、生物が46億年かけて進化したと習いました。しかし、聖書には、神様は、種にしたがって生き物を作ったとあります。どちらが正しいのですか?
牧師:学校で習ったことは、科学としては、正しいことなのでしょう。しかし、聖書に書いてあることは、霊的に書かれたことであって、常に真理なのです。
青年:進化は科学的に正しいことで、創造は真理、ですか?しかし、どちらもが正しい、ということは矛盾ではないでしょうか?どちらかが正しかったら、もう一方は間違いになるのでしょ?
牧師:科学は、人間が作ったものです。だから、頻繁に変化することがあります。何か別の研究や発見があったら、ガラッとその主張を変えます。しかし聖書は、2000年以上に渡ってまったく変化することなく伝わっています。それだけ尊いもので、神の導きがあった証拠です。そこに書かれていることは真理なのであって、科学などと比べて論ずるべきものではありません。