韓国古寺巡礼の旅 はじめに

はじめに 通度寺 慶州 海印寺 松広寺 ソウル

2006年10月30日から5泊6日で「美研古寺巡礼の旅」に参加した。美研とは関西の某大学の美術鑑賞グループでる。当地に詳しい方が企画し、リタイアしたOB/OGとゲストからなる中高年31人の旅である。旅行社は日本旅行で現地では韓進観光の韓(ハン)さんがガイドしてくれた。

企画者が訪問先によく精通されており、メンバーも真に古寺・仏像が好きな人々なので、ゆっくりと心ゆくまで古寺・仏像を鑑賞し楽しんだ。海印寺ではテンプルステイ(寺泊)して、精進料理を味わい、夜と朝の勤行にも参加した。

第1日:参加者が成田、関空、福岡から釜山に集合し、通度寺へ。慶州泊
第2日:石窟庵・仏国寺、古墳公園、南山麓の石仏を見学し、慶州泊
第3日:海印寺へ、学頭の講義、寺内見学、夜の勤行、寺泊、早朝の勤行。
第4日:松広寺へ、寺内見学、光州に出て夕食後KTXでソウルへ。ソウル泊
第5日:国立博物館見学、ソウル泊
第6日:サムスン美術館見学、仁川から成田へ

このホームページでは、写真とメモによって全行程を紹介する。
美研古寺巡礼ツアー31人は通度寺を皮切りに専用バスで各地を巡った。
慶州南山では石仏を見るために山を登った。

韓国の古代

紀元前2333年に、霊峰白頭山(ペクトウサン)で天孫・檀君(タングン)が朝鮮開国を宣言し、その子孫が王位を受け継いできたとする神話で古朝鮮(チヨソン)は始まる。日本の天孫降臨神話に相当する。古朝鮮は、中国殷人の箕子(キジャ)朝鮮、中国燕人の衛氏(ウイシ)朝鮮を経て、四郡・楽浪郡、三韓(馬韓、辰韓、弁韓)時代になる。300-400年代には馬韓は百済に、辰韓は新羅に、弁韓は加耶となる。313年に高句麗が楽浪郡と漢民俗支配の四郡を韓(ハン)民族にとり戻し、朝鮮半島は、新羅(シルラ)、百済(ペクチェ)と高句麗(コグリョ)からなる三国時代を迎えた。

高句麗は、広開土王(クワンゲトワン 在位;391−412)の時代に強力となり、引続き、長寿(ジアンス)王の427年に平壌遷都し権勢を維持し続けた。468年には新羅を攻め、475年には百済を攻めた。6世紀後半には随との交戦が続き双方の国力は衰えた。619年に随が唐に覇権を奪われた時には高句麗も疲労し、629年には新羅の侵入を許し、668年には唐が平壌京を陥し高句麗は滅んだ。

百済は、近肖古王(クンサンゴワン)の時代(346年−375)に最大の領土を持った。392年397年に高句麗に攻められ、内部分裂もあり危機を迎えたが、475年に新羅と和睦することにより国家は安泰し、武寧王の521年頃までは平和な時代があった。548年に新羅と共同で高句麗に勝利したが、553年に新羅が百済の東北部を攻め取った。600年に武王が王位を継ぎ国力は復興し、641年には新羅を攻め大勝したが、新羅と唐の連携と百済内部の紛争により、660年に百済は滅亡する。

新羅は三国の中で一番遅く国家として成立したが、それだけに体制の確立が円滑に進められた。新羅王家の始祖・金閼智(キムアルジ)の後孫が代々王位を継ぐ。奈勿王(ナムルワン 在位;358年−402)時代に国家体制が整い、金氏独占の王位世襲制が始まった。5世紀には百済と同盟し高句麗と戦い、503年に国号を正式に新羅とした。新羅の6世紀は、農事奨励、仏教公認、花郎徒制度などで中央集権国家の確立に努めた。654年に武烈王(ムーヨルワン)と名将金庚信(キムユシン)のコンビが生まれ、660年に唐との協力で百済を滅亡させた。

加耶は弁韓12国が母体となり4世紀ごろに成立したが、国家としての体制をとらなかった。任那、加羅などとも記される。3世紀頃から日本との関係は深く、5世紀後半には漢(あや)氏(百済・加耶系)や秦(はた)氏(新羅・加耶系)が渡来している。農耕社会であるが、鉄製品・武器武具の生産、海産物・海上交易などが盛んで富んだ地域であったらしい。加耶は512年に4県を百済に、562年に残り全域を新羅に併合されている。

仏教は、372年に高句麗に、384年に百済に伝来した。新羅が仏教を公認したのは527年である。新羅や加耶にはシャーマニズムに基づく在来信仰があった。統一新羅に入っても、仏教を鎮護国家の宗教とする一方に、太祖武烈王の嫡子である文武王(ムンムワン;在位;661−681)が、道家の神仙思想に基づく「雁鴨池」という苑池を慶州の居城(月城)近くに築いたのもその現われであろう。

676年に対唐戦争の終結で統一新羅が半島を治めたが、終末には後百済、後高句麗の建国があり、半島は乱れた。936年に高句麗の後継と称す太祖王建(ワンゴ 在位:918ー943)が後百済を滅ぼし、高麗(コリョ)を建国した。 その後、1392年に高麗王朝が滅び古朝鮮は終焉し、新しい李(イ)氏の朝鮮王朝に移る。

日本との関連では、239年に卑弥呼が魏に使者を送った時は、朝鮮半島は楽浪郡と馬韓、辰韓、弁韓の時代であった。倭王国から大和朝廷への成立時期は、高句麗、百済、新羅と加耶諸国が鬩ぎ合う時代で、ある時はその争乱の懐中に入ったこともある。538年に百済の聖名王が仏像・経論を送り、595年に高句麗僧恵慈と百済僧恵聡が渡来し、日本の宗教、政治に大きな影響を与えた。647年に新羅王子(金春秋、後の武烈王)が人質として渡来したこともあるが、663年の白村江の戦いでは百済に味方し、新羅・唐軍に大敗した。その時に多くの百済の将兵が日本へ逃げてきて、日本文化の向上に貢献した。675年に新羅王子が来訪し以後新羅との交流が回復した。

今回訪れた通度寺(トンドサ)の創建は645年、海印寺(ヘインサ)は805年、松広寺(ソングァンサ)は統一新羅末期とされる。石窟庵(ソックラム)仏国寺(ブルグクサ)は751年の創建である。
古墳公園の墳墓は5〜6世紀の王の墓とされ、三国時代の新羅である。
参考: 金両基監修 「図説韓国の歴史」 1988初版 1966改訂版 河出書房新社
    金両基 「物語 韓国史」 1989 中央公論新社

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