
急な呼び出しを食らったから何かと思ったら、まあ予想通りだったな、とでも言っておけばいいだろうか。それともそんな言葉じゃ不満かね。そう言う問題じゃないかな。まあ、前置きなどどうでもよかろう。君が気になっているのは、御託よりも実質的な回答だろうから。
結論からいえば、君が私と付き合いたいと言うのであれば、君の好きにすればいいと私は思う。デートだろうが、共同生活だろうが、何だって私は君に付いて行こう。君は私の意思がどうということに関わらず、私を好きに連れ回せばいい。私は君に連れ回されるのであればどこにでもついて行く。遊園地でも動物園でもカフェでもカラオケでも映画でも、極端な話、あの世にさえ、君が望むのならついて行って、君の道楽、君の話に身をゆだね、君と共にあることを誓おう。君が私に性的な興味を示すのであればそれを受け入れるし、母のような慈愛を求めるならば、適度に叱咤激励して君を支える存在となろう。私は一人暮らしだ。大概の事は何でも一人でできるから、炊事洗濯家事、まるでメイドのようにこき使ってくれても構わない。要するに、もし君がこれからする私の話を聞いて、それでも付き合いたいと言うのであれば、私はそれについて自分の持ちうる限りの最大限の奉仕をさせていただくつもりだということだ。
だがそれに際して言っておかねばならないことが一つだけある。これを言うと君は大層驚くかも知れない。なぜそんな態度なのに自分と付き合うことを承諾するのか、と私を疑い下手をすれば疑心暗鬼にとらわれるかもしれない。君がこれを聞いてそのように悩むのであれば私と付き合うことは止めておいた方がいい。私は君を無理やり引き留める気はない。では逆に、そうでない場合に何故付き合おうなどと言いだすのか、という疑問については、まあ、追々話すので、まずはその言っておかねばならない事をちゃんと聞いて欲しい。聴き逃すまでもないかもしれないが一応注意して聞いて欲しい。
それは君がどんなに私のことを好きになったとしても、私が君のことを好きになれるという保証はどこにもないということだ。
驚いたようだな。今君は、私のことを一方的だと思ったのだろう。なぜなら、自分と付き合うのであれば、私も君のことを好きであるという気持ちが少なからずどこかにあるという期待をしていたからだ。「君の好きにすればいい」と私が最初に言ったから、私も君のことが好きなのだと、君がその言葉を解釈したからだ。でも実際には違う。私は君のことが好きだから付き合うことを了承したのではない。君がそうしたいと言うから、そうすればいいと言ったまでだ。愛する感情と言うのは、愛される対象がどう思っていても留めようのないものであろう、まさに今の君がそうであるように。君は先ほど、おそらく私のことを一方的だと決めつけただろうが、もしそれならば私にも君のことを一方的だと思う権利がある。何せ私は君の今日の告白を避けることが出来ない。私の方が君よりも一方的な感情を押し付けられる可能性は大きかったわけだ。だが安心すると良い。恋愛などと言うものは、少なからず一方的、または独りよがりにならなければできるものではない。愛す方であれ、愛される方であれ、一方的に他者に感情を押し付けているという点では、全く変わりがないわけだ。
さて、ここまで私は君の告白に対する意見をつらつらと述べたわけであるが、それについての君の意見を問いたい。私は君を追うわけでもなければ拒むわけでもない。ここで終わりにしたいというのであれば、今まで通りの関係のままである。まだ付き合いたいと思う気持ちが残っているのであれば、まあ付き合えばいい。いずれにしても私の気持ちがどうこう、ではなく、君の選択である。別に意見ではなく、質問でも構わない。が、私がどう思っているのか知りたい、という質問は、ここではあえて受け付けない。それ以外であれば何でも聞くと良い。
なるほど、なぜ愛することが出来ないと言っておきながら、告白を直接拒むようなことはしないのか、か。なかなか良いところに目を付ける。いや、もしかしたらこの場合はそれが一番常識的な疑問なのかもしれないな。確かに客観的に見れば一番気になるところだろう。客観的に、でなくても、好きな人に対してはそのようなことを知りたいと思う気持ちが生まれるものなのだろうか。私は人を好きになったことがないので生憎その気持ちは分からないが。
まあいい、とにかくだ、その質問には答えるとしよう。ただ、それを君が理解できるように話すためには、膨大な時間と膨大な言葉が必要だ。今から語ってどのくらいかかるかわからない。何せこの話は、私の交友関係における最も密な部分を明らかにし、私がこのような発想に至るまでの約二年分の話を全て語る必要があるからだ。それは君にとってはほとんど何の益もない、実に退屈で極めて個人的な話であろうことが予想される。忙しいなら早々に席を立ってくれて構わない。つまらないならつまらないと言い、聞きたくないと思ったところで話に待ったをかけていい。私としては、語る相手は別に君でなくても構わないのだ。ただ、君に聞かれたから応えるまでであり――わかった、早く話を始めろというのであれば、ありがたく、そうさせていただくことにしよう。
***
話は今から二年前、私が大学に入学した時から始まる。君も知っての通り、この大学は、美術・音楽・体育の三分野に秀でた者たちが集まる総合芸術大学であり、私はそのうちの美術分野、特に彫刻を専攻する科に属している。芸術系の大学は教材費等のために一般の大学に輪をかけて金がかかることで有名であるが、私はそんな大学に行きながら一人暮らしという極めて贅沢な境遇を与えられていた。それというのも父が資産家で母が売れっ子のデザイナーであるためだ。母は私に幼い頃から徹底した美術教育を行なった。具体的には二歳の頃に紙とクレヨンを毎日のように持たせて絵を描かせ、五歳の頃から絵画教室に通わせた。一緒にショッピングをしている時など絶好の学びの場であった。服のデザインに関して、お菓子の包装袋に関して、玩具の色の配列について、あれはいい、これは駄目、もう少し何色を足した方がいい、ここはもっと華やかであるべきだ、などと常に私に教えながら歩き回るのだった。私はそれを聞きながら色と形と質感を学び、通っていた美術教室で学んだ感覚を表現するのだった。
そんなことだから、私は磨かれた能力を元にしてどんな形であれ大成する必要を感じていた。それは母の教育のせいもあるが、母の美術教育を受けるうちにどんどん美術に傾倒し、特化した人間になっていくのに私自身が成長しながら気付いたためでもある。私は美術があることで自分を見ることが出来たし、美術があることで先の自分を見ることが出来た。美術がない私など何の価値もない。自分の価値を美術にしか見いだせない私は、進路もそこに求めるしかなかった。そして入ったのがこの大学、というわけだ。
ここに来て私が最初にしたのは、美術系のサークルを見つけることだった。私は様々巡って最もスタンダードに美術部に入ることに決めた。おや、君、学科でも美術、サークルでも美術で疲れないのか、とでも言いたそうな顔をしているな。先にも言ったとおり私の人生は美術に裏打ちされたようなものだから、別段サークルと学科で同じことをやろうとも一向に苦痛ではない。それに入部を決めた当初はまだ学科の勉強が始まってなかったから、美術大学の勉強がどのようなものかわからなかった、という本音もある。彫刻科というからには彫刻の勉強しかしないであろうと考えていたわけだ。実際にはデッサンや彫刻を掘るための材質の勉強などもしなくてはならないのだが、それらが分からなかった私はただ絵画が描きたかったために美術部を選んだ。
さて、以上はこれから始まる話の前情報に過ぎない。ここからが本題だ。
学科の授業開始よりも早くに、美術部の新入生歓迎コンパが催された。場所は大学最寄駅付近の居酒屋チェーン。その日私は、宴席で多量の酒を飲みながら先輩たちが盛り上がるのをぼーっと見つめ、向かい側に座っていたキヨミという同級生とそれなり会話をし儀式的に連絡先を交換して、美術部員の人たちと解散した。キヨミに一緒に帰ろうと誘ったのだが、彼女は別キャンパスにある音楽科の学生であり、家もそちらの近くにあるといった。一方宴席が設けられた居酒屋は体育・美術の学生が集まる本キャンパスの近くだったため、私はひとまず最寄り駅までキヨミを送り、それから一人家路についた。
道中、私は大学生活開始早々に飲まされた大量の酒に若干足元がふらつき視界がぼやけているのを自覚できる程に酔っていた。それに気付いたのはキヨミと別れて暫くしてからだ。どうやら思った以上に飲まされてしまったらしかった。未成年にこれだけ酒を飲ませるとはさすが大学のサークルである。最近は飲酒運転などの話題が頻繁にニュースで取り上げられるからアルハラもいい加減になってきたのではと思ったが、やはりまだあるところにはあるらしい。加減がわからない新入生だからこそ、どのくらいで潰れるのか見てみたかったのかもしれないが、それにしても酷い酔いだった。これだけ酔うとは、一体あの店で何杯飲んだのだろう。記憶があるのはせいぜい最初の二、三杯のカクテルだけだ。それから先は何を飲んだのか、何を勧められたのかも覚えていない。
視線の先に信号のない横断歩道が見えた。行きかう車のヘッドライトはどこか花火のようにぼんやりと闇に浮かびあがっている。私は靄のかかった視界を何とかしようと無理やり頭を左右に振ったが、目眩が余計に酷くなる一方だった。心なしか、音も遠く聞こえるような気がする。脳がどういう仕組みで体を制御しているのかは知らないが、変に右前頭葉がずきずきと痛み、顔が熱い。早く家に帰らないとどこかで突っ伏してしまいかねない。私は意味もなく焦った。こんな状態でありながらまだそんな理性が残っていたことに感謝しつつ、早く家に帰りたい、帰ってベッドに突っ伏したい、という欲求のままに前進した。横断歩道は静かだった。私は一歩踏み出した。
その時、左側から黒いバイクが高速で接近していた。
痛みがあったと思った時にはもう遅かった。私は交差点脇のアスファルトに体を横たえていて、顔の皮膚が紙のように破け、そこから熱が漏れるのを感じた。これはどういうことだ、と自問するまでもなかった。事故だ、バイクに轢かれた。なまじ体の小さかった私はぶつかった衝撃で激しく体を地面に打ち付け、自分で動こうにも動けない状態であった。まるで地面と同化しているような気分。自然に帰らんとする意識。そのまま解けて水のようにアスファルトにしみ込み、体がなくなっていくような気さえした。だから痛みと同時に込み上げてきたのはもうじき死ぬのかという不安ではなく、ようやく眠れるという安心感だった。今この瞬間、あと数分だけ、いやあと数秒だけこのままでいさせてくれるなら、私はもう死んでもいい。過労の後にどっと出て来る虚脱感に近いものが、その瞬間、私を蝕み私に命を諦めさせようとしていた。こちらに慌てて近づいてくる足音と「どうしよう、どうしよう」と呟く声を聞きながら、私は春の夜空の下で穏やかに瞼を閉じた。
***
次に気付いた時、まず自宅のベッドに似たふかふかの感触と太陽の光をよく吸収した白く眩しい香りを感じた。目を開けてみると、果たして予期していた通り、柔らかいマットレスの上に私は寝そべっていた。驚いた、どうやら死後の世界と言うのは実在するらしい、しかもそれはベッドの上らしい、と思ったのもつかの間だった。まだ醒めぬ酔いが電流のように走って前頭葉を刺激した。そこまで来て私は自分が死んだのではないという事が分かった。辺りを見回せば、そこはどう見ても六畳一間のアパートの一室。事故の瞬間に出血していた頬骨のあたりや足の部分には、ガーゼや湿布が貼り付けられ紙テープでとめられており、右手足には包帯が、強い力で固定具のように巻かれていた。
「あ……」
ベッドの下から突然声がして私は驚いて体を強張らせた。現れたのは見たことのない、妙に背が高く屈強な男だった。着衣の上からでもわかる肩の筋肉の盛り上がりが異様で、常に人を見上げる立場にある私からすれば、その体躯はそれこそ山のように感じられる。その癖、髪はぼさぼさで、表情は弱々しいのに変に引き攣って、妙にかわいらしいところがあった。顔だけ切り取って女体の写真に張り付ければ、ちょっとボーイッシュな女の子、で通りそうなくらいの整い方である。この人物、肉体と顔が酷くアンバランスだった。ふと、私の中にある美的センスが首をもたげ、男の癖に妙な顔つきだ、と心の中で言いだした。
彼は私の方を一瞥して、緊張した面持ちで顔を背けた。が、もう一度私の方をちら、と見て何か言いたげにしている。何だこいつは、と私が思っていると一言、
「お、起きた」
と呟いて口をもごもごと動かしていた。訳が分からない。
「おい、あんた」
私は彼の様子が癇に障ったので自分から声を掛けることにした。彼はひっと息をのんであからさまに怯えた様子で私を振り返った。体が大きいのに変に緊張して縮こまっているせいで、全体として放つオーラに全く貫禄がない。
「ここ、あんたんちかい」
「あ、あ、あ、あ」
「はっきり答えろ」
「あ、はい、そ、そ、そうです。ごめんなさい。ごめんなさい、謝りますから通報とかしないでくださいごめんなさい」
通報、と聞いて、私は何か繋がりそうなものが得られそうな気がしたが、あまりにも彼が肩をすくませてガタガタ震えるものだからそちらに気を取られて一瞬何のことを言われているのかわからなかった。しかし、よくよく状況を整理してみると確かに通報出来そうな要素はいくらでもある。彼が言っているのはおそらく私を部屋に無断で連れ込んでしまったことだろう。気が小さそうだから差し詰め誘拐と訴えられたら勝てない、と思い込んでいるのではないだろうか。そうして考えていくうちに、ここに連れて来られるのに最も正当な理由があるのに気付いた。私は彼に「おい」と声をかける。彼はまたびくっとして息を呑む。
「駅前の交差点の近くで事故があったのを知らないか」
「あ……」
「確かあの場にいたのは私と、バイクで突っ込んできた奴だけだったはずなんだがなあ」
その他に人気はなかった。横断歩道は、静かだったのだ。この男が事故のあとにわざわざやってきて、怪我の手当てをするためだけにこんなところに私を連れてくるとも考えにくい。端的にいえば、私はこいつが犯人なのではないかと疑っていた。軽く突き放すように言ってやると彼はひどく狼狽した様子で天井の方を見たり床の方を見たりと視線をせわしなく動かした。どうやら私の予想は図星らしかった。思いっきり笑ってやろうかと思ったが知らない間に手当てしてもらった手前、さすがにそれは失礼か、と思い、代わりにはあ、とため息をついた。
「こう言っちゃなんだが、どうして気付かなかったんだ。結構見通しだってよかっただろうに」
「あ、えと」
「まあ、酒飲んで足元ふらついてたこっちも悪かったとは思うがね、しかも未成年で」
両手を大仰に広げようとして右手に痛みが走った。声にならない声をあげて、思わず手を引っ込める。
「あ、だいじょう……ぶ?」
私は息を詰めたまま首を縦に一度振った。なぜこいつはこんな時に限って話し掛けることが出来、肝心なときに口を割らないのだ、恨めしい。私は痛みのない方の手でベッドの上のシーツを握りしめ、歯を食いしばり「いいから答えろ」と彼に催促した。彼はまだ心配そうな面持ちでこちらを見たまま、少し詰まってようやくまともに喋った。
「その、実は、僕も、君と一緒、なんだよね」
「はあ?」
「あ、その、飲酒、の話。未成年」
驚いた、この男も未成年だったのか。体格差がありすぎて全然分からなかった。しかしそこで先ほどのやりとりを顧みて、その証言の異様さに気付く。
「おい待て。今は事故の話をしてるんだ。飲酒の話は関係ない。あんたが私にバイクで突っ込んできたんじゃないのか」
そう問い詰めると彼は一際大きく背をのけぞらせてひいっ、と怯えてみせた。そして二口目には、ごめんなさい、ごめんなさい、と謝る。もう謝るのは良いからさっさと話してくれ、と私が内心溜まりつつあった気だるさを何とか押し殺して丁寧に言うと、彼はほとんど泣きそうな瞳で私を見上げて、心底申し訳なさそうに呟いた。
「その、飲酒運転、だったんだ。サークルで、すごい飲まされちゃって。でも僕、一年生だから。泊めてもらうような人もいないし……住んでるところまでは、歩きだと、ちょっと距離があるし、夜だから、人も少ないと思って、それで」
それで結果同じく未成年で酩酊するまで飲酒してふらついていた私に、バイクで突っ込んで事故を起こした、ということらしい。彼は事故を起こした際はとにかく気が動転していて、そのまま逃げ去ってしまおうか、とも考えたらしいが、擦り剥けた顔から血が出ているのを見て、自分が見捨てればこの人はこのまま死んでしまうのではないか、と思った。そのとき彼の中には私を何とかして助けなければならない、という思いと、自分はとんでもないことをしてしまったが何とか上手く隠せないだろうか、という二つの思いが交錯していた。私を助けるには救急車や警察を呼べば良いだけの話だが、それでは事故を起こした彼の方が未成年酒気帯び運転並びに業務上過失傷害(もしくは致死)という仰々しく膨大な罪を背負わなくてはならない。また、私を見捨てれば私が死ぬ可能性は大いにあり得るし、もし助かって事故の記憶を詳細に話されなどしたら、自分が事故を起こしたことが分かってしまう恐れもある。
そこで彼は手荒いが、最も大胆かつ確実にその両方を取れる方法を選択することにした。すなわち、事故の怪我で全身から力の抜けた私を、自宅で引き取って様子を見ることにしたのである。幸か不幸か、私は体が小さかったため、事故の衝撃でバイクのライトやミラーが破損することはなかった。それどころか、私をバックに乗せて二人乗りをすることが出来た。血は流れていたが、周りに車体が壊れた跡もなし、目撃者もいないことから交通事故と断定するには証拠不十分になる、と彼は思ったらしい。
なかなか口を割ろうとしなかったのは最初に被害者に対してこのような話をするとまず通報されるだろうと考えたためであった。しかし、私も未成年で飲酒をしているとわかり、もし通報するとしたら私も同罪であると考えたからこそ、ようやく事のあらましを話す決心が出来たのだと言う。それを聞いて私は「赤信号、皆で渡れば怖くない」という言葉を思い出した。おそらく今の状況で彼の心理を言いあてるとしたらこれが最もしっくりくるのではないだろうか。そしてそれ自体が、何ともおどけたこの男らしい。一人では、罪をまともに背負って生きていけないのだ。しかも、これでおそらく自分では完璧に事故を隠し通したつもりになっている。だが詰めが甘い。昨日の宴会からはそれなりに時間も経っている。私の未成年飲酒はこちらが否定をすれば証拠もなく隠蔽出来てしまえるのに対し、男の未成年飲酒運転過失傷害はこちらに傷という決定的な証拠があり、私が訴え出ればいくらでも男は捕まりうる。この点を見逃して私に真実を口にしてしまったことに、この男の浅はかさが見え隠れする。
ところがその時の私はその点を男に指摘するつもりはまるで起きなかったし、これに付け込んで男を警察に突き出す気も全くなかった。仮にも命を助けてもらった恩がある上、彼の言うとおり一応私も未成年飲酒を犯していたためである。警察に名乗り出て男を出し抜くことなどおそらく造作もなかっただろうが、私もそこまで鬼ではない。そして何より一番の理由は、恩や罪の意識の外にあった。
「おい」
真実を聞いて呆然とする私は、ひとまず思考を整理してまた男に質問した。
「警察に連絡してないなら、病院にも行ってないんだな」
「え、ああ、うん」
男は頷き返して座り直したベッドの下から私を見上げた。やはり、と思いながら、私は首を曲げて自分の全身を見渡す。
「じゃあ、この手当はあんたがしたのか、随分と本格的だな」
男は「そうかな」とやや照れくさそうに顔を背け、なぜか私から視線を逸らした。それから「まあ、体育会系の学生ならこのくらいの応急処置は、自分で出来ないと困るし」と付け加えた。この時点で私はこの男がもしかしたらうちの大学の体育科ではないかという可能性に気付き、かつそのことを確かめようとベッドから起き上がろうとした。だがその瞬間、右腕と右足に激痛が走り、電流にでも触れたかのように不意に動きが止まる。
「い……」
「ああ、まだ起きちゃ駄目だ」
男が珍しくはっきりした声で私に言って、包帯の巻いてある右半身を一通り眺める。私はキッと、男を見上げる。男はまた視線を逸らす。
「ま、まだ、駄目だ。この分だと、右腕と右足の骨にヒビが入っているかもしれない。へ、下手をしたら、骨折、してるかも」
それを聞いて私は気分が一気に暗転した。目を見開いて、え、と呟くと、彼はもう一度言う。
「これじゃあ、暫く、動けないと、思う。多分右手足、骨折、してるから。痣もいろんなところに残ってる。肋骨は、折れてない。肺は無事だから安心して」
聞き間違いではなかった。彼ははっきりと、右手足が骨折しているかもしれない、暫く動けないだろう、と言った。彼は医者ではない。実際に折れているかどうかは分からないし、永久に動かなくなるわけではない。だがその言葉は、今まで美術に傾倒し続け、絵を描き続け、これから大学で彫刻を制作していこうという強い意志を持った私にはまるで死亡宣告のように聞こえた。手足が、暫く、動かない。動かないと言うことはつまり、これから大学に行くことすら困難になるかもしれない。授業開始より前にこのような事態に見舞われる新入生など、果たして全国に何百何千何万といる大学生のうちの、一体何人いるというのだろう。しかも、加害者は同じ大学の同じ学年の人間であり、自分と同じく未成年飲酒を犯した。つい昨日までは顔も知らなかったはずの人物が、こうして今私の運命に一つの影響を及ぼし、事の次第によっては私の今後にさえ影響を与えようとしている。そのあまりに残酷な、それでいながらあまりに予想外の出来事に、私が先ほどまでこの男に抱いていた印象は大きく覆った。事故隠蔽の欠陥に気付かない愚かな人物という彼の臆病な背中は、このときまた酷く大きく見えた。
私はなすすべなく男の言葉を受け入れるしかなかった。立て続けに質問を浴びせ罵倒してやりたい気持ちになったが、それよりもひたすらに絶望感が勝った。男は絶句する私に対し、まだおどおどと落ち着かない様子で頭を掻いていた。「ごめん」と謝ったがその言葉は虚しく部屋に響くばかりで、まるで意味を為していないように思えた。私は一気に襲ってきた虚脱感に苛まれてそれに対して「ああ」と気のない返事をした。男は黙った。私も黙るしかなかった。何者かを葬るような長い沈黙が私たちを取り囲み、先ほどまで共有していた慣れ合いの空気が嘘のように、重く苦しく堆積して行った。
「あ、あの」
やがて沈黙に耐えられなくなった男が、ぼそりとその重さを払いのけようと控えめに言葉をかけた。私は尚もショックから立ち直れずにぼんやりと男を見た。彼はいつの間にか床から立ち上がっていて、私をかなり高い位置から見下ろしていた。
「あの、えと、僕、その、こんな事故、起こしちゃって、すごく、怖くて、その」
言いたいことが全くまとまっていない。何度も指示語を多用しながら彼はどうにかして私に何かを伝えようとしていた。私は今更何を言われても許してなどやるものか、と完全に心を閉ざして彼の言葉を流し聞きしていた。彼はさらに続けて「それで」と言い、一度深呼吸してからひねり出すようにして、極めて苦しそうに、口を開いた。
「こんなことにしたからには、責任は、取ります。少なくとも、君の怪我が治るまでは、いや、もっとずっと先でも。君の気が済むまで、その」
一端、そこで言葉を切った。
「これでも、体力だけは、自信、あるから、何かあったら、頼って……?」
涙を溜めた瞳を泳がせつつ何度もつっかえ、顔を真っ赤にしながら笑顔を作り言う男。筋肉質の巨体に似合わないどこか乙女のようなその仕草に、私は異様な気味悪さを感じつつも苦笑を漏らさずにはいられなかった。男はどうやら無意識だったらしく私の苦笑を見ると、またさらに緊張して、口を何度ももごもごと動かした。照れているのか、人と話すのに慣れていないのか、あまりにてんやわんやする男を見、私はこの男がもっと慌てている姿を見てみたくなった。
「あんた」
と声をかけて私は気付いた。そういえばこれだけ情報をやり取りしているにも関わらず、まだ名前を聞いていなかった。だが今更お互いに自己紹介をするのも変によそよそしくなってしまって気が引ける。何とかこの空気を壊さずに彼を呼ぶ方法はないか。私は少し考えてまず自分の名を名乗り、おそらく同じ大学の美術科に通っていること、おそらく同い年であること、一人暮らしでまだ友人も碌々いないことを、ほぼ一方的に早口で彼に告げた。一言一言言う度に彼の顔色がどんどん悪くなっていくのを面白かったが本意はそこではない。私は最後にとどめとばかりに、小さい頃から美術に傾倒しており、両親にも期待されていたのに今になって右手足が暫く使えないのは非常に困るということを述べてやった。そしていかにも手助けが必要であるように話をでっちあげ、「あ」と彼が何か言いたげにしているのをあえて遮って、一言付け加えた。
「アドレナリン」
「え」
「私はあんたのことを、アドレナリン、って呼ぶ」
男は何事かと、とても不服そうに目を丸めてこちらを見ていた。
「あんたの名前は、聞かない。そうすれば私は、あんたのことを通報出来ない」
正直理由は何でもよかった。だが私は彼にはこの名前が丁度いい、と思った。アドレナリン。人と話すときに常に緊張している男が、常に出しているであろうホルモン。なぜそんな言葉をあだ名にしたかったのかは自分でも良く分からないが、とりあえずぱっと思いついた単語で彼に合いそうなものがそれだったのだから、という理由で深くは考えないことにした。彼は今日から、アドレナリン。人間の名前どころか、生き物の名前ですらない。それが今、このときからの、彼の名前だ。
アドレナリンは私の唐突な発案に対してその場で文句を言うことは控えた。代わりに先ほど立て続けに述べた私の現状がなかなか応えたらしく、またしきりに謝罪の言葉を列挙した。私はもういいから、と言ってそれを制そうとしたが、アドレナリンは、いや、事故の責任は取らせてもらう、といって聞かない。言いあいをしているうちにアドレナリンは、そうだ、と何か思いついたように声をあげた。
「さっき君、一人暮らし……って」
私を指さすアドレナリン。私はそれがどうした、と言い返す。
「ここから、一人じゃ、帰れない。その体で、一人で、暮らすのも、無理」
「あ」
考えてみれば当然のことだった。歩くどころか動くことすらままならない体で、一人で暮らせるはずがない。誰かを呼ぶにしても、まずこの体を見られたら何を言われるか分からない。一番先に訊かれるのは、なぜそんな怪我をしたのか。そして素直に説明をしたとして次に聞かれるのは、なぜ病院に行かないのか。親に連絡するにしても、事もあろうに怪我をした部位が右手足であることから、美術に取り組めなくなったことを説明しなくてはならない。そんなことをすれば、私は親から、特に母から、どんなに屈辱的な視線を浴びせられることになるか分からない。それだけは、私のプライドに誓って、何としてでも避ける必要があった。
母の期待を、こんな事故程度で裏切る訳にはいかない。
分かった、と次に出たのは最も口にしたくない言葉だった。私はアドレナリンに、止むを得ず生活介助を願い出した。ここまで計算に入れていたなら何とも意地汚く計算高い奴だ、と思ったが、彼は純粋にこれで事故の責任を取れる、と喜んだ。だからどうやら事故そのものは偶然であり、私と生活を共にすることになったのも、たまたまであるらしい、とわかった。世の中には事故の責任を逃れたい者の方が多いであろうに、アドレナリンはなぜかそれに自ら突っ込んできたのだった。
こうして私は奇妙な縁から普通に過ごしていればほとんど接点がなかったであろう体育科の男子と行動を共にすることとなり、以後事あるごとに、自分の話をする際に彼を話題にせざるをえなくなる。さて、ところで私にとって彼とは何者なのか。君も気になるところであろうが、それは正直、私自身が今となってもよく分からない。ただ、きっかけとしては事故の被害者と加害者であったということが分かれば、今のところは正解だ。そしてこれからする話を聞いて、それがなお揺らがないのであれば、それはそういうことなのだろう。だがおそらく君はそうではないと思うようになる。そして話を聞き終えたら、出来れば君が私に、彼が何者なのか教えてくれないだろうか。
***
アドレナリンとの生活が始まってから丸二日が過ぎた。その間彼に関して分かったことと言えば、彼はとても几帳面で真面目だということくらいだった。アドレナリンの部屋はいつも清潔に保たれていた。カーペットの上は毎日手入れされて髪の毛一つ落ちていないし、そもそも床の上にほとんど物が置かれてない。体育会系の男子と言うと、運動後の汗を吸った服をそこらに脱ぎ散らかしておくイメージがあったが、彼はその日使用した衣服はその日のうちにきちんと洗っていたし、部屋の消臭にもかなりの気を配っていたようだった。おかげで私は彼の部屋にいて不快な気分になったことは一度もなかった。止むを得ず体育会系男子と共に生活するにあたって多少の苦を覚悟していた私としては若干不意を突かれた、とさえ言ってもいい。確かに、最初に会った時からアドレナリンは今まで抱いていた男子学生のイメージとは明らかに違ったが、ここまで綺麗好きだとは思ってもみなかった。
「あんた、毎日洗濯するんだな」
洗濯機の前で柔軟剤と洗剤の量を水量に合わせてきっちり計るアドレナリンの背中に呟くと、そりゃあ、そうでしょう、とさも当たり前のように返事をされた。
「毎日、洗濯しないと、体操着が、汗で、気持ち悪い」
普通そういう場合は何着か同じものを買って着回すのではないか、と思ったが、どうやら長年体育に入れ込んでいた彼には毎日一着の体操着を着て数ヵ月後にはぼろぼろにする、という彼なりのポリシーがあるらしい。効率よりもポリシーを優先させるとは、私の理解の及ばない世界だ。
「ところで」
話の腰を折るようですまないが、といった面持ちですっかり主婦か家政婦の姿が板に付いたアドレナリンが、僅かに洗濯機から目を離してこちらを見た。
「君の、その、汚れ物は、どうする、の?」
洗濯機の稼働音にかき消されそうな声だった。危うく聞き逃してしまいそうになったが、さすがに私も何のことを言っているのか分からないほど鈍くはない。こちらをちらちら伺うアドレナリンの様子を見て、その言葉を察した。
服。そうだ、一緒に生活する以上は、しかも私が体を動かせない以上は、この素性もいまいちよく分からない男に私の衣類を任せなくてはならない。着衣だけではなく、もちろん下着も。考えるだけでやや滅入ったが、今の私に拒否権はない。自分で何もできない以上は、彼に全て任せるしかない。
が、その前に一つ確認しておかねばならないことに思い当った。
「あんた」
質問に質問で返すのはやや無礼だが仕方あるまい。
「彼女はいるか」
アドレナリンは意図が分からないと言ったように首を傾げて訝しんだ。それもそうであろう、私もこんなことをいちいち確認しなくてはならない状況に追いやられたのは大変不名誉なことである。だが聞いておかねばならない事ははっきり聞いておかないと今後面倒な事になる可能性がある。尋ねるべき時に尋ねるべきことは、きちんと回答を求めたい。
「いや、あんたに恋人がいるなら、部屋に私の服が干してあるのを見つけられたら面倒だ、と思っただけだ。いないなら、別にいい」
アドレナリンは、ああ、と頷いて洗濯機に視線を戻した。
「いないよ。そもそもいたら、君をここに、連れて来られないよ」
それもそうだな、と私も納得して洗濯機の方を見た。流行りの最新型ドラム式洗濯機はやや乱暴な音を立てながらすすぎに入ったところだった。中では彼の今日の洗い物が激しい水流の中で渦を描きながら絡まりあっている。
「それで、結局、君のは、どうするの?」
思い出したようにもう一度彼はこちらを見た。今の質問で応えが分からないあたり、何とも融通が効かない。頭がいいのか悪いのか、良く分からない男だ。私は左手だけでベッド下に置いてあった自分のバッグを漁った。事故のせいで目的のものが路上に落ちてしまっていたら大変だと思ったが、それはしっかりいつものポケットの中に入っていた。
「ほれ」
私はそれを取り出すと洗濯機前にいるアドレナリンに向かって投げた。彼は呆然とドラムの振動を見つめていたが私の投げたものは落とさずきちんとキャッチした。さすが体育科。やはり反射神経は人一倍であったか。投げたものを掴んだアドレナリンの手がゆっくりと開く。その中にあったのは、キツネのキーホルダーにまとめられた鍵束。
「一番大きいのがアパートの奴。ワンルームだから、入ってすぐのところに洋服箪笥がある。上段に上着、中段にスカートとかズボン、下段に下着とタオル類が入ってるから適当に見繕って持ってきてくれ」
何なら全部でもいいが、大変だろうから少しずつでいい。ここにいる以上、極力贅沢は言わないと決めた。あんたが鍵を受け取ってから再びここへ戻ってくるまで、どれだけ時間がかかろうとも構わない。世話をしてもらっているのだから、少しは私も我慢をしなくてはならないだろう。
「え、いいの」
ところがアドレナリンは手に持った鍵と私とを交互に見比べて立ち尽くしているばかりだ。それどころかまた何か言いたげに口をもごもご動かしている。一体何をしているのか、と思ったがここで威圧的に構えてしまったら、彼はまた縮みあがるだけだろう。アドレナリンが発した「いいの」の目的語が何なのか分からなかったが「いいよ」と適当に返してその場をやり過ごした。それから自宅の位置を口頭で伝え、私は再び寝そべってベッドの枕に顔を埋めた。相変わらずアドレナリンはやや動揺したように私を見ていたが、疲れたので暫く横になる、と告げると数秒の後にようやく玄関から出て行った。
一時間もしないうちに彼は部屋に戻って来た。手提げの中には洗濯機の中で回っているのと同じくらい膨大な衣服が入れられていた。アドレナリンは足を忍ばせるようにこちらへやってきてその袋をベッドの脇に置き、すぐさまそこを離れた。
「すまない、助かる」
心なさそうなお礼を述べたためかアドレナリンは一つ頷いただけだった。寝返りを打って体勢を変え、左手で手提げ袋の中を漁る。実家から持ってきた着衣全て――上着が五つ、スカートとズボンが二種類ずつ、それに下着とバスタオルがそれぞれ三種類ずつ入っていた。これで暫くはこの家で過ごせる。貴重品は事故に遭った時から持っているため、服が手に入れば生活していく分には問題ないはずだ。生活費はきちんと払う。食べていくには困らない。問題は、他人の家に厄介になっておきながら家事が出来ない事と、大学に行く時にどうするか、ということだ。右半身を怪我してしまったのだから松葉杖では動けない。車椅子を借りる必要があるが、それにしてもアドレナリンの家から大学までは距離があるし、大学に行ったら行ったでどうやって構内を移動するのかという問題もある。また、もし授業に出られたとしても、実技のある科目は全て受けられない。座学でノートを取るにしても利き手と反対の左手で文字を書かなければならない。ここまで条件が悪いと普通は休学を考えるところだが、私としてはそれだけはどうしても嫌だった。受験の前に抱いていた大学への希望、合格への喜び。正当に休むべき理由があったとしても、そこで休学と言う道を取ってしまったらそういう大学に対して抱いていた思いがどんどん薄れて行ってしまうような気がしたからだ。それは同時に美術に対しての諦めであるのではないかとさえ思えた。それを無為にすることなど、私に出来るはずもなかった。
アドレナリンはまた出る前と同じく洗濯機と睨めっこを始めた。もうじき洗濯が終わるのだろう。それまで、彼はやることがないのだ。私も私で体が不自由では何もすることがないのでひたすら横になって考え事をしているしかなかった。そしてその考え事で最も優先すべきだとされたのは、ここからどうやって学校に通うか、どうやってその手段をアドレナリンに求めるか、だった。中でも移動手段と学習に関しては、アドレナリンにどう説得しようとも受け入れられないだろうと思った。私の熱意は私にしか通用しない。私がどんなに彼に学校に行くべきと語ったところで、彼が私の断固とした意思を受け入れてくれる見込みは到底ないだろう。
「あ、あの」
アドレナリンが喋った。考えが中断されたので私は彼の方を見た。
「えと、あの。箪笥以外は、弄ってないから」
何だそんなことか。どうして彼はそんなどうでもいいことを気にするのだろう。もっと他に気にすべきところがあるだろうに。車椅子はどうやって借りるのか、とか、今日の包帯の取り換えはいつごろするのか、とか、金の工面はどうするのか、とか。
「それと、気になることとか、分からないこととか、嫌なこととか、あったら、言って。夕食は何がいいかな。あんまりお腹にもたれないものがいいかな。そうだね、豆腐、とかどう」
「とりあえず鍵を返してもらおうか」
あ、とアドレナリンが呟き背後を振り返ってズボンのポケットを探る。私に鍵を手渡す。金属質の涼やかな音が私たちの間を揺れ動いた。ごめん、と謝るアドレナリン。私はそれに、別に、と返す。
「明日から学校だな」
遠まわしに何でもないみたいにそう言って、今まで考えていたことを何とかして表に出そうとした。アドレナリンは、え、ああそうだね、意図を測りかねているようにそれに応じた。
「君は、休学するのかい。休学届、出して、こようか」
沈黙した。こう来るであることは予想済みだったのに、実際アドレナリンの口からその言葉が出ると断固とした強い意志があったにも拘らずなぜかそれにどう反応していいのか分からなくなった。いや、と言えばいいのか。学校に行きたい、と素直にいえばいいのか。私は返答に困った。
「あ、と」
私の沈黙を受けてアドレナリンも困っているようだった。一言何か紡ごうとガムを噛むように口をもごもごと動かす。
「学校、行きたい、の?」
はっと顔を挙げて彼を見る。同時に一瞬だけ、鋭いな、と思ってしまった。その表情を汲みとって、突然アドレナリンの顔に明るさが灯る。
「そうか。行きたいんだね。じゃあ、行こう、明日、学校に。車椅子、借りるよ。大学まで、ちょっと、距離があるけど、少し早く出れば、一限にだって、間に合う」
「おい、ちょっと待ってくれ」
笑顔で一人勝手にとんとん拍子に話を進めるアドレナリンに、私は片手を挙げて待ったをかけた。
「私が学校に行ったら、お前はどうするんだ。まさか付き切りで見るなんて言い出すんじゃないだろうな」
危惧しているのはそこだった。アドレナリンは確かに事故の加害者ではあるが、だからといって私の面倒を一切合財見る責任なんてないはずだった。私が大学に行きたかろうと行きたくなかろうと、彼は自分の生活を優先すべきだし自分の勉学を優先すべきだ。この大学で体育科に入った以上は、おそらく私の美術に対する執着と同じように、今まで何もかも犠牲にして運動に打ち込んできたに違いない。にもかかわらず、それを高々数日前に事故を起こしたから、という理由だけで全て棒に振るなんて、お人好しにもほどがあるし、私から見れば馬鹿げている。
「君は」
まるで何も聞こえなかった、とでもいうかのようにアドレナリンが口を割った。彼は言葉にたっぷり間を取って、とても大事なことを言うかのように、私の目をしかと見た。
「人に対して、本気で申し訳ないって、思ったこと、ある」
「はあ?」
話が知らない間に二転三転する会話に、頭が混乱して言いたいことが分からない。アドレナリンは言葉の使い方を間違えているのではないかと思うほどに、会話の応答に、自分の考えを述べる。私はその言動に若干の違和感を覚えた。だが彼はまだこちらを見つめたままに、地に足のついて落ち着き払った様子で言った。
「相手に、本気で、申し訳ない、と思ったら、その人には、何でも、してあげたくなる、と、僕は、思う」
瞳を軽く潤ませて、床の方へ目をやる。訳が分からない。私はだから、それがどうした、と言ってやりたい気分だった。彼は私を憐れんでいるのだ、とでも言うのだろうか。ただ、無条件に物を与えるその恐ろしいまでの他者優先の姿勢は、どこか宗教家のような不気味な感じさえした。彼の今の呼吸は、おそらく誰かのため、と言って働き続ける者たちと同じであった。好意と言うよりは、自分が何かをしなくてはならないという使命感。何かを成し遂げなくては、と思う時に湧きあがる義務感。そういう感情とも理屈とも分からぬものが、この時、彼の発した「本気で、申し訳ない、と思ったら」と言う言葉に、怨念のように深く染みついているように感じられた。私はひどく不愉快な気分になった。それはアドレナリンが、この言葉を本当はどういう意味で使っているのかがわからなかったからだった。ただただ不気味に呪いのように発せられた一言に、強烈な違和感を覚えつつも、それに反論することが出来なかった。逆差別されているような気分、というのはこういうことをいうのだろうか。
「馬鹿野郎」
私が放った空虚で鋭利な一言は洗濯終了の電子音にかき消された。アドレナリンは、気にしなくてもいいよ、などと平気な顔をして言ってのけた。
***
翌朝から大学の講義が始まった。アドレナリンは私の思惑を察して車椅子を手配し、危惧していた通りその日から付きっきりで私の移動に付き合った。行く先々で構内の人々はアドレナリンに車椅子を押される私を何となく気にしたり、無理矢理意識の外に追い出そうと視線を逸らしたりした。お陰で私はその日一日アドレナリン以外の誰とも会話することなく平和に過ごした。一度事件のことを聞かれたら、私もアドレナリンも返答に困ったであろうから、逆に丁度よかった。口下手に甘んじて事前に友人を作らなかったことがこんなところで役に立つとは思っていなかっただけに、奇妙ではあるがありがたい誤算だった。
それから数日、アドレナリンと行動を共にして、私は自分のしたいようにするのがアドレナリンに対しても良いことなのではないかと思い始めた。彼は事あるごとに私に意思を尋ねてきた。次の教室はどこか。昼食はどこで食べたいか。空きコマに行きたい場所はないか。ノートは取りにくくないか。私はアドレナリンに好きなように動けばいい、と言ったが、彼は聞かなかった。彼があまりにも断固として私の意思を尊重しようとするものだから、私もそのうちだんだんこれは自省をした方がいいのではないか、と訝しく思ったのだが、そんな私の戸惑いに関係なく、アドレナリンはひたすらに好意と彼が考えていることを私に振りまくだけだった。何かが違う、と思ってはいたが、迷惑ではなかったし、何を言っても今は自分で行動できないので結局それに身を任せるしかなかった。「君は好きにすればいいんだ」というのが、アドレナリンの口癖になった。私はそれに、いつも決まって「馬鹿野郎」と答えた。
アドレナリンと過ごして一週間経った頃、私の元に一通のメールが届いた。差出人は、キヨミ。一瞬誰かと思ったが、数秒してからあの美術部の新入生歓迎会で儀式的なアドレス交換をした彼女だと思い出した。彼女とは、あの日会って以来何の連絡も取り合っていない。このタイミングで何の知らせだろうか。
メールを開くと女の子らしい可愛い絵文字をたくさんあしらった文面が現れた。見た目の印象はそんなに派手な方ではなかったが彼女はこういうメールを書くのか、と感心しながら文字を追っていくと、どうやら近いうちに部会が行われる、とのことらしい。だが、さすがにこの体で部会に邪魔するのは気が引ける。おそらく文字通り邪魔にしかならない。しかも部会は昼休みだそうなので、行くにしても移動自体が難義だ。昼休みの前後に授業が入っていることも鑑みると、尚更行ける気がしない。しかし見たこともないまま入部してしまった部の活動場所には興味をそそられた。部室の空気やどんな画材が置かれているのかが気になるし、何より私の未知に対する純粋な好奇心が、部室を見たがっていた。誘われたのであれば、その熱意は尚更に燃え上がった。
私は少し考えてそのメールに「部会には行けないが、部室の雰囲気が見たいので、放課後部室にお邪魔させていただくことにする」と返事を書きこんで送った。キヨミが部会に来られない理由をメールで聞き返してきたら面倒だな、と思ったが、数秒の後に来た返信には、わかった、じゃあそのとき部室で待ってるね、部会の内容を教えるよ、としか書かれていなかった。メールで笑顔マークをつけるあたりが何とも純真無垢だ。そういうわけで、私はアドレナリンに頼んで講義が終わった後、部室まで車椅子を押して行って貰うことにした。
その日は五時間目まで授業があった後、アドレナリンに文化部が集まっているサークル棟の方まで連れて行って貰った。サークル棟は一応鉄骨製ではあったが築何年になるか推察することも難しい古くて地味な建物だった。夕方になりかけていたが、多くのサークルはライトを付けずに活動しているらしく、外から見る建物はどこか全体的に薄暗い。美術部の部室はその薄暗い建物の一階の隅にあった。部室までの移動で階段を上り下りする必要がないのはありがたかった。
車椅子の車輪から伝わる振動で廊下に起伏が多いのを感じながら暫く進み、部室に到着した。アルミ製のドアを叩くと中から、「はあい」と線の細い女の声が聞こえた。「この人?」とアドレナリンが私に耳打ちする。私はあまりキヨミの声をよく覚えていなかったが、そうだ、と返した。古めかしいドアが私たちの方にゆったりと動く。中から短く黒い髪を整えた痩せ気味の女性が現れた。キヨミだった。
「あ……」
最初に彼女が発したのは「お久しぶり」でも「良く来たね」でも「お疲れ」でもなく、その漏れるような声だった。彼女は私たちを見て、自分の想像していた光景との違いに少なからず動揺しているようだった。それもそのはず。目の前にはあの日以来会っていない人物が右手足に包帯を巻き、左手に松葉杖を持って車いすに座っている。それに加えて目の前には体格のいい見知らぬ男が立つ。驚かない方がおかしい。
「え、と」
アドレナリンが説明に困ったように顔を背けた。心なしか、照れているようにも見えた。大学が始まり一週間、私以外の人とまともに話す機会がなかったから、ここにきて例の人見知り癖が出たのかもしれない。私は二人の息が詰まるのを感じ、それを何とか打開しようとさも当たり前を装って「やあ、お久しぶり」とキヨミに左手を挙げて挨拶した。キヨミはそれに応えて「え、あ、うん」と頷いた。表情が固い。そういえば飲み会の席で会った時も、最初はこんな風に警戒心が強そうだったな、と思いだした。時間が経ってしまった上に、この状態で現れたから、また壁が出来ているのかもしれない。ここはとりあえず何か話をした方がよさそうだ。
「キヨミ、こちらは体育科で私の友人のアドレナリンだ。ちょっとしたことから知り合いになった。今はこうして一人で動きにくい私の生活介助をしてくれている。部員ではないので美術部に来ることは少ないかもしれないが、仲良くやってくれると嬉しい」
挨拶のテンプレートに当てはめたような台詞が出てきて自分でも内心笑った。が、思いがけずキヨミは「ああ」と納得したように呟いて、アドレナリンを「どうぞ」と迎え入れた。アドレナリンははにかむように笑って「あ、ありがとう」と返し、車椅子のグリップを握って私を部室の中に入れた。
部屋は思ったよりも大分広かった。サークル棟の外観からでは想像できない、高校の教室三つ分くらいの大きさが美術部のスペースだった。右手の本棚にはたくさんの使い古した筆が、水入れ用の小型バケツの中に突っ込んでおかれ、その脇には大きなイーゼルやキャンパスが重なり合うようにして立て掛けられていた。その向かい、すなわち左手側には、部員の作品と思しき石膏造りのヘンデルの胸像。隣にあるのはギリシアの英雄ペリクレス。お馴染みのミロのビーナスやラオコーン像の縮小レプリカはもちろんのこと、中にはゴジラやドラえもん、ポケモンのピカチュウの発泡スチロール人形まである。なるほど、題材は既存の美術作品の贋作のみならず、好きなものを作ってよい、ということなのだろう。自由でのびのびしている、いかにも大学らしい美術部だ。
私が部室の空気に浸ってのんびりしていると、キヨミが「ねえ、あの、そういえば」と声を発した。
「さっきは何となく聞きそびれちゃったけど、その、手と足、大丈夫?」
大丈夫なはずがなかったが私はあえて笑いながら「まあ、何とかなる」と答えておいた。
「アドレナリンがいるから大体生活に困ることはないし。授業だって、利き腕が使えなくてもあいつがノートを取ってくれるおかげで講義をちゃんと聞けている。実技はできないけど見ているだけでも勉強にはなる。特に不自由してるって実感はないよ」
そう、とキヨミはあまり腑に落ちていないように呟いてアドレナリンの方を一瞥した。アドレナリンはきょとんとした顔でキヨミを見返した。彼と目が合うと、キヨミは素早くアドレナリンから顔を背けた。私はまた部室にあるものに吸い寄せられるかのように視線を移していった。棚に押し込められたパレット。長辺で揃えられて事務用品の隙間に収まっている画用紙。そしてそれらを包みこみ室内に立ち込める、透明プラスチックのような油絵の具の匂い。見れば見るほど、いればいるほど、この部屋は私を受け入れてくれるような気がしていた。この部室は、私の理想そのものだった。
「ただまあ」
だからこそ、不意に口をついて、思わず本音が出てしまった。アドレナリンから顔を背けていたキヨミが、私の方を見た。
「暫くここに来られないのは、残念かもね。来ると迷惑になるだろうからさ。これだけいいものがそろっていて、これだけ雑多な空間でいろいろ出来たら。いや、そもそもここにいられるだけでも、きっと楽しいだろうと思うのに」
脳裏にはふと、自分だったらこの部室でどんなものを作るだろうか、という想像が巡り始めていた。この部活には絵画を描く目的で入ったから、まずは時間が許す限りデッサンをするだろうか。あの柔らかい紙の上にラフ画を描く感覚で鉛筆を滑らせる。コンテでもいい。とにかく描き味のいい上質な筆記具と柔らかい紙の間に生ずる摩擦を、利き手から存分に味わいたかった。この部室でデッサンをするのなら、私は手首のスナップを利かせたなだらかな稜線を引き、踊るように白い紙の上を行ったり来たりしては、その延長上に自由に好きなものを描くだろう。意味のあるものか、意味のないものかは関係ない。制作過程の果てに出来たものがどんな評価を受けようとも関係ない。この部室の空気を吸いながら、集中して、視線や腕を静かに紙の上に行き来させる。その行為自体が、私にとっては何よりの魅力なのだ。
「来たいなら、来ていいよ」
想像に浸る私に声をかけたのはキヨミだった。彼女の立つ後ろの方を、私は振り返った。彼女は笑顔でこちらを見ていた。
「せっかくの大学生活だもの。迷惑になるなんて考えずに、好きにやってみたらいいと思う。部活にいる間は、欲しいものとかは、言えば私が取ってくるよ」
でも無理はしないでね、と彼女は付け加えた。不用意に近付くと危ないものがここには結構あるらしい。特に棚の中などは複雑に入り組んでいて塗装用ハケ一つでも抜こうとすればたちまちバランスが崩れて上に積んである物が落ちてきかねないのだと言う。「あと、そちらにいる方も」
次にキヨミはアドレナリンの方をちらと窺う。
「この部活にいる間は、私が彼女のお相手をしますので、どうぞ席を外して下さい。部活が終わったら連絡を差し上げます。その時に、迎えに来ていただければ」
随分丁寧な言い草なのはおそらく彼女がアドレナリンのことを上級生と間違えているからだろう。アドレナリンはそれに気付かずに、あ、はい、どうも、と短く返事をしてやや嬉しそうにほほ笑んだ。そこで私はどうやらアドレナリンのためにも私のためにも部室に来て良いというキヨミの提案を拒絶する理由はなさそうだと感じた。アドレナリンとキヨミはそこでお互いに連絡先を交換し合い、私は次の週から放課後、人の少なそうな時間や、放課後を選んで部室に行くことにした。
***
暫く部室に通ううちに、私はキヨミとよく喋るようになった。そもそも私にはあまり友人らしい友人がいなかったから、逆を言えばキヨミくらいしか喋れる人物がいなかった。その会話で、私は徐々にキヨミにアドレナリンと似たものを感じ始めるようになっていった。キヨミは私の欲しがるものは何でも部室から取ってこようとした。あるときは粘土板を、またあるときは大工道具を、作品の作れない私は暇つぶしに探して回ろうとしたのだが、車椅子のタイヤ止めを外そうとすると、すぐにキヨミがやってきて欲しいものを取ってきてくれるのだった。キヨミとアドレナリンは、他者優先的であるという点で非常によく似通っていた。彼らが私以外の誰かと接していてもそのような態度になるのかどうかは分からなかったが、少なくとも二人とも私の前では似たように私にしたいことを尋ね、似たように私の注文通りに行動するのだった。アドレナリンに至ってはそれが私生活にさえ及んでいる。正直、ありがたかったと思うし二人がいなかったらおそらく私はただ大学を休学して、半期を無駄に過ごしていただろうから彼らには感謝して模し尽くせないほどの恩があるはずだった。二人は私にとって、かけがえのない存在であると言ってもいい。それはいつ二人の行動を顧みたとしても、確かで変わらない事であろう。
だが同時に私は、彼らの行動に引っかかりを感じなかったと言えば嘘になる、ということが分かっていた。私は彼らのあまりに他者優先的な行動に様々な意味で戸惑いを感じざるを得なかった。彼らはまるで罪や捌きや批難や怒り、その他考えうる負の感情を、何もかも許し、包み込み、ともすれば愛せさえしてしまう、どこかの宗教家のような落ち着きがあった。二人の呼吸は乱れることはなく、一様に静かだった。私はそれが逆に気になったのだった。こんなに感情らしい感情を包み隠して生きている人間がいるものなのだろうかと不思議でならなかった。また、そうした包み隠しの態度に、どこか違和感を覚え、それを引っぺがしてやりたくなる欲求もたまに鎌首をもたげた。しかし先にも言ったように、私はアドレナリンに生活介護を請けして貰っているし、キヨミに部室での世話をしてもらっている手前、その違和感と生じた欲求を不躾に押し付けることが何となく躊躇われた。故に私は、右手足が治るまでは、せめてその欲求を押さえなくてはならないだろうと考え、キヨミとアドレナリンに頼り切っていた。
そうした他者優先の精神のためなのか、はたまた元々持ち合わせていた気質が良かったのかはわからないが、キヨミは部内でも気立てがいいと評判だった。彼女のいないところで男性の先輩が話をしているのを何度か耳にしたことがある。キヨミは言われたことにはきちんと従い、それとなく相手のしたいことを察して動いてくれるいい子である、出来ることならああいう子を妻に持ちたいものだ、と彼らは語っていた。だが誰もがキヨミと釣り合いそうにない感情的で野蛮そうな輩ばかりだった。おそらく彼らもそれが自身で分かっていたからキヨミに手を出さなかったのだろう。キヨミにはどこか、そういう良い人であるからこそ他人を無意識に遠慮させてしまうような雰囲気が漂っていた。いうなれば彼女は性格からも、その白い肌から連想しても、儚く可憐で細い蝋燭のような人物だった。普段は固くその慎ましい態度を守り、静かに、真っ直ぐに立つ一本の蝋燭。きちんと伸びた背筋はどこか脆そうな気品さえあるが、意外にも芯が丈夫で押しても簡単には折れない。それが形を変えるのは、おそらく頭に火をともした時だけだ。おそらくいつかはその蝋燭にも誰かが火をつける。なかなか溶けない蝋を溶かして、形を変えてしまう人物が現れる。キヨミがもし異性と付き合うことになるのなら、それはいったいどのような人物なのだろう。私は腕が治るまでの数カ月、部内で彼女の話題になる度に、何となくそう思いながら手元にある紙に左手で線を描いていた。
***
一年の前期が終わる頃、私の右手足の包帯がようやく外れた。相変わらず医者には行かなかったが、事故の翌日同様、アドレナリンが代わりに手と足を触診し、もう大丈夫だろう、と太鼓判を押したのだった。私は夏休み中に自宅に戻り、何度もリハビリを重ねて、衰えてしまった筋力の回復に努めた。そのおかげで、後期が始まる前には自分で歩けるようになったし、右手で絵も描けるようになった。私は前期の間世話になっていたアドレナリン宅から、晴れて一人の生活にに帰ることを許されたのである。
「悪いことを、したね」
別れ際の玄関口で、アドレナリンは私にそう謝った。私は黙ってアドレナリンを見返した。アドレナリンはなんのリアクションも示さない私に対し、不思議そうに首を傾げた。
「どしたの」
「あんた、これだけ私の面倒をみておいて、最後に出てくるのが悪かった、とはどういうことだ」
腑に落ちなかった。あろうことか、アドレナリンは私の介助をするために一年前期の講義を棒に振った。それで尚も謝ることしかせず、私としては一体何を考えているのか分からなかった。
「馬鹿野郎」
思わずまた、そんな言葉が口を突いて出る。お前は本当にこれでよかったのか、と問いたくなったが、さすがに別れ際までそんなことを引きずっていては、余計に彼を追いつめてしまうだろうか、と気付いて後ろめたさを隠すことにした。そうだ、この数カ月で私も彼に対しての接し方を変えることを学んだのだ。それで何も、この時になって最初の不安を思い出す必要なんてない。自分で自分に言い聞かせながら、私は彼の表情を伺った。思わぬ私の反応に、アドレナリンは何を言えばいいのか分からない様子で「あ、と」と口籠った。こういう時の反応は、最初に会った時から変わらないな、などと思いながら、私は息を漏らして苦笑した。
「冗談だ。そういう反応をするから私に馬鹿野郎、などと言われる。そのくらいいつもの察しの良さで気付け」
何を言われているのか分からないような顔をしつつ、アドレナリンは私の苦笑にちょっと嬉しそうに笑った。
「何だ」
「いや、君も、そういう冗談を言うようになったのか、と思って」
前はただ、厳しいことしか言わなかったから。アドレナリンはそう言って私に笑いかけた。そもそもこれは後ろ暗い本心を冗談にして無理に隠しただけなのだが、それでもアドレナリンには効果があったらしい。それならそれで別にいいか、などと考えながら、私はバッグを掛けた左腕と反対の方の手、治った右手を上げてアドレナリンに背を向けた。
「行くの?」
「ああ、もう会いたくないな、あんたとは。きっと会うとまた碌な事がないだろうから。今まで世話になったよ」
「そうだね」とアドレナリンが背後で苦笑いを漏らして片手を上げるのが分かった。私は「それじゃ」と短く言い捨てて、踝を返した。もうこれできっと彼に会うことはないだろう。例えキャンパスのどこかですれ違ったとしても、その時は、ただああ、アドレナリンだ、としか思わず、声をかけることもなく通り過ぎるだけだろう。私が彼をアドレナリンと呼ぶことは、きっともうない。三ヶ月間もの間、一つ屋根の下で暮らしておきながら、あとあとになればもう知り合い程度。呆気ないものではあるが、元より何の関係もなかったのだからただまた最初の頃に戻るだけと考えればいい。アドレナリンには感謝こそすれ、好感らしきものはこの別れの段階に至っても何も浮かばなかった。呆気ないとは思ったが寂しいとは思わなかった。それはアドレナリンがまいた事故を根に持っていたからというより、この三カ月、本当にアドレナリンが私につき切りで面倒をみていたからだった。逆説的に聞こえるが、尽くされれば尽くされるほどに私はアドレナリンから早く逃れたくなって仕方がなかった。だから別れ際に悪かった、と言われたのにも、わざわざ冗談だと返さなくてはならなかった。そうでなければ、私は危うく、恩を仇で返してしまいそうな気がした。本心では、早く自分の生活に戻り、アドレナリンとは、きれいさっぱり関係を終わらせたかった。故に私は、ほとんど清々した気分で自宅までの道を歩いていた。これでまた、何事もなく美術に打ち込めると。これでもう、あの宗教家みたいな男に会って変に気兼ねをする必要もないのだと、そう思いながら。
さて、君よ、私がその時考えた未来が、現実になるのは果たしていつになんだろうな。
一ヶ月半あまりの長い夏休みが終わり、大学では後期の授業が始まった。前期と比べて後期は比較的私も勉強に集中できた。やはり自分の体がちゃんと動くと言うのは大事な事なのだとこのときしみじみと感じた。右手が動いてノートを取ったり絵を描いたりすることができる。自分の足を地に付けて、自分の思ったとおりに校舎間を移動することが出来る。歩いても走っても暴れても、もう体に痛みはない。車椅子に縛り付けられているようなあの感覚が、体が動く私にはもうない。その喜びは、おそらく誰かに語ったところで分かるものではないかもしれないが、とにかく自分で動いて授業でノートを取ったり、実技で粘土を弄って思うような形にしたり、放課後部室で絵が描くことができる喜びが、私にとっては大きな一歩だった。そのためか、空きコマが出来ると、私は頻繁に部室に通うようになった。時々ふと想い出したようにあの雑多な作業部屋で、紙粘土とニスの匂いに囲まれながら心を休め、手を動かし、無心にその場で過去の創作物を眺めたりしたくなるのだった。
後期の空きコマに最初部室を訪れた時、私を部室で迎えてくれたのは、キヨミだった。音楽科であるキヨミは普段は別キャンパスにいて空きコマにはほとんど部室にいないため、放課後以外の時間に彼女が部室にいるところを、そのとき私は初めて見た。彼女は棚を背もたれにして部屋に置いてあったパイプ椅子に腰かけ、フルートの写真が大写しになった音楽雑誌を読んでいた。他の部員はいなかった。
「キヨミ」
声を掛けると彼女は本から顔を上げて私を見、「あ、お疲れ」と返事をした。手に持っていた音楽雑誌が綺麗に畳まれて膝の上に置かれる。珍しいこともあるなと言うと、全休の日が出来たのだと説明された。一人で家にこもっているのも退屈であるし、特に行きたいところもなかったので何となく部室にやってきてしまったのだそうだ。後期はこの時間は毎回部室に来る予定らしい。
キヨミは私を見て「怪我、治ったの」と視線を投げた。私が頷くと、好意的な感情が見て取れる笑みで、おめでとう、と言った。「これで本格的に作品制作が出来るね。今までの作れなかった分も、これからたくさんいいもの作ってね」
キヨミの何気ない笑顔が今の私にはちょっとくすぐったくて心地よかった。私は照れ隠しに力強く頷いた。それから今までありがとう、と礼を言って、どういたしましてと返す彼女に笑いかけた。彼女の唇からはいつも通りの静かな息が漏れている。
「ということは、あの方も、もうここにはいらっしゃらないの」
思い出したようにキヨミが呟き、私は一瞬質問の意図が分からなかった。「あの方?」と聞き返すと「ほら」とキヨミが答える。
「車椅子を押していた、あの方」
どうやらキヨミはアドレナリンのことを言っているらしい。そういえば前期に部室で話をするときも必ずアドレナリンのことをあの方、と呼んでいた。名前の由来を尋ねようとしないところをみても、キヨミは私の付けたアドレナリン、というあだ名が気に入らないようだ。そもそも由来を尋ねられたところで意味はないので答えに困るだけなのではあるが、キヨミの性格を考えれば人の名前を物の名前で呼ぶこと自体が許せないのかもしれない。
「ああ、アドレナリンなら、多分もうここには来ないよ。あいつはただ、私の怪我の面倒を見ていただけだから」
出来ることなら私ももう二度と彼には会いたくなかった。アドレナリンは他人のために自分を犠牲にしすぎる。私は最初のうちは彼のそうした態度に無意識に気兼ねをしてしまいそうになる自分に戸惑い、それが嫌だった。が、出会ってから三カ月が経過した今は少し事情が違う。彼が私に気遣いをするようになることが当たり前になりすぎて、その最初の戸惑いに付け加えられて、私が彼に不必要に注文を付け過ぎてしまうことも、やや怖くなった。その点に関してはキヨミも似たようなところがある。私は気を抜くとキヨミにすぐ必要以上のことを要求してしまいそうな自分を発見して嫌になる。何とかして自分のことくらい自分でやりたいと思うのに、気付いたらキヨミに頼りそうになってしまう。しかしキヨミがアドレナリンに似ていて、私がアドレナリンに会いたくない、というのであれば私は同じくキヨミにも会いたくなくなると想像するのは難しくないはずなのだが、なぜか私はキヨミのことは彼ほど嫌いではなかった。寧ろ私自身としてはキヨミに対して好感すら持っているように思える。この、アドレナリンとキヨミにある私が抱く印象の違いは、一体どこから生まれてくるのか。
「そうなの」
私の思考の合間にキヨミが曖昧な声で返事をした。来ない、というのはあくまで私の予測と願望であり、別にアドレナリンが二度と部室に来ないという保証はどこにもない。だがキヨミはまるでそれを信じきっているかのように、あの方はもう来ないの、とでも言いたげに、肩を竦ませる。
「優しい、いい方でしたのに」
その言葉に、私は何やら自分が動揺しているのに気付いた。言葉の端々からキヨミが妙にアドレナリンに肩入れしているのを察したのだった。これだけキヨミが他人に執着するのは珍しかった。普段ならば、誰と接するときにも乱れぬ呼吸で、あら、へえ、そうなの、とうなずき返しているような人なのに、今はどこか残念そうに言葉を発しているように見えて仕方がない。いつも笑顔の裏に包み隠されているものが途端に露呈したとでも言おうか。とにかくいつものキヨミとは違った気配が、何となくだが隣から立ち上ってくるのを感じた。
これは、もしや。妙な直感が私の脳裏を横切った。以前、部室で考えていた欲望が、ふと思い出したように頭をもたげる。おそらく、あながち間違ってはないはずだ、とここにきて変な自信を得た。わけがわからなかったが、何もしないよりはいいだろう、手足も治ったし、と自分に言い聞かせた。私は意を決して、それでいながら何でもない風を装って、彼女に告げた。
「そんなに会いたければ、アドレス知ってるんだから、連絡すればいいじゃないか」
キヨミは一瞬こちらを見て、ええ? と冗談を聞いた時のように笑った。
「会いたい? 私が、あの方に?」
「ああそうだ。少なくとも私にはそう見えるな。変に気兼ねをする必要はない。会いたいなら、好きに連絡を取って会えばいい」
キヨミは私を見たまま、ふふ、と笑った。その笑顔は何を言っているのか、というニュアンスとは少し違うような気がした。その笑みの裏に、また一本の蝋燭が見える。白く打たれ強い蝋燭。なかなか火の灯らない蝋燭。やはり、ただでは溶けてくれないらしい。何か別の手を、と考え、私は数日前、アドレナリンと別れるときに、冗談だよ、と言ったことを思い出した。
「別に、私はそんなこと思ってないよ。第一、私とあの方は、いうなれば、保育園の先生と、園児の親みたいなもので、本当は携帯の連絡先だってするような仲ではなかったはずだから」
なら私は大学生にもなって二人の間では保育園の園児か、などと思ったがそれはさておき、先のキヨミの考えもわからなくはない。確かに事実として本来はそういう関係であったし、連絡先を入手したのだってほとんど偶然と言ってもいい。だがしかし、他者優先的なこの二人がその事実を事実のまま放置しておいてもよいのだろうか。事実はありのまま受け止めるばかりが真実ではない。事実を自分なりに解釈し、分析し、それを活用しようという熱意を得てこそ、事実が真実となりうるのではないだろうか。寧ろ今の彼らに足りないのは、事実を自分なりに解釈することに対しての、純粋な熱意なのではないだろうか。そしてその熱意の欠乏故に、キヨミはいつまで経っても、変形しない蝋燭のままなのではないだろうか。
「それは嘘だ」
気づくと私は自分の理屈でそんなことを口走っていた。キヨミが首をかしげて「何?」とこちらに詰め寄る。私は彼女の目をしかと見つめた。
「それは嘘だよ、キヨミ。あんたは本当は、もう一回、アドレナリンに会いたいんだ。もしかしたら一回じゃないかもしれない。いや一回じゃ足りない。きっと何度も会って何度も話して、あいつのことが知りたくなったんだろう。あまり知らないから。よく知らないからこそ、あいつに近づきたくて、でも近づくきっかけがなくて、連絡先を持っているけれども突然連絡したら迷惑だろうか、なんて考えて結局事実をありのままに受け止めてるだけなんだよ。本当は、そうじゃないのに」
言葉が妙に力強くなってしまっているのに気付いて私はそこで一端口を噤んだ。まくしたてる私にキヨミは反論もせず、ただ目をぱちぱちと瞬かせていた。その様子に私の先ほどまでの急激な自信が突如としてぐらり、と揺らぐ。おや、という言葉が、どこか遠い場所から冷たく脳裏にこだまする。もしかしたら、間違っていたのは私の方ではないのか。冷静に考えてみればキヨミの先ほどの言葉は事実を述べているだけであってその裏に感情が隠されているとは限らない。それなのに、何を根拠として私はキヨミを追い詰めようとしているのだろう。勝手に決めつけて、勝手にキヨミを判断しているのは私の方だ。
ごめん、と私は首を下げて謝った。キヨミは黙って私を見ていた。数秒、私たちの間から言葉が消えた。動くはずもない胸像や人物画の目がちょうど部屋の中心にいる私たちを静かに映していた。そこで私は、ふと、ああ、もしかしたら私は彼らに憧れを持っているのかもしれないな、と唐突に思い当った。高いところから私たちを見下ろしてくる、まるで意思を持たない、呼吸すらしない彼ら。人とは対極にあるモノ。もちろん感情なんてものは存在せずにただただあるがまま、されるがままになる存在。私はそれに憧れている。なぜか。それは私が人間であり、決して私が彼らにはなりえないからだ。彼らになれないなら、私は彼らを愛している。彼らをまるで人間のように感じ彼らを独りよがりに作り続けたいと願う。私にとっては彼らこそが全てで彼らこそが私なのだ。彼らを作り彼らを見ることが、私にとっての至高。それなのに、こんなところでキヨミを追い詰めて、一体何をやっているのだろう、私は。
「あの、あのね」
突如としてほとぼりが冷めきった私にキヨミはおどおどしながら声をかけた。そこで私ははっと我に返り、また脳裏で、おや、という声を聞いた。珍しく、いつもは一様なキヨミの呼吸が乱れていた。それは前期初めて私がアドレナリンと共に部室を訪れた日、彼女が私たちを見て息を詰めたのと同じような感じだった。
「謝らなくていいよ。寧ろありがとう。謝るのは、私の方、だよ」
どういうことか、と私は一瞬目の前のキヨミにまごついた。キヨミは綿のようにふんわりしたつかみどころがなく、それでいながら柔らかい笑顔で私を見つめた。寒いとも暑いともつかない初秋の空気に溶けて消えそうなその笑顔は、いつもの落ち着き計らったものを感じさせながらも、どこか儚く不安定にさえ見えた。
私はそれで、今度こそキヨミが何を言いたいのか分かった。そのために、私はその笑顔の主が、人間的な呼吸をしているにも関わらず、物に徹しようと演技しているようにしか見えなくなってしまった。彼女にもあった。蝋燭に火を灯すきっかけが、こんなに細々と、見えにくい場所にあった。気付けなかったのは、こうして彼女が意思表示をすることが、普段めったにないからだ。少しばかり、言いようのない感情が私の中で渦を巻いた。おや、という声が頭の中で何度もこだまする。計算高い頭が勝手によからぬ悪戯を考えていく。どうすれば火種を燃やせるかを、誰にも気づかれないようにしながら考え始めている。
「そういえばさ、今度、年末制作会の準備があるでしょう」
とりとめのない私の思考を汲んだのか否か、キヨミが極端に明るい声で手を叩いた。私はまだ動揺が収まらなかったがあえて思考を中断してキヨミのそれに、ああ、といつもの調子で答えた。
年末制作会というのは美術部で毎年後期に行われる二か月間の集団制作会のことだ。先輩たちが以前部室でしていた話によると、どうやら各々好きなものを持ち寄ってそれを題材に制作をする、という会らしい。ジャンルや素材、どんなものを作るかは本人の自由。共同作業も可能であるが、参加する場合は必ず一人一つは仕上げることが条件だ。早く制作ができれば、十一月にある大学祭の展覧会にも展示できるという。部室に置かれている大作のうちのほとんどが、この年末制作会のために作られ、置き場所に困ったから持ち帰られずにそのまま置き去りにされたものだと聞いたこともある。あのヘンデルやペリクレスも、そのうちの一つらしい。
利き手が使えるようになって部で初めての作業が年末制作会の準備とは何とも大層なことだと思ったが、ある程度学科の勉強を積めばそれほど苦でもないだろうか。それより問題は、何を作るかをまだ考えていないことにあった。年末制作会の準備は来週にまで迫ってきている。準備では制作の大方のイメージを固めるために、概要と素材を持ち寄って討論するということになっていた。それに参加しなくても制作自体は一人でできるのだが、せっかく入部したのだから他の人の制作過程の一部を見てみたいという気持ちもあった。だが何も思い浮かばないのでは準備会に出るかどうか以前の問題だ。
「で、何をつくるの? 準備会には、もちろん出るんでしょう」
キヨミの質問はちょうど痛いところを突いてきた。落ち着き払ってはいるが、何やら光を宿した目だった。日々美術のことしか頭にない私のことだから、よほど凝ったものを作るのだろうという期待がありありと見えた。彼女にそうさせているのは先ほど私が口走った妙な話題のせいもあるかもしれない。普段の彼女であれば、こんな風に誰かに期待の眼差しを向けるなどということはまずない。せいぜい、話題をこちらが振った時に何をつくるのか、聞く程度に留める。準備会には出るでしょう、などと自分の憶測で物事を言ったりはしない。
さて、どうしたものか、と考えて、私にある考えが閃いた。私は顔の前で人差し指を立ててキヨミに見せた。キヨミが頭に疑問符を浮かべて首をかしげる。私はニッと口角を釣り上げる。
「内緒。準備会に来てからのお楽しみ」
何それ、と笑ってキヨミは口元に手を当てた。私は、まあまだ考えてないだけさ、と冗談めかして両手を広げ、その笑いに種明かしをした。キヨミはもう一度息を乱して笑った。もう、と嬉しそうに私の肩を叩くのがたまらなく心地よかった。
もちろん、キヨミに言った、考えてないだけ、という言葉は、真っ赤な嘘だ。その時私には、既に策があった。
***
二週間後の放課後、年末制作会に向けての準備会が執り行われた。私はその日ちゃんと作りたいものを持ってくるのに成功していた。作るものは、木彫りのトルソ。通常、トルソは人間の胴体部分のみを造形した彫刻のことをいうのだが、今回はそれにあえて木彫りで挑戦してみることにした。理由は大理石が趣味で制作するにしてはあまりに高価で学生では手に入りにくいというのと、できることならトルソ特有の周囲との境界をはっきりさせた感じを出さずに、静的でありながらどこか輪郭をぼかして温かみを帯びた作品に仕上げたかったから、というのがある。すなわちそのために私がまず用意したのは作品イメージを固めるための紙とペン。それから学科でも使っている彫刻刀セットとのこぎり。これは学校からの借り物でも良かったのだが使い勝手の関係から四、五年に前から使っている手持ちのもので行くことにした。最初の荒削りのために必要なその他チェーンソー等の重工具はさすがに大学から拝借することにしたが、それが終了した後の細部の表現は、使い慣れた道具の方が手触りなり彫る感覚なりを判断しやすい。用意した角材から彫刻刀を通して伝わる弾力、素材の呼吸。そういったものが、私の手の中にある刃とぶつかり合って一つの作品に形を変えていく。その感覚が、どんな作品を作るにあたっても、実感として必要なのだ。準備であれ使う道具の選択に妥協は許されない。
「やっぱり本場、美術科のこだわりは半端ないな」
準備会で私が用意したものを皆に説明していくと、先輩の一人がそう口にした。
「毎年、一人か二人はいるんだよ、君みたいなのが。大体美術科だけど。で、趣味の域を超える作品を作っていく。さすが芸術大学なだけあるよなあ」
そうですね、とキヨミがそれに相槌を打った。この部活は知名度が高い割にあまり人数が多くない。というのも制作費だけで相当な出費になり、新入部員の八割は前期の時点で退部しまうからだった。準備会に来ているのも、私とキヨミ、それを除いては先輩同級生全部合わせて六人。必然的に普段自分からはあまり話さないキヨミにも発言の順番が回ってくる。
「それで、彫刻を作るのは分かったけど、題材は?」
来た、と思った。美術科としてこれだけこだわり抜いた割に、私はまだ題材については何も言及していなかった。いや、どちらかというとあえて避けていた。誰かに尋ねられるのを待っていたのだった。その質問を投げるのは、本当は誰でも良かったのだったが、私は運よくキヨミがその質問を投げてくれたことにさらに感謝した。私は二週間前、キヨミとやりとりした時と同じようにニヤリと笑って、逆にキヨミに「何だと思う」と問い返した。キヨミは首を捻って考えた。
「トルソってことは、誰かの体、ってことでしょう。でも、さすがに生身の人間ってわけじゃあ、ないだろうし。写真だけ彫り起こせるなら、有名所としてはサン=ピエトロ大聖堂に飾ってある、のベルベデールのトルソの贋作かな」
キヨミもなかなか面白いところを挙げてくる。寧ろ一般的な美術知識の持ち主の視点からしたら、トルソと聞けば必ずそのあたりが出るのだろうか。だが若輩者の私が、かの有名な美術品の贋作を制作するなど恐れ多くてとても出来たものではない。それにその手のことならわざわざ部活に来てやらなくても、授業でやる。私は私の熱意でこの制作会に一矢投じてみたいだけなのである。いや、と私はキヨミに言い、代わりに部室のドアを指差した。私に注目していたキヨミを除く六名がその方向を見た。キヨミも遅れて自分の背後を振り返る。
私の指した方向にいたのは、アドレナリンだった。私は彼を題材にするつもりで、この日の都合のいい時間に部室に訪れるように連絡を取っておいたのだった。キヨミが露骨に息を詰まらせたのがわかった。その様子が、少し可愛らしい。「やあ」と私はキヨミに対する笑み半分で彼に声を掛けた。アドレナリンは言葉を詰まらせながら「やあ」とそれに応え、皆の視線を受けてかなり恐縮した様子で、おどおど部室に入ってきた。そしてお久しぶりです、と丁寧に腰を素早く九十度に曲げて部員たちに挨拶した。私は立ち上がって彼に近寄り、そのがっしりとした体躯のほぼ天辺にある、あの異様に盛り上がった肩を叩いた。
「私の題材は、アドレナリンの、この体で。本人の同意を得て、放課後はできる限り彼にモデルとして協力してもらうように言ってあります。暫く連れてきても問題ありませんよね」
自分でも随分と強硬な手に出たと思う。本当のことを言えば、アドレナリンに会いたくない私は彼を題材にする気なんて毛頭なかった。だがキヨミがアドレナリンに心惹かれていると知ったあの日、唐突にアドレナリンの体ならば私の美的興味をそそる魅力を十分に持ち、かつそれをダシにキヨミに会わせることができるのではないかと閃いたのだった。さらに偶然にも、丁度そのとき私は年末制作会の題材を決めていなかった。作りたいものがあるならばいざ知らず、なかったのであるから手近なものを選ぶ可能性もありうるかもしれない、という気になったのだった。すなわち私がアドレナリンを年末制作会の題材にすることは、いわば、私とキヨミの両方の利害が一致したための結論に過ぎなかった。ありがたいことにアドレナリンに題材になってくれないか、と相談を持ちかけた際、彼も彼で満更でもなさそうだったので、うまく呼び寄せることに成功したのだった。
部長は、生身の人間を連れてきてそのまま題材にするという大胆な発想に最初はやや戸惑い気味ではあったものの、最終的には本人たちが了解しているならばそれもありだろう、との判断を下し、この案は晴れて承認を得ることができた。私は部長に礼を言い、アドレナリンにじゃあまあよろしく、と告げて席に戻った。それから暫く元通りの年末制作会の話し合いが続いた。準備会はそのあと滞りなく進んだ。終了後、皆が部室から帰って行き、私がその合間にペットボトルにあった茶で咽喉を潤していると、キヨミが何やらそわそわしながら、ねえ、と声を掛けてきた。私は来るであろうと思っていたので、特に驚きはしなかった。
「あの方、本当に、連れてきちゃっても大丈夫だったの」
やや批難がましい口調だった。アドレナリンのことを心配しているというよりは、どちらかというとなぜ彼を私の前に連れてきたの、というニュアンスに受け取れた。私は、はあ、といかにも何も考えていないようにぶっきらぼうに言った。
「別にいいんじゃない。アドレナリンも、嫌だ、なんて一言も言ってなかったし、部長もオーケーしてくれたし」
そういう問題じゃ、と言いかけるキヨミの口の前に、私は手をかざした。キヨミが息を詰まらせて目を丸くする。
「何をそんなに焦ってるんだい。いつもの冷静なお嬢さんキヨミはどうした。私はただ、アドレナリンを美術の題材に使いたいと思っただけだろう。純粋なる美への好奇心さ。それの何が悪い」
キヨミはいかにも何か言いたげにキッとこちらを見つめていたが私は含み笑いを止めることが出来なかった。私がどことなくキヨミに抱いていた印象が今完全に覆ろうとしていた。が、それが逆に愛おしくもあった。面白い。言ったらさすがに彼女でも怒るであろうから思いとどまったが、今のキヨミは最高に嗜虐心をそそる目をしている。私の脳裏に白く透き通る一本の蝋燭が見えた。それが今は、着火によってみるみる溶けていっている。じわりじわりと止まることを忘れて、赤い炎が白い蝋を飲み込んでいく。ぽたぽたと汗を流すように雫を滴らせる白く透明な蝋燭は、何とかいつもの毅然とした姿勢で平静を装うとするが、止まらない。止まれるはずもない。蝋燭はただ蝋燭でしかないのだ。頭に灯された火を、自分で消すことなんてできない。
暫しキヨミが何か言い返してくるのではないかと静かに、それでいながら本当に悪気がないように虚勢を張って見守っていたが、なかなか彼女は口を動かさなかった。戸惑っているのだろうな、と私は思った。きっと今まで彼女はこんなに感情的になることがなかったのだ。キヨミのことだから他人に焚きつけられても簡単に受け流してきたのだろう。それが運悪く、今回はできなかった。私があのとき先に謝ってしまったから、私を否定しないためにあえて自分の感情を肯定し、曝け出すことになってしまった。そして今は、他者優先が過ぎるために露呈してしまったその感情を、否定もできずに不条理な理屈に絡め取られている。屈辱と不安が入りまじり、どう返せば穏便に事が済むのかを必死で考えている。
反論してこないキヨミを私は「分かった、分かった」と両手を挙げて解放してあげた。無論、悪びれのない笑顔はそのままだったが、良心が咎めたなどということではない。これ以上彼女の言葉を待っていても仕方がないと思ったのだ。
「何にしたって、私はアドレナリンを連れてくる。それはもう決定事項だし、作るといった以上は揺るがない」
だがそれ以外は、と言い置いて少し間を空けた。キヨミは相変わらず何も言わないままだった。
「好きにするといい。アドレナリンはキヨミのこと気に入ってるよ。あれは、間違いなく」
ほとんど捨て台詞同然に重要なことをさらりと言ってのけて、私は逃げるように部室のドアに向かった。素早く部屋を出て、いつもより大げさにドアを閉めた。え、とキヨミが言うのも、その音で無理に聞こえない振りをした。今のは裏の取れていない嘘なので、詳しく状況などを訊かれたら困る。ただ、普段息を乱さないキヨミがあれほどにまで動揺し、アドレナリンに近づくのをためらっているのであれば、私は嘘でも冗談でもついて軽くその思いを本気だと気付かせてみるのも、また一興だろうか、と思ったのだった。
それに何だかんだ言っても、アドレナリンもまた他者優先的な人物だ。キヨミのような良い女の子に一度でも告白されたら、断れないに決まっている。この先二人がどうなるのかは、キヨミの頑張りとアドレナリンの部室への出現率次第と言ったところだろう。しかし二人がどうなろうと、私はいつも通り、制作に打ち込むだけで、特別なことは何一つしない。私にとっては、自分の手足で学校に来て勉強をし、美術部で制作をすることこそが最も充実した時間だからだ。ただ、他者優先的なあの二人が面白い化学反応を起こしてくれるのであれば、それを見るのもまた一興かもしれない。私はそんなことを考えながらアドレナリンのトルソの構想を練り、制作会の始動を首を長くして待つことにした。
***
十月中旬から年末制作会が始まった。私はアドレナリンのサークルがない日はほぼ毎回のように彼を連れてきて上半身裸にさせ、スケッチのモデルにした。アドレナリンは学科で育てられたのか服を脱ぐこと自体はあまり躊躇わなかったものの、他の美術部員の前で私にスケッチされることを最初はかなり恥ずかしがっていた。キヨミや他の女の子の前だからかもしれない。彼女たちも私がアドレナリンの胸筋や腹筋を細密に観察しているのを横目で気にしているようだったので、私はそれからアドレナリンの体を観察する際は、なるべく彼女たちのいないところで行うようにした。
彫刻を作る際はまず用意した紙に人間のサイズを写し取ることから始める。これを下書きという。この場合、必ずしも現物と同じサイズである必要はなく、写し取る角材によって下書きの大きさを変えてもよいとされているのだが、今回は等身大で作ることにしたのでアドレナリンに協力してもらい体の寸法を四面から一つ一つ丁寧に図り、その寸法を鉛筆で下書き用の巨大な紙に描き込んでいった。ここでは寸法のメモ程度の数値と体のどの部分に凹凸をつけるかを記した点図が出来上がる。次に寸法を写し取った点図を線で結び、おおまかに人間の体の形を描く。この作業も鉛筆で行う。形がとり終わったら角材にその寸法と下書きの線を描き込み、いよいよ削りの工程に入る。下書きを角材に写し取る作業も角材の大きさのためにかなり時間が必要なのであるが、この削りに至ってはその倍以上の時間が必要だ。何しろ彫刻というからにはこの削りの部分で作品の良し悪しが左右される。もちろん下書きや写し取りも慎重に行わなければならないのは確かだが、殊更削りは他の二工程と異なり、一度刃を入れて間違えても取り返しがつかないため、どういうイメージで掘り進むのか、全体から見てこれから彫る部分はどうあるべきなのか、というのを具体的かつ緻密に考えていく必要がある。しかも、工程が進めば進むほど、その作業は複雑になる。
これら工程のうち、モデルが必要なのは最初の下書きの部分だけなのだが、アドレナリンはそれが終わりもう来なくても大丈夫だ、と私が言ってからも美術部に足を運び続けた。アドレナリンは自分がモデルにされた彫刻が完成するまでの過程を見たかったのだ、と話していたが、私は違うと思う。事実、私がモデルを頼んだ時以外、アドレナリンが私の作業を見に来ることはほとんどなかった。故に私は彼がその理由を口実にして美術部に来る理由が他にあることを知っていた。そしてその本当の理由がキヨミにあったことは、言うまでもないだろう。しかし、年度末制作会が終わるまでの二か月間、彼らに何があったのか、私はその詳細を全く知らなかった。彼らがどうなろうとそもそも私には全く興味がなかった。私はただ自分の目標としていたアドレナリンのトルソを作ることに、本当に集中していた。それ以外のことなどどうでもよかった。放課後、部活に行くたびに、自分の手であの体の稜線を描き、それを大きな角材の上に実現する。その空想、その感覚が、私にとっての何物にも代えがたい幸福だった。もちろんその中で困難は何度もあった。そもそも、トルソは最初から最後まで粘土で作るのが普通だ。それをあまり経験もない人間が、コンセプトがあるとはいえ材質を変えて作ろうとしているのだから、悪戦苦闘するのも当然である。しかし美術のための悪戦苦闘など私にとっては乗り越えるべき波、作品完成に向かって努力をするための燃える障害の一つでしかない。例え、それが材質の変化という大それたものだったとしても同じ。木であろうと粘土であろうと、本質的には目標に向かってひたすら手を動かし続けること代わりはない。それに私は、どちらかというと粘土を付け加えて作品を作るよりも角材を削り取って作る方が好きだった。チェーンソーを使っての荒削りの際には、授業で習った勘を総動員して近すぎず、離れすぎず、それでいながら大胆な削りを意識する。骨ばっている男性の体は女体ほど深く切り込む必要がないのが残念といえば残念だが、それでも寸法に合わせながら刃を角材に滑らせ、なぞる感覚は、いつ何を作るときであろうと一種の恍惚感をもたらす。木目に触れ、木の温かさを確かめ、何度もそこに手を入れる。削り取る。一歩一歩、完成形へと近づける。アドレナリンの体をここに写し取り、より本物に近づける。木をそのまま剥いているような感じさえする。ただただイメージの通りに、ただただ角材の中に見えるアドレナリンの体を、二か月間、私は彫り続けた。
そして気がつくと私が二か月前に灯した蝋燭の炎は消えていた。それに気が付いたのは年度末制作会が終わってからだいぶ後のことだった。キヨミはすっかり以前のように息を乱さぬ美しい蝋人形に戻っていた。彼女は私の知らない間に、よく笑うようになっていた。あのときの反抗的な視線など、もうキヨミからは全く感じられない。それこそ、本当に、元の通りだった。さらに私は彼女をよく見ているうちに括目した。笑う彼女の隣には、いつもアドレナリンがいるのに気が付いたのだ。私の出まかせの嘘は、私の知らない間、私がいない間、私が何もしない間に、本当になっていた。
蝋燭の火を消したのはおそらく、アドレナリンの呼吸だった。完成したトルソをゆっくりと指でなぞりながら、私は口元が綻ぶのにただ身を任せた。
***
キヨミとアドレナリンはそれからよく一緒に行動するようになったらしい。らしい、というのは、彼らが美術部にいる間以外にも、外部で連絡を取り合って会うようになったのだと、後にキヨミから聞かされたからだ。そうであろうとは思っていたが直接見たわけではないので、私としてはそうであった、という事実を知っているのみである。キヨミとアドレナリンが付き合うことになったと、正式に彼らの口から聞いたのも、年度末制作会が終わってから暫く経った後だった。しかも、その時も私がキヨミに、そうなのか、と聞いたから分かったのであって、彼らが積極的に部内で言いふらしていたわけではない。彼ら自身は彼らの歩みの速度で、彼らなりに満足のいく交際をしていたのだった。
二年に進級してから、キヨミはあまり部室に訪れなくなった。それに追随するように、アドレナリンもまた部室に来ることが少なくなった。私は相変わらず暇さえあれば部室に来ていたが、キヨミとアドレナリンがいなくなった部室はどこか物足りない感じがしていた。一年が経って部員も入れ替わり、去年の自分のように部室に訪れては感嘆の声を漏らす新入生を見ていると、車椅子に乗って初めてアドレナリンと共にここに来てキヨミに驚かれたときのことが、どこか昨日のように懐かしく思い出された。
ある日いつものように空きコマに絵を描いて過ごしていると、暇を持て余したらしい先輩の一人が部室にやってきた。彼は以前、キヨミのことをいい子だと言っていた男性のうちの一人だった。その人とはあまり部室で顔を合わせた記憶がないので、もしかしたら面と向かって会話するのはそれが初めてだったかもしれない。去年の年末制作会準備会の六人の中にもいなかったような気がする。
「ねえねえ」
先輩は絵を描いて時間を潰す私に気さくにそう話しかけてきた。ちょうど集中力も切れかけていた私は一端手を止めて、彼の方を見た。話しかけにくいイメージでもあるのか、先輩は私の示した反応にややほっとして話を続けた。
「最近、君と仲良かったあの子、来てないじゃない」
あの子、というのは、この人の文脈から考えれば、おそらくキヨミのことだろう。この先輩はキヨミのことを気に入っている割には名前も知らないらしい。それでも気に入っていると言えるのか。私が、そうですね、と相槌を打つと先輩はさらに続けた。
「どうしたのかな。何か聞いてない」
なるほど、確かに気になる子に突然会えなくなりもすればこう尋ねてくるのも道理だろう。だが実際私はキヨミが部室に現れなくなってから彼女のことも、そしてアドレナリンのことも何も聞いていなかった。連絡がないということは上手くいっているのだろう、と思い、わざわざ聞く気も起きなかった。私は先輩に、いえ、特には、と横に首を振って答えた。先輩は残念そうに、そうか、と言った。
「ああ、でも」
突然の私の呟きに先輩が反応する。私は続けた。
「連絡がないってことは、彼女は元気なんじゃないですかね。何かあったらアドレナリンから一報あるでしょうし、それがないってことは」
「アド……?」
先輩は首を傾げる。そういえば、この名前が彼のことを示していると知っているのは、私が一年の時によく部室に来ていた人たちだけだった。この先輩は実際アドレナリンと聞いて彼をイメージできるほど、部室には来ていない。
「ほら、あれです。去年の今頃、私の車椅子を押してた、彼」
あれがアドレナリンです、というと、先輩は、はあ、と言う。この人、自分の興味のある人物以外はほとんど見ていないようだ。おそらく私のこともキヨミを見ていたから視界に入った、というところだろう。だが思いがけず出てきた名前の何かに気づき、先輩は、え、と呟いた。
「待て、待て。なんでそこでその、アドなんとか、って奴が出てくるの。何か彼女と関係あるの」
「関係あるも何も、キヨミとアドレナリンは付き合ってるじゃないですか」
あれ、これ言ってよかったのか、と思ったときにはもう遅かった。先輩は意味がまるで理解できていないような呆けた顔で、凍り付いていた。そして、ん、え、あれ、と戸惑いを何度か口にして、訝しげに眉を潜めた。それを見て、少し先輩にも、アドレナリンとキヨミにも、申し訳ない気持ちになる。二人はこういうことになるのを恐れて、関係性をあえて隠していたのではないか。彼らの場合は隠していたというより話さなかった、という方が正しいのだろうが、いずれにせよ、もしこれで、次アドレナリンが部室に来た時に、この先輩にキヨミを取られた八つ当たりでもされたら、それは紛れもなく私の責任ということになる。ここは一つ、久しぶりに冗談でした、と嘘をついておくべきなのかもしれない。冗談でした、と笑えば、まだこの人は何だ冗談か、と思ってくれるかもしれない。
あの、と声を出すと、私と先輩のタイミングが不運にも重なってしまった。何となく、冗談でした、と誤魔化すのを先に言うのも躊躇われたので、私は先輩に先手を譲った。先輩からどうぞ、と手をかざした。
何でもなかった。ただ、人の話を遮ってまで嘘をつくことに、何となく罪悪感があった、それだけの話だった。しかし私はこのとき先輩に発言を譲ってしまったことを今でも後悔している。先輩の話を遮ってまで、冗談でした、と嘘をつくべきだったと、今尚思っている。だがこの瞬間、この一瞬、私はそんな先のことまで考えられなかった。それは私の決定的な、致命的なミスだった。罪悪感なんて考えずに、ただ嘘をつけばよかっただけなのに、それが出来なかった。甘かった。嘘に妥協は必要ないはずだと、その時の私にはまだ分からなかった。それが私の、最大にして最低の、自分への、他人への、甘さだった。
じゃあ、失礼して、と先輩は前置いた。でもさっきの話変だよね、と言った。私は、何がです、と問い返した。
「だってさ、そのアドなんとかって人と付き合ってたのって、君だろう?」
「……は?」
頭が真っ白になった。どういうことになっているのか、先輩の言っていることがさっぱり分からなかった。さらにこの先輩の私の中で思い描いていた人物把握の仕方が、突然ピントを外したようにぼやけ始めた。この人、興味ない人以外は把握していない、というわけではないのか。だが確かによくよく考えてみれば私の車椅子を押していた人という説明で、アドレナリンが誰だかわかったのに、アドレナリンとは誰か、と聞いてきたというのはおかしい気がした。それならば、最初からアドレナリンとは誰なのか、と聞いて来るはずはないのだ。私は混乱した。何が何だか分からなくなった。だから先輩に、ちょっと待ってくださいよ、というしかなかった。
「なんで私とあいつが付き合ってることになってるんです。というかなぜ先輩は今アドレナリンが誰だか分らなかったのにアドレナリンと私が付き合ってる、なんてことを言えるんです」
「いや、それは、そのアド何とか、って言う人と君の車椅子を押してた人の名前と顔が一致しなかっただけだって」
先輩は急な問い詰めに狼狽したように答える。私は、ああ、と思った。なるほど、話の内容に驚きすぎてその可能性は失念していた。額に手を付き、駄目だ、冷静になれ、と自分に言い聞かせる。少し考える時間が必要な気がした。私は一つ深呼吸をして気持ちを落ち着かせようとした。だが先輩は無情にも自分の疑問を解くことに精いっぱいのようで、立て続けに質問をする。
「だからおかしいじゃないか。なぜ君と付き合ってるそのアド何とか君が、あの子と付き合っているんだい。彼、二股するような顔にも見えないのに。体育科っていうのは、みんなそんな奴ばっかりなのかい」
私は大きくため息をついた。
「先輩。先輩は一つ、重大かつ根本的な誤解をしています。私とアドレナリンは元から付き合ってません」
いかにもうんざりしたようにきっぱり言う。先輩は殊更大仰に驚いた様子で目を丸くした。私はもう一度、ゆっくりと言い直す。
「私とアドレナリンは付き合ってませんよ。アドレナリンが付き合ってるのは、私ではなくキヨミです。彼らは仲がいいです」
私はなぜ先輩がそんな誤解をしているのか逆に驚きたい気分だった。しかしそれ以上に、今は徒労感が勝った。誤解を解くこと以外は何も言う気がしなかった。これで引き下がってくれればありがたいのだがな、と考えている傍から先輩が、でも、でも、と唇を尖らせる。
「だって君たち、すごく仲良さそうだったじゃないか。部室に来るときは毎回一緒だったし、年度末制作会だって、君が題材に選んだのは彼の胴体だったんだろう。そんなの、誰だって付き合ってると思うでしょう。なのになんであれで付き合ってないなんて」
くどいな、というのが正直な感想だった。要するにこの先輩は、私とアドレナリンが付き合っているということにして自分がキヨミを手に入れたいだけなんだ。また、直接的にそういった考えに結びつかなかったとしても、深層心理ではそういう意識があるから、現実を目の当たりにしてこれほどまでに拒否反応を起こす。典型的な思い込み人間。事実を確かめようともしないで自分の都合のいい方向にだけ物事を解釈し、あとあとその思い込みのせいでとんでもない失態を犯す。そういう人物。ある意味一番性質が悪い。こういう人物は下手に刺激したらストーカーになり得る。
さて、どうすれば納得させられるだろうか、と私は考えた。できることなら私とアドレナリン、キヨミとアドレナリン、どちらの関係にも不利がないように言い包めたい。そこで、私は先ほどの冗談の嘘を思い出した。すみません、キヨミとアドレナリンが付き合っているなんていうのは冗談ですよ、先輩。しかしこれを言ったとしたら、彼はおそらく今までどおり私とアドレナリンはやっぱり付き合っているのだ、と勘違いし続けることになるだろう。逆はどうだろう。私とアドレナリンが付き合ってない、というのは冗談です、先輩。駄目だ、これでも先輩を誤解させたままになってしまう。それにもし仮にこれがキヨミの耳に入ってしまったら、その時は私とキヨミの関係さえもあらぬ誤解のせいで崩れてしまうかもしれない。では一番無難そうな、アドレナリンと私は付き合っていないが、キヨミもまた彼とは付き合ってはいない、ということにするか。いや、それこそこの先輩にキヨミはまだ誰のものではないと言って勘違いをさせてしまうことになる。無駄に口を滑らせて先輩の意識を過剰に煽ってしまった以上、ここで彼を野放しにするのは危険極まりない。
私は散々考え抜いた揚句、ここは事実をありのまま言うのが一番適当である、と判断した。先輩はまだ私の言ったことに戸惑い、なんで、なんで、と繰り返していたが、私はとどめ、とばかりに背中を向けてぼそぼそ呟く彼に「全て事実です」と言い放った。
「私に何を言っても仕方ないですよ。もう彼らはあまり部室に来ていませんし、私が彼らの行動を制限する権利なんてありません。彼らは彼らの好きなようにすればいいと、私は思います」
先輩がひどく眉を歪ませて嫌なものを見る目つきで私を見た。ここに来て私の飄々とした態度に腹が立った、というところだろうか。これは殴られてもおかしくないかな、と思ったがさすがにその行動は問題だと思ったらしく、先輩は、そう、と言い残して部室を後にした。中には私一人が残された。そこで私はあの時嘘をつく罪悪感など気にも留めずに、冗談です、と言い放っていたら、本当にそれは冗談で済んだのかもしれない、と思った。図らずしてアドレナリンとキヨミの関係を他人に言ってしまったことを、私は心の中でキヨミとアドレナリンに詫びた。ただ、この状況下だったら、あの先輩には事実を受け入れさせるのが最も適当だった。そうでなければ、余計に話がややこしくなって、収拾がつかなくなりそうだったのだ。
それにしても、と考える。先輩は私とアドレナリンが付き合っていると勘違いしていたが、傍目からではそう見えるものなのだろうか。一緒に部室に来ていたのは、単に車椅子を押してもらわなくてはならなかったから、私が題材に彼を選んだのは、単純な美術的興味とキヨミに彼を近づけるためだったからだったのだが、そこに何か勘違いされる要素があっただろうか。私はアドレナリンのことをただのいっぺんも気に入ったことはない。世話になったと思ってはいるが、彼に好感を抱いたり、彼と一緒にいたいと思ったりすることは、全くない。寧ろ、あんな他者優先で没個性的な奴、できることならもう二度と会いたくない。キヨミ辺りはそれを、優しい、と言って気に入っていたようだが、私は彼女のアドレナリンに対するその評価が一体どこに由来するものなのか分からない。もしかしたら、キヨミはキヨミなりに、アドレナリンに求めるものがあるのかもしれない。何しろ彼らは、ずいぶんと似通ったところがあるから、キヨミがアドレナリンを見ていて共感する部分は、そう少なくないのだろう。そしてその共感は、きっと私には理解しがたいものなのだ。
まあ、何であれ、便りがないのはいい便りだな、と考え、目の前の画用紙に向き直る。部室は少し広く感じるものの、ここで紙に鉛筆を滑らせる感覚だけはいつもと同じだった。手首の捻り。指先から伝わる柔らかで繊細な筆致。逞しく、それでいながら光を不規則に反射しては、艶を何度も見せつけて翻る黒鉛。さて、今度はその軌跡で、何を描こうか。答えを返すまでもなく、腕は自然と動き始めた。雑念がふり払われ、作業に意識が埋没していった。
***
さて、君、そろそろ話にも飽きてきたから結論を先に言ってほしい、とでも思っているようだな。図星か。なぜ分かったか、だと。そんなのは君の顔を見れば自明の理だ。如何にも、なぜ自分の恋愛話をするために、他人の話ばかりするのだろう、という顔をしているからな。大丈夫。焦らずとももうじきその答えは分かるさ。この後の話はほとんど中身がない。何せそれから私とアドレナリンとキヨミはほとんど部室では顔を合わせなくなった。もともとアドレナリンは部の人間ではなかったし、キヨミだってキャンパスが別なのだから当然と言えば当然のことだ。だが、その理由が、単に忙しかっただけなのか、それとも部室に来たくなかったからなのかは、実際のところ私もよく知らない。私は彼らと積極的に会いたいと思ったことはなかったし、彼らもまた私と雑談をするための関係になろうなどとは考えていなかったからだ。
ただ、彼らが部室に来なくなったのを寂しく思う反面、私はそれを僥倖のように感じていたのもまた事実だった。アドレナリンとキヨミが付き合っていることを先輩に喋ってしまったのが、当人たちにだけは伝わらなかったためだ。それどころかその噂が、部内でアドレナリンと付き合っているのではないかと言う疑惑を打ち消すことにもなった。皮肉にも、私は彼らとの距離が遠くなったことで、彼らの噂に縛られることから解放されたのだった。
だが先に言っておこう。一見、最も関係が薄くなっていたはずのこのときから、私たちが大学三年になるまでの間が、私と彼ら二人の関係性の中でおそらく一番濃い付き合いだった。それはアドレナリンとの同居生活や、キヨミとの部室での時間にも勝るものだった。一年や二年での私たちの付き合いなどせいぜい仲良しの範疇でしかない。アドレナリンの場合は事故の加害者という特殊な立場にあったが、それでもやはりお互いのことを語り合う仲というよりは、適当に話す奴程度の認識を出ない。それが適当でなくならざるを得なくなったのは、それから半年後、私が次の年末制作会のために、画材を買いに行った時からだ。
***
その日は制作会に使う画材を買い求めに二駅先の繁華街まで足を運んでいた。普段画材は近場のショッピングモールのテナント点で揃えているのだが、今度の年末制作会では前年度の作品を上回るものを作り上げるべく特に材料に力を入れると決めていたからである。今年の年末制作会の題材は架空の動物、海の獣の絵画。前作がアドレナリンのトルソ、と極めて現実的・具体的であったのに対し、今回は想像力をフルに生かし、架空生物と抽象性の魅力を押し出すコンセプトで制作するつもりだった。画材はアクリル絵具と筆。特に絵具の方は獣の周囲に漂う海の生き物の色、光の当て具合によって変化をする水の透明度をより幻想的に見せるための青色が必要で、そのために店を何軒も訪れて一番いいのを買うことにした。他の色は手持ちの分でも表現可能だったが、どうしてもその、理想の青だけがなかなか見つからなかった。
そして巡り巡って五件目の店を出た時だった。そろそろ足も疲れていい加減、歩くのも大変になってきた。日も沈みかけて夕焼けの繁華街にはネオンライトが灯り始めている。徐々に町全体が昼間にはない人工的で派手な色を帯びてくる。建物のガラス窓は各々外からやってくる光を反射して、その内側から新たな光を灯らせる。幾重にも交差し合う光は闇の中に浮かび上がって町全体をごく浅く色づけていく。
ここまで来て理想の絵具が見当たらないのはやや残念ではあったが、私は夜の街を歩くのが好きではなかった。街灯の光があろうと建物の光があろうと、夜はどこかに必ず寂しさを含んで太陽と人を引き離す。ましてや繁華街など、薄暗くて歩きにくい場所で妙な輩に絡まれでもしたら面倒だ。慣れない道であるため早めに帰路につくのがよかろう。そう考えて、店から駅の方にまっすぐ歩いて行こうとした。だがその直後、逆側の歩道から、女と共に長身の男が歩いてくるのが見えた。おや、という声が頭の中で聞こえた。私は不意に足を止めた。
どこかで見たような、と思うまでもなかった。男の癖に覇気のない円らな瞳。毛足が長くぼさぼさした髪。そして何より、その冴えない顔に全く似あわない体の大きさと、異様に盛り上がった肩の筋肉。間違えるはずもなかった。それは紛れもなく、アドレナリンだった。だが一瞬浮かんだ、なぜこんなところに、という疑問は、直後に沸いた別の違和感に打ち消された。アドレナリンの隣にいる女性、その姿背格好が、私の知っている、アドレナリンの隣にいるべき女性のシルエットではなかった。背はアドレナリンよりもやや低め、髪は見たこともないような栗毛色のツーサイドアップ。黒髪の短髪でシンプルながら気品のあるキヨミとは、似ても似つかない、可愛らしいがどこか棘を隠している印象のある女性。アドレナリンに可愛い笑顔で笑いかけ、挙動はどこか、蝶の羽ばたきを思わせるようにひらひらと覚束ない。酔っているのとは違う、浮足立った女性特有の足取り。私は目を見開いた。誰だ、あの女は。
私は何だか妙な胸騒ぎを感じた。買った画材が入った紙袋を掴む手に、思わず力がこもった。その女性は少なくとも私の知りえるアドレナリンの行動範囲内では見たことがなかった。だがアドレナリンはその女性と並んで歩きながら、いつものようににこやかに微笑んで息を乱さず会話を続けている。どういうことだ、と頭の中で声がする。二人は私に気付かず、逆側の歩道を歩き、通り過ぎていく。私は混乱したまま、呆然と、アドレナリンは、今もキヨミと付き合っているのではないか、と首を捻った。私の知らない間に彼らが破局を迎えていたとしても、あれだけいろいろあった仲で、何の連絡もなくなるものなのだろうか。というより、アドレナリンとキヨミがうまくいっていない、ということ自体が想像できない。確かにアドレナリンがキヨミのことを気に入っている、というのは私が冗談半分についた嘘だったが、私はキヨミがアドレナリンと付き合っているという話を、本人から直接聞いた。万が一、アドレナリンがキヨミを気に入っていなかったとしても、それでキヨミが私に、アドレナリンと付き合うことになった、という嘘をついて得することは何もない。また、付き合っているのであればキヨミはアドレナリンのことを気にかけ、アドレナリンはキヨミのことを気に掛けるはずだ。お互いがお互いに感情のままに動いている、という姿は、この二人からは最も考えられない光景だった。無理はしないが無理を強制しないのが、アドレナリンとキヨミの似ているところだった。だからあの二人の間に、こうした別の人物との光景を見るなどということは、全く予期せぬことだった。キヨミが私に嘘をついていたという可能性はほとんどないとみてよいだろう。アドレナリンがキヨミを嫌いになる、なんてこともまずない。だとしたら、考えられるのは、アドレナリンとキヨミが別れたか、あるいは――
私は道路を挟んで反対側を過ぎていくアドレナリンと女性を一度見送り、少し距離を置いて密かに背後から跡をつけることにした。アドレナリンは女性との会話に夢中なのか、幸いなことに、私が尾行していることに気づいていない様子だった。それから暫く二人の間では中身のない会話が繰り返されていた。主に脇にいる女性が一方的に何かの愚痴を言っていて、アドレナリンがそれに笑いかけているというやりとりだった。予想通りその会話でアドレナリンはキヨミのことについて全く触れなかった。それどころか彼は、自分からその脇の女性に話題を振るということがほとんどなかった。
夜の街を二人の男女の尾行としてこそこそ歩くのはさすがに良い気分ではなかった。そろそろ何か進展がないだろうか、と思った頃に、次第に彼らの取る道の進路がそういう方向になってきた。夜の繁華街、その路地裏。ネオンの花が咲き乱れる怪しく美しい通りに、派手な格好をした女性や、スーツ姿の中年男性がそこら中を歩き始めている。さらについていくと、とある曲がり角を曲がった先に、突如として無駄に光の多い夜の街の風景が、そこに広がっていた。高らかな笑い声を上げる茶髪の若者や、客引きに明るい看板の前に立つ男性。テレビでしか見たことのないようなピンクやら白やらの蛍光色の服を纏った水商売らしき女性のグループ。建物も全てネオンで装飾されていて、目立たない店は一軒として存在しない。
こんなところ、私は来たこともなければ来たいと思ったこともなかった。アドレナリンの手を引いていた一匹の蝶は彼を連れてひらひらとその街を飛びんでいく。距離を置いていたが、私はその光景を、その決定的瞬間を、この目で見た。男を連れた蝶は躊躇うことなく私の見ることも適わぬ光の中へと消えていった。その光はあまりに眩しかった。白熱灯の下に照らし出され、周囲とはどこか違う、落ち着きながらも洒落た雰囲気を醸し出している店だった。だがその美しさは決して褒められたものではなかった。美術専攻の私が言うのだから、間違いない。外見は如何にシックなつくりを演出しようとも、場所が場所、内容が内容。センスの欠片もないような人工的な花の下に、ネオンの街に、下世話で甘い蜜を求めて這い回る虫たちの、一夜ばかりの憩いの場に過ぎない。その店も、実態はそういう輩の溜り場だ。ついてなど行くべきでもないし行く気にもならない。
気分が悪くなって、私は彼らがその方向へ消えたのを確認したあと、すぐに来た道を引き返した。酷い吐き気と嫌悪感が私を苛み、胸や頭がおぞましく荒れ狂う炎で焼かれているかのようだった。何が何だか分からない。冷静になれ、と言い聞かせれば言い聞かせるほど、どこかでこれが落ち着いていられるはずもない、という声がする。息苦しさのやり場を腕に力を入れると、先ほど握りしめていた画材の紙袋があるのに気付いた。そこで私はようやく、そうだ画材を買いに来て帰る途中だったのだ、と思い出した。買い終えた画材道具が唯一私の味方だった。彼らを胸に抱き、深呼吸をすると、アルミ容器と紙袋の無機質で冷たい香りに徐々に心が落ち着きを取り戻した。私は再び帰路につき、そのあとひたすらに粛々と家までの道を進んだ。道中で、言葉にならない考えを取りまとめているうちに、先ほどの嫌悪感がアドレナリンに対して向いているものだとはっきりと自覚することができた。正確には私はアドレナリンがどうなろうと興味はなかった。だが私はキヨミが先ほどのようなアドレナリンの姿を見て傷つくのをとても恐れていた。そのためには、事実を正しく突き止める必要がある、と考えた。アドレナリンがなぜあの女性と一緒にいるのか。何を考えているのか、それを私は知る必要があるのだ、と一種の義務感が沸き起こった。運の良いことに、次の日は休日だった。私はとりあえず落ち着いてから考えよう、とその日は早めにベッドに入って就寝した。
翌日の昼、私はアドレナリンに一通のメールを打とうとした。内容はもちろん、昨晩の女性の件について、アドレナリンとどのような関係にあるのかというものである。最初はレスが来たらそれに続けて、根掘り葉掘り訪ねて果てはキヨミとの現在の関係まで探るつもりだった。しかし、昨晩のことを思い返していざメールを打とうとすると、ふと指が止まった。思えばこんな重大な内容を、メールのやりとりだけで簡単に済ませてよいものだろうか。私は一年の前期が終了して以来アドレナリンには二度と会いたくなかったが、今は彼に面と向かって怒鳴り散らして、一言馬鹿野郎と言ってやりたい気分だった。そのくらい昨晩のアドレナリンの行動は私の勘に触った。メールという一方的な手段で変に言い逃れされるのも癪だった。それだったらまだ、アドレナリンに会ってまくし立てる方が性に合っている。彼は事実が顔に出るタイプだ。そうすれば、言い逃れることもできまい。
私はそう考えてアドレナリンに、今からそちらの家にお邪魔をさせていただくので準備をするように、と選択権を与えない一方的なメールを送信して返事が来るのを待った。あまり時間をおかずに携帯電話のバイブレーションが作動した。分かった、久々だね、とそれだけ書いてあった。どうやら何を言われているのか見当もついていないようだ。どうしたの、とも聞いてこないで内容を了解するあたりが、特にキヨミに似ている。だが今はそんな悠長なことを言っている場合ではない。私はすぐに支度をして、家を飛び出した。
アドレナリン宅に着いたのはそれから暫くした後だった。彼のマンションに表札はなかったが、以前何度も出入りをしていた場所だったためにマンションの位置も部屋番号もすぐにわかった。着いた、と連絡をして、アドレナリンに内側から鍵を開けてもらった。玄関のドアからは、私が彼の家で生活していた時と変わらない、整理の行き届いた部屋が隅々まで見て取れた。
「いらっしゃい」
アドレナリンはにこやかに私を見つめて言った。私はすぐにでも件の話に切り出したい気分であったが、とりあえず靴を脱いで家に上がらせてもらうことにした。ベッド脇の卓の前に坐り、久々だな、と軽く挨拶をする。そうだね、と言いながら、アドレナリンが茶を用意して私の前に置いた。
「君がうちに来るのは、一年の夏の時、以来だね」
そりゃあお前には二度と会いたくなかったからな、と言い返してやりたかったがここでそんなことを言っても仕方がないので黙った。代わりに目の前にあった茶に手を付け、少し啜る。生温かく渋みを含んだ液体が口の中で転がり、懐かしい味を私に思い出させた。まあな、と私は適当に相槌を打った。
「それで、今日はまたどうしたの」
人の気も知らないで簡単に話を切り出してくれる。彼も薄々、私が何の用もなくこんなところに来るような人物ではないということを分かっているのだろう。それもそのはず、事故の被害者ということで一度同じ場所に住んでいたとはいえ、実際には赤の他人。もう二度と会いたくないと思っている以上は、本当は用事があってもこんなところに来たくはない。私はまた、まあ、少しな、と曖昧な返事をしかけてアドレナリンを見た。彼も久々に自宅に私がいるのが珍しいのかこちらをしかと見ていた。だが私は、おや、と思った。こちらをしかと見つめるアドレナリン、に逆に違和感があったのだった。私の知っているアドレナリンはもっと挙動不審で、いつも何かに怯えていて、少し突けばすぐぼろを出すような、体は大きく逞しいが頼りなくて不甲斐ない男であり、これほどまでに人と対話の出来る人間ではなかった。私と一緒に大学に来ていた時から少し様子が変わったようではあったが、それでも消極的な態度と他者優先的な姿勢は彼の中にいつまでも残っているはずのように思えた。それが今は、どこか雑念がふり払われ、さっぱりしてしまい、どこにでもいる普通の男子学生に見えた。これは一体どういうことだろう。
「あんた」
私は手に持っていた茶を机に置いて顔を顰めた。
「随分と様変わりしたな。顔つきが前と全然違う」
「そうかな。ありがとう」
アドレナリンは妙にしれっと礼を言ってきた。私の言葉は皮肉にも彼に肯定的な意味で取られたらしかった。やはり以前とは大分態度が違う。以前の彼ならば、このような褒め言葉には、恥ずかしそうに顔を背けるだけだった。
「褒め言葉じゃない」
思わず出た本音に自分で言っていて不愉快になった。アドレナリンは、はあそうなの、と言い返したが私は即座に、ああそうだ、と断言した。そのときふと、昨晩アドレナリンと見知らぬ少女がネオンライトに消えていく光景が思い出された。夜の街並みで光の中に消えていく二人を私は無心で見ていた。その反対側、暗い夜道の陰に隠れて、キヨミがさめざめとすすり泣く様子がさっと一瞬だけ見える。今のアドレナリンの態度は、私にその想像を強く思い起こさせた。そしてそれは、私の中に突如として熱狂的な炎が燃え上がらせた。思わず口が滑った。
「あんたは前から嫌いな奴だったが今はさらに嫌いでつまらない奴に成り下がったね。前はもう少し面白い奴だと思っていたんだが、今はもう、型にはまってる。つまらなくなったもんさ」
アドレナリンは無表情で黙って私の文言を聞いている。それが余計に癇に障り、私はさらに事を急いで早めにトドメが刺したくなった。呼吸を乱さぬアドレナリンを、私は冷ややかに見つめ返した。それから冷静を装い、ふ、と息を吐いてゆっくり笑った。
「そうだな、そうやって、昨日の女も落としたんだろうな」
「え」
アドレナリンの目が突如大きく見開かれた。思いがけない方向から不意打ちを食らった彼は少しだけ以前の弱弱しい表情に戻りかけた。私は鼻で笑った。
「昨日見たんだよ。あんたと知らない女が仲良さそうに話しながらホテルに行くの。随分と楽しそうだったなあ? 付き合って長いのかい。え?」
アドレナリンはこの世の終わりを見た、とでもいうように体を強張らせて腑抜けた顔をしていた。息を詰まらせ視線を逸らし、そこに今自分が生きている事実を残さないように消えてしまいたいと、緊張した彼の腕、肩、胸が言っていた。そうだ、これでこそ私の知っているアドレナリンだ、と場違いな感想を私は抱いて心の中で苦笑した。
「ぼ、僕は」
言葉に詰まるアドレナリン。私はおかしくてたまらない。
「知らないなんてふざけたことのたまうなよ。こちとら、ちゃんと写真にも納めてあるんだ」
隣にあったバッグを引き寄せて、その中に手を乱暴に押し込む。
「なんだったら見せてやろうか。お前とその女の現場とやらを」
ぐら、と突然アドレナリンが前に傾いて、うう、と唸る。そして観念した、降参だ、といわんばかりに卓袱台に突っ伏して額に手を当てた。写真を収めているというのは、もちろん嘘だ。昨日は動揺しすぎてそれどころではなかったし、あの女の姿を私が写真に収めたところでアドレナリンを脅す以外の活用方法がない。だが私の知っているアドレナリンなら嘘でも虚勢を張りさえすれば押し通せるはずだ、と私は確信していた。だからこの嘘をついたところで、彼は私に証拠を見せてくれ、などとは絶対に言わない。彼が私に勝つことは万の一つもあり得ない。何だかんだいっても、本当の彼はあらゆる点で、詰めが甘いのだ。
アドレナリンは私の提示した嘘混じりの提案にあっさりと報復を宣言して、息を荒くしていた。私は膝に引き寄せたバッグから手を離して彼に問いかけた。
「何でまた二股なんて慣れないことしようなんて考えたのさ。あんた、そんな柄じゃないだろう、どう考えても」
逆を言えば私はアドレナリンが浮気に手を出が出せるほど度胸のある人間だとは思っていなかった。柄じゃない、と彼は呟き、私の方に向き直った。
「そんなの、僕が、一番、よく、わかってる」
絞り出すような辛辣な声だった。今にも泣きそうな表情でアドレナリンは言う。
「でも違う。僕の、せいじゃない。彼女たちが、僕のこと、好きだって言うから。僕は、あの子たちが良ければそれでいいって」
突っ伏して頭を抱え、髪を掻き毟る。あくまでも自分のせいじゃないと言い張り取り乱すアドレナリンに腹が立ったのは言うまでもないが、もう一方でアドレナリンの発言を聞き、鋭い予想が脳裏をよぎった。これを言ったら彼はどんな反応をするだろうか。そう考えると、自分の中で燻ぶる炎が、ぱちっと音を立てて別の方向に燃え広がるのが分かった。歪んだ欲に眩んだ炎が、私の普段のどこかで冷めた思考を呑みこんだ。もう先のことなど考えていられなくなった。
追い詰めたい。もっと彼を追い詰めて、どうなるのか、その先を、その反応を見たい。
「おいちょっと待て」
頭の中で笑いながら、顔はいかにも動揺した感じを演出し、アドレナリンに尋ねる。
「彼女たちって何だ。あんたキヨミとあの女の他にもまだ付き合ってる奴がいるのか」
笑い草だ。焦って訊いている割には声が全然それらしくない。当然そうなんだろう、というニュアンスさえ感じられる、いかにも演技らしい演技。しかし今のアドレナリンにはそんな分かりやすい演技を見破る余力など残されていようはずもなかった。彼はまた目を見開いて自分の両肩を抱き、私の邪推にぐずぐずと崩されるばかりだった。最早今の自分では事実を受け入れることさえも困難と言った具合に、窒息しそうなほど呼吸を止めて気まずい顔をしている。大きな肩は、息を止めれば止めるほどにぴくぴくと痙攣してその存在を主張する。何で分かったの、そう問われ返すことさえもなく、私はこの男の器の小ささに反吐が出るほど不快になった。
馬鹿だな、と思った。ひたすらに、ただ愚かだ、と思った。かわそうと思えばいくらでもかわせるというのに、動揺すると何も考えられなくなるところが、この男の一番の欠点だ。最初出会ったときから、彼は詰めが甘かった。この状況に至っても、結局それは変わらない。他の女は幾らでも欺くことができるのに、私に対しては動揺が勝って何も言い訳できない。アドレナリンの嘘は、優しいと言われる一方で突きつめれば簡単に見破れる。それが分からず盲目的になると、いずれ自分が痛い目を見ることになるのだろう。彼はそういう人物だ。
「僕は、彼女たちに、好きにさせてあげたい、だけ、なんだ」
ややあって、アドレナリンは言った。先ほどまでのさっぱりしてつまらなくなった口調すらも、今はすっかりゆっくり途切れ途切れの言葉に戻っていた。
「僕自身の、ことは、どうでもいいんだ。ただ、毎回、女の子に告白される度に、彼女たちが、そうしたいなら、すればいい、って思った、だけなんだ。僕が、断ったら、彼女たちは、僕に振られて、嫌な気分に、なるでしょう」
アドレナリンは切々と、自分の理屈を語る。確かに男に告白して一度振られた女と言うものは性質が悪い。なかなかその人物のことを諦めきれず、何度も告白し直したり、時には何とか誘惑できないかと事あるごとにアプローチしてきたりする。また、そうでない場合でも初恋の味がなかなか忘れられず、意味もなく取り乱したり、果ては一度振られた程度でストーカーと化したり、鬱や病気になったりすることさえある。
「彼女たちは、付き合うのを、拒否すると、病んだり、諦めきれなかったり、心に何らかの穴を空けて、生きていくことになるでしょう」
だから、と言葉を切り、いかにも正論であるかのように語る。
「僕は、女性をそんな風にして、傷つけてはいけないと思う。僕がどう、思うかよりも、彼女たちが傷つかない事が、一番大事なんだ。だから、僕は、誰も振らないし、誰も拒まない。そんなことをしたら、彼女たちが、傷ついてしまうから」
頼りないがやや力のこもった言葉に一瞬だけ、確かにアドレナリンならそう考えるのかもしれない、と私は思ってしまった。私はここにきてアドレナリンが極端な他者優先者であることを思い出した。アドレナリンは、周りに気を遣いすぎるがゆえに、他人がされて困ることが分からない。私がどんなに彼に世話になっても、もう二度と会いたくないと思っていたのは、おそらくそれが原因だったのだ。他者優先に対する忌避と嫌悪。極端になれば、それは、自分の理屈で相手のしてもらいたいことを勝手に誤解し、そのためになら自分を幾らでも捨てられる、という考えだったのだ。
この場合で言えば、アドレナリンは女性を振ると誰であれ碌なことにならない、それを防がねばならない、彼女たちの好きにさせるのが最も正しい選択だと思い込んでいる。しかし一方で、相手に合わせるあまり自分の感情を完全に見失い、それゆえに恋愛において最も根本的な独占欲の強さというものを失い、結果自分一人を愛してくれているわけではないのだという事実が露呈した時の、彼女たちの気持ちを全く想定できていない。事実が発覚した際のショックの方が、告白を断られたときのものより大きいと言うこともわかっていない。彼にとって一番重要なのは、告白された時に彼女たちを振らないという、ただ一点のみなのである。
「なあ、アドレナリン」
何もかも噛みあわない破綻しきった理屈に私はため息をついて声を掛けた。
「あんた、何でそこまで告白を受けることにこだわる。付き合えないなら、付き合えないって素直にいえばいいだろう。彼女がいるならそれが断る理由になるし、一度告白を受け入れられたからって、後から他の女と付き合ってることがバレたら、そっちの方がその子たちにとっても、ショックが大きいだろ」
極めて正論を言ったつもりだった。だが即答された。
「でも、受け入れれば、告白されたその時は、彼女たちを悲しませなくて済む」
真面目な顔だった。その言葉には私が知っている言い淀みの多いおどおどした口調は消え失せ、ただ満身創痍に自説を展開する政治家のような確固たる信念が宿っていた。アドレナリンはどうやら本気で、例えあとあと浮気が発覚したとしても、告白したその時、その瞬間、女性を悲しませさえしなければそれでいいと考えているらしかった。私は閉口した。
「前にも、言ったかも、しれないけど」
アドレナリンは続ける。
「相手に対して、本気で申し訳ないと思ったら、僕はその人に、何でもしてあげたくなる。君に対しても、彼女たちに対しても、それは、同じだ。僕は本気で申し訳ないと思ったからこそ、君にも、彼女たちにも、何でもしてあげたくなったんだ」
それは私がアドレナリンの家に来て話をしたとき、最初に違和感を覚えた言葉だった。右の手足が動かなくても大学に行きたいのを悟られた私に、彼は自分の半期分の授業を全て犠牲にしてでも移動に付きそうと言い放った。遠い記憶の中に薄れかけている言葉は、アドレナリンの意思を持った解説に裏付けられて今はっきりと思いだされた。最初から、彼にはそういう感情しかあり得なかったのだ。私が他者優先的すぎる彼を、優しい、と評価できなかったのは、キヨミと違って、意思らしい意思が、その他者への優先意識以外に何も感じられなかったからなのかもしれない。
私は切々と自分の理屈を語る彼の剣幕に、最早言い返す気力が失せてしまった。彼には、決して他人が覆すことが出来ない、他者優先の名を借りた究極的なエゴが力強く根を張っていた。この無茶苦茶な理屈は、おそらくそれまでの彼の生きざまに由来するものなのだろうが、私はそれを詮索する気さえ起きなかった。それ以上に、今はこの男に対する嫌悪感と、キヨミへの心配が勝った。普段は落ち着き払ったキヨミに僅かながらの意思が見え、それが嬉しくてつい嘘までついてこの男に彼女を近づけてしまったことを本気で後悔した。今はキヨミとアドレナリンが似た者同士だとはとても思えなくなった。確かに二人は他者優先的だが、アドレナリンのエゴはキヨミにとっては、毒にしかならない。キヨミの優しいという評価は所詮、彼女の知っているこの男の一面に過ぎない。今のアドレナリンを見て、一つ学んだ。何と言うことはない。優しさなど、優柔不断の裏返しなのだ。
私は席を立った。バッグを肩から掛け、アドレナリンが出してくれた茶を手にとって、流し台に置く。そうかい、と一言、何でもないかのように言った。否定しているわけでも肯定しているわけでもないその言葉を、アドレナリンは黙って聞いた。一年の頃長らく使わせてもらっていたこの家の台所は、今は少し煤が付いて汚れていた。物の少ないアドレナリンの家では、その汚れは酷く目立った。
私は何も言わずに玄関に向かった。帰るの、とアドレナリンが尋ねてきたが、首を縦に一つ振っただけだった。呆然とキヨミのことを考えていた。私はアドレナリンの知られざる事実を一つ知ってしまったが、このことはキヨミに言わないようにしよう、と思った。そんなことをすれば、それこそキヨミを傷つけることになり、キヨミのためにもアドレナリンのためにもならない。それにキヨミはおそらくアドレナリンのことを本当に信じており、私とアドレナリンが事故の被害者と加害者であると言う事実を知らない。自分が幸せな彼女であることを確信しているキヨミに、下手にアドレナリンの話を振れば、おそらく関係を怪しまれて逆に私が友人を失う羽目になる。
私は考えに考えた末、事実は私がわざわざ動かなくても、いずれ分かるときが来る、その時に彼らがどうするのかは知らないが、少なくとも今は静かに彼らの行く末を見守ろう、とそう思った。もう少しゆっくりしていけばいいのに、とアドレナリンが背後から声を掛けた。私は振り向きざまにちらとアドレナリンの方を見て、それから玄関のドアを押した。部屋の中では、いつぞや私がこの家から出て行こうとするときと同じように、アドレナリンが苦笑いをしていた。私は去り際に一言、
「馬鹿野郎」
と言い置いてやった。
***
アドレナリンとキヨミの破局はそれから間もなくやって来た。アドレナリン宅を訪れてから一ヶ月後、年末制作会に明け暮れる私の元に、アドレナリンとキヨミの双方からメールが届いたのだった。アドレナリンからは「あの子にフられちゃったみたい」という一言、キヨミからは「あの方と別れることにしたの。いろいろあって」という意味深な一通を受け取った。キヨミの文面からは、いつものカラフルで可愛らしい絵文字がすっかり消えていた。
私は最初にキヨミのメールを返した。さもアドレナリンが浮気をしていた事実を知らないように「何かあったなら、言ってくれると良い、相談に乗るよ」と返し、彼女からの応答を待った。暫くすると、謝辞の言葉と共にアドレナリンが他の女と付き合っていたという内容の文面が届いた。私はそのことについて好き勝手な言葉でアドレナリンを罵り、キヨミにその詳細を話すように頼んだ。彼女はメールの中で語った。
「私は本当にあの方のことが好きだった。あなたには秘密にしてたけど、あの方とは学校の外でよく会っていたし、一緒にご飯を食べたり、街を歩いたりした。彼と一緒にいる時間はとても楽しくて、満ち足りていて、穏やかで優しかった。時々恋人らしいことも何度かした。時間があれば出来る限り会って、いろいろなことを話した。でもあるとき気付いた。私は彼のことが本当に好きだったけれど、彼は時々私のことを見ていなかった。それだけじゃなくて、私が何かしたいって言いださなければ、彼が私を誘うことはほとんどなかった。それで気付いた。私は彼のことが好きだったのだけれども、彼は私のこと、好きじゃないのかもしれないって。もしかしたら、私の勝手に合わせてもらってるだけなんじゃないかって。
よくよく考えてみれば、付き合い始めたときから、疑問に思うことはあったよ。最初、私があの方に思いを伝えたとき、僕でよければ、って言われたの。その時は受け入れられたことに浮足立って何とも思わなかったけど、後から考えれば、少し変な返し方だよね。だってまるで、自分に自信がないかのような言い方じゃない。それから私とあの方の関係は、周りには秘密にしておいてくれ、とも言われた。私とあの方の関係の火種となったあなたには話さざるを得なかったけど、私、その約束通り、他の人には話さないでいた。でもこれって、要するにあの方が私との関係を他に広められたら、他の女の子にも同じ情報が伝わって問題になるからでしょう。この間、あの方の浮気を知った時に問い詰めたら、やっぱり他の女の子にも同じようなことを言ってたんだって。それを聞いて、私は少し残念に思った。でも、私は彼のことが好きだったのは本当。出来れば別れたくなかった。彼が改心するなら、寄りを戻しても、いいとも思ってる。」
私はそれを読んでキヨミがまだアドレナリンから完全に抜け切れていないのを察した。そしてそのキヨミのメールが、アドレナリンではなく先に私に届いたことに本当に感謝した。おそらくこのキヨミのメールを読んだら、アドレナリンはまた、キヨミがそう言うなら、と言って彼女を悲しませないことを第一に上辺だけの関係を続けたに違いない。彼の理屈の根底にあるものが、他者優先のエゴである限り、アドレナリンが本当の意味でキヨミを愛すことは万に一つもあり得ない。彼らは、お互いのことを理解して愛し合っているように見せかけても、一緒にいて幸せにはなれないのだ。
私は返信に、それは止めておいた方がいい、一度そういう風になった奴は、何度も同じことを繰り返す、次同じことをされて、傷つかずに、あいつはああいう奴だと思いながらも、それでもアドレナリンのことを好きでいる自信があるのか、私は別れて正解だと思う、早く新しい人と幸せになって見返してやれ、と書いて送った。携帯はその後数時間沈黙していたが、やがてその身を震わせてメールの返信を告げた。私の言葉で吹っ切れたのか、キヨミは返信にそうだね、ありがとうごめん、と書いて送って来た。私はそれで、彼女がアドレナリンの陰に脅かされることもない、安全な道を進んでくれることを祈った。キヨミならばきっと良い男が他にいくらでも付いてきてくれる。彼女ならば、大丈夫。そう思った矢先、目に入った次の行に私は絶句した。そこには単純な好奇心からなのか、「そういえば、あなたとあの方は、どこで知り合ってどういう関係になった仲なの」と書かれていた。
遂に訊かれてしまったか、と思った。私はそれを見て、携帯を持つ手が思わず震えるのが分かった。私とアドレナリンが出会った理由。飲酒運転の果ての事故。そして関係性は、介護生活のための同居人。かつてアドレナリンの恋人であったキヨミに、そのことを説明すると、話が余計に複雑なことになるのは目に見えている。ましてやアドレナリンに失恋したこのタイミングで事実を話してしまえば、キヨミがあらぬ方向に事実を曲解して暴走し、私を友人として見てくれなくなるかもしれない。美術部には、私とアドレナリンが付き合っているのではないか、という妙な噂も流れていた。一応、先輩に問われた時には否定していたが、そう見えてしまった、という事実は、アドレナリンが浮気症であるという事実と照らし合わせると、いかんともしがたい言い逃れ難さがあった。しかし事実を話してしまえば、アドレナリンは事故の過失を問われることになるであろうし、おそらく私もただではすまされない。恋愛がどうとか、浮気症がどうとかという以前の問題としても、私は何としてもキヨミに事実を隠してアドレナリンと交流をもつことになった、上手い嘘をつかねばならなかった。
私はその嘘を何とか思いつかないかと懸命に思考を巡らせた。だがこういう時に限って、都合のいい嘘はどう頑張っても思いつかなかった。簡単な嘘なら今まであれほどつけたのに、キヨミの認識の穴を上手く潜り抜けてくれる嘘が、なぜか全く浮かばない。一番の盲点は、私がキヨミのことも、アドレナリンのことも良く知った気になって、実際にはほとんど何も知らなかったことだった。私は彼らが他者優先的なのを知っていた。キヨミがアドレナリンに気を持っているのも知っていたし、アドレナリンがキヨミを本気で愛しているわけではないのを知っていた。知っていて、全部言わず、隠し、二人をまるで手の上にでも置いているかのように嘘をつき続けた。けれど私は、実際に二人がどういう関係にあったのかを知らなかったし、アドレナリンが本当はキヨミのことをどう思っているのかも知らなかった。それどころか、私はアドレナリンの本名さえ知らない。彼に会った時、彼にアドレナリンと言う名を与え、そのままそれを通してしまった、その名を彼がどう思っているのかも、キヨミがそれをどう思っているのかも、それからキヨミがアドレナリンの本名を知っているのかどうかさえも、実際には何も知らない。何も聞いていない。
自分の保身に回ることばかり考えて必要以上に人に近づかなかった故に起きた他人への徹底的な興味のなさが、キヨミにこのメールをもらったとき、遂に回って来たのではないか、と思った。私はアドレナリンの友人を名乗ることでキヨミに軽蔑される可能性を十分に理解していながらも、止むを得ず、病院の同室にいた人物の知り合いだった、結局友人になったが、と書いて送った。キヨミと別れたあの美術部の新入生歓迎会の日、私は事故で怪我をして病院に運ばれた。一人暮らしのために頼るべき者がなかった私は、数日間の診察を終えて医者には入院を宣告されたが、長年の憧憬の末にようやく入学した大学に、来て早々行けなくなってしまうのが嫌な私は、夜は病院に戻るから日中は外出を許可してくれないかと反入院生活の提案をした。が、医者は外出するには同伴が必要であるといった。仕方なく入院生活を余儀なくされた私だったが、たまたま同室に体育科で入院をしていた人物がいた。その見舞いに数人の男子グループがおり、そのうちの一人がアドレナリンだった。同じ学校のよしみで私に興味を持ち、話し掛けてきてくれた同室の人物の紹介でアドレナリンとも会話することになった。その中で、実は学校に行きたいのだが同伴がいないと外出できないのだ、と話すと、彼は同情を寄せ、自分が同伴になってやると名乗り出た。それから彼は毎日病院から私を連れ出し、学校でも介助をしてくれていたのだ。アドレナリンと言うのも、入院中、同室の体育科のその人物が彼をそう呼んでいたためだ。私は彼にその理由を聞いたことがないので由来ははっきりしない。
その後のメールでそのように長々とでっち上げの出会い話を語った。深く詮索されたら簡単にボロが出る、極めて苦し紛れの設定だった。しかしキヨミは話がややこしいのだけを理解したのか、あるいはその複雑な設定を読むのさえ面倒くさくなったのか、返信で文面上では納得したような記述をして対話を終えた。私はキヨミがいち早くアドレナリンのことを忘れてくれるように祈りながら、メールを終え、次にアドレナリンのメールに返信をした。
最初のうち、アドレナリンは短い言葉でキヨミに振られた未練をぽつぽつ書いていた。そこから分かったのは、実のところ彼は付き合っていた女性の中でも一番キヨミのことが気に入っていたらしい、ということだった。そもそも彼の女癖が悪くなったのはつい一年前くらいから、なのだそうだ。授業で一緒になった女子があまりにも自分を目当てに告白してくるものだから、その気迫に勝てなかった、とか何とか言っていた。最早彼の理屈に付き合うつもりのない私はそんなことはどうでもよくなっていたのだが、彼が唯一、キヨミに思いを寄せていたという事実には驚かざるを得なかった。他者優先に凝り固まったアドレナリンが、まさかそんなことを考えているとは思いもしなかったのだ。
しかし私はこの男にキヨミを追いかけろとは絶対に言いたくなかった。それはまたいつアドレナリンがキヨミを裏切るのかわからないという異常なまでの不信感が私の中に根付いていたためだった。私はぽつりぽつりと、以前のアドレナリンの口調と同じように短く語られるメールに一つ一つ丁寧に返信をした。そうして数時間交流し、私もいい加減そろそろ飽き始めた頃、彼からおぞましい一文が届いた。私はその時の衝撃を未だに忘れられない。今まで生きてきた二十数年間のうちで、あれほど他人を忌み嫌い、罵りたくなり、頭蓋を踏みつけてその顔面を殴打したくなり、果ては酷く叱りつけて罵倒したくなったことはない。彼は最後にこう送って来た。
「もしかしたら、彼女と同じくらい、君のことは本当に好きなのかもしれない。良ければ付き合ってくれないかな」
***
さて、君よ、アドレナリンのこの理屈、この発想、そしてこの事の顛末。笑えるにもほどがあるとは思わないか。馬鹿らしいにもほどがあるとは思わないか。私はこのメールの一文を見た瞬間に怒りに我を忘れて思わず笑い転げ、携帯電話を床に放り出してしまったほどだった。そのあともちろんアドレナリンにはノーの返事を書いて送ったが、その時の文面は我ながらあまりにも長文にしすぎたと思う。ふざけるな、女を馬鹿にするのも大概にしろ、別に私はお前ごときがいようがいまいがどうでもいい、関係が続かなくて困ることは一切ないし、寧ろお前にはもう二度と会いたくない、と、そう書いて送ってやった。するとアドレナリンは、そうかそれは残念だ、と、ちっとも残念そうに見えない文面でメールを返してきた。そう、もう君もおわかりだろう、彼にとっては所詮、本当に好き、という言葉は、その程度の重さしか持っていなかったのだよ。いかにも他者優先のアドレナリンらしいといえば、らしいのだが、君、これがまた不思議なことに、彼は未だに手持ちの女一人に浮気が発覚するごとに、私にメールを送りつけてくるのだ。もう何を考えているのか全く分からない。何がしたいのかも全く分からない。だが私も私で、何だかんだ言いながらも携帯のメールアドレスはまだ替えていない。私も所詮、アドレナリンと同じ、他人に甘い人間なのかもしれないな。とはいえ私は彼のように、誰にでも愛想を振りまける立派でつまらない人間にはなれないとは思うが。だからこそ、私は誰も愛することが出来ないのだろうと、自分で思っているのだ。
こんな中途半端な関係を続けて、かれこれもう三年になる。だが私はアドレナリンの恋人になる気は更々ないし、今でもアドレナリンにもう二度と会いたくないという気持ちは変わっていない。ただ、別に彼のメール上の友人でいることは吝かではない。そういうわけで、事故の被害者と加害者という立場の私たちは、今ではどういう関係になっているのか、自分たちでもよく分からなくなりつつある。アドレナリンが何故未だにメールを送りつけてくるのかも分からないし、私も私で彼をどうしたいのか一向によく分からないまま、メールを交わし続けているというだけの話だ。ただ、この三年間の大学生活で学んだのは、恋愛をするにしてもせざるにしても、それを語ることは極めて面倒なことであり、そんなものに足元をすくわれるくらいなら、最初から自分の理屈と言うのを明確に相手に伝えておくべきだ、ということだ。私が今回君にこの話をしたのは、正直私ももう恋愛がどういうものであるのか、考えるのに疲れていたからなのだ。恋愛だけではなく、人付き合いに対しても同じだ。アドレナリンと私の関係もそうだが、彼が過去にキヨミと言う私の友人を愛していたかどうかということを、いちいち精査することに、私はもう疲れてしまった。恋愛については、もう何もかもがどうでもいい。出来ることなら私はそこに干渉しない立場でありたい。そんなことより、私は私の思ったように、生きているのが一番いいと考えたのだ。だから、今日君に告白された時、この話をして、私の立場をはっきりさせようと考えた。おそらく私が主体的に愛すことが出来るのは、美術作品だけだ。これだけ壮大でわけのわからない恋愛を目の当たりにした後では、盲目的に人を愛することなど、恐ろしくてとても出来る気がしない。それは相手が誰であろうと同じ事だ。もちろん、君であろうと。それが私の立場であり、私が最初に君のことを愛せないと言った理由だ。君はこれを聞いてどう思っただろうか。
そうだ、君よ。そういえばそこに一枚の絵画があるだろう。それは先ほど私が語った、年末制作会のときに作ったという、海の獣の絵だ。あの事件のあと暫く探して、やっとのこと、私はその絵に使うための理想の青を見つけた。その色で追求した、私のイメージを、君にも是非見てほしい。
透き通る水に包まれる海の獣。その周囲には数え切れないほどのほの白い蝋燭の陰。紫と青を基調とした色彩にたゆたう淡くぼんやりとした蝋燭の炎は、か細いながらもしっかりと芯を持ち、獣を取り囲んでいる。一方海面からは太陽の光が何重にも拡散しながら降り注いでいる。普段は明るく穏やかなそれは、時折水の中で屈折しては蝋燭に触れる。左上に描かれた蝋燭から、順番に見ていけば分かる通り、その太陽に照らされた蝋燭は、水中にも関わらず突然その身に火が付いてみるみる溶かされて行く。それを見て、中央の獣はやや動揺して、激しく息をしながら暴れ始める。獣はその獰猛な本性を必死で隠して、自分の周囲に立てられた無数の蝋燭の炎を消そうとするのだが、いくら彼が動き回ったところで焚きつけられた炎は消えることがない。それを見て、獣は更に焦る。激しく息をして、何度も何度も消火を試みる。泡が必要以上に誇張されて描きこまれているのは、このためだよ。だがね、君、いくら獣が動きまわったところで、その蝋燭の炎は決して消えることがないのだ。なぜなら水の上にある太陽が、ご丁寧にも獣がその呼吸で消して回っている炎を、何度も、何度も点け直してしまうからだ。獣は必死で足掻き回るが、どうあっても上からの光は防ぎようがない。だが太陽も獣も、お互いに一歩も譲らずに蝋燭を点けたり消したりを繰り返す。そこにどこからやって来たのか、一匹、二匹、蝶が紛れ込んでくる。蝶だけに限らない、蛙や、鳥や、猫、兎、その他考えうる様々な動物が、この太陽と獣の蝋燭のやりとりに気付きもせずに、近寄ってくる。彼らの目当ては、獣の呼吸だ。だがそれらの動物は、獣の呼吸を求め過ぎて彼に近寄りすぎ、今度は蝋燭の炎にその身を焼かれてしまう。蝶も、蛙も、鳥も、兎も、獣の周りに近づいてはいつのまにか近くにいる蝋燭の炎に巻き込まれ、羽や毛や手足が燃えて、あっという間にいなくなってしまう。その動物たちが散り際に放つ僅かな火花が、何ともこの絵を幻想的で魅惑的に見せているのだよ。揺らめく炎に自ら吸い込まれるようにして消えていく動物たち、ひたすらに蝋燭の炎を消そうとして息を吹き続ける海の獣、自らは動くことすらできずに身を溶かしていくだけの白い蝋燭。そしてひたすらに上からさんざめく太陽。それだけのストーリーがこの絵の中にはかきこまれている。まあ、実際は作者である私が解説を施さなければ、所詮は気まぐれな美術学生が描いた、ファンタジックな一枚絵にしか見えないがね。寧ろ私としてはそれで大いに満足ではあるよ。芸術の価値など、作者が決めるものではない。例えその裏にどんな話があろうとも、どんな設定があろうとも、どんなコンセプトがあろうとも、見る方はそんなことは気にせずに、ただその造られたものを、純粋に良いか悪いか判断すればいいだけの話さ。高々このような一枚に込められた作者の考えとか、鑑賞の仕方を巡って人生を棒に振ってしまいたがる、特異な人にもいるにはいるが。私は君に、この作品をそういう目では見てほしくないかな。
とはいえ、君、少し呆気にとられているようだが、私が怖くなったかな。まあそれならそれで別にいい。私は私、君は君。別に私は告白されたからといって、私は君にその全責任を押し付けるつもりは毛頭ない。これから先どうするかは、君の裁量に任せるよ。ただ、今日の話は全部事実だ。これを信じるか信じないかは君次第であるが、私はアドレナリンとキヨミに嘘をつき続けても、それは必要で止むを得ずついた嘘だと自分でも分かっている。だから出会って間もない君に、しかもこんな重要なことを話しあっている最中に、嘘をつくも何もあったものではない。忘れたいなら忘れてくれて一向に構わないし、それでも付き合いたいというので言うのであれば、最初に言ったように、私はどこまでも君について行こうではないか。まあよく考えるといい。何せ、君にとっては、この告白の段階でさえ、大いに悩んで出した一つの結論であろうからね。
おや、携帯が鳴っているようだ。ちょっと失礼。ああ、何だ、またアドレナリンか。ふむ丁度いい。ほら君も見たまえ。また彼は例の件で私にメールしてきた。ここまで来るともう一種の見世物だな。相変わらず学習しない奴だ。一体何を考えているのか、さっぱり分からない。君、女遊びと言うのは、男にとってはそんなに面白いものなのかい。なぜ彼はこんなに同じことを繰り返して、つまらないメールを私に送りつけてくるのだろうね。私は何だかんだ言っても、アドレナリンのことはまず男女と言う差があるから、どうしてもこういうところは理解できないんだ。まあ、話のネタにはなるから、こうしてメールを続けているわけだがね。
メールの返信が気になるかい。こういう時に私が送るのは、たった一文だ。何度目になるかも分からないからな。君も、もう今までの話を聞いていれば大体想像が付くんじゃないか。そうだ、私はいつも彼にまずこのように送る。
一言、「馬鹿野郎」と。