科学が解き明かす宇宙や生命についての膨大な知識は、私たちの生き方に大きな変革を迫っている。特に、再生医療やバイオテクノロジーの発展は、私たちヒトの命やその尊厳のあり方を大きく変えるだろう。 分子生物学や生化学などの基礎生物学によって、小宇宙としばしば形容される人体の代謝が、細胞レベル・分子レベルで解明されてきている。ある代謝経路によって、どのようなタンパク質が合成され、その結果どのような機序を経るか。そしてその経路はいかなる遺伝子ないし遺伝子群によっていかにしてもたらされるものであろうか。こうした知識は、応用生物学すなわちバイオテクノロジーのめざましい発展を呼び起こし、再生医療に大きな余地を提供した。たとえば、こうした技術を使うことで、自己組織を誘導し、私たちは臓器提供や人工臓器に変わる新たな治療法を獲得するかもしれない。あるいはシャーレ上、あるいは遺伝子操作によって、豚の心臓(注1)にヒトの遺伝子情報を組み込み、拒絶反応のない移植臓器を得る技術も可能となるだろう。人類が空想し、文学やSFに登場させてきたアイテムは、もはや現実の舞台へと進出するのを待っている。 今までにないこれらの先端技術の急速な進展を受けて、これを受け入れる側の私たちの準備が必要である。私たち人類は、メガネが開発されたときも、人工心臓やペースメーカー、人工関節や人工臓器でさえ、受け入れてきた。う蝕で失った歯質を金属やレジンや陶器で置き換えることなど、ほとんどの日本人が受け入れてきたはずだ。もちろん、もともとあった自分の組織が戻るならばそのほうが良いに決まっている。そう、まさに、自分の組織と同じ構造物をもって失われた組織を補う、ということを再生医療は実現しようとしている。
胚性幹細胞(Embryonic Stem cells:以下 ES細胞)は、受精卵からヒトの発生初期の段階までの細胞であり、まだヒトではない。ヒトを構成する各種の細胞へ分化する以前の段階であるからだ。分化が進み、各組織の幹細胞へ、さらに各種機能に特化した細胞へとなる。ひとたびひとつの機能に特化したヒトの体の細胞は、他の細胞になることはできない。
ES細胞の研究は医学の発展につながり、生物の仕組みについてより大きな知の貢献をもたらすだろう。ES細胞を取り出し、培養することで任意の組織をつくれるかもしれない。または、ヒトの発生の段階でどのような遺伝子が働いて組織が誘導されるのかを知ることにもなるだろう。細胞が分子レベルで生命の仕組みが解明され、事故や病気で失った体の一部をつくることができるようになる。パーキンソン病患者の神経細胞を増やすことや、その他あらゆる形で遺伝疾患により特定のタンパクを作れない患者に、そうした能力を提供することになるだろう。
しかし残念なことに、ES細胞の研究は生命倫理として唱えられる主張のために遅れてきた。生命倫理、生命の尊厳や自然の摂理を脅かす技術だ、という反対論者の主張とその妥当性をみていこう。
ES細胞の研究に反対する倫理的な理由の一つは、ES細胞のもととなる受精卵がヒトである、とするものである。もしも受精卵が子宮内で生育したならばやがてヒトになる機能をもっている。ヒトになる機能をもつことはヒトと同様の人格や霊魂がすでに存在しているのであり、ヒトと同様の人権が認められるべきである、と彼らはいう。
しかし、ES細胞やヒト胚は人工妊娠中絶によって排出される胎児よりもずっと前の段階の細胞の塊である。ヒトの人格:心や精神が脳の機能として説明できることを考えれば、細胞の塊をヒトとみなすことはできない。また、一定の条件でヒトになる可能性があるとしても、ヒトとして尊重すべき理由とはならない。霊魂の支持者が科学の場で霊魂を根拠として倫理を主張するのにはあきれるばかりである。
一部のES細胞利用反対者は霊魂や創造主といった直接的な宗教的教義がその根拠であることを認めている一方で、宗教的な根拠を隠し、表向きは科学的、社会的な根拠から出される反対意見も多い。こうした反対意見はES細胞に反対する科学的理由があると一般市民を納得させることに成功してきた。
クローン人間が作られるとする懸念がしばしばあがる。しかし、この問題はいくつかに分けて考えなければなるまい。クローン人間が作られることがはたして生命倫理に反するのだろうか。仮にそうだとしても、クローン人間を技術的に可能にすることとES細胞の利用とを同列に検討するべきではない。さらに、反対論者はクローン人間というSFでおなじみのある種のイメージを利用することによって、理由のない生理的嫌悪を躍起することを意図しているようだ。クローン人間はオリジナルの完全なコピーである、という誤ったイメージ。アドルフ・ヒトラーのクローンを作れば、同一の思考をもつ同一人物が無数にできるというイメージだ。しかし、実際には、思考や人格が先天的な要素と後天的な要素によって形成され、同一人物にはならない。一卵性双生児が同一人物ではないのと同様に。さらに、クローンが臓器工場として工業的に生産され、クローンの人格が守れない、とする主張も、複合的な、しかしES細胞の研究とは無関係なものである。仮にクローンに人権を認めたとすれば、クローンが臓器工場として使われることは違法な犯罪である。発展途上国で、誘拐し、臓器を抜き取られるとする都市伝説がある。しかし、そうした可能性があるから人類は臓器移植技術を放棄するべきなのだろうか。もちろんそうではないはずだ。
神への冒涜という直接的でキリスト教に結びついた表現は、自然の摂理という標語に置き換えられることもある。果たして、自然とは何を意味し、摂理とは何を意味するのであろうかを考えていこう。まず、自然の摂理という言葉を文字通りに受け取ったならばどうだろうか。確かに、人間が介入しない自然界では、ES細胞が作られることも、研究されることもない。そうした意味でES細胞は自然の摂理に反しているといえるかもしれない。しかし、それは同時に、あらゆる人間の営みは自然の摂理に反していることになる。自然界では酸化物としてしか存在しない金属を抽出し、巨大なビルが立ち並ぶ。生命への非自然的な介入でさえ、数万年前から人類が行ってきたことだ。人類は種の自然淘汰に介入することで、家畜や犬や野菜や果物といった自然界では決して存在しえなかったであろう条件を備えた動植物を作ってきたではないか。また、人工的な介入なくしては失われていたであろう命を、医療によって救っているではないか。
自然の摂理の支持者が、自然や摂理という言葉に込めた意味を考えれば、キリスト教の価値観が巧みに織り交ぜられていることに気づく。聖書の記述によると、神は「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」といったことになっている。したがってコンドームを用いた避妊や、精子を妊娠に直結しない方法で浪費することや、同性愛をバチカンやアメリカ宗教右派は嫌ってきた。このときにも彼らはこうした行為が「自然の摂理に反する」すなわち宗教的な理由ではなく、生物としての在り方の問題だとしてきた。
こうした詭弁を、リー・M・シルヴァーは人類最後のタブーの中で、「母なる自然」という言葉で表現している。しかし、私はこの言葉を「自然の摂理」という言葉と同じ意味でここで使いたくない。というのも、「父なる神」に対する「母なる自然」、唯一神教に対する多神教、アニミズムの価値観をもつ日本の自然観を評価する意味での「母なる自然」という言葉を残しておきたいからだ。ここでも、アニミズム的な地母神信仰から借用され、聖母マリアに置き換えることで多神教徒を同化していったことにも通じるが、話題がずれるのでまたの機会としよう。
自然科学は中世のヨーロッパで、キリスト教の価値観を出発点として発展してきた。この世界が唯一絶対の創造主によって創造されたならば、この宇宙には一定の法則が見出せるはずである。この創造に由来する宇宙の秩序を定型化しよう、という試みが西洋科学の発端である。したがって、科学は神学のカテゴリーの一部とされてきた。神学者でもあったガリレオ、ケプラー、ニュートンなど、中世の科学者はみな敬虔なキリスト教徒であった。キリスト教は科学を通して中世の世界観を支えてきた。12世紀まで、科学を始めとする学問は、修道院や修道院を母体とした研究機関に託されていた。研究機関から大学が独立し、発展したのもキリスト教会の資本によるものである。こうしてキリスト教会の支援のもとで発展した中世ヨーロッパの大学には、神学部、法学部、医学部の3つの上級学部と哲学部との4学部(注2):が置かれ、近代の大学制度の原型となる。
15世紀になると、スペイン・ポルトガルの海外進出が始まり、大航海時代に入る。それから500年の間に、世界のほぼすべてが西洋のいずれかの国の植民地となった。植民地と宗主国の関係は、イギリスから始まる産業革命によって、不可逆的なものとなり、キリスト教文化圏による世界支配の歴史が続いてきた。こうして多くの一神教の価値観は、否応無く近代に内包されてきた。現代でも先進国はことごとくキリスト教圏であり、キリスト教を精神的支柱に据えた西洋文明によって世界が動いている。例えば、アシロマ会議のように、研究者が集まる国際会議を想定しよう。そこでは世界中の研究者や識者が集結しているだろう。したがってこれは全人類のコンセンサスだろう、というのが主催者側の想定である。しかし、その「世界中」とは主にキリスト教圏の国々である。数の上からも、発言力からいってもそうである。非キリスト教圏を略取し、破壊し、文化を奪った上で、英語の国際会議を開き、地球上の人類のコンセンサスにできるだろうか。
ブッシュ大統領は「受精卵を破壊する研究に税金を使ってはならない」として、ES細胞を用いた医学研究に反対を表明してきた。
共和党はES細胞の研究反対や中絶反対を主張するキリスト教右派を支持基盤としており、ブッシュ大統領自身、こうしたキリスト教ファンダメンタルな思想の持ち主である。また、キリスト教系のシンクタンクやロビー活動の活動が政治的な動きと密接に結びつき、科学や政治を規定してきた。
京都大学再生医科学研究所の山中伸弥教授の研究を評価する声明をブッシュやバチカンがだしている。それまでのES細胞の問題点を解決する画期的な研究だという評価は、日本のニュースで紹介されるときも引用されてきた。アメリカやヨーロッパでの評価をそのまま受け売りし、医療倫理をクリアする新たな手段だ、といわんばかりだ。卵細胞を破壊する必要がなく、免疫や拒絶反応の心配もない画期的な発明だという。確かに、万能細胞が画期的な成果であるとしても、それはヒトの発生の手がかりを解明し、医学の発達を進めるひとつの手がかりであり、ES細胞の実験が不必要になったことを意味しない。
エホバの証人と言われるグループは、信仰のために輸血を拒否する。
彼らは聖書の記述の一部から、輸血は神に禁じられた行為であるとして拒否し、医療の現場でも度々揉めることで知られている。
彼らの輸血拒否は、度々非難の的になる。それも、子供、未成年者に対する輸血拒否はなおさら重大だ。
しかし、再生医療を神への冒涜として拒否することは、エホバの行為となんら変わりはない。論理的、科学的には到底認められない霊魂や自然の摂理や神への配慮のために、再生医療が発達してさえいれば助かっていたであろう命を私たちは無数に失っている。受精卵を医療の発達に利用することと、輸血を拒否することとの間には、そう大きな差はない。エホバの証人はキリスト教徒の中では少数派で、カトリックやプロテスタントからは異端だとして、キリスト教には数えられていない。先進国の人口に占める割合が、カトリック・プロテスタントは多数派であり、エホバは少数派であるというだけの違いしかない。
日本は西洋や海外に追随するのみであった。外国はこうだ、という流れに日本は弱い。近代・西洋での科学の発達、現在の先進国の分布が大きく偏り、日本を除くヨーロッパ、北米のすべてがキリスト教圏である。G8の中で、非キリスト教国は日本のみである。しかし、日本はキリスト教国ではなく、こうした価値観をもつ必要もない。日本以外の先進国はこうしたキリスト教を共有していること忘れてはならない。現代、先進国のキリスト教価値観は人類普遍の倫理観すなわち医療倫理という名をかり、キリスト教でない世界中の人間の共通認識であるかのような顔をしている。
現在、多くの途上国が、急速に発展しつつある。より多くの医学部、歯学部を持つ大学が、アフリカ、アジア地域にできてくる。その時、そこで医学部生は、何を学ぶだろうか。大航海時代の宣教師は、産業技術を武器に、各地の風習や文化を野蛮だと否定し、(たとえばハワイではフラダンスが禁止されたように)、キリスト教こそが進んだ宗教で、西欧文化こそが進んだ文化だ、という価値観を押し付けてきた。我々は、同じように、世界の地域の土着の生命観生死観、倫理観を野蛮だと否定し、このような考え方が医療倫理であり、文明の進んだ考え方である、という論理をおしつけてきた。
もちろん、遺伝子治療、クローン人間、中絶手術、すべてが行われるでき行為であると手放しで励奨しているのではない。しかし、倫理観は地球市民の総意であるべきであり、これらの宗教的価値観に根ざした倫理観は相対評価され、再構築されるべきである。その時、客観的にみなが共有し、コンセンサスを得られるのは科学的、合理的な知識である。医学が解き明かす(唯物論的な)メカニズムを科学者のみが独占するのではなく、社会がこれを受け入れ、新たな生命感を形成していく必要がある。
世界でも唯一の非キリスト教国の先進国であり、また多くの非キリスト教圏が共有するアニミズム文化をも理解する日本の医師は、世界に呼びかけ医療倫理を改革する使命を負っている。 2007/10/07
注
(注1):血圧、心拍数などから、人への移植に最も適しているといわれている。さらに、童話や絵本によって割振られたキャラクターに反して、とてもきれい好きで愛すべき動物なのだ
(注2):現在の基準をそのまま当てはめ、キリスト教と関係の深い神学部があるものの、あとは法学、医学など現在の大学と変わりないと考えては事実を見誤ることになる。社会契約論に続く法学は神に基づく国と個人との関係に及び、医学もまた宗教と一体のものであったからだ