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科学が理神論に基づいた創造主への探求の道具であるというとき、それは科学哲学、科学史を考える上での前提ともいうべきコンセンサスではあるものの、こと日本という地域性の中ではどこか齟齬をうむ原因となっているのも事実である。それは宗教が世界観を束縛し、法王庁との相互干渉の上に科学を築きあげてきたヨーロッパに対し、日本人のするべきことは、すでに体系化された科学を吸収することであったためである。  そうであったからこそ、日本での近代化は西洋化と同一視されたし、あるいは科学は産業、工業を支える基盤としてのみ認識されてきた。つまり、科学のもつ知とは明文化された既成の教科書であり、その教科書をどれだけ暗記するかが、科学を学ぶことと同義であったのだ。

このように日本の科学はもっぱら道具であり、西洋のように何某かを明らかにする使命を帯びてはいなかった。一方では、科学はそれまでの日本がもつ世界観は大きく揺るがした。古代の荒ぶる神々と仏教の世界観と、近代合理主義との間に軋轢が生じ、日本人の混沌と不合理に満ちた民俗学的価値体系は近代合理主義によって論破されてきた。

こうした混乱の時代にあってこそ、西洋の神から切り離されていた科学と、古代の神々を失った世界観とが癒合していった。この両者は補完し、自然科学が、民間信仰を保証する道具として多用されてきた。たとえば、細菌学的知識は、穢れ、不浄という概念と結びつくことで、日本人のもっていた宗教的な世界観に置き換えられてきた。このように、それまでの日本人のもっていた世界観を補完する緩衝材として科学が機能してきた。

混沌と迷信の宗教性をニッチとして広まったからこそ、科学は広く誤解され、しかも誤解されたままでその正当性を増強させるに至った。 

それゆえに、今日、民間療法、代替医療と疑似科学との結びつきは屈強である。こうしたなかにあって、疑似科学を「トンデモ」として取り上げ、笑いへと昇華しようというという試みが盛んである。「ト学会」に始まる一連の運動は、批判精神豊かとはいえない日本人に抵抗なく問題意識を提示するという意味で評価できるだけではなく、科学と未科学、異端科学、疑似科学という境界線のない連続性と、論理と方法論といったプロセスの重要性を浸透させてくれるであろうと期待せずにはいられない。

2007/12/23


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