イラク戦争から見た のアメリカ・ろな日本
−平和を守るための「整憲論」(第九条考え直し論)-



■4、日本はどうしたらいいのか?■



●もう一つの日本、「公」と「私」と●



H:
ずいぶん熱く語っているところに水をさすようで悪いんだが、「公」の話が出たので、ふと頭に浮かんだんだが、郡山総一郎さん、高遠菜穂子さん、今井紀明さんという三人の日本人の人質事件(2004・4/8)が起こったとき、被害者である彼らは危険なイラクへ勝手に行ったんだから「自己責任だ」とかなり批判されたよね。あれについてはどう考えるんだ?

E:
「自分が選んでやっていることにはどんな事態に陥っても自分が責任を持つ」くらいな意味なら、確かに「自己責任」だね。それにその程度の意味なら、イラクに派遣されている自衛隊員が殺されても「自己責任」に違いない。自分が勝手にその職業を選んだ結果だからね。だが、きっと自衛隊員の場合は「自己責任だ」と批判されないだろう。「公的な職務」でもあり政府の要請のもとでの行動だから、国家のための殉職として、階級が上がって英雄になる? 

 こんなわけだから自己責任という曖昧(あいまい)な言葉でこの問題を捉えない方がよいと僕は思う。

H:
「公的」と「私的」の差か? だけど人質になった人だって単に「私的」なだけではないように思うんだ。人道支援のボランティアだったり、公正な報道をもとめてのジャーナリストだったりする。

E:
ある僕の友人も「ボランテイアやNGO・NPO活動は『公』の活動をしている」と言っているが、その通りだろうと思うよ。

 さっきも話に出たように政府の支援活動は、してはならなかったイラク戦争に結果的に加担するものだった。復興支援だといっても疑問が残る。だが、人質にされた彼らの活動はそうしたものとは異なっていた。確かに渡航制限中にイラク入りしたという批判はありうるが、決して物見遊山でイラクへ行ったわけではないし、人道支援としては真っ当なものだと言っていいのではないか、と。もっとも、より広い視野から捉えると複雑な問題が絡むが…。

H:
確かに行かなくてもいい危険な地域に出かけたのだから「自己責任だ」と言われたら反論の仕様もない。しかし、銃撃されて死亡したフリー・ジャーナリスト橋田信介さん(61歳)とモハマド・ハイサム・サレハ君(10歳)のような美談も生まれる。

E:
美談か? まあ確かに美談だな。でもあのようなことを美談に矮小化(わいしょうか)したくはないな。

 あの話は、人の活動の中には「私的」な部分と「公的」な部分とが分かちがたく存在していることの証(あかし)のように思うんだ。橋田さんの前に現れた戦闘で左目を負傷したサレハ君は明らかに顔を持った(たんなる数ではない)少年だったに違いない。その彼を橋田さんは日本で治療してやろうとしていた。これは単に「私的」なことなんだろうか、これはある意味「公的」でもあるのではなかろうか? 確かにそれは私的な活動だけれど、少なくともそれを超える部分があるように思う。

H:
なるほど、そうかもしれない。それが美談になるのは、その願いを叶える前に橋田さんは武装グループの銃弾に倒れ、橋田さんの奥さんが夫の代わりにサレハ君を日本に呼び、治療へと漕ぎ着けたというところだろう。

 もしかしたら、人間を数としか見ない大きな「公」には時として危険が伴い、その是非が見えにくくなりがちだが、顔を持った人との関わりの中にもう一つの小さな「公的」な部分があるのかもしれない。そしてその是非は見えやすい。それをお前は一種の「公」ではないかと言いたいんだろう?

 もしそうだったら俺達の身の回りにもいくらでもありうることだ。それはあまり「公」とは認識されないけれど…。

E:
うん、そうなんだ。僕もそう思うよ。ともかく選択の動機の部分だけを見て彼らに「自己責任」を負わせるより、そういった具体的な活動の意味で考えた方がよいように思う。もしかしたら今後の日本の人道支援、復興支援を考える際の一つの判断材料になるかもしれない。つまり、以前「整憲論」の中で話した復興支援・人道支援の一つの具体的なあり方だ、とさえ僕は思っている。まだ思いつきの域を脱していないが…。

 ともかく、アメリカは過去の戦争に反省もなく、しかも戦争や紛争を前提にしなくては成り立たない国家なんだ。侵略をやめることのできない危険な軍事国家アメリカに追随して、国民を誤った道に誘い込んでいる日本政府の「公」を担う責任は重大だよ。アメリカに追随することは、どう言い逃れをしようとも、その結果、戦争に加担することになる。

 それに比べれば、彼らの方がよっぽど「公的」な活動の意味を持つ。個人の私的な部分を超えた社会的な活動。僕達が日本を考えるとき、こうした視点が必要なのかもしれないと思うんだ。平和を考えることのヒントになるかもしれないのだから…。この点はまだまだ深めなくてはならないが…。

 更に進んで国民が国家のあり方、社会のあり方、つまり「公」とは何か? を話し合わなくてはならない。

H:
そうした社会的意味をみんなが問うていくことにこそ本来の「公」の意味がある?

E:
ドイツの社会哲学者ハーバーマスの考える「公共的コミュニケーション」とは恐らくそういうことを内包しているのだろう。今では理念型としての市民的公共性が崩壊し喪失してしまっているが、この問題は今こそ再度考えなければならないんだ。

 ともかく、ただ単に国家がしているから「公」で正しい、そして国民がそれに従うのは当然だ、と考える短絡思考は何としても避けたい。国家のような抽象的な存在に対しては実態を調べて結論を出す必要がある。恐らく憲法問題もこの種の問題に違いない。日本はどのような国でありたいのか? 国の基本法たる憲法はどのような性格でなくてはならないのか? ともかく、実態を見極めなくては大きな「公」の過ちに飲み込まれてしまう。今まさにその瀬戸際にあるように見えるんだ。

 それとともに僕達の身近なところにある小さな「公」を掘り起こし、皆で考えあいたいと…。



●もはや語らずもがなの結論●



H:
確かに国民みんながこうした問題を考えていけば、つまり小さな公の積み重ねが大きな公を過ちから解き放つことができるかもしれない。でも、それがとてつもなく難しいんだよな。

E:
そうなんだよ。これが本当に難しい。

 しかも、「大きな公とは何か?」つまり「国家とは何か?」の問題も一筋縄ではいかない。

 ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは「国家とは、ある一定の領域の内部で…正当な物理的暴力の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」と定義しているんだ。この定義が正しければ、すべての国家に共通の普遍的「目的」があるのではなく、国家に独自の「機能」、すなわち「正当な物理的暴力行使の独占」にこそ、あらゆる国家に共通な本質があるということになる。つまり、いかなる国家も何らかの目的を達成するためにその手段である物理的暴力行使を行う可能性がある、と言うより「目的が何であれ、一度(ひとたび)この手段と結託するや、この手段特有の結果に引き渡されてしまう」ということになる。

H:
軍隊、警察などの国家による独占? その正当な行使? 国内での反政府活動への暴力的弾圧? それに戦争の肯定?

E:
うん、そうだね。
 もし某国が、自由と民主主義を世界に広げることを目的として設定すれば、そのとき非民主主義国家への軍事的攻撃(物理的暴力)が可能になる。確かに、戦争をすることで当の某国も多くの打撃を受けるかもしれない。それでも身勝手な正義(目的)は貫かねばならない。― それが血みどろのイラク戦争の姿だったんだ。イラク戦争で見せたペンタゴンの活動はその手段、つまり国家にとって正当な(正義の)物理的暴力をストレートに行使したものだった。

そして、かの国は、敵をいつでも念頭に置いていなければ存続できない国だった。それが「軍産複合体」の国なんだ。「物理的暴力の独占」、それを中心に政治・経済が動いているとしたら…。

「戦争経済」、それは国家の本質を完全に解放すれば行き着く先なのかもしれない。

H:
ということは日本も?

E:
もちろん「物理的暴力の独占」は日本という国でも本質をなしているだろうね。

 だからどのような「憲法」を構築するかが重要なんだ。君が以前言っていたように、「憲法」は国の基本法で「国民が公権力を縛るルール」だからね。

H:
だから曖昧(あいまい)な憲法のままではいけない。

E:
そうなんだ。保守の改憲論は海外へ軍隊を派兵できるように仕組まれた曖昧なものだ。それに現行憲法第九条は、読む人の思惑で二重の意味を持ってしまう曖昧さを残す。解釈によっては自衛隊の海外派兵は合憲となる。護憲・改憲、両者ともこれを許してしまう。

 国家の本質が「正当な物理的暴力行使の独占」であるならば、いずれにせよ曖昧なままではダメなんだ。保守の改憲論や革新の護憲論も、国家の本質を解き放ってしまう。アメリカに続くリバイアサンJr.への道?

H:
だからお前は、国家の本質を解き放たないために「整憲論」を…。

 しかも、「正当な物理的暴力行使の独占」はどこの国にも、つまり日本の近隣諸国にも妥当するから色々な困難や危険が渦巻いており、自衛権は日本にも必要だと…。

E:
もちろん平和を軸にしたものだから、あくまでも個別的自衛権に限らなくてはならない。集団的自衛権を一度認めてしまえば、アメリカの手先になる道、つまりリバイアサンJr.への道が開けてくるからね。これまで君と語ってきたようにアメリカはシステムからして問題の多い国なんだ。日本が自立して行動するためには、やはり「整憲」の必要性は絶対にある。きちっとした憲法を考えることで「国民が公権力を縛るルール」つまりいかなる他の解釈も許さない頚木(くびき)を構築しなくてはならないんだ。

H:
そうしたことを国民みんなが考えて生きることが、ともすれば危険な存在になりがちな「大きな公」に対する「小さな公」の役割でもあるってわけか。

E:
うん、僕もそんな気がするよ。国民みんなが考えていかなくてはならないんだ。どんなに難しくてもね。



●光を!光を!●



H:
あれれ、イラク戦争がいつの間にやら俺達の日常生活に結びついちゃったみたいだぞ…。

 お前は生徒達を前にして毎日勉強を教えている。そしてそこに「公」的なものはありや否や、勉強とは・・・・・・・・・

E:
おい、ちょっとしどろもどろじゃないか? 僕の生活が生徒に勉強を教える単なる「私的」教育マシン?? うーん、どうなんだろう? 僕は確かに子ども達に勉強を教えるのが仕事さ。でもね、「塾」というのは顔のある子ども達を相手にしているわけで、勉強だけでなく、それぞれの子どもの楽しみや悲しみ、苦しみに悩み、彼等の未来、それらと好むと好まざるとに関わらず向き合うことになる。

 ん?? 今の君の質問で改めて妙なことに気がついたぞ。その部分に付き合うのは僕の「私的な」、つまり直接の「仕事」ではないわけで…、それがある意味で一種の「公的」な活動に属するのかもしれないな、って。地域のおじさんとして彼らと一緒に「人にとって何が大切か?」「僕達はどう生きたらよいのか?」はたまた「どんな国、どんな世界を目指すのか?」を考えることの中に…。もしかしたら、そんな小さなゴマメのような社会的機能を日々果たしているのかもしれない。無意識の生活の中に「私的」な部分を越える何かがあるのかな? まあ、それが自分のためにもなっているから、「公的な活動」などとは何ともおこがましい話だが…。でも、これが小さな小さな公共的コミュニケーションだったりして…。多くの人はこんなささやかな公を生きているのかもしれないね。

H:
なかなかいいこと言うではないか。あれっ、もう空(から)っぽだぞ、「光節」もうないのか?

E:
ちょっと飲みすぎじゃないのか? もう一本持ってきているが、大丈夫かい。

H:
大丈夫、だいじょーぶ。お前との三回にわたる対話、結構面白かったよ。

E:
何だよ、面白がってるだけじゃぁダメなんだぜ。君にだって二人の子どもがいるじゃないか? 僕にはもっともっとたくさんの子どもがいるんだ。だって、実の子のほかに、生徒や卒業生がいっぱいだ。彼らとずっと一緒に生きたいし、僕のいなくなった世界にも彼らは生きていかなくてはならん。そして彼らには自分自身のことだけでなく、今語ってきた「公」と「私」についてや、世界情勢、それに国内問題などを、真剣に考えて生きていって欲しいと願っているんだ。大きな「公」の過ちに飲み込まれないためにも…。

H:
分かってるって、分かってるさ…。

 ところで「光節」って中々いいネーミングだね。光さす節目か? …明るい節目ねえ…、そういう時代が一日でも早くやってくるといいな。かのゲーテは自らの死の床(とこ)で「光を!光を!」と言って死んだ。

E:
おいおい、節目が「死」じゃダメじゃないか。

 でもゲーテは名著『ファウスト』の中で、主人公ファウスト博士に、新しい「市民社会」建設を最終目標(希望)として発見させた。「(時間よ)止まれ、お前はいかにも美しいから」と…。もしかしたら、そこ(新しい市民社会)に光を感じていたのかもしれないね。 

 僕達はイラク戦争を介してアメリカと日本を考えてきたわけだが、現代の新しい光、つまり新たな公共的コミュニケーションの構築、平和な社会建設の可能性は…。

 …あれっ、もう寝てるよ。

                                                                 (2004年7月12日)


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