吉原三本松のだんじりに見る 曽我物語<粗筋兼場面解説> 大町北之町 真鍋哲夫様書引用版
源頼朝公は流人となって、伊豆伊東祐親の館に居た。其徒然を慰めんと安元二年(一一七六)十月八日伊豆奥野で巻狩が催された。その余興の相撲大会で兄弟の父河津三郎祐泰は、相模の剛の者俣野五郎景久と相撲を取り、妙手をもって倒し名を揚げる。
此時の極手が相撲四十八手に名が残る河津掛である。狩りの帰り道河津三郎は峠の椎木の蔭から工藤祐経の郎党八幡三郎と大見小藤太に射殺された。暗殺の背景には、祐泰の父伊東祐親と工藤祐経との間に伊豆楠美の荘(伊東・河津・宇佐見)の所領争いがあった。
此時、兄一万丸五歳、弟箱王丸三歳。父の死後、母満江御前は、相模曽我荘の曽我太郎祐信へ再嫁する。兄弟は義父曽我太郎のもとで成長。母は、身辺の平穏を望み、兄弟に仇討ちの志を捨てさせようとするが、父に対する思慕の想いと敵工藤祐経への憎しみは増すばかりだった。一万丸が十五歳になり元服し、曽我十郎祐成と改める。其時母は、乱暴者の箱王丸が心配になり箱根権現の稚児衆に出した。建久元年箱王は十七歳になり、出家前に箱根権現を抜け出し、北条時政を烏帽子親として元服し、曽我五郎時致と改名する。其後兄弟は、幾度も工藤を討とうとするが、首尾を果たせなかった。
建久四年(一一九三)正月五日、工藤祐経の家に怪鳥が飛び入った。其名は分らず、形は雉の雄のようで、頭は梟、羽は黒く尾は五色に光っていた。占いを行い、祈祷を行った。
大磯での和田義盛一門の酒宴の席で、十郎は危難にあう。五郎は、曽我荘に居たが胸騒ぎがして、元服の日に北条時政から贈られた腹巻鎧に身を固め、裸馬で大磯へやって来た。五郎がやって来た事に気づいた義盛の三男朝比奈三郎は、いきなり五郎の草摺り?んで、力競べを始めた。力まかせに曵っぱった草摺は、鎧の胴から千切れ、三郎は後ろに倒れたが、五郎は仁王立ちになったまま少しも動かなかった。思慮深い朝比奈の気転で、十郎は救われ、無事曽我へ帰った。
建久四年五月源頼朝公は、富士の裾野で大巻狩を催した。全国から集まった武将達は、勲功を競い合った。伊豆の仁田四郎忠常は、飛び出して来た大猪の背に、後向きに飛び乗り、尾を弓手につかみ、馬手で小刀を抜き逆手に持って突き立てた。肋骨を二〜三本かき切って仕留め、巧妙を揚げた工藤庄司景光は、優れた射手であったが、大白鹿に一の矢を放ったが当らず、二の矢・三の矢も同様で鹿は元の山に入って行った。景光は「これは山神の御乗りになる鹿に違いない、景光の命運は縮まった。」と言った。その晩景光は発病し、皆不思議がった。
狩りも最終日という廿八日、兄弟は工藤の仮屋への夜討ちを決意する。十郎は群千鳥の直垂に微塵丸という名の太刀を腰に帯び。五郎は蝶の直垂に友切丸という名の太刀を腰に帯び、いざ出発という時雨が降り始め、蓑笠を着て、松明を持って宿を出た。一・二・三の木戸を無事に過ぎ、時は子の刻を過ぎていた。目指す<庵に二つ木瓜>の紋所の幔幕を張った工藤の仮屋はすぐに見つかった。蓑笠を脱ぎ捨て忍び込む。工藤の仮屋の隣の陣屋で寝所を見つけ、兄弟は声高らかに名乗りをあげた。その声を聞いて、祐経は枕元の太刀に手をかけ立ち上った。十郎が一の太刀、五郎が二の太刀をあびせ、積年の思いを果たした。
暫くして、工藤の仮屋が騒めき出し、武者一人躍りて、「武蔵の住人平子野平右馬允有長」と名乗って斬り込んでくる。十郎一太刀浴びせると退く。次いで愛甲三郎季隆を五郎替って斬る。三番に駿河の岡部弥三郎忠光、四番に原三郎清益、五番吉香小次郎友兼、六番加藤光員、七番堀藤太、八番海野小太郎幸氏、九番宇田五郎信重、十番に臼杵八郎惟信、何れも皆負けて退いた。これを世に曽我兄弟の十番斬りという。
暫くして、仁田四郎忠常が十郎に討ち向った。忠常は十郎に小肘と子鬢を斬られたが怯まず刃を交えた。十郎は多く敵を討ったから太刀さばきも弱くなり、忠常の一刀に微塵丸が折れた。膝と肘を斬られ倒れた。忠常は<生け捕りにせよ>との君命であったが、自害させてやり介錯して、十郎の群千鳥の行年廿二歳、時は建久四年五月廿八日の夜半であった。
暫くあと、五郎は十郎の死骸を見つけ、その場に泣き崩れた。その時武者一人迫って来たが五郎の形相に怖じ気づき、頼朝公の本陣へ逃げた。五郎は追いかけ侍所へ飛び込んだ。幕の脇に女の薄衣を被った御所五郎丸が踞っていた。女と思って通り過ぎようとした五郎を、五郎丸は背後から組み止めた。大力の五郎は両足を踏みしめたとき、板敷を踏み破り、足が落ち込み搦め捕られた。翌日辰の刻に五郎は、頼朝公の前に召し出され、将軍自ら夜討ちの趣意を尋ねられ、五郎は父の仇討ちを明白に答えた。
ややあって、頼朝公は、十郎の首を持参させた。其れを見るなり五郎は、悶え悲しんだ。此時、祐経の嫡子犬房丸が飛び出し鉄扇で五郎の頭を打ち始めた。五郎は笑いながら、「わずか九歳で父の仇を果たすとは殊勝なことじゃ。」と言った。頼朝公は改めて、五郎に向かい、五郎の望みどおり死罪とし、松が崎の岩間で誅ぜられた。曽我五郎時致行年廿歳であった。頼朝公は、兄弟の健気な働きを賞して、母の為に曽我の別所二百余町を遣わされた。
間もなく、母と虎御前は、箱根権現の行実律詩に頼んで、尼僧になった。二人の尼僧は仲よく一緒に暮らして、兄弟の菩提を弔い、安らかに此の世を終わったとの事である。
平成廿一年 拾月 大町北野町 真鍋哲夫書ス
平成廿二年 拾壱月 曽我部翔大書写