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●「忍城の戦い」制作にあたって
まずこの文章が、リサーチに関するコメント、ゲームデザインに関するコメントを含む
ものであることをお断りしておきます。
忍城とは、現在の埼玉県行田市に存在した城で、天正十八年(西暦1590年)、豊臣秀吉が
小田原城攻めを行った際に、秀吉配下の石田三成が水攻めを行ったことで知られる城です。
忍城の戦いをゲーム化するにあたっては、まず行田市郷土資料博物館の企画展「忍城と
城絵図」を訪れました。天正年間から江戸期の忍城の城絵図を見ていくつか気が付いたこ
とがあります。
ひとつは、城の周囲に「フケ」または「深」という書き込みが多く見受けられること
です。調べてみると、これは深田(ふけだ)と呼ばれるもので、水気の多い腰までつかる
ような深い田の事です。ちなみに第2次大戦に関心のある人は、ロシア戦線では雨季にな
ると腰までつかるような深い泥にドイツ軍は悩まされたという記述を戦記の中でよく見か
けると思いますが、イメージとしてはそれに近いものと考えてよいと思います。関東では
江戸期以前の治水が行われてない頃はそのような深い泥田が広がっていたようです。
「フケ」という書き込みからは、水気が多いということから「ふやける」「蒸ける」が
連想されますが、「蒸」は調理方法のことなのでこれはあてはまらないようです。岩波国
語辞典によると、
【老ける・更ける・深ける】度合いが深くなる。「深い」と同語源。
とあるので、「水気が多い」ではなくて「深い」田で深田(ふけだ)となるようです。た
だ個人的には、現在は深をフケと読むことはほとんどないので、深田(ふかだ)でもいい
のではないかと思うのですがいかがでしょうか?
もうひとつは、城絵図は書き込みが丁寧で状態も非常に良いということです。以前、江
戸時代の農地に関する地図を見たことがあるのですが、これは長方形の枠の中に農地がう
まく収まるように方角を変えたり、はみ出たところに和紙を継ぎ足したりしていて、要は
当時の和紙は高価だったので、紙が無駄にならないことが優先されていたようです。こ
れはいわば民製品と言っても良いと思うのですが、城絵図は軍事資料として厳重に保管さ
れていたものなので非常に状態が良い事に気が付きます。
また、この企画展の展示によると、忍城水攻めの本当の姿は、通常我々が伝え聞いてい
た話と少々違うようです。展示されていた内容について箇条書きにしてみると
・忍城の水攻めが開始されたときは、既に北条氏は降伏していた。
・実際に水攻めは行われたが水位はほとんど上がらず、戦いに大きな影響はなかった。
・石田堤は決壊していない。
石田堤が大決壊したと思っていた人にとってはかなり興醒めで私自身もそう感じたのです
が、攻め難く守り易いと言われ、上杉謙信の攻撃もはね退けたという忍城が、実際にどの
程度戦える城なのか、戦ってみたいと思う人は随分いるのではないでしょうか。それがこ
のゲームをデザインした大きな理由になります。
ちなみに石田堤が決壊したという文献はいずれも江戸期に入ってから記述されたようで
す。石田三成は堤を作るためにこの一帯の農民に多額の金を落としていったために、忍城
周辺では豊臣家は人気が高かったことが考えられますが、それは徳川政権にとっては都合
の悪いことだったのでしょう。家康は鷹狩りを兼ねて忍城に何度か訪れていますが、それ
は家康が忍城を江戸の北側の重要な抵抗拠点と捕らえていたからだと考えています。やは
り石田堤が決壊したという話は徳川政権の安定のために作られたと考えて良さそうです。
また、石田堤の範囲については実際に地図を広げて線を引いてみました。石田堤の長さや
領域については諸説あるのですが、明治の郷土史家、清水雪翁が調査結果をまとめていて、
郷土資料博物館もこれを採用しているのでこの説が最も実際に近いものと思われます。こ
れによると囲いは北側が開いたVの字に近い形で、囲いの範囲は非常におおまかですが、
行田市白川戸−行田市丸墓山−鴻巣市袋−熊谷市佐谷田
をつないだ範囲となります。これを地図で見てみると気が付くのですが、どうも囲いの範
囲が大き過ぎるような気がするのです。行田市の半分にもなる範囲に水を引き入れたとこ
ろでどの程度水位が上がるのでしょうか。そこで水攻めの様子について高松城と比べてみ
ることにします。上記の忍城の囲いの範囲を、一辺が6.67Kmの正三角形と仮定します。次
に高松城水攻めの囲いの範囲を、
JR吉備線足守駅−水攻め築堤跡(JR備中高松駅東側)−妙教寺
とし、これを一辺が1.86Kmの正三角形と仮定すると、面積で約12.86倍となります。
また水攻め開始の時期ですが、高松城が旧暦の5月20日、これは新暦、つまり現在の
暦の6月10日で梅雨の時期なのに対し、忍城の場合は水攻め開始が旧暦の7月11日、
つまり現在の暦の8月10日になるのですが、関東では梅雨が終わるのが7月中旬、秋の
長雨が始まるのが9月の後半なので、そのほぼ中間ということになります。これでは水攻
めを行っても大して水位が上がるはずもないというものです。石田三成は数理に明るいと
聞いていたのですが、実はそうでもなかったのではないか、とも思ったのですが、秀吉が
そのような人物を重用するとも思えません。だとすると考えられるのは以下の通り。石田
三成は忍城の水攻めを実行したくなかったのではないか?
確かに石田三成と大谷吉継が丸墓山から見ていたのは、後に関東の七大名城と言われる城
で、しかも内陸の水城というタイプとしては珍しい城。当時の武将の多くは城の普請に強
い関心があったでしょうから実際にどんな普請、どんな仕掛けがあるかを、水に沈めて土
塁や木造建築物が流されてしまう前に確認したかったに違いありません。確かにそれもある
でしょう。しかしその前に1つ気を付けなければならないのは、秀吉の備中高松城攻めの
際、三成と吉継は現場で終戦処理を担当して凄惨な光景を見ていたのではないかというこ
とです。
確かに秀吉は経営的観点から、あぶれ気味の金を有効活用して、自軍の兵を損なうこと
なく城を落とせる水攻めを指示すると思うのですが、高松城水攻めの際、当時20代前半
だった三成と吉継は現場で多数の餓死者を実際に見ているか、もしくは人づてに聞いていた
のではないだろうかと思われるのです。つまり人道的見地から水攻めを実行したくなかった
のではないかということです。
また、以前どこかで、上杉謙信が忍城を攻撃した際に水攻めを検討しながら遂にこれを
実行しなかった、という記述を読んだ気がするのですが、どこで読んだのかどうもはっき
りしません。どなたか御存知の方おられましたら連絡を頂けると幸いです。もし上記の通
りだとすれば如何にも義を重んじる上杉謙信らしい判断だと思われるのです。
(続く)
サンプル画面

※画面は開発中のものになります。
hex1635は下忍口、hex1828は熊谷門、hex2428は内沼橋門

「忍城の戦い」鋭意制作中です。
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tnoguchislg@yahoo.co.jp