イラク戦争から見た のアメリカ・ろな日本
−平和を守るための「整憲論」(第九条考え直し論)-



≪注≫




■対話一 イラク戦争論■

(1) 本書では、その場面場面にあわせて戦争や紛争が考察されています。そこで、ここでは参考のために、本書の中で扱われる主な戦争などを年号順に解説しておくことにします。

1945
【第二次世界大戦終結】
1945年10月 【「国際連合」発足】
 本部はニューヨーク。原加盟国51カ国。日本は1956年に加盟。2004年現在の加盟国191カ国 


《東西冷戦》
 第二次世界大戦終戦後、世界は、「東」のソ連(現ロシア)を中心とする共産主義(社会主義)陣営と、「西」のアメリカを中心とする資本主義(自由主義)陣営(西欧・日本)とに分かれて対立(1947年頃〜1989年)。直接的な軍事衝突(熱い戦争)に至らない緊張状態をさして「冷戦(冷たい戦争)」という。とはいえ、米ソとも局地的な戦争に介入して代理戦争をする。
 しかし1989年11月には「ベルリンの壁」が壊され東西ドイツの統一へと向かい、同年12月のマルタ会談で米ソの首脳(米・父ブッシュ&ソ連・ゴルバチョフ)により冷戦終結宣言がなされる。

1950年〜53年 【朝鮮戦争】
 朝鮮半島は、日本の敗戦の直後から北緯三十八度線を境にソ連とアメリカの分割統治下に入り、1948年には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(南朝鮮)が樹立し、二つの国家に分裂する。

  1950年6月25日、両国の軍事衝突が勃発し、朝鮮戦争が始まる。その後、韓国支援のアメリカによる国連軍(?)と北朝鮮支援の中華人民共和国による義勇軍とが介入し戦争が拡大。この際アメリカは33万人を超える兵員を導入。1953年7月に休戦協定。現在休戦中。
 朝鮮戦争の勃発で、日本は米軍からの特別需要があり特需景気に沸いた。それとともに、国内治安維持のために、後の「自衛隊」の前身である「警察予備隊」が発足した。

1962年10月 【キューバ危機】
 ソ連がキューバに建設中のミサイル(IRBM)の撤去をケネディ米大統領が要求してキューバを海上封鎖し、米ソ衝突寸前となる。フルシチョフ・ソ連首相はミサイル撤去を通告し、戦争の危機は回避される。

1965年〜73年 【ベトナム戦争】
 第二次世界大戦後、1945年「ベトナム民主共和国」樹立。しかし、旧宗主国フランスは翌年南部ベトナムを切り離して「コーチシナ共和国」を成立させた。革命家ホーチミンを中心とするベトナム軍はフランスとの全面抗戦に突入。しかし戦闘はホーチミンの勝利に終わり、1954年、ベトナムの独立を認める「ジュネーブ協定」が結ばれた。それにより暫定的に「ベトナム共和国(南ベトナム=ゴ・ディン・ジェム大統領)」と「ベトナム民主共和国(北ベトナム=ホー・チ・ミン大統領)」が成立する。
 1962年アメリカの軍事介入開始。アメリカが支援する南ベトナム政府に対し、南ベトナム反政府軍「南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)」は、社会主義路線をとる北ベトナム(ソ連や中国が支援)と共にゲリラ活動を行い、1964年、勝利の寸前にまで来ていた。
 しかし、共産主義の進出を恐れたアメリカは1965年より北爆(北ベトナムを爆撃)開始、いわゆるベトナム戦争に突入。地上戦闘に拡大。アメリカ軍は最大で54万人もの兵を送り込み戦闘は泥沼化した。アメリカは戦争の泥沼化、国際社会からの批判、国内の反戦運動の高揚に苦しみ、ついに1973年1月ベトナム和平協定成立、同年3月29日アメリカのベトナムからの完全撤退により「ベトナム戦争終結」。その後、1976年には南・北ベトナムが統一、「ベトナム社会主義共和国(ホー・チ・ミン大統領)」成立。
 このベトナム戦争では、アメリカ軍の死者は5万8000人以上、南北ベトナム人の死者は200万人にのぼったとも言われている。ベトナム戦争中にアメリカ軍によってまかれた枯葉剤によって今でも多くの人がその後遺症に悩まされている。


1979年 【イラン革命】
 イスラーム・シーア派の最高指導者ホメイニが、それまで近代化を断行し経済混乱を招いていた親米政権パーレヴィー朝を倒しイスラーム原理主義の新国家(イラン・イスラーム共和国)を樹立。
 シーア派のイラン革命は、影響力が大きかったとともに、スンナ派の多いアラブ諸国に警戒感を与え、イランは孤立する。

      
1979年〜89年 【ソ連のアフガニスタン侵攻】
 1978年アフガニスタンで共産主義の人民民主党が軍事クーデターによって政権を握ったため、反政府勢力との対立が激化。イラン革命の波及などを警戒してソ連は翌年軍事介入し、親ソ連派のカルマル政権成立。
 アメリカは対ソ政策で、タリバンなどを支援し、ビンラディンらテロリストを訓練しアフガニスタンへ送り込む。1989年ソ連がアフガニスタンから撤退。
 
 その後、1992年に反政府ゲリラ勢力の連立政権が発足するが、1996年、イスラーム原理主義のタリバンが首都カブールを制圧する。
 2001年のアメリカのアフガニスタン攻撃でタリバン政権崩壊。


1980年〜88年 【イラン・イラク戦争】
 イラン革命の波及を恐れるイラクのフセイン(スンナ派)は、イランの孤立化を利用し、1980年に国境問題を理由にイランに侵攻し、イラン・イラク戦争勃発 。フセインはアメリカを含む国際的支援を取り付けて戦争を優勢に進めたが、その結果イラク経済は疲弊し、1988年停戦。


1981年  【アメリカのニカラグア軍事介入】
 1979年、中米ニカラグアで親米政権が革命軍に倒される。アメリカはニカラグア反政府ゲリラ「コントラ」をCIAを通じて非合法に支援し、ニカラグアは内戦に突入。国際司法裁判所はアメリカに戦争犯罪の判決を下す。

1983年 【アメリカのグレナダ軍事介入】
 中米の島国グレナダの政府が共産主義国キューバと友好関係を築く。アメリカはカリブ海六カ国と共同で軍隊を投入して、政権を倒す。国連総会が侵略と判断を下す。


1989年 《冷戦の終結》
 1989年11月には「ベルリンの壁」が壊され東西ドイツの統一へと向かい、同年12月のマルタ会談で米ソの首脳により冷戦終結宣言がなされる。


1991年 【湾岸戦争】
 クウェートがOPECの石油生産制限の規定を破り、石油価格を下落させたとして、1990年に米国製の武器でイラクがクウェート侵攻(湾岸危機)。これはイラン・イラク戦争で財政悪化に陥ったイラクがクウェートの油田獲得を目的としていたのが真相。

 1991年、イラクのクウェート合併に国際社会は抗議。イラクが国連の抗議を無視したので、多国籍軍を指導してアメリカはイラク攻撃(湾岸戦争)開始。結果、イラクはクウェートから撤退。その後も化学兵器開発や核査察問題をめぐり、国際社会はイラクに制裁措置をとる。クウェートは独裁者が復権。以後もアメリカのイラク空爆は続く。

1998年 【アメリカのアフガニスタン・スーダン報復攻撃】
 アフリカのケニアとタンザニアでアメリカ大使館が同時に爆破されるテロ事件が起こった。アメリカ政府はビンラディンの組織が行ったものとして、ビンラディンが運営しているアフガニスタンの「軍事センター」とスーダンの「化学兵器工場」を長距離ミサイルで攻撃した。

【アメリカのイラク攻撃】
 12月、イラクのバグダッドに大規模なミサイル攻撃を仕掛け、病院などで多数の死傷者を出す。


1999年 【アメリカのユーゴ(コソボ)空爆】
 ユーゴスラヴィアによるアルバニア人への弾圧、難民流出という「人道的破壊」が行われているとして、アメリカはNATO軍を指揮してコソボへの空爆を行う。巨大爆弾BU28(通称バンカーバスター)を始めて使用。民間人1000人以上を含む人たちを殺害。その結果、100万人を超すともいわれるイスラームの難民が出る。

2001年9月 【同時多発テロ】
 2001年9月11日、ビンラディン中心のアル・カーイダは19人のテロリストを使いアメリカの航空機四機を乗っ取り、ニューヨークの「世界貿易センタービル」二棟に激突させ、2749人が死亡、ワシントンの米国防総省の本部(ペンタゴン)に激突し、189人が犠牲になった。
 四機目はホワイトハウスか米連邦議会に突入する可能性があったが、テロリストが占拠していた操縦席に乗客が突入しペンシルベニア州に墜落。


2001年10月 【アフガニスタン戦争】
 アメリカは同時テロの首謀者ビンラディンなどを匿っているとして、2001年10月7日、アフガニスタンのタリバンを軍事攻撃、壊滅に追い込んだ。12月には暫定政権が発足。


2003年3月 【イラク戦争】
 2003年3月19日、イラクがビンラディンなどテロリストと関係があるということや、大量破壊兵器を秘匿しているとして、アメリカは有志連合を募りイラク攻撃を開始した。同年5月1日ブッシュ大統領は戦闘終結宣言。


(2)タリバン
 ソ連のアフガニスタン侵攻に抗して組織されたムジャーヒディーン(聖戦士)の一つ。「タリバン」とは「イスラム神学生達」という意味。ソ連が撤退した後、1996年にアフガニスタンの政権をとったが、2001年の同時多発テロの首謀者ウサマ・ビンラディンを匿っているとして、2001年10月、アメリカから攻撃され、11月にはカブールが陥落し、12月に政権崩壊。

(3)アメリカの中東戦略
 アメリカの第三十九代大統領カーター(在任1977〜81)は、ソ連のアフガニスタン侵攻後の1980年に「年頭教書(カーター・ドクトリン)」で、ペルシャ湾防衛を表明した。それは石油の安定供給を狙ったもので、以降アメリカの中東戦略の重要性が強く語られるようになる。アメリカは盟友イスラエルを無条件に支持する一方、エジプトやサウジアラビアのような親米的で世俗的なイスラーム政権を支援してゆくことになる。湾岸危機以降、サウジアラビアはイラクの侵攻を恐れ、アメリカ軍の駐留を頼みとするようになった。

(4)イスラームの原理
 イスラームの原理にはクルアーン(コーラン)の他に、ムハンマドの教えであるハディース(預言者言行録)がある。しかしハディースはムハンマドの勝手な創造ではなくクルアーンをもとにして預言者ムハンマドが存命中に実践したものを記録したものとされている。ここではクルアーンやハディースの内容には触れることはできないが、モスク(礼拝所)での信者の姿やラマダーン(断食)などをテレビで見るだけでも、西欧の価値観との違いが垣間見える。そしてこれらは奇妙な風習ではなく一つの大きな「文化」として受け止める必要があると筆者は考える。
 したがって、このイスラームの原理に忠実であろうとする「イスラーム原理主義者」にとっては、自らの価値観を否定し、西欧の価値観を押し付けるアメリカに対しては「聖戦(ジハード)」も止む無しということになる。

(5)ウサマ・ビンラディンとアル・カーイダ
 サウジアラビア出身のウサマ・ビンラディンはソ連のアフガニスタン侵攻に抗するため、ムジャーヒディーン(聖戦士)となり、アメリカのCIAや西欧諸国からから資金を受け活動する。当時アメリカはムジャーヒディーンに資金だけでなく、スティンガー・ミサイル数百基を供与し軍事訓練を施した。
 その後、ウサマ・ビンラディンは、アフガニスタンを拠点として1988年に国際的なテロ組織「アル・カーイダ(拠点)」を設立。「アル・カーイダ」は、1998年のケニアとタンザニアの米国大使館爆破事件や2000年のイエメンでの米海軍艦艇の爆破事件など多数の反米テロを起こしてきた。そして、2001年のアメリカの「同時多発テロ」を引き起こすことになった。

(6)デリバティブ(金融派生商品)
 株式や債権などの本来の金融商品から派生した金融商品。それには、先物取引(将来の売買を行うことをあらかじめ約束する取引)、オプション取引(将来売買する権利をあらかじめ売買する取引)、スワップ取引(企業または銀行間で、お互いに債権を交換する取引)などがある。
 これらの手法を利用して、相場の変動にともなう損失を保険する(ヘッジング)組織をヘッジファンドと言い、元手の何倍もの資金を動かす。ヘッジファンドは日本円にして最低額一億円以上で私募されるため、アメリカでは99人、日本でも49人という極めて少数の投資家だけしか参加できない。
 1992年のイギリスのポンド危機はヘッジファンドを動かすジョージ・ソロスが仕掛けたものであり、1997年のタイの貨幣バーツの引き下げによるアジアの金融危機を引き起こしたのもヘッジファンドであった。

(7)京都議定書
 1997年に京都で開催された「気候変動枠組条約」で採択された温室効果ガス削減のための議定書。2008年〜2012年に、一定の数値、対1990年比で、日本6%、米7%、EU8%削減することを義務づけている。しかし、ブッシュは2002年に京都議定書からの離脱を宣言。

(8)エンロン社の不正疑惑の影響
 本文に書いたように、2001年12月に発覚したエンロン社の不正会計は、利益を水増しして報告し、株価を吊り上げることで、経営陣が高額報酬を手にしていたことが問題になった。エンロン社はブッシュの有力支持者としても知られ政界との癒着問題も暴露された。
 このエンロン社の不正疑惑は、一連の米企業不祥事の先駆けとして米会計制度への不信を生み、投資熱の後退、株安などを通じて景気後退の一因ともなっている。

(9)ヘンリー・ジャクソンとアイゼンハワー
 ネオコンの育ての親の一人であるヘンリー・ジャクソンは1950年代には、軍事産業と強いつながりがあり、反ソ連の強硬派で、米ソ間の軍縮に反対する民主党タカ派として知られていた。そして核兵器の開発と原子力発電を強く主張し、ベトナム戦争の強力な推進者であった。また緊張緩和による軍事費の削減を阻止しようと奔走していた。つまり軍産複合体の育ての親の一人でもあった。
 こうした初期の軍産複合体の動きに対してアイゼンハワーは危惧の念を抱いたのである。

(10)ケネディ暗殺
 1963年11月22日、テキサス州ダラスでパレード中の第35代大統領ジョン・F.ケネディが銃撃され死亡。警察は、教科書倉庫ビルから狙撃したリー・ハーベイ・オズワルドなる人物を犯人として逮捕。しかし無罪を叫ぶオズワルドも、その数時間後、大統領を敬愛していたダラス・マフィアのジャック・ルビーによって暗殺される。捜査の結果としてFBIがまとめたウォーレン報告(事件後わずか10ヵ月後に発表)は、ケネディ暗殺はこのオズワルド青年の単独犯行であり、その背後には組織・陰謀は存在しないと結論づけた。
 しかし多くの謎が残っている。たとえば、ケネディは当時のビデオから前から撃たれ、後ろに倒れたが、オズワルドが撃ったなら後ろから撃ったことになり、ビデオと一致しないのである。こうした多くの謎を含むケネディ暗殺については、首謀者としてキューバ(カストロ)説、ソ連国家保安委員会(KGB)説、CIA説、マフィア説などがあがり真相は藪(やぶ)の中にある。いずれにしても平和主義者に転じたケネディの暗殺は、その後のCIAやペンタゴンにとって都合のよいものとなったことは間違いない。

(注)近年(2006年)、テキサスのビッグオイルと関わりが深かった当時の副大統領リンドン・B・ジョンソン陰謀説(マルコム・ウォレス実行説)が浮上している。また、アメリカの産業は複雑に絡んでおり、ビッグオイルは軍需産業とも深い関わりを持っていた。

(11)メジャー
 国際石油資本のこと。シェブロン、エクソン、ガルフ(1984年にシェブロンに吸収合併)、テキサコ、モービルの米国系五社と、英蘭系のロイヤル・ダッチ・シェル、それに英国系のブリテッシュ・ペトロリアムをあわせた七社の総称。セブン・シスターズとも言われていた。
 なお、石油ショック以降合併吸収が繰り返され、現在では、ロイヤル・ダッチ・シェル(英蘭系)、BPアモコ(英米系)、エクソン・モービル(ロックフェラー系)、シェブロンテキサコ(ロックフェラー系)はスーパー・メジャーと呼ばれ、石油業界の第二次再編期を迎えている。

(12 )日本のアメリカ攻撃(真珠湾奇襲)
 1941年12月8日(アメリカ時間7日)朝、国交断絶の直前、日本の機動部隊がハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争のきっかけを作った事件。この頃のハワイはまだアメリカの準州であった。
 2001年の同時多発テロで「リメンバー・パールハーバー」が叫ばれたのは、この日本の攻撃が、それまでアメリカが直接攻撃された唯一の攻撃だからに他ならない。つまりアメリカは、この二回しか直接攻撃されたことがないことの証である。


■対話二 イラク戦争と日本■

(13)国連軍・多国籍軍・有志連合・国連平和維持活動
 これらは明確に規定(区別)されているわけではないが、区別のだいたいの目安は次のようになると言ってよいだろう。

@国連軍(国際連合軍)
 国連憲章にもとづいて決定されるが、今日まで正規の常備軍としての国連軍は設けられていない。
 ただし、歴史的に1950年の朝鮮戦争のとき一度発動されたとされているが、正規の国連軍とは言いがたい。

A多国籍軍
 安保理が許可した有志連合が「多国籍軍」と言える。性格はそれぞれ異なるが、現在(2004年2月)までに、次の十回発動。
 
1990年11月 湾岸戦争の多国籍軍(米軍中心)、安保理決議678
1992年12月 ソマリアの多国籍軍(米軍中心)、安保理決議794
1994年 6月 ルワンダの多国籍軍(仏軍中心)、安保理決議929
1995年12月 ボスニア・ヘルツェゴビナの多国籍軍IFOR(NATO軍主体)
安保理決議1031
1996年11月 ザイールの多国籍軍(米・カナダ軍中心)安保理決議1080
1999年 6月 コソボの多国籍軍KFOR(NATO軍主体)安保理決議1244
1999年 9月 東ティモールの多国籍軍(オーストラリア軍中心)安保理決議1264
2001年12月 アフガンの多国籍軍(英軍など中心)安保理決議1386
2003年 5月 コンゴの多国籍軍(仏軍など中心)安保理決議1484
2003年10月 イラクの多国籍軍(米軍中心)安保理決議1511

B有志連合
 有志連合には安保理が許可したもののほかに、国連のお墨付きのない有志連合がある。次の二回発動。
2001年 9月 アフガン戦争の有志連合(米軍中心)
2003年 3月 イラク戦争の有志連合(米軍中心)

C国連平和維持活動(PKO)
 普通は内戦や民族紛争の最中に多国籍軍が派遣され、停戦合意、和平協定ができた段階で安保理の明確な承認の下で国連平和維持活動(PKO)に代わる。国連事務総長の管理下で特別代表と司令官が指揮、命令する。
 ただし、ボスニアの時のように内戦の真っ只中でPKOが導入され、和平合意の後に多国籍軍が導入されたように必ずしも一律ではない。
 また、2002年2月のスリランカ内戦の停戦合意に基づく停戦監視の時のように、名目は有志連合(スカンディナビア五カ国)でありながら役割はPKOのような組織もある。

(14)有事法制
 2003年6月6日に『有事関連三法』が与党(自民・公明・保守新党)と民主党・自由党等の賛成によって成立し、2004年6月14日、それを補完する『有事関連七法』が与党(自民・公明)と民主党の賛成で成立。
    
【有事関連三法】 @武力攻撃事態対処法、A改正自衛隊法、B改正安保会議設置法
【有事関連七法】 @国民保護法、A外国軍用品等海上輸送規正法、B米軍行動円滑化法、C自衛隊法改正、D交通・通信利用法、E捕虜等取り扱い法、F国際人道法違反処罰法

(注)日本が直接攻撃される事態が生じれば、それに対処するために国民に多くの犠牲を強いるのは致し方ないことです。その可能性は極めて弱いし、もちろんあって欲しくないことですが、だからと言って武力攻撃に対して準備しておくことまでを批判できないでしょう。
 ここで問題なのは、この有事関連法が日本本国への直接攻撃を超えてもっと広い範囲を考えていることです。つまり、これには1997年の「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」とそれを受けて1999年に策定された「周辺事態法」という前段階があり、そこでは極端に解釈すれば、アラビア半島の沖合いで自衛隊の艦船が砲撃を受けた場合も日本の「周辺事態」と認識される可能性があります。それに「日本有事」がアメリカの後方支援として「グローバルな有事」に備える軍事同盟になっているということが問題です。筆者は、アメリカの言いなりになり共同歩調を取ろうとする政府の「有事法制」に危惧を覚えているのです。

(15)国連安保理決議1441号
 アメリカは、中道派のパウエル国務長官を国連安保理に送り「イラクへの国連査察」を提案し、「イラクは悪だ」という国際世論の高まりを期待したのが2002年11月8日の「国連安保理決議1441号」。その後、仏・独・ロなどはアメリカの開戦理由が不十分だとしてイラク侵攻に反対した。そこでアメリカは有志連合を募りイラク戦争へと走る。

(16)イラク復興支援措置法
 2003年7月26日成立。文字通り、イラクの復興、新しい国づくりを支援するために自衛隊を送る法律で、4年間の時限立法。
@施設の建て直しや生活に必要な物資の輸送
Aフセイン政権が残した大量破壊兵器の処理に対する協力
Bイラク国内の安全確保のため米英軍を支援。

(17)「前項の目的を達するため」の挿入
 こうして芦田修正によって、本文で引用したように、

「[第一項]日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
[第二項]
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」、となったのである。

 これこそが1946年11月3日に公布され、翌年5月3日に施行された現行の『日本国憲法』第九条に他ならない。そして、この
「前項の目的を達するため」という「芦田修正」の挿入が、その後の一連の解釈改憲のよりどころとされており、はたまた、イラク復興支援のために自衛隊を派遣することが合憲であるとして解釈されるもとになったのである。

(注)この著では、現行憲法が二重の解釈を可能にしているとして展開しているが、憲法制定から60年近く経った今では、もう終戦直後の理念を前提に現行憲法のこの条項を「一切の戦争放棄」と読むことはむしろ難しいと筆者は考える。太平洋戦争を知らない若い世代が素直にしっかり読めば少なくとも「個別的自衛権の保証」が普通の解釈であるであろう。だからこそ、終戦直後の理念で問題を曇らせてしまうことなく、条項そのものを対象にすべきときが来たのだと考えている。

(18)この筆者の整憲論は、筆者の友人・知人の智恵をお借りしている部分も多いことをお断わりしておかねばならない。そしてこれについては試行錯誤の中途にあることも付言しておきたい。


■対話三 イラク戦争、その後■

(19)大吟醸「光節」
 長野県松本市中央一丁目八―八にある相澤酒店の「相澤ブランド」。ただしお酒は二十歳以上の人でなければ売りません。念のため。

(20)日本人の犠牲者および人質事件
2003年 11月27日 奥克彦在英大使館参事官(四十五歳)と井ノ上正盛在イラク大使館三等書記官(三十歳)がティクリット付近で銃撃され死亡。
2004年  4月 8日 郡山総一郎さん(フリーカメラマン・三十二歳)、今井紀明さん(フリーライター・十八歳)、高遠菜穂子さん(ボランティア・三十四歳)がファルージャ近郊で誘拐され人質にされる。サラヤ・ムジャーヒディーンが自衛隊撤退を要求して犯行。しかし、4月15日、三人とも解放される。
2004年  4月13日 安田純平さん(フリージャーナリスト・三十二歳)と渡辺修孝さん(フリージャーナリスト・三十六歳)がバグダッド西方で武装グループに拉致される。しかし、4月17日、二人とも解放される。
2004年  5月27日 橋田信介さん(フリージャーナリスト・六十一歳)と小川功太郎さん(フリージャーナリスト・三十三歳)がバグダッド近郊で反米武装グループに襲撃され死亡
(その後)
2004年 10月26日
 香田証生さん(二十四歳)の人質映像がインターネットのウェブサイトに流れ、ザルカウィ率いる「イラクの聖戦アル・カーイダ組織」は「自衛隊がイラクから48時間以内に撤退しなければ殺害する」と予告。10月30日(日本時間31日)バグダッドで首を切断された香田さんの遺体発見。
2005年 5月 8日 斉藤昭彦さん(四十四歳)が強硬派の武装勢力アンサール・スンナに拉致拘束され死亡。斉藤さんはイギリスの民間軍事会社「ハート・セキュリティ」に傭兵として勤務していた。

(21)シーア派とスンナ(スンニ)派
 預言者ムハンマド(マホメット)の死後、カリフ(後継者)の継承をめぐってスンナ(スンニ)派(正統派)とシーア派(分離派)に分裂し、現在にいたる。現代のイスラーム世界の約9割がスンナ派で占められており、シーア派は約1割にすぎない。
 しかしイラクでは人口の約6割がシーア派で約2割がスンナ派であり、また因みにクルド人は1割5分という構成になっており、これまでのイラクは少数のスンナ派(フセイン政権)が多数のシーア派を支配していた。

(22)イラク戦争の犠牲者―その後―
[2006年5月時点での犠牲者数]
 米英の非政府組織イラク・ボディーカウントは、「市民の犠牲を4万人前後」と推計。
 また、ロイター通信などによると、2003年以降、「米兵2454人」「英軍など米軍以外の多国籍軍222人」が死亡。2003年6月以降「イラク治安部隊でも4671人」死亡とカウントされている。    

(23)イラク「暫定政府」の発足と「正式政府」の発足までの日程表
2004年 6月1日 イラク暫定政府が発足
2004年 6月28日 暫定政府に主権移譲
2004年 7月 国民会議を開催
2005年 1月末まで 暫定国民議会選挙の実施。移行政府の発足
2005年 8月まで 新憲法起草
2005年10月 新憲法の国民投票
2005年12月15日まで 新憲法に基づく国民議会選挙
2005年12月末まで 正式な政府の発足。
多国籍軍の駐留期限(イラク政府の要請があれば、それ以前に終了)


■あとがき■

(24)イラク戦争開戦から正式政府発足までの動き
2003年      3月19日 米軍の空爆でイラク戦争開戦
 4月 9日 フセイン政権崩壊
 5月 1日 ブッシュ大統領「イラク戦闘終結宣言」
 7月13日 イラク統治評議会発足
(12月13日  フセイン大統領を拘束)
2004年  3月 8日 イラク基本法制定…イラク統治評議会の全員が署名
 6月28日 暫定政府が正式発足…アラウィ首相
2005年  1月30日 国民議会選挙・・・スンナ派ボイコットでシーア派が過半数獲得
 3月16日 初の国民議会開幕
 4月28日 移行政府が発足…ジャファリ首相率いるシーア派主導・大統領はタラバニ
 8月22日 憲法草案作成…クルド人・スンナ派の反対で混乱したが承認
10月15日 新憲法をめぐる国民投票…スンナ派派賛否で分裂したが、10月26日、クルド人、シーア派の支持で78%の賛成で憲法承認。
12月15日 新憲法下で国民議会選挙…スンナ派も参加
2006年  1月 選挙結果発表…シーア派、過半数届かず
3月16日 国民議会召集…各派閥間の対立で開会三十分で休会
4月22日 ヌーリ・カメル・マリキ氏、次期首相に指名される…ジャファリ移行政府首相は米国の強い反対で表舞台から消える
5月20日 イラク正式政府発足…ヌーリ・カメル・マリキ首相 

(補)イラク正式政府の主な顔ぶれ 
大統領 ジャラル・タラバニ(クルド人)
副大統領 アデル・アブドルマフディ(シーア派)
副大統領 ターリク・ハシミ(スンナ派)
首相 ヌーリ・カメル・マリキ(シーア派)
副首相 バルハム・サリフ(クルド人)
副首相 サラーム・ザウバイ(スンナ派)
外相 ホシャール・ジバリ(クルド人)
内相 未定(マリキ首相が兼務)
国防省 未定(ザウバイ副首相が兼務)
安全保障担当相 未定(サリフ副首相が兼務)
石油省 フセイン・シャハリスタニ(シーア派)
計画省 アリ・ババン(スンナ派)
財務省 バヤン・ジャブル(シーア派)
議長 マフムード・マシュハダニ(スンナ派)

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