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日本の自然観

私たち日本人が感じる自然とは、再現なく生まれては消え、人間を包み込む母なる自然です。木が枯れても、動物が息絶えても、命は絶えることなく次の世代へと受け継がれていきます。日本の原生林は鬱蒼と茂る照葉樹林の森であり、人間がどうこうするような弱い存在ではありませんでした。日本人は森を畏れ、そこに神を認めてきました。このように、巨木や川や動植物に精霊が宿っている、という考え方をアニミズムといいます。現代でも、日本人の男子は必ず、少年の頃には野山を駆け回り、昆虫や小動物を捕まえてきました。通過儀礼のようなものです。畑を作り作物を育てるには、雑草をとってもとっても、またすぐに生える生命力を日本人は体験してきたはずです。このように、小さい時から自然を身近に接して、そうした命を体感してきました。お米一粒の中に八百万の命があり、私たちは命を食べて生きています。その命は、体の中で消化、吸収され、出てきたあとのものは、現代では水洗トイレで流されてしまいます。しかし、昔は、土となり、植物の栄養分となって、来年には再びかえってきていたのです。これが、破壊と再生、生と死といった輪廻転生を信じ、自然と一体となったアニミズムに生きる日本人の世界観をつくってきました。ですから、日本の里山や日本の家、庭は開けた構造で、明確な境がありませんでした。部屋と部屋を隔てる襖や障子が流動的であれば、家の中と外にも縁側という曖昧な場があります。庭と里山にも境界はなく、垣根や借景といった流動的で曖昧な連続性の中で、ヒトと自然とはつながってきました。これは、何も家の形や造りのことばかりを言っているのではありません。日本の家は木造なので、永遠に形を留めてはくれません。障子は、簡単に破れてしまう紙でできているので、一年で張り替えなければなりません。それでも、破れない化学繊維を織り込んだ障子紙は野暮ったく、趣がありません。破れうることに日本人は美徳を感じてきたのです。年末に障子を新しく張り替えることは、一年の厄を落とし、新しく生まれ変わるあたかも儀式のようです。襖は障子ほどではないにしても紙でできているので、やがては新調しなければなりませんし、茅葺きだって数十年で役目を終え、新しく葺き替えられます。いろいろなパーツが、それぞれの周期で寿命を終えますが、それは周期的に生まれ変わることでもあります。ですから、こうした建材も里山と密接に関係する素材が使われてきました。このように、機能面からみても、里山という環境では、ヒトと森を分けることなく、流動的で循環するひとつの系をなしていたのです。

アブラハムの宗教の自然観

しかし、ヘブライ人が経験してきたのは荒野であり、植えても植えても実のらない荒野と砂漠でした。自然を搾取しつくし、もはや生命の息吹を失った地で、彼らは生活してきたのです。彼らが頼ったのは、母なる自然ではなく、父なる神でした。したがって収穫は自然からの恵みではなく、神の恩恵であると考えてきた。彼らは、閉ざされた家や城壁によって囲まれた町を作り、自然と人間とに線を引いてきました。彼らにとっての自然とは、人間によって耕され、支配され、管理されるものであったのです。これは、コロンブス以降のアメリカ人が、フロンティアとして自然を克服し、制覇することによって領土を拡大してきたことにも通じる考え方です。

もちろん、アメリカ大陸にはインディアン(※かつて、インディアンという呼称が差別である、と考えられ、ネイティブアメリカンという呼び換えがされてきた。しかし、現在では、ネイティブアメリカンの呼称がかえって差別であるとして、インディアンの呼称が好まれている。)が長い間、自然と一体となったアニミズム的な世界観を築いてきた。しかし、その同じ自然を前にしながらも、白人にとっての自然は克服と開拓を待つ荒野だったのです。

自然科学の発達とキリスト教

ですから、キリスト教が自然を人間と切り離し、客体化したところに置いてきたことは、キリスト教圏、西洋で近代科学が発達してきたことと無縁ではありません。彼らにとっての自然とは、人間が支配し、搾取し、その恩恵に与るためにあるのです。創造主がそう作ったのですから。ですから、彼らが自然を対象化し、研究し、解明することは宗教的な責務であったのです。これこそが、近代の自然科学を発達させてきた動機なのです。

一方で、自然を消費すればするほど、自然を破壊もしてきました。自然の克服、開拓が彼らにとっての神が与えた人間の宿命なのですから、しかたのないことです。現代、あまりにも自然を壊しすぎ、あまりにも痛々しい地球があります。そこで、そうした地球や自然を保護してあげよう、というのが現代の環境問題です。

創造主がヒトを作り、ヒトに管理されるべく、自然を作った、というのがキリスト教の考え方です。ですから、自然を開拓し、利用するのがヒトの責務なら、それを保護し、守ることもヒトの責務だという考え方です。

父なる神⇔母なる大地

一神教⇔アニミズム

西洋⇔東洋

永遠の命⇔輪廻転生

直線的な時間観⇔循環論的時間観

アニミズム再考

しかし、私にはこれは、あまりにも傲慢な考えのように思えるのです。自然を破壊できるのも、守れるのも、人間だけだ。人間こそが万物の霊長であり、地球の運命も人間にかかっている。こうした、あまりにも人間中心主義の考えのように思うのです。

先日、とある「世界一受けたい授業」というテレビ番組で、ナイジェル・マーヴェン先生という方が、授業をされていました。さまざまな動物を紹介したあと、彼はこのような趣旨の言葉で締めくくりました。

「我々一人一人が地球という名の動物園の園長なんだという気持ちで地球の生態系を守っていかなければなりません。」

もちろん、彼はキリスト教の布教をしているつもりはないのです。そんなこと、これっぽっちも気づいていないでしょう。しかし、キリスト教的な価値観が見え隠れ、いや、むしろまじまじと見て取れます。

神様は、自然を作り、それを管理するようにアダムに言いました。ですから、キリスト教にとって人間は地球の庭師であり、動物園の園長なのです。しかし、私は、そうは思いません。もしも地球を動物園に例えるならば、人間もまた、檻の中で生活しているのです。その前には、「脊椎動物門・哺乳綱・霊長目・真猿亜目・狭鼻下目・ヒト上科・ヒト科・ヒト属・ヒト種Homo sapiens」というネームプレートがついているはずです。

もちろん私は、だからといって希少な動物が次から次へと絶滅していくのを横目に、ほっておこうということを好しとしているのではありません。そうではなく、自然を搾取し、保護するという一神教の考え方そのものから脱却しなければならないのです。

ここで私が持ち出すアニミズムという言葉は、手垢にまみれ、誤解と偏見を呼び起こす言葉ですが、恐れずにアニミズムという言葉を使いたいと思います。

アニミズムと環境問題

自然破壊や地球環境というキーワードに対し、私は里山というエコサイクルやアニミズムという世界観を再評価したいと思います。でも、みんな100年前の生活をしようとか、飽食や大量消費をやめようとかいいたいのではありません。

人とその他の動植物との間に、人工と自然、文明と森という線を引いたところに、一神教の自然との対峙の構図があります。神の言う通りに自然を一方的に搾取してきた西洋文明は、今度は自然を一方的に保護しよう、という動きを見せています。そのためには、自然を人から隔離し、国立公園にでもして立ち入り禁止とし、動植物の採集を禁止し、昆虫採集も禁止し、とにかく人が自然と関わるのをやめよう、という考え方です。人が自然と関わることは自然を破壊することであり、自然を守るとは、いかにそうした破壊を減らすか、ということなのです。

一方、里山というスタイルは、まったく違っていました。アニミズムの神々をもつ日本人は、森の神々を畏れ、たとえば鎮守の森を残してきましたが、そうして残された照葉樹林は極々わずかばかりで、一方では容赦なく自然を改造してきました。片っ端から木を切り倒し、神々を容赦なく殺してきました。もののけ姫にでてくる室町頃の日本でしょうか。その頃には日本のすべての山ははげ山にされてしまいます。こうして、人間の薪となるクヌギやコナラ、栗や、柿の木や、そうした光の入る明るい森に生える多様な植物(ここにいっぱい植物が入る)が出現します。また、そうした植物を基に多様な生物が存在しました。

つまり、日本の里山は、極相である照葉樹林ではなく、代償植生を維持し、人工的な、しかしより生物にあふれる森を作ってきたのです。

里山では、薪や炭や堆肥や建築材料などの資源が使われてきました。しかし、自然が搾取しつくされることはありませんでした。それは、現代の言葉でいうならば、持続可能な資源開発といえます。しかし、あまりこの言葉は好きにはなれません。「持続可能な資源開発」は、時間稼ぎや政治家や企業の美辞麗句のための決まり文句となっているからです。

いずれにしても、再生する速度と使用する速度が同じならば、自然を使い切ることはありえません。

こうして日本人は、里山で自然を支配してきた、管理してきたのだ、というと、それも少し違います。確かに、ヒトも、自然を大きく作り変えてきました。しかし、それはヒトの専売特許ではありません。カミキリムシが木に傷をつけなければ樹液がでることがなく、したがってクワガタムシやカブトムシやオオムラサキやスズメバチは、それほどいなかったかもしれません。カミキリの幼虫が育った木はやがて朽ち、オオクワやコクワの育つ環境を作り、オオクワやコクワによって分解が進めば、今度はミヤマやノコギリクワガタの住める環境となります。このように、いずれの生物も他の生物に影響を与えています。もはや、食物連鎖や食べる、食べられるといった簡単な構図ではなく、複雑に生物同士が影響しあっており、全体として安定した系が存在しているのです。

その生物のひとつが、ヒトです。日本人は、自然のためにではなく、自分たちの生活のために、木を切り、堆肥を集め、水田を作っていたにすぎません。しかし、そうした営みによって植生が変化し、堆肥にはカブトムシが育ち、田んぼにはカエルや蛍やトンボやメダカの生息地になったのです。しかし、ヒトが偉大で自然を改造した、なんて大それたことではなく、他の生物がしているのと同じことを、人間もしていただけなのです。

もちろん、こうした里山は現在の私たちの生活スタイルとは合いません。ですから、里山のスタイルをそのまま実践することはできません。しかし、ヒトを自然の循環や生態系から切り離し、自然とヒトを切り離すのではなく、ひとつの生態系としてみる視点を再評価する価値はあります。

具体的には、バイオマスエネルギーや、微生物や細菌を使ったゴミ処理なども進んでいます。ソニーがブドウ糖を電源とするバイオ電池を開発し、ウォークマンが再生できるのだそうです。あるいは、からくり人形の仕掛けが、工場のベルトコンベアの一角を担うことで、消費電力を大きく減らすといったことも実現しているようです。

地球の環境は、植物を出発点としたエネルギーの流れであり、生物は外界の環境を汚すことでしか生きられません。換言すれば、必死に外界のエントロピーを増大することで、個体や細胞内のエントロピーを低く保っているのです。もう少し大きな視点では、太陽のエネルギーを熱として宇宙に放散し、エントロピーの低いエネルギーが供給されているのです。バイオマスエネルギーの利用は、もちろん系全体としてどこまで熱効率が上がるのかといった問題があるにしても、ひとつの持続可能な系のひとつであるし、ベルトコンベアのわずかな位置エネルギーの差によって複雑な機構を動かすシステムが、きわめて日本的なからくり人形の機構を見直すことで誕生している。さらに、ブドウ糖を電源とするシステムは今の段階での実用化は見込めないものの、将来の可能性は大きいと思う。というのも、ブドウ糖は地球上の多くの生命がエネルギー源としているものです。ブドウ糖にしても、ATPにしても、二酸化炭素と水とにになったときとの結合エネルギーの差が私たちのエネルギー源なのですから、この同じエネルギーを車や電化製品が使うということは、そこにひとつの循環系を生む可能性があるのです。今までの工業的な生産システムにバイオテクノロジーによる生物資源を導入することで、クリーンで熱効率が良いばかりか、地球全体の熱収支を効率よく循環できるシステムができるでしょう。というのも、生物の細胞内では、酵素の働きによっていろいろな反応が、より少ないエネルギーしか必要とせずに進んでいるのからです。あるいはホタルの発光システムなど、極めて精巧なメカニズムが、(創造主のデザインではなく)、突然変異と自然選択というシステムによって存在しています。深海や地中や南極の氷の中、灼熱の砂漠やなどでさえ、驚くような生態系がまだ存在し、硫化水素やメタンやいろいろな代謝系が存在します。こうした生物資源を活用し、遺伝子を導入することができるでしょう。

現在私たちが使っている石油は、過去の微生物が作り、地中で変化したものです。しかし、こうして固定された炭素を燃やすことは、酸素を消費することを意味します。そもそも原始の地球には酸素がなく、大気は二酸化炭素でいっぱいでした。そうした環境でメタン菌が誕生し、光合成生物、たとえばストロマトライトなどが出現、炭素を体内にとどめたまま化石、すなわち石油となることで、現在の酸素にあふれた環境を作ってきたのです。ですから、もし地球の石油をすべて燃やせば、すべての石油(あるいは木や、すべての可燃物)を燃やした(酸化させた)ところでちょうど、地球の酸素はすべて二酸化炭素になってしまいます。ですから、石油の使用量を減らしたり、制限したりすることは、まったく持続可能なことではないのです。

今までは、ヒトが活動を自粛し、生産活動を減らし、資源の利用を減らすことが地球環境を守ることだ、と考えられてきました。しかし、自然から一方的に搾取するシステムが行き詰ったように、自然から何も得るものはなく、ただ一方的に守ろう、という自然保護もうまくいきっこありません。そうではなく、ヒトと自然のあり方を見直すならば、ヒトが活動すればするほど、消費すればするほど、自然を利用し、自然と関わり、ヒトが積極的に生産活動をすることが、結果として自然にとってもプラスになる、そうした系ができるのではないでしょうか。そうした未来を作っていくとき、里山は私たちのよいお手本を示しています。私たちは、科学的な判断と、アニミズム的な視点を融合することで、地球環境とうまく付き合っていくことができるでしょう。


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