2010年西部ニューギニア(1
慰霊友好親善訪問団に参加して

(財)日本遺族会が実施する「西部ニューギニア慰霊友好親善訪問団」に長兄と二人で参加した。慰霊団の主旨は、さきの大戦による海外等での戦没者遺児が旧主要戦域を訪れ、友好親善、慰霊追悼、恒久平和の祈願を行なうことを目的としている。

慰霊団は二班で構成され、ジャヤブラ(ホランジア)・ビアク地区を巡るA班は、宇田川統括団長、大窪団長補佐と参加者19名よりなり、マノクワリ地区を巡るB班は、東団長と参加者12名よりなり、夫々の班を日本旅行添乗員(一ノ瀬氏、前泉氏)が引率した。両班は、ビアク島で合流し全戦没者追悼式に臨んだ。
私は昭和14年生まれの71歳、物心ついた頃には父は兵役に取られていた。母親や周囲の計らいで、私たち兄弟は父親の居ない生活をごく日常的に受けとめ成長した。父は西部ニューギニアで戦没したことだけを知って・・・。母親は父親のことを私たちにあまり詳しく話さなかった。母親が天寿を全うし、我々も退職した今、兄から突然今回の慰霊団に参加しないかとの誘いを受けた。

日本遺族会では、今回の参加に際し、父親の所属した隊の西部ニューギニアでの行動と西部ニューギニア戦闘の概要を調査してくれていた。これだけでも、父親との対面が実現できた思いだ。さらに、現地を訪れることにより、この年になってやっと、父と再会したしたような気になった。不肖の子もやっと父に会いに来たのだ。

家族と日本の美しさに思いを馳せながら、修羅の場となった西部ニューギニアに骨を埋めた前線の兵はさぞかし悔しかったと思われる。だが、戦争を終えた南洋の島は今は美しい。平和になった戦場で眠るも良し、故郷の墓から美しい平和な島を見るのも良しと、慰霊碑の前で父を供養した。美しい島は美しいままでずっといてほしい。
戦史については、
防衛庁防衛研究所戦史室:戦史叢書 西部ニューギニア方面 陸軍作戦、朝雲新聞社、1969  などがあるが、
西部ニューギニア前線の実状は、実体験をもとにその悲惨さを後世に伝えるべく書かれた次のような著書で窺い知れる。
1.松岡覚:「戦場の滅びと光り 
回想の西部ニューギニア」、開発社、1993  (西部ニューギニアでの体験談)
2.間嶋満:「ニューギニア戦記」 
山岳密林に消えた悲運の軍団」、光人社NF文庫、2003  (東部ニューギニアでの体験談)
3.飯田進:「地獄の日本兵」、新潮新書、2008  (ニューギニア全島での地獄絵)
4.三橋国民:「64年目の夏 鎮魂のニューギニア」、HOEIDO,2009
他に、
森山幸平:「
米軍が記録した ニューギニアの戦い」、草思社、1995
西村誠:「太平洋戦跡紀行 ニューギニア」、光人社、2006
などがある。
(メモ)
インドネシア:100余の民俗が居住する多民族国家。地域的なまとまりは、20世紀初頭のオランダ領東インドから始る。太平洋戦争時の昭和17年(1942)2月、日本軍は侵攻しオランダの植民地支配は崩壊する。昭和19年(1944)8月にスカルノなどによる独立宣言を日本政府も認めていたが、昭和20年(1945)8月15日、日本はオランダを含む連合国軍に全面降伏した。スカルノ達は、イギリス、オランダを相手に4年間の独立戦争に持ち込む。1949年12月、国連の斡旋の下で、正式にインドネシア連邦共和国(ジャワの約半分とスマトラの大部分を占める)が認められた。その後、内紛が続き、東チモールは独立(2002)している。
ニューギニア島:ニューギニア島は、第ニ次世界大戦前には、西半分をオランダ、東の北部をドイツ、東の南部をイギリス(後にオーストラリア)が植民地(または委任統治領)とする。第二次世界大戦が始まり、島の北半分が日本によって占拠されるが、南部の拠点・ポートモレスビー確保のための東部ニューギニアの戦いが始る。第二次世界大戦後は、西ニューギニアは西パプア共和国(後にインドネシアのイリアン州)、東ニューギニアは、1975年にパプアニューギニア共和国として独立する。
現在でも、飢えと病魔に苦しみながら行軍した密林・湿地・山岳地帯には、多くの遺骨が取残されているという。以下には、慰霊友好親善訪問団の旅程を追って、慰霊碑の建つ旧主要戦域の現在の平和な風景を、戦記を参照しながら写真で示す。戦後65年、高齢となった戦没者遺児が、父の最終地を詣でる機会が設けられていることを述べるとともに、戦争を知らぬ若者たちが戦史・戦記に接するに当って、戦争の場を客観的に、かつ身近に見直す一助となれば幸いである。


成田からセンタニ空港まで
9月27日(金)、九段会館(東京)に集合、諸手続き、注意事項を受けた後、靖国神社参拝(九段会館宿泊)。 9月28日土)成田発10:50JL725便でジャワ島・ジャカルタへ。16:35ジャカルタ着(「エアポート ホテル」泊)。 セレベス島・ウジュンバンダン(マカッサル)空港で乗継して 
私たちA班はジャヤプラへ。B班はソロンへ。
ここからの空路の発着時刻は、1〜2時間遅れることが普通となる。
眼下に次々と、珊瑚環礁が見える ニューギニア島西南・ミミカ空港にワンストップ着陸
ミミカより東北に飛行し、ニューギニア島を南北に分断する背骨(梁)山系(マウケイ山脈)を飛越えた。4000m級の連山は雲に覆われて見ることは出来なかった。。 ジャヤプラ・センタニ湖の西端にさしかかる
不思議な枝状の半島が見える。
9月29日(日)、ジャヤプラ(センタニ空港)に到着。 南側にセンタニ湖が見える。  16:30センタニ空港 北側にシクロップ山系前面の山が聳える。神々しい。パプアの人々は、この山系に足を踏み入れると祟りがあると信じていた。ホランジアの敗残隊はサルミに向ってこの山系を越した。 


目次(リンク)
1. 慰霊友好親善訪問団に参加して
2. サルミ・ワクデ、ゲニム
3. ジャヤブラ地区 診療所訪問、コタバル
4. ビアク地区 西洞窟
5. ビアク地区 パライ
6. ビアク地区 小学校訪問・全戦没者追悼式
7. 帰路 デンバサール(バリ島)
南方諸島と今回(2010年)慰霊団が追悼式を行なった西ニューギニア

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