預言者は最後に告げた
その店は総武線のガード下にある、客が十人も入ればいっぱいの、小さなスナックだった。
いかにもそれらしい口ヒゲを生やしたマスターと、アルバイトの女の子が一人という小所帯。
客は常連ばかりで、みな顔なじみ同士。
そして、店に集まる全員に共通する趣味があった。
すなわち、競馬である。
店の名前は《パーチ》――英語で「止まり木」という意味で、競馬とは何の関係もないのだけど。
僕がその店に通い始めたきっかけは、アルバイトの西崎久美というのが中学時代の同級生で、
「一度遊びに来てよ」
なんて、お誘いを受けたからだった。
西崎とは二年と三年で同じクラスだったけど、実はほとんど言葉を交わした記憶がない。
僕は中学時代は漫画とアニメとパソコンが趣味のオタク少年だった。
西崎を含むクラスの女子とは会話のきっかけも、そもそも共通の話題もない。
女子にも漫画やアニメ好きのオタクグループはいたけど、彼らとはハマっている作品が全然違う。
そんな僕が、女の子と気軽に会話するようになったのは高校に入ってからのことだ。
それは、競馬というもう一つの趣味のおかげだった。
当時――といっても、ほんの「三年前」のことだけど――は、オグリキャップが大ブームだった。
芦毛という見た目のわかりやすさのおかげもあり、ぬいぐるみまで作られる人気だった。
それがまた、うまくデフォルメした可愛らしいデザインで、ぬいぐるみを通してオグリキャップ人気は、本来は馬券を買えない高校生にまで飛び火したのである。
僕はといえば、自慢じゃないけど小学校低学年で父親に近所の中山競馬場に連れられて行って以来、十年近いキャリアがある競馬ファンだった。
だから、クラスの女子が、
「オグリキャップって四歳のときはダービー出られなかったんだって。かわいそー」
「えーっ、だったら今年は出してあげたらいいのにー」
なんて話をしているときに、したり顔で、
「それはクラシック登録制度のせいで、地方の笠松競馬に所属していたオグリキャップは登録してなかったんだ」
とか言って、会話に加わることができたのだ。
彼女たちにはダービーは四歳馬しか出られないことや、競馬には中央と地方があって、両者は主催からして異なることも説明しなきゃならなかったけど。
そして――それ以来、仲良くなった女子の中に、僕と同じ中学出身の山岸という子がいて、彼女が中学時代から西崎とも親友だったというわけ。
初めて西崎から家に電話がかかってきたときは、びっくりしたけど。
こっちは西崎のことなんか忘れていたし、彼女も自分が競馬ファンの集まる店で働いていなければ、中学の同級生で実はちょっとばかり競馬に詳しい奴がいたと山岸から聞いても、関心を持たなかっただろう。
それが、誘いを受けた僕が、
「顔もうろ覚えの西崎はに会うのはともかく、競馬ファンの集まる店は面白そうだ」
という理由で《パーチ》を訪ね、すぐにマスターや客のみんなと意気投合して常連の仲間入りし。
ついでに五年ぶりに再会した西崎が、意外に可愛いことを再発見し。
なんとなく話のノリも合ったので、試しに競馬場以外の場所(ディズニーランドだ)に誘ったら簡単にオーケーしてくれて、それ以来、ときどきデートする仲になったのだから。
人生って、先がわからないものだ。
そもそもはオグリキャップ・ブームのおかげかな。
僕自身はタマモクロス派であり、メジロライアン派だったけど。
オグリ最後の有馬記念では大川ケージローと一緒になって「ライアン」連呼したけど。
その日――
中山競馬場で行われた今年最初の重賞レース、金杯の帰り道。
いつものように《パーチ》に寄った僕は、一日トータルで六万ほど儲けた嬉しさに酔いも加わり、今年一年の競馬を占うと銘打って、常連さん相手に一席ぶっていた。
「今年は、トウカイテイオーの年ですよ! 去年は骨折に泣きましたけど、無敗の二冠馬の看板は伊達じゃないです!」
トウカイテイオーは、去年の皐月賞とダービーの優勝馬だ。
ことにダービーでは二着に三馬身差をつける圧勝で、東京競馬場のスタンドでその強さを目の当たりにした僕は、このままいけば秋の菊花賞にも勝ち、八四年のシンボリルドルフ(奇しくもテイオーの父である)以来、七年ぶりの三冠馬になるのではないかと期待を抱いた。
ところが、何ということかダービーから数日後、実はレース中に骨折していたことが判明して、療養生活に入ることを余儀なくされた。
そのままならば「悲運の名馬」で終わってしまうところだけれど、僕はテイオーが必ずや復活を果たし、ルドルフもオグリキャップも超える「史上最強の名馬」となってくれるものと確信している。
「でも、どのレースから復帰してくるかが問題だなあ。できれば『春天』の前に一戦使っておきたいが……」
常連客の一人、山本さんが言った。
競馬とゴルフという芝生の上のスポーツが大好きな税理士さんで、僕よりは二十以上も年上だが、同じトウカイテイオーのファンでもあり「盟友」と呼ばせて頂いている。
ちなみに『春天』とは春の天皇賞のことで、この春、復帰するはずのトウカイテイオーが最初に狙いたいビッグタイトルである。
「秋に泣いたといったら、マックイーンはどうだ?」
こわもての個人タクシー運転手、桜井さんが言った。
顔に似合わず(と言ったら失礼だろうが)ミーハーで、武豊騎手とオグリキャップの大ファンだったりする。
桜井さんの言う馬、メジロマックイーンは、武騎手の騎乗で去年の『春天』に勝利した。
ところが、秋の天皇賞では「斜行」(他の馬の進路を遮ること)という反則を犯し、一着でゴールしながら最下位降着という処分を受けたのだ。
「テイオーが戻って来たら、負けはしないですよ!」
僕は胸を張って答えた。
もちろん、何の根拠もない。競馬ファンの言うことなんて、七割がたは思い入れだけだ。
「……春の天皇賞は、メジロマックイーンですよ」
カウンターの端に座って一人で飲んでいた客が、ぽつりと言って、僕たちは、そちらを見た。
年は三十か四十か、よくわからない。よれよれのコートを着たままで(店に入ったら脱げよ!)背中を丸めた、辛気臭い印象の男だ。
そういえば、初めて見る顔だなと、店に入ったときに少し気になったのだけど、先に来ていた桜井さんから、
「金杯どうだった?」
と、声をかけられて、いや金杯は外したけどトータルで儲けましたとか説明するのに夢中になって、その客のことは、すっかり忘れていた。
「お兄さんも、競馬やるのかい?」
もう一人の常連で、落語の噺家みたいな語り口調のご隠居、田中さんがたずねると、男は頷いて、
「まあ……、最近は地方しか買ってませんけど」
「地方かあ。地方の馬は、わからんなあ」
中央ミーハーの桜井さんが言って、男も曖昧に笑い、
「私も地方競馬は、よくわからないんですよ。だから面白いんですけど」
「やっぱり、春の天皇賞は今年もマックイーンですか?」
西崎が水割りを作りながら言った。その男が注文した酒だ。
「今年も……?」
西崎から水割りを受けとった男は、少し考え込むような素振りを見せてから、
「ああ、そう、今年もね。ええ、メジロマックイーンが連覇します」
「トウカイテイオーはどうだい? ここにはファンが二人も揃ってるけどね」
田中さんがたずねる。ファンというのは山本さんと僕のことだが。
「うーん……」
男はもう一度、考え込む様子で、それから不意に僕の顔を見て、
「君は、やっぱりトウカイテイオーの単勝を買うの?」
「え? ええ、もちろん」
いきなり自分に話を振られたことに面食らいながらも、僕は頷いた。
テイオーの単勝に十万円。
テイオーがこの春どのレースから復帰してくるにしろ、そして、その結果がどうなるにしろ、僕は天皇賞ではそう買うつもりだった。
すると男は、僕から視線を逸らすように、うつむいて首を振り、
「でも、テイオーは勝てませんよ」
「どうして、そんなこと言えるんですか?」
僕は少しムキになって言い返した。
酔っていたせいもあるけど、初めてこの店に来た『新入り』に知ったふうな口をきかれて腹が立ったのだ。
「どうしてと言われても……そういう結果ですから」
「結果?」
その男の答えに、僕は怒るよりも、あきれてしまった。
「今のうちから結果なんて、わかるはずないでしょう?」
「そう、わかるはずがない。そうなんですけどね……」
男は、ため息をつき、僕たちから視線をそらし、一人でグラスを傾け始めた。
変なやつ……
僕は、そう思ったけれど、すぐにその男のことは頭から追いやり、常連の仲間との会話に戻った。
それからも毎週末、僕は競馬場やウインズの帰りに《パーチ》に寄って、マスターや常連さんとの競馬談義に興じた。
ときどき、金杯の日に初めて会った男の客と顔を合わせることもあったけれど、こちらからは話し掛けなかったし、向こうから話し掛けてくることもなかった。
馬券の成績はといえば、トウカイテイオーが復帰緒戦を飾った大阪杯では、もちろん儲けさせてもらったけど、それ以外のレースでは結構大きく負けたりもして、収支はトントンというところだった。
そして、春の天皇賞を迎えた。
「負けた……」
錦糸町のウインズからの帰り道。《パーチ》に立ち寄った僕は、開口一番、そう言った。
勝ったのはメジロマックイーンだった。トウカイテイオーは、五着に敗れた。
店には常連さんたちは、まだ顔を見せておらず、マスターと西崎がいるだけだった。
「へえっ? あたし、とったよ!」
「え?」
店の入口につっ立ったまま、僕は眼をぱちくりさせて西崎の顔を見た。
てっきり西崎もテイオーから買っているものだと思ってたのに。
「マックイーンとカミノクレッセ。また緒方さんの言った通りになった!」
「緒方さんって?」
「ほら、いつも、このカウンターの端に座って一人で飲んでる人」
「ああ……」
僕は頷いた。テイオーの負けを『預言』した、あの男のことだ。
金杯当日以来、僕たちの会話に加わることなく一人で飲んでいるので、マスターや西崎が気を遣い、ときどき話し掛けていたことを僕は思い出した。
そのときに、競馬の話も出ていたのだろう。
「すごいわよ。これまで緒方さんが予想したレース、全部当たってるの!」
「へえ……?」
ちょっとばかり驚いて聞き返しながら、僕はカウンターの席に座る。
あの、言っては悪いが陰気な緒方という男が、どういう顔をして西崎に自分の予想を語って聞かせているか、想像できなかったからだ。
西崎によると、緒方という男は月に一、二度、店に来て、その週末に行われるメインレースの狙い目を一点予想で教えてくれるということだった。
店に来ない週は、どこか地方の競馬場や競輪場を回っているらしい。
「じゃあ、根っからのギャンブラーというわけ?」
「そうらしいわね。元は市役所に勤めてたけど辞めちゃって、奥さんとも別れたとかで……」
緒方の予想は必ず一点のみで、これは確実というレースしか予想しない。
しかし、予想したレースの的中率は百パーセントという。
全く信じられない話だった。
僕は緒方という男に興味を覚え、もう一度、彼と会って話を聞いてみたいと思った。
その機会は三週間後に訪れた。
天皇賞に続く春の古馬GI(ジーワン) 第二戦、安田記念。その前日に、緒方は《パーチ》に現れた。
「あっ、緒方さん。そろそろ現れる頃じゃないかって、みんな待ってたのよ!」
店に入るなり、西崎にそう言われて、緒方は驚いたように細い眼を見開いた。
「みんなって……?」
彼は店内を見回して、僕たち常連客の注目が自分に向けられていることで、全てを悟ったらしい。
「……ああ、みんなにも話したんですか、僕の予想の話」
「ずるいよ、久美ちゃん。彼のパーフェクト予想を、いままで一人占めしてたなんて」
桜井さんが言うと、西崎は笑って、
「だって、みんな自分が予想することしか頭になくて、他人の言うことに耳を貸さない雰囲気だったじゃない」
それは確かにその通りだった。
「それで、どうですか、安田記念。あなたのパーフェクト予想では?」
山本さんが、たずねる。
「ああ、そうですね……」
緒方は、いつものカウンターの端の席に腰を下ろして、
「ヤマニンゼファーと、カミノクレッセですよ」
「ヤマニンゼファー?」
これには僕も驚いた。
「まだ一つも重賞を勝ってない馬でしょう?」
「ええ。馬連で一万六千円ばかりつくでしょうね」
「一万六千円……」
桜井さんは、あきれきった顔をする。
「千円買って、十六万か……」
「いくらなんでも、ヤマニンゼファーとはねえ……」
田中さんが、全く信じられないという顔で首を振る。
信じられない気持ちは僕も同じだったけど、それでも僕は千円か二千円だけ、緒方の言う通りの馬券を買ってみようと心に決めている。
(それ以外にも五万円ほど自分の予想で買うつもりだったけど)。
だが、その前に、ぜひ聞いてみたいことがある。
「いったい、そのパーフェクト予想というのは、どこから出てくるんですか?」
「どこからと訊かれると困るけど……」
緒方は曖昧に笑って、頭を掻いた。
「勘としか、言いようがないからなぁ……」
「勘、ですか?」
僕はあきれて、
「勘だけで百パーセント当たるはずないでしょう?」
「ええ、だから本当に百パーセントってわけじゃありません。地方の競馬や競輪では結構、外してますし。だから、人に教えるのは本当に自信のあるときだけで……」
「それにしても、人に教えたレースでは的中率が百パーセントなんて、普通じゃないでしょう?」
僕は、なおも言ったけど、緒方は「いやあ……」と曖昧に笑うばかりで答えようとしない。
山本さんが「まあまあ」と、とりなすように割って入った。
「企業秘密ってヤツだろう。自分が編み出した馬券必勝法を、簡単に教えたくない気持ちは、わかる」
「だけど、緒方さんも。我々の仲間に入るなら、いずれそのうち酒の肴として自分の馬券術を披露してもらわないと」
すでに酒が回っている桜井さんが言って、なれなれしく緒方の肩を叩く。
緒方は、ただ曖昧に笑っていた。
安田記念は、緒方が言った通りの結果になった。
桜井さんは千円、山本さんと僕は二千円、西崎は何と一万円、緒方の言った馬券を買っていた。
マスターも買っていたはずだが、いくら儲けたかは口を割らなかった。田中さんだけが自分の信念を貫くのだと言ってヤマニンゼファーを外した馬券を買い、見事に玉砕した。
驚いたことに、緒方自身はこの馬券を買っていないということだった。
「来週も、またありますから……」
にわか祝勝会となった、その夜のその店で、緒方は意味ありげに言った。
「来週も、また予想しに来てくれるの?」
眼を輝かせて言う西崎に、
「ええ。春の間、GIのある週は、毎週来ます」
緒方は約束した。
緒方のパーフェクト予想は続いた。
オークスが四番人気と六番人気で決まり、二週続きの万馬券。
ダービーでは大本命の皐月賞馬ミホノブルボンに続いて、あっと驚く十六番人気のライスシャワーが二着に飛び込み、二万九千円を超す大穴となった。
安田記念に続いて二つのクラシックレースを的中させた緒方は、いまやヒーロー扱いで、桜井さんは神様とまで呼んで顔を見るたび手を合わせて拝む有り様だった。
緒方自身も、悪い気はしないらしく、
「ライスシャワーは菊花賞ではミホノブルボンを破りますよ」
酒が回って滑らかになった口で、そう『預言』した。
春競馬を締めくくる宝塚記念は、テイオーとマックイーンという二大スターが揃って故障して不在の中(そう、テイオーは、またしても骨折したのだ! 幸いにも今回は軽症で、秋には復帰できるということだったが……)、九番人気のメジロパーマーが、GI競走連続二着の実力馬カミノクレッセを抑えて勝利を収めた。
それもまた、緒方の予想通りだった。
(余談だが、カミノクレッセはこれでGI三戦連続二着という珍記録を達成したことになる。)
「ここまで来たら、夏競馬でもパーフェクト記録を続けてもらいましょうか!」
その夜の祝勝会で、桜井さんが言うと、緒方は笑って首を振り、
「夏の間は、競馬はやりません。競艇かオートか……その辺りを楽しむつもりです」
「あっ、あたし、競艇って見てみたい」
西崎が言って、緒方のシャツの袖をつかみ、
「ねっ、ね? こんど連れてってくださいよ!」
「ああ……でも、競艇は僕もほとんどわかんないんですよ。きっと損するだけで終わりますけど」
「いまさら、ちょっとくらい損しても大したことないですよ、西崎は」
緒方に甘えてみせる西崎の態度に内心では腹を立てながら、僕は言った。
「緒方さんの予想で、トータル一千万は儲けてるはずですからね」
いっそ大損して無一文になってしまえ、とか、酔ってる僕は思ってしまう。
西崎とのデートを、僕は相変わらず続けていたけど、最近の彼女は何かにつけて緒方の話題を出すので、全くもってつまらなかった。
緒方の酒や料理の好みとか、グラスや箸の持ち方とか、挙げ句に「笑うと彼、えくぼができるのよ」なんて話を聞かされて、何が面白いものか。
そんな僕も、『預言者』としての緒方には敬服せざるを得なかった。
彼に儲けさせてもらった金額は累計で二千万を下らない。
とはいえ、悲しきギャンブラーの性と言うべきか、儲けのほとんどは緒方が予想するメインレースとは別のレースにつぎ込んでスッていたから、手元にはわずかしか残っていなかった。
「ねえ、いいでしょ、緒方さん?」
「そうですねえ……」
西崎にせがまれて、まんざらでもない様子の緒方を横目に見て、僕は苦い思いでグラスをあおる。
不意に西崎が、こちらを見て、
「ねっ、連れてってくれるって、競艇に。陽クン、いつなら空いてる?」
「え……?」
僕は、ぽかんと口を開けて西崎の顔を見返した。
緒方が僕の顔を見て、苦笑いしている。
僕は自信を取り戻し(そうだよ僕は、いちおう西崎のボーイフレンドなんだから)、
「土曜は隔週で仕事だから……、日曜ならいつでも」
「じゃあ、さっそく次の日曜はどうですか?」
西崎が言って、緒方は小首をかしげ、
「来週だと、戸田と江戸川が開催日だったかな。競艇の場合、優勝決定戦は平日になるんですけどね」
「それじゃ、平日に行かないとダメだってこと?」
「優勝決定戦まで見たいかどうかは、日曜のレースを見て決めたらいいじゃないか」
僕は言った。
緒方のパーフェクト予想は、競艇には通用しないらしい。
ならば、日曜のレースだけでも連れて行けば、西崎の「緒方熱」は冷めるのではないかと僕は計算していた。
申し訳ないけどパーフェクト予想のない緒方なんて、ただのネクラな中年オヤジだろう。
僕は中学高校以来の漫画や競馬に並ぶ趣味、パソコンの知識を活かして、設計事務所のCADオペレーターという仕事に就いていた。
緒方のパーフェクト予想のおかげで二千万以上を稼ぎながらも、僕が真面目に仕事を続けていられたのは、趣味が実益を兼ねているCADオペの仕事が好きだったことと、もう一つは、緒方に対する反骨心のおかげだろう。
《パーチ》の常連客の中心的存在になっていた緒方は、しかし相変わらずパーフェクト予想のカラクリを誰にも教えようとしなかった。
桜井さんや僕が、いくら懇願してもダメだった。
酔った勢いの桜井さんが、のらりくらりとしている緒方に腹を立て、つかみかかる寸前までいったとき(山本さんと僕で止めに入った)、見かねた田中さんが、
「ヒントだけでも教えてやってもらえませんかねえ」
と、緒方に頼んでも、曖昧に笑うばかりだった。
そんな彼が、僕は嫌いだった。
自己流予想を披露し合いながら、馬券の結果に一喜一憂する純粋な競馬ファンだった《パーチ》の常連客が、いまや緒方の『預言』をありがたく拝聴するだけの「信者グループ」みたいになっていた。
何より頭にくるのは、西崎が、すっかり緒方に心酔していたことだ。
彼女が緒方と二人きりで競艇に行こうとしていたら、僕はその日、帰宅したらすぐ西崎に電話して、何としてでも競艇場行きを阻止していただろう。
その場で止めないのが、僕の「エエ格好しい」なところなんだけど。
緒方に対してヤキモチを焼いている姿を、ほかの常連さんたちに見せたくなかったのだ。
競艇場に行く約束の日曜日、僕は急な仕事で都合がつかなくなった。
そのことが判明した金曜の夕方、僕は職場から《パーチ》に電話して、西崎に代わってもらい、競艇に行くのは来週に延期しようと提案したが、
「でも、緒方さんと約束しちゃったし……。いまからキャンセルするにしても連絡先、知らないし……」
間の抜けた話だった。
緒方の連絡先など、僕だって知らない。待ち合わせの場所と時間を約束して、それで充分と思ってた。
その夜か土曜に緒方が現れたら、約束の延期を伝えてもらえるよう西崎には頼んで、電話を切った。
だが僕は、きっと緒方とは連絡がつかず、西崎はヤツと二人で競艇場に出かけることになるだろうと思い、イライラしながらCADの画面に向かうのだった。
仕事は月曜の夜遅くまで尾を引いて、ようやく火曜日の夕方、僕は《パーチ》に足を運んだ。
日曜日はどういうことになったか、西崎を問い質そうと思っていたが、店にはマスターしかおらず、西崎は日曜の夜から無断欠勤だと教えられた。
それきり、西崎は店に顔を出さなかった。
そして、緒方もまた《パーチ》に姿を見せなくなった。
マスターは何も言わなかった。常連さんたちも僕に気を遣ってくれて、西崎のことは口に出さなかった。
だが、西崎と僕の関係は、話題にしなければそれで済むものではなかった。
行方知れずになった娘を心配して、西崎の両親が警察に捜索願を出したからだ。
警察は、彼女のボーイフレンドの一人である僕にも当然、話を訊きに来た。
あの日曜日、西崎と緒方と僕が競艇場に行く約束をしていたことを、警察はすでに把握していた。恐らくマスターか常連客の誰かから聞いたのだろう。
家に訪ねて来た二人組の警官は、僕は競艇場に行かなかったのか(行きませんでした)、なぜ行かなかったのか(急に仕事が入ったからです。職場の同僚に聞いてください)、西崎と緒方に不審な様子はなかったか(気づきませんでした)、などというやりとりのあと、あとからでも思い出したことがあったら知らせてほしいと名刺を置いて帰って行った。
そちらこそ、わかったことがあったら僕にも知らせてくれと言いたかった。
両親はともかく、見捨てられたボーイフレンドである僕などが捜索の進展状況を教えてもらえるはずなかったけど。
やがて夏が終わり、九月が過ぎて、十月になっても、西崎と緒方は行方不明のままだった。
秋の最初のGI天皇賞は、十一番人気の大穴レッツゴーターキンが勝ち、二着には武豊騎乗で五番人気のムービースターが滑り込み、またしても万馬券となったけど、常連客で当てた人間は一人もいなかった。
トウカイテイオーは七着で、山本さんは五十万円、僕は百万円、負けた。
僕は、武豊の馬から流して買っているはずの桜井さんだけは当てたのではないかと思ったが、その日もそれ以降も桜井さんは《パーチ》に現れなかった。
田中さんから聞いた話では、桜井さんは緒方のパーフェクト予想が続いている間から「馬券で確実に稼げるのだから」と仕事に出ないでパチンコやキャバクラなどで散財を続け、家庭不和に陥っていたらしい。
「わたしも他人様のことは言えないがねえ。とうとう娘夫婦が出て行っちまった」
ほろ苦く笑う田中さんに、僕は言葉もなかった。飄々とした印象の田中さんまでが、緒方のパーフェクト予想に人生を左右されていたなんて。
田中さんが《パーチ》に来たのは、それが最後だった。
菊花賞は無敗の三冠達成を狙ったミホノブルボンがライスシャワーに敗れた。
それはダービーの祝勝会で緒方が『預言』した通りだったので、みんな馬券をとったはずだけど、口が堅いマスターはともかく、山本さんまでが自分がいくら儲けたのか教えてくれなかった。
エリザベス女王杯はブービー人気のタケノベルベットが勝って馬連で七万四百七十円というGI史上最高配当額の超大穴馬券となったが、その夜の《パーチ》にいたのはマスターと僕と、あとは新顔でカラオケ歌いまくりの草野球仲間の四、五人グループだけだった。
草野球グループは、酒も料理も悪くないのに暇そう(常連客が来なくなったからだが)な《パーチ》を気に入って、今度から贔屓にするよと宣言した。
マスターは僕に苦笑いを向け、「新しいバイトの子を雇わなくちゃな」と言った。
ジャパンカップではトウカイテイオーが海外から招待された強豪たちを抑えて見事な復活勝利を収めたが、その当日、僕は《パーチ》に足を運びながらも、
「テイオー、いいレースだったね」
「うん」
マスターと僕の競馬に関する会話は、それで終わった。あとは新しいアルバイトの面接についてとか、せっかく復活したテイオーと関係のない話題だった。
草野球グループはカラオケで、それぞれ贔屓のプロ野球チームの応援歌を代わる代わる歌っていた。
《パーチ》は、いまや料理とカラオケが売り物の賑やかな店になっていた。
草野球グループが試合のない日も、それぞれの職場の同僚や友人を連れて飲みに来るようになったからだ。
新しく決まったアルバイトの美穂という子は、高校時代に野球部のマネージャーだったとかで、めでたく「新しい常連客」のお気に入りになった。
僕はといえば、客の少ない夕方から夜の早い時間だけ、かつての緒方の指定席とは反対側のカウンターの端に座り、かつての緒方のように一人でグラスを傾けた。
草野球グループのカラオケが始まると、店を出るのが常だった。
若いくせにネクラなヤツだと、草野球組は思っていたかもしれない。
桜井さんも田中さんも山本さんも店に来なくなっても、僕が一人で《パーチ》に通い続けたのは、僕たち「元常連」の関係をぶち壊した、緒方に対する意地だったろうか。
そして、有馬記念の前日。
緒方が、半年ぶりにその店に現れた。
「……よう、青年。やっぱり、君しかいないのか」
違う店で飲んできたあとか、緒方は酔いが回った様子で、カウンターの端で飲んでいる僕の肩を叩いてきた。
「やっぱりって、どういう意味ですか?」
僕は緒方を睨みつける。
「ボクの知ってる『結果』通りだったってことさ」
緒方は言って、僕の隣の席に腰掛けた。
カウンターに向かって並ぶ背の高い丸椅子は普通はスツールと呼ぶが、「パーチ」という呼び方もあって、それが店名の由来だと教えてくれたのは西崎だった。
もちろん、マスターの受け売りだろうけど。
緒方の注文をとりに来ようとした美穂がマスターに止められているのが、視界の端に映る。
「……西崎は、どうしたんですか?」
僕がたずねると、緒方は、軽く肩をすくめてみせた。
「別れたよ。初めから、うまくいかないことはわかってた」
「初めから、わかってた?」
「そう。ボクがみんなに『預言』したレースと一緒でね、初めから結果は出ていたんだ」
「なに言ってんだか、さっぱりわかりませんよ」
僕は腹が立ってきて、強い口調で言った。
すると緒方は、ふっと声を出してため息をつき、うつむいて何度か首を振り、それから、何かを決意したようにもう一度顔を上げて、いつもの曖昧な笑みを浮かべて僕を見た。
「タイムスリップって知ってるだろ? SF小説や漫画で、よく題材になる?」
「は?」
僕は眼を剥いて、相手を馬鹿にしたように言ってやる。
「漫画がどうかしたんですか?」
「ボクは、そのタイムスリップで、この一九九二年という年を何度も繰り返している。いや、ボクの場合はタイムスリップではなく、輪廻転生と呼ぶべきかも知れないが……。とにかく、それがボクの『預言』が当たる理由だ。わかりやすく言えば、ボクは明日の有馬記念を含めて一九九二年の全てのレースが終わった未来から、君たちと初めて会った金杯当日にタイムスリップして来たんだ」
「そんなことが……」
あるはずが、ない。
でも、そう考えれば、あの的中率百パーセントの予想も納得がいく。
僕は言葉を失って、ただ緒方の顔を見つめた。
「知っているのは、レース結果だけじゃない。ボクは、自分がいつ死ぬのかも知っている。それは有馬記念の終了直後、明日の午後三時五十分だ。突然胸が苦しくなって、目の前が真っ暗になる。たぶん心不全というやつだろう、ボクはもともと心臓病の気があったからね。そして、ボクは『転生』する。あの金杯の日の、この店のカウンターの端に腰掛けている自分自身の肉体に。
ボクは『転生』を繰り返して、そのたびに、前とは少しずつ違う一九九二年を生きてきた。でも、自分が明日、死ぬという運命は変わらなかった。ボクは悟った。すでに結果の出ているものを変えることはできない。
だからボクは、運命に逆らわないことにした。その代わりに少しでも、この人生を楽しもうと思った。まだ結果の出ていない選択肢を選んでみることでね。
考えれば、人はいつか必ず死ぬんだよ。ボクの場合は、それがたまたま明日だというだけで。そして、ボクには死を恐れる必要はない。ボクにとって死は、新しい人生の始まりだから」
「それが、本当だとしたら……西崎とのことは、何だったんですか!」
僕は思わず怒鳴っていた。
名前も知らない新しい常連客たちが、驚いて僕たちを振り返ったけど、構っていられなかった。
「初めから、うまくいかないのがわかってたんでしょう? だったら、なんで駆け落ちみたいな真似したんですか! 彼女の家族はひどく心配してた!」
「そう、確かに……」
緒方は、ため息をついて眼を伏せた。スツールを回してカウンターに向き直り、
「……確かに、ボクにはわかっていた。わかっていながら、あんなことをした。ボクは、ずっと嫉妬していたんだよ」
「嫉妬……?」
「そう、君に。君と久美に。そして、この店に集まるみんなに」
僕は黙って緒方の横顔を見る。
「最初の……『転生』が始まる前の人生で、ボクはギャンブルに狂っていた。そのために大きな借金をして、仕事を辞め、家族とも別れた。ボクには何も残っていなかった。そんなときに、ボクはこの店を知った。この店で、心から競馬を楽しんでいる君たちを知った。なんて不公平なのかと思ったよ。ボクは全てを失ったというのに、なぜ君たちは、そんなに楽しんでいられるのかと。
そう、君たちは、いつだって楽しそうだった。馬券が外れたときでもね。それはボクには信じられないことだった。ボクは何度かこの店に通いながら、どうして君たちがそこまで楽しめるのか、考えてみた。やがて気づいた。君たちには、一緒に喜び、一緒に悔しがってくれる仲間がいる。だから楽しいのだと。考えてみれば、全てを失う前にも、ボクには友人と呼べる相手はいなかった」
緒方は、そこで一度言葉を切った。そして大きくため息をつき、話を続けた。
「有馬記念の当日、ボクは有り金をはたいた十万円の単勝馬券を握って中山競馬場にいた。それが当たっても借金を全て返せるわけじゃなかったけど、少しは足しになるはずだった。それでボクは、もう一度やり直すつもりだった。君たちの仲間に加えてもらって、君たちと同じように競馬を楽しんでみようと。でも、外れたときは……ボクは、死ぬつもりだった。自ら命を絶つ覚悟だった。
そして、結果は外れだった。その直後に、ボクは心臓の発作に襲われた。その途端、なんとボクは死にたくないと思った。浅ましいものだよね、最初は自分で死ぬつもりだったのに。でも、どうしてもボクは死にたくなかった。もう一度チャンスが欲しいと思った。それで今度こそ、やり直すのだと。そして……気がついたら、この店にいた。それが最初の『転生』だった。
そこからは、さっき話した通りだ。ボクは『転生』を繰り返して、一九九二年の一年限りの人生をやり直している。でも結局、君たちの仲間になることはできなかった。
ボクは、自分が知っているレースの結果を教える。君たちは、それで馬券を当てて喜び、ボクに感謝してくれる。それはボクも嬉しかった。でも、ボクが望んでいたのはそんなことじゃない。
ボクは、君たちと一緒に楽しみたかった。レースの結果に一喜一憂したかった。初めから結果のわかっているレースなんて何が楽しいんだ? だからボクは君たちに嫉妬した。ボクには楽しめないことを、君たちは楽しんでいる」
マスターが黙って緒方の前に水割りのグラスを置き、すぐに離れていった。
緒方は、そのグラスに口をつけて喉を湿らせ、話を続けた。
「久美が好きだったという気持ちに偽りはない。『転生』する前、初めてこの店に来たとき、君たちの会話に加わることができず一人ぼっちで飲んでいたボクに、あの子は気軽に話し掛けてきてくれた。向こうは、それが当然の仕事だったろうけど、ボクは嬉しかった。他人と会話らしい会話をするのは、本当に久しぶりのことだったから。ボクがこの店に通い続けたのは、久美に逢いたかったからでもあるんだ。
何度目かの『転生』のとき、ボクは久美を競輪に誘ってみた。ボクは競馬の予想を的中させ続けて、ヒーローになっていたからね。久美は喜んでついてきてくれた。競輪の結果までは僕は知らなかったから、当然その日の収支は大きなマイナスだったけど、久美はボクと一緒になって楽しんでくれた。
そして競輪場からの帰り道、ボクは、彼女に言ったんだ。このまま二人で、旅を続けないかと。一回目のときは、まさかオーケーしてもらえると思わなかったよ。それは、まだ選んだことのない選択肢だったから。
でも……ボクたちの関係は、長く続かなかった。彼女はボクと駆け落ち同然の旅を続けることを、すぐに後悔し始めた。ボクを嫌いになったわけじゃない、ただ親を心配させているのが心苦しいと言ったけどね。
それでも、ボクは『転生』するたびに久美を誘った。君たちに嫉妬したからだよ。君と、久美に……」
「僕と西崎に……?」
「でも、もう、こんなことはやめようと思う。自分のしていることが、どれだけ空しいか、ようやく僕にもわかったんだ。この次に『転生』したら、ボクは君たちに話し掛けることもなく、そのまま店を出て行く。と言っても、いまの時間軸を生きる君には関係のないことだけど」
緒方は席を立った。
「……最後に、もう一つだけ『預言』しよう」
「明日の有馬記念ですか?」
僕が言うと、緒方は首を振り、
「もうすぐ久美が、この店に戻ってくる」
「西崎が……?」
緒方は僕の肩を叩いて、店を出ていった。
もしかすると、僕が一人でその店に通い続けていたのも、いつか西崎が戻ってくるのではないか、そんな期待を抱いていたからかも知れなかった。
僕はカウンターの席に座ったまま、緒方の言葉を自分の頭の中で繰り返してみた。
もう一度やり直すつもりだった。
彼は、確かにそう言った。
やり直す、だって……?
僕は、立ち上がった。
「すぐに戻ってきますから!」
僕はマスターに向かって叫び、店を飛び出した。
僕が追いかけて来たことに、緒方は驚いたようだった。
それは緒方の知らない『結果』だったのだろう。僕に全てを打ち明けるという選択肢を選ぶのは、これが初めてだったのだ。
「やり直したいのだったら!」
僕は叫んだ。
「どうして、最初からやり直さないんですか!」
「最初から……?」
「そうですよ! もう一度、全てを失う前から!」
緒方は、じっと僕の顔を見ている。
僕は言った。
「あなたは競馬を楽しみたいと言った! でも、どうして楽しみたいだなんて思うんですか! あなたはその競馬で、何もかも失くしたんでしょう? だったら、その失敗を繰り返さないことのほうが先じゃないですか!」
緒方は何も言わなかった。ただ、僕の顔を見つめていた。
長い沈黙の後、彼は口を開いた。
「……そうだね。君の言う通りだ」
緒方は笑みを見せた。
いつもの曖昧な笑いではなく、人間味のある、はにかむような笑顔を。
「もっと早く、君たちと出会いたかったよ。君に全てを打ち明けたように、何でも話し合える相手を、もっと早く見つけたかったよ。そうすれば、ボクも……」
「やり直せますよ、今度こそ」
僕は言った。
「いや、いまからでも。きっとやり直せます」
僕が《パーチ》に戻ると、さっきまで僕が座っていたカウンターの席に、西崎が座っていた。
彼女は僕の顔を見ても何も言わず、マスターも何も言わず、僕も黙って彼女の隣りに腰を下ろした。
やがて、西崎が言った。
「……明日の有馬記念、何が来るかしら?」
「もちろん、トウカイテイオーさ」
僕は答えて言った。
* * * * *
◆トウカイテイオー(1988年生まれ、父シンボリルドルフ、母トウカイナチュラル)
《GI全勝ち鞍》
1991年4月14日 皐月賞(中山競馬場、芝2000m)
1991年5月26日 東京優駿(=日本ダービー、東京競馬場、芝2400m)
1992年11月29日 ジャパンカップ(東京競馬場、芝2400m)
1993年12月26日 有馬記念(中山競馬場、芝2500m)
※1993年の有馬記念優勝は、前年の同レースで11着に破れて以来、364日ぶりのレース出走での快挙である。
* * * * *
《終わり》