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達磨の生存した年代は、紀元400〜500年と古い時代であり、また中国では南北朝時代という乱世の時代であったため、生年没年さえもはっきりしないのが実情で、すべてが事実とすることはできないようです |
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達磨は、紀元400年頃誕生、インド人で南インド香至国(オリッサ地方)の第三王子で、幼名は菩提多羅と呼ばれており、7歳のとき王宮に招かれた釈迦から27代目の般若多羅尊者について仏の道を学び、父王の没後、尊者に礼を尽くし出家して仏道に入り、名を菩提達磨と変え40余年、インド仏教の28代祖となり、国内の仏教の教化に尽くした。
また、尊者は、生前、達磨に、「私の死後、60年を待って東に行き、その国の危難を救うがよい」と遺言された。 |
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菩提達磨は、尊者の死後60年にして震丹国(古代中国)に渡る決意をし、3年の歳月をかけてやっと中国の広州に上陸、時に紀元520年といわれている。 |
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中国に渡った達磨は、梁(紀元502〜557年)の武帝(=武帝は、大きな寺を幾つも建て、大勢の僧や尼僧を養うなど仏教に帰依した人)と面談した。武帝が、「私はこれまで仏教を広め保護してきたが、何か功徳はあろうか」と問われたのに対し、達磨は、「無功徳」と言ってのけたのであります。
その真意は、達磨は、「武帝は、己の権力や金力によって自分を飾り立て、仏教信者と思わせている。武帝のような仏教心の在り方こそ改革すべきである」と考えての返答だったのです。 |
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武帝の気に入る道理もない達磨は、梁の地を諦め、揚子江(現在の長江)を渡り、北朝の巍の国に入ったが、この国も乱れに乱れていた。揚子江を渡るとき、岸辺の芦を引き抜いてこれを浮かべ、これにひょいと飛び乗って対岸に渡って姿を消したと言われており、この時の様子を水墨画の世界では、「芦葉達磨」と題され描かれています。 |
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巍の国に入った達磨は、直ちに嵩山の少林寺に入り、日々黙々と9年間もの間、洞窟の壁に向かって座禅を組む一方、国の隅々まで歩き回って、禅仏教の布教に専念し、世間では、「壁観婆羅門」と呼んで崇めたのです。壁に向かって座禅する姿についても、水墨画の世界では、「面壁達磨」と題され描かれております。 |
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達磨は、少林寺で9年にわたって修行し、名声も一段と高まったのですが、信者を取られた憎から毒殺されかかったこともあるなど、やはり異国の婆羅門僧ということで、中国仏教界では、仲間として余り歓迎されなかったようです。 |
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紀元528年、達磨は、「なすべき仏道の仕事も終われり」と、少数の門弟とともに、少林寺を後に、禹門の千聖寺に入り、端座したまま入寂、当年150歳であったと伝えられております。 |