オリジナル小説 同人誌

小説作品

タイトル

遥か彼方



 咽喉に張り付きそうなほどに噎せ返る多量の埃が宙を舞う。跳弾から身を守るためのコートにぎゅうぎゅうと体を締め付けられ、長いこと上げ続けていた腕はもう限界に近い。たった十メートルの距離に気が狂いそうになるほど霞んだ視界。黒い円筒にある僅かな隙間から覗くその先に、潰れたまんじゅうのように拉げた小さな的がある。
 あの小さな的を撃つんだよな、と藤枝は何度目になるか知らない銃を構えてまた思う。レバーは先ほど、カタン、と音が鳴るまで一杯に引いた。勢いよく噴射すれば肉をも貫く鉛弾も詰めた。あとはこの銃の照準を、今覗いている十メートル先の的の真ん中に、出来るだけ正確に合わせて、引き金を引くだけだ。藤枝の銃の引き金はとても軽い。人差し指の第一関節に少し力を入れただけで、すぐに発砲してしまうし、気を抜くと、照準を合わせているうちに誤って引き金を引いてしまう恐れもある。この間の大会など、その一発が暴発扱いになったせいで、得点が自己平均より五点も低くなってしまった。軽い引き金にこそ、細心の注意を払わなくてはならない。
 呼吸を整え、狙う先をしかと見つめる。引き金を引く寸前に苦しさで手元が狂う可能性があるから、息を止めてはならない。胸を大きく動かさない程度に吸って吐く動作を繰り返すのが正解だ。あまり手元を意識しすぎれば、その分筋肉が固くなってしまうから、体のことは土台くらいに思っておかなくてはならない。大事なのは、この軽すぎる引き金を引いたその直後から、十メートル先の的を弾が貫通するまで、体を動かさないことに尽きる。今ならば、弾は正確に的を射抜くだろうか。いや、このタイミングなのか。まだだ、もう少しだけ待つ。だが、もう腕の方が限界だ。
 パコン、と隣の射座で空気の抜ける音がした。と、同時に、二的射撃終了、という、銃声よりもずっと高い軽やかな声が、静かな射撃練習場に響く。もう終わったのか、さすがカズだ。銃を撃つ手に迷いがないのだろう、と覗き続けていたサイトから顔を離して脇を見る。まるでさなぎが蝶に羽化するように重苦しいコートを脱ぎ棄てた隣の射座の住人は、今まさに撃ち終えた後の的を輪ゴムでまとめ、他の射座の選手が終わるのを待つべく背後に置かれたパイプ椅子にどっかりと腰を下ろしていた。彼の体重とコートを支えた椅子が、射座のコンクリートと擦れ合ってぎぃと鳴く。手にしたペットボトルから流れる透明な水に、乾いた自分の咽喉が同じ感覚を得るのを想像して、唾を飲み込む。額に光るそれと同じく手のひらに滲む汗は、ペットボトル外の水滴と混じり合い共に初夏を控えた太陽の前に少しだけ霞んだ。隣でうまそうに水を飲む光景が、緊張しきった体と神経をたやすく攫う。
だが自分も、あと一発、あとこの一発さえ撃ってしまえば、茹だるようなコートの熱からも解放されるはずだ。神経を集中させた最後の一発は、一体どこを射抜くのか。ここまで来るのにそれなりに点数は取っているはずだから、八点圏に収まればまあ合格ラインといったところ。九点圏に収まれば十分嬉しい。だがやはり、目指すは十点圏、それもセンター。十センチ四方の的のど真ん中にある半径一ミリに満たないあの白い点を鉛の弾で撃てさえすれば、今日こそきっとカズにも勝てる。
ならば撃たねばならない。そのど真ん中、一ミリに満たない白い点を。
先を見つめて、まっすぐな姿勢のままで銃口を構え直し、サイトを覗いたちょうどその先がまさにぴったりと照準に合った瞬間。藤枝は人差し指の第一関節に僅かに力を入れ――その軽すぎる引き金を引いた。

***

「やあ、藤君も大したもんだけど、やっぱカズはすごいなあ」
「そんなもんかね。いやでも、今日大分疲れてたぞ俺。やる気出ねえ」
 能天気にへらりと言ってのけるおかっぱの女子の一言に、天平和義は水を飲み干したペットボトルをベコベコに押しつぶしながら答えた。コートはどうやら大分前に片づけてしまったらしい。ジャージも着ていないところを見ると、早く着替えてのんびりしたかったというその言葉は嘘ではないようだ。今ではすっかり団欒モードに入ったらしく、だらりと机に突っ伏している。
「んなアホな。疲れてたらこんないい成績取れっこないでしょ。パーセンテージにして九割五分。これなら次回の全国大会も夢じゃないね」
「全国は言い過ぎだろ。んなところに行く奴はもっと成績いい。それにパーセンテージに割合で答えてどうする。お前それでも本当にこの部活の事務要員か」
「ああこりゃ失敬! でもカズ。事務要員じゃなくてマネージャーや。そこ、かなり大事」
 言いながら片手で前髪を分けてむき出にした額をぺしっと叩く。部活のマネージャー兼二年生にして現女子部員の最高学年である桐原泉は、てへぺろ、とでも形容すべきように舌を出して片目を瞑り、パソコンの画面を再び覗く。この部活の成績処理とウェブサイトの運営は、工学部画像情報学科である彼女の十八番だ。本人は女子部員故にかわいいポジションにこだわりたいとのことからマネージャーと言い張っているが、実際は主務と言う名の雑務係であり、天平はそれを事務要員と呼んでいる。
「どっちでもいいだろ、そんなの。んなことよりそこにある『ワンピース』とってくれ。四十三巻な」
「あいよ。ってちっとは人の話聞けや、どアホ」
 桐原が目の前にあった漫画本を思い切り天平の方へと投げながら悪態を吐く。投げられた本が天平のこめかみにクリーンヒットした。いってえ、と頭をさする天平。
「止めろよ、大事な漫画じゃねえか。読めなくなったらどうすんだよ」
「あんたの頭、豆腐みたいにすっかすかだし柔らかそうだから大丈夫やろ。それより、今期の会計報告、本当にちゃんとやっとるんだろうな。こまめに決算しておかないと、年度末に部費徴収し忘れるで」
 決算、という言葉に部室の片隅で銀座銃砲店の商品カタログをめくっていた藤枝の手が止まる。天平と桐原のふざけた会話は聞き流していたが、部費のこととなると話は別だ。何だかんだでもう、自分も結構な部費をこの部活から借りているように思う。確かにこの辺りで一度いくらかかったのか確認しておかないと、あとでバイトのシフトを詰めることができない。
「んだよ、少しくらい遅れても平気だろ。どうせあとでまとめて払うんだからよ」
「いや、俺からも頼むよ、カズ」
 口添えすると、ああ? と気だるい声が返ってくる。
「俺はお前と違って金ないから。出来れば早めに返せるものは返したい。働く時間とこの部活に来る頻度も、考え直さなくちゃいけないかもしれないし」
 聞くのも面倒というように天平はまた漫画本に目を移す。お前の言いたいことはそれだけか、と言われている気がした。
「ったく、どいつもこいつも金カネかねって……」
「頼むよ」
「へいへい」
 返される言葉に反省の色はない。桐原は、何やその態度は、とまたぶつぶつ独特の関西弁で文句を言っていたが、藤枝はこういうときの彼が実はしっかり仕事をしてくれる頼りがいのある人物だと言うことを知っている。藤枝と違って金が有り余るほど手元にある天平は、その赤みがかった茶髪で強面の外見に反して同情の余地のある人間の頼み事は断れない性格なのだ。何年も前から彼と二人きりのときに話していて、藤枝から頼まれごとをされるごとに引きうけるのを見てそれを察した。経済的に余裕のない自分は、彼に目下の人間だと思われているし、自分も彼のことをどこか距離のある恵まれた人物として見ている。それがお互いの遠慮に繋がっているように思えるが、藤枝自身は彼がそうして自分に接することに、特に抵抗はない。同じようなことは高校の時までに何度も体験したのだ。
 だが藤枝はそれ以上に部室で漫画本を読むことくらいしかしてない天平が、この部活で自分を凌ぐ成績の持ち主だということが気に入らなかった。アルバイトの合間を縫って練習に励んでいる自分と違って、時間割にも余裕があり加えて競技に十分な投資できる金を持っていながら、天平は新しい銃にもその装備にも興味がなく、全くライフルに対してやる気が見られない。今日だって、桐原が練習試合に参加しろと駆り立てるまではずっと漫画を読み続けており、練習に参加する気配すらなかったし、部の弾丸購入数も一番少ない。二年の夏休みを控える六月の現時点で、まだ二五〇発缶を一つも使いきっていないのは彼だけだ。どんな魔法を使って先輩の三年生を押さえてトップの成績を維持しているのか。体育会の部活に練習しないで成績が良くなる競技など、あるはずもないというのに。
 桐原が天平に構い始めてパソコンが空いたタイミングを見計らって、藤枝は入力されたであろう練習試合のスコアファイルを開いた。男子立射六〇発競技、というヘッダー下の表をいくらかスクロールしたところで、今日の日付が出てくる。天平の得点は先ほど桐原が言ったとおりの五七一点。自分は五六〇点。点差は十以上あるが、割合にすると藤枝も九割は撃ち抜いており、的中率は僅か二パーセントの差しかない。体調や銃のコンディション次第で簡単に覆りそうな数字だ。にもかかわらず、今日も天平に負けた。今の今までこのような練習試合では、藤枝は天平に勝ったことがない。練習だけではなく、本番の試合だってそうだ。どんなに正確に撃ち抜いたつもりでも、藤枝の弾は九点圏にはいるのに、十点圏やセンターの点から稀に一ミリか二ミリだけずれて八点圏に収まる。その指先にも満たない僅かなずれが、彼と自分の二パーセントの差になっていることを藤枝はこの一年間で何度も思い知らされた。
 部内、永遠の二番手。総人数十人に満たない部活であるが、三年を含めて男子で九割越えしているのは自分と天平だけなのに、彼がいるばかりにそんなあだ名まで背負わされそうになっているのに我慢がならない。なのに、当の本人ときたら。
「おい、イズミ。次四十四巻取ってくれ」
 相も変わらず漫画三昧で、まるで銃に対して関心がないようである。これでは銃に執着し彼を気にしている自分の方が、馬鹿みたいだ。
「さすがだなあ、カズは」
 思わずそんな感想が漏れるほどに、天平の射撃は正確で、彼自身は怠惰だった。成績のことなど歯牙にもかけない天平を、内心藤枝は妬んですらいたが、その感情を認めてしまったらそれこそ負けのような気がして、今日も桐原とジャレ合う天平を見ながら、薄笑いの下に悔しさを隠す。
 先の練習試合。悩みに悩んだ最後の一発は六点だった。通常九割越えの成績でありながら最後の最後でこの点数は暴発したに限りなく近い。集中力が落ちたのか、手元が狂ったのか。中心を射抜き続ける成績ではこんな僅かなミスも命取りになる。これがなければ、もう少し彼の成績に近づけたかもしれないのに。
 いつか、カズを越える。こんなふざけた奴に負け続けるわけにはいかない。
 へらりとまた何事かに桐原が笑った直後に、重たい鉄製の扉を叩く音がした。練習試合にいそしんでいた下級生がビームライフルのセットを携えて戻ってきた。
「おー、お帰りー」
 真っ先に桐原が反応して部室のドアの前に駆けつける。ビームライフル用の電動射撃機と空気銃より一回り大きい銃、電撃用のケーブルは持ち運ぶだけでも相当な労力だ。藤枝も桐原に倣って下級生の片付けの手伝いに参加する。
 男女一人ずつ入った今年の部員はすみません、と遠慮がちに詫びて桐原に銃を預け、藤枝の方には電撃用ケーブルの入った袋を手渡した。電動射撃機は、男性部員である岩崎翔太が持っている。優しげな顔をしている割にがっしりとたくましい体つきの後輩は、背後にいるもう一人の同級生、大曾根真央を気遣いながら外と部室との段差を跨いだ。
「やー、疲れました。こんなに撃ったの、初めてです」
 岩崎が電動射撃機を持ち運びながら、外撥ねの強い髪の毛をぼりぼりと掻く。長らくコートに拘束されていた体からは暑さで発散された汗が湯気になって立ち上っている。
「先輩たちは凄いですね、毎回こんな長時間練習をやってるなんて」
 同じく一年の大曾根が言う。男臭い射撃部に不釣り合いな片側にまとめたサイドアップの髪が、動く度にしなやかに揺れる。彼女の方も長らくコートを着こんでいたためか、顔が真っ赤だ。額にも大粒の汗が滲んでいる。
「大丈夫、やってれば段々慣れるよ。それに、今度のビームライフル大会は全員四十発だけど、空気銃持ったら男子は六十発になるからね。全部で一時間半、夏でもコートを着込むことになる。ショータはこのくらいでへばってちゃ困るよ」
 藤枝の言葉にマジッすか! と岩崎が舌を出した。
「空気銃を持ったらこれ以上の地獄……」
「ん、でも持ってもらうねんで、この部に来た以上は」
「ひい! 勘弁して下さいよ」
 声だけで飛び退かんばかりのリアクションをしたが、手にはしっかり電動射撃機を持っている。実際、一時間半コートを着こんでの練習はなかなかの苦行だ。防音目的のために得てして山奥に立地している射撃場を利用する夏の大会などは、水分補給を忘れて熱中症になる選手も後を絶たないと聞く。外部校との対抗試合の場合も、夏場は開会式の度に水分補給をしっかり行なうように、と注意が促されている。だが確かに、コートを長時間着たくないという理由で空気銃の所持許可申請を行わない者など、聞いたことがない。
「ショータなら大丈夫だって。それだけ体も大きいんだし、鍛えてそうじゃないか」
「鍛えてても辛いものは辛いっすよ。図体と強さは別物ですって。アリに噛まれて死ぬインドゾウだっているんですよ」
「それは確か、アリに毒があるって話じゃなかったっけ」
 きょとんとした顔で首をかしげて言ったのは大曽根だ。黒々とした純粋な瞳が、岩崎渾身のボケを正論で見つめ返す。
「そうだぞ。アリに噛まれる前に踏みつければインドゾウの勝ちだ。つまりショータは噛まれる前に踏みつけてしまえばいい」
「何をですか! ライフルは格闘技じゃありませんって」
「格闘技だったらショータ君凄い強そう……入る部活間違えたんじゃない? 今なら少林寺拳法部に入り直してもバレない」
「大曾根さんこれ以上、人数減らそうとするのやめて! あともう次回の大会の参加、確定してるからね、俺は」
 岩崎の指摘に大曾根は、ちぇ、と残念そうに舌を出した。何が気にくわないのさ、と言いたげな岩崎を無視して、大曾根は部室の奥へと進み、漫画を読みふけっている天平の隣に座って鞄から取り出したスマートフォンをいじり始めた。シカトを決め込んだようである。こうなると岩崎はおろか上級生の藤枝や桐原でさえも彼女の注意を引くのは難しい。
重いものを持たされたままの岩崎はやや不服そうに大曾根を見ていたが、結局反論できる余地がなさそうだと悟ったらしく、藤枝たちと一緒にビームライフルの道具一式を所定の位置に片付けた。片付け終わるなり桐原は事務用パソコンの前へ、岩崎は部室のテレビの前へと移動し、誰が持ってきたのか分からないPS2の電源を入れて一人で遊び始める。最近部室に来る度に藤枝があまり聞いたことのない名前のRPGを進めているらしい岩崎の背中には、体格が大きいことも手伝って一年生にも関わらず既に部室の住人にでもなりそうな貫禄がある。この部室がライフル射撃部のものでなかったとすれば、彼を一目見て筋金入りのゲーマーだと認定する人もいるのではないだろうか。
それぞれが画面や紙に向かっている。どこのサークルにでもありそうなこのまったりした光景が、練習中以外でのライフル射撃部の平素の姿だ。入部したての頃は藤枝もずっとここでゲームをしている先輩たちを見て呆れかえっていたものだが、今ではすっかりこのまったりした空気に慣れ切ってしまっている。自分からゲームや漫画をいじろうとは思わないが、かといって各々のペースで楽しんでいる部員たちに対して憤りを感じることはなくなった。もっと真面目に銃に打ち込め、と言ってもお互いに緊張を増すだけで特に益はない。下級生に対してはなおさらで、あまり厳しくし過ぎてしまっては部活にいつかなくなる可能性もあるため、よほどのことがない限りは部でのびのび過ごしてもらおう、という上級生の意見は一致していた。
藤枝とて鬼ではない。皆がそう考えるなら、と鼻に付いてはいたが部室での遊びを黙認し、あまり意識をしないようにと勤めてきた。認めてしまえばあっさりしたもので、暫くすると皆が点でバラバラに娯楽に興じていても全く気にならなくなった。たまに岩崎に誘われてゲームの相手になったり、飲み会後に開かれる麻雀大会に参加したりと藤枝自身も娯楽に身を投じることもあった。朱に交わればなんとやら、と言ったところなのか、一年の頃に銃の敵とばかりに憎んでいた娯楽も、今ではすっかり板についてしまった。故に皆がそれぞれ何かに向かっているときにはただ静観を決めて、心穏やかに銃のカタログを見ていることが出来る。
ただ一人、天平和義を除いては。
「そういえば、今日、荒巻さんお休み言うてたわ」
 数分間パソコンと睨み合いを続けていた桐原がディスプレイから顔を上げて皆に言った。荒巻は現三年生で主将を務めている人物だ。
「お前、それ早く言えよ」
「すまへん、すまへん。スコア記録してた途中で電話受けて、すっかり忘れてん」
 桐原はパソコンの前から腰を上げると連絡用ホワイトボードの前に立って“欠席”と書かれている隣に「荒巻」と書き加えた。その隣には、「栗塚」という名前もある。彼は現副将の三年生だ。
「じゃあ今日は三年不在でミーティングか。大会近いのに厄介だね」
 藤枝の言葉に一年生二人が顔をこちらに向けた。次回予定の新人ビームライフル大会の選手は一年生である。初めての大会で勝手が分からないから何かと心配事が多いのだろう。
「まあ人数少ないし大丈夫だろ。場所は去年と同じ赤羽のナショナルトレーニングセンターだよな」
「うん。二人は出身どこだっけ」
 藤枝の問いに、岩崎は東京中央区、大曾根が埼玉の川越と答えた。一度大学に来てもらうよりも、本人たちは直接現地に出向いた方が時間の節約になりそうだ。
「ならレンタカー一台に引率一人で十分か。当日はコートを積んでこちらから赤羽に向かう。二人はそのまま会場に向かってくれ。場所は前回、メーリスで流した通りだ。集合時間は、朝の八時」
 天平の指示に大曾根と岩崎がわかりました、と答え、各々鞄から取り出したスケジュール帳に予定を書きこんだ。岩崎が八時かあ、早いなあと小声で呟く。
「さて、ほなミーティング始めよか。主将不在だとやる気出えへんけどな。司会はカズに頼むわ」
「何で俺なんだよ、お前がやれよ」
「今あんたが仕切ってたやろ、その流れで頼むわ」
 桐原が当然とばかりに天平の背中を叩くと実に面倒くさそうに眉を顰めた天平がため息を吐いた。持っていた漫画本を閉じて、本棚に戻す。
「へいへい。これから統一練習後ミーティングを始めます、何か連絡のある人」
「ちょっと待って下さい、まだ議事録を用意してません!」
 早口に捲し立てて聞き逃しそうになる挨拶に、大曾根が机の下のファイルから一冊のノートを取り出す。統一練習後ミーティングの内容は、一年生がメモして議事録に書き残しておくのがこの部活の慣わしであり、欠席者があとでそれを見たことでどんな内容の会議だったのか分かるようにしておく。テキストを書くだけならパソコンの方が圧倒的に楽なのだが、ノートで残しておいた方が見返すのが手軽だからという理由で、これと射場利用記録、弾の購入記録の三つだけは、未だにアナログな手段を用いている。
大曾根の準備が出来たタイミングを見計らって、再度天平が号令を掛ける。藤枝は手を上げた。
「藤枝」
「はい。そろそろ新入生の本新歓の時期が近づきました。店とか時間とかはあとでメーリス流しますが、時期としてはビームライフル大会の翌週です。場所は隣駅の飲み屋で。OBの参加は、今のところ、全部で三人の予定です」
「お、おう……今年も本新歓の時期がやってきたか」
 連絡事項に桐原が反応する。メモを取るので必死の大曾根の向かい側で、岩崎がきょとんとした顔をしている。新歓って楽しく新入生の歓迎をする場ではなかったでしたっけ、という顔だ。自分も丁度一年前は、彼と同じような表情で似たような会話をする上級生を見つめていたものだと思い出す。
「本新歓では歴代のOB・OGの方がやって来て今後の部の方針とか目標なんかを話さなくちゃならないんだ。新入生は未成年だからお酒はなし。成人済みの部員は一杯目がビールで、OB・OGの方々のグラスが空いたら、気付いたときにお酌をする」
 ビールにも正しい注ぎ方がある。ラベルを上に向けた状態で左手を添え、右手で底を支えるようにして持ち上げる。グラスと瓶の間には必ず隙間を空け、添えただけの左手を動かさずに比較的高い位置から瓶を傾け勢いよく中身を注ぐ。注がれた方が斜めに持ったグラスを徐々に上向けていけば、七対三の割合で綺麗に泡が分かれたビールが完成する。
「へえ、高々ビールを注ぐだけでも作法があるんすね」
 岩崎が感心したように頷きながら手帳にメモをする。この作法は社会に出た時でも十分使えるものだと、去年先輩たちに習った。
「そうか。となると、やっぱり綾田も来るんだよな」
「もちろん……」
ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえてきそうな緊張が二年生一同に走った。
「綾田?」
「十年前に卒業したOBだ。この部活で行事があると北陸からわざわざ毎回来る。とりあえずこの部屋は粗方片付けておかないとならねえな。何もしないとまた汚えの何のと文句言われるだけだから」
 天平が部室を見る。事務用品の散らばった机、出所不明の本棚の漫画。木製の棚には現在使われなていないコートが折り重なるようにして詰められている。埃にまみれた窓ガラスからは殆ど引いたことのない破れたカーテンが垂れ下がり、ゲーム類が置いてある脇の書類棚には蜘蛛の巣でも張りそうなほど何年も前の部員が残したスコアブックが並ぶ。
「まあ、そうだね、この有り様を見たら常識ある大人は批判すること間違いない」
 皮肉っぽく言ってはみても天平と桐原にため息を与えただけだった。一先ずは本新歓前に部室の掃除をすることに決定し、当日の練習は中止、もしやりたい場合は集合時間より早めに来て各自で行うこと、という話で決着した。二年生の共通認識のもとに語られる本新歓の流れに、一年生の二人はただぼんやりと聞いている。
「で、次はビームライフル大会の引率だが、誰が行く?」
 天平の発案に藤枝は真っ先に手を上げて、俺が行くよ、という。
「お、藤君やる気あんね、大丈夫なん?」
「この中だったら俺のところが一番レンタカー屋近いし、その日は丁度バイトも休みだし」
 藤枝は一人暮らしをしている。この部活で借りるレンタカーは藤枝の借りているマンションの徒歩数分圏内にあり、一年の時から何度か予約を受け持ったので今部室の中で最も勝手がわかっているのは自分だ。天平も桐原も一人暮らしだが、桐原宅は店舗から少し離れているし、天平はそもそも面倒くさがってやろうとしないだろう。部室にいない三年生にいきなり仕事を振るのも、後輩の立場からではやはり気が引ける。
 当日の一年二人への連絡も藤枝が行うこととなり、統一練習後ミーティングは終了した。これから先、渉外の立場からも仕事が重なるようになるかもしれない。

***

 六月第二週土曜日。ナショナルトレーニングセンターの駐車場には、大会に参加する学生たちの停めた車がまばらに並んでいた。レンタカーを示す〝わ〟ナンバーが目立つ。最寄りの赤羽駅からバスに乗って二十分の位置にあるこの施設は、メインの屋内施設を始めとして、テニスコートやサッカーグラウンド、野球場などの球技場も完備され、国体選手の競技練習場ともなっている。普段は利用料を払えば誰でも利用可能の運動施設であり、今日のように団体がその一部を貸し切って大会を開くこともよくあるようだ。
時折同年代と思しきジャージ姿の男女が車から降りて来ては慌ただしく屋内競技場消えていく。高校生から上がりたての小さな体で重そうな荷物を引き摺るのを、先輩らしき人物が手伝っている。新入生の多い他大学は、準備だけでも大変そうだ。尤も、人数が少ないのも部の存続が危ぶまれるという意味では藤枝の大学も大変ではあるが。
藤枝は時計を見た。時刻は十二時半。そろそろ岩崎と大曾根の射郡も回ってくる頃だ。正午に昼食を取り、彼らにトランクから荷物を降ろしてやってから、大分長い時間が経ったように思うが、実際には三十分も経過していない。上級生に振られると相場が決まってはいるが、実際にすることといえばコートを運んでスコアの記録くらいなのだから、引率と言う仕事はつくづく暇なものだ。
藤枝は先ほど、車のトランクから荷物を降ろしながら二人としていた会話を思い出す。
「ショータ。調子はどうだい」
「万全っす。結果がどうなるかは分かりませんけど」
 岩崎は大柄の体で思い切り伸びをした。ただでさえ大きな体が、両手を上げるとより大きく見える。
「確か、男女で同じ的数、同じ条件で撃つのって、今日が最初で最後なんですよね」
「公式試合ではね」
 通常、エアライフルの公式試合は男女別々に行われる。時間と弾数はそれぞれ男子が一時間四十五分で六〇発、女子が一時間十五分で四〇発であり、その分疲労の蓄積具合も異なる。コートを着た競技者の集中力と体力を奪う中では、後半戦に徐々に成績が落ちてくる傾向にあり、二〇発の弾の差と三十分の時間差が、より限られた時間内に少なく弾を撃てる女子に有利に働くことが多いため、一般にエアライフル射撃では男子よりも女子の方が成績の伸びがいいと言われる。ただし中心を正確に射抜けるほどうまい者は、男女関係なく一定数おり、そういう者は他の競技者が集中力の欠けてくる後半戦になっても正確に真ん中を撃つことが出来る。大会順位上位十人以内ともなると点数が重なるためにセンター数で順位づけをされるほどで、確か直近の春の大会では、男女トップの成績は、共に九割七分を越えていたと記憶している。
 二人が今回出場するビームライフル大会は、新入部員向けに学生連盟が公式に開いている大会で、新入生が最初に出場できる大会となる。エアライフル競技と異なり男女ともに四十五分で計二十発を電動射撃機に向けて撃ち点数を競うもので、公式に男女が同じ条件で撃つのはこれが最初で最後だ。
「となるとショータ君と正式に競えるのも、これが最初で最後ってことだよね」
 大曾根が思案するように呟き、岩崎を伺い見る。
「ねえ、せっかくだから勝負しようよ。負けた方が、買った方と先輩にハーゲンダッツ奢りね」
 にたぁっと嫌らしく笑って大曾根の黒々とした目が怪しく輝く。気押された岩崎は、何やら一歩引いている。
「勝負って……! しかも賭けるのかよ」
「賭けた方が面白いでしょう、大学生だし。先輩にここまで荷物持ってきていただいたお礼も兼ねて」
 一瞥されて俺のことは気にしないで、と藤枝は言ったが大曾根は意にも介さない様子で、先輩、自分が得できるときは乗っておくべきですよ、などと言って押しきった。勝負を持ちかけられたことに驚いていた岩崎も、そうですよ先輩は俺たちの結果がどうあれハーゲン食べれるんすから、と力強く断言する。この二人、普段は凸凹コンビという言葉が似合うほどに性格も体格も違う割に、こういう時に限って相性が良いらしい。同期の好みと言う奴だろうか。
「で、やるからには本気出してね。私も普段の五割増しくらいの力で頑張るから。超望遠だから。蟻の底力を見せつけちゃうから」
「何かいろいろとおかしいんだが、まず蟻の底力に突っ込みてえ」
「踏まれる前に噛むってことだよ。体の大きさには負けない」
「またその話か! 俺は象じゃないし射撃は格闘技じゃないってば!」
 うんざりしたように岩崎は手を上げる。大曾根はと言うと、まだしたり顔でにたにたしているが、その瞳に仄暗い闘志が混じっているように藤枝には見えた。岩崎も、彼女の発言に乗せられたからか、僅かに大曾根を見る目に敵対心が宿っている。お互い負ける気は更々ないようだ。
 まあ頑張って、と屋内競技場へと送りだした二人の背中に、藤枝は言いようのない既視感を覚えた。去年、同じように天平と競った自分が見えたのだった。今の二人のように仲良く賭けの会話をするというほどではなかったが、入部以来天平には絶対に負けたくないという思いが頑なにあった藤枝は、試合前の彼を前にしてはっきりと、お前には負けないと宣言した。天平はそれをどう受け取ったのか、少し黙っていたがすぐに余裕に満ちた笑みになって、出来るもんならやってみろよ、と藤枝に言い放った。藤枝はあのときの天平の表情が未だに頭の片隅にこびれ付いて離れない。人を食ったような、自分は最初から全てを持っていると思っているような、恐ろしく挑発的な態度だった。絶対に負かす。威張っていられるのも今のうちだ。藤枝はそう思いながらその日の大会に臨んだ。だが結果は惨憺たるもので、天平に二十以上の点差をつけられて大敗した。藤枝が飛びぬけて下手だったわけではない。天平が上手すぎたのだ。その日のスコアは男女合わせた最高得点が一八〇点。天平は、一七六点で出場者五十人中、二位の成績だった。藤枝はというと、一五四点で丁度真ん中くらいだ。普段、あまり練習した姿を見たことがなかったというのに、自分よりはるかに高い成績を記録した天平に、瞬く間に嫉妬と疑問が沸いた。どうしていつも彼なのか。どうしていつも負けるのか。実は経験者だったのではないかとさえ疑ったが、自分の知る限りで天平が射撃をしていたという話は聞いたことがない。紛れもなく彼の実力だったのだろう。
 岩崎と大曾根が帰ってきた。二人とも既にジャージからスーツに着替え、試合中に記点係が採点した点数表を握っている。お互い、何やら言い争うようにして、こちらに向かってくる。結果はどうだったのだろう。
「お疲れ」
「お疲れ様でーす」
 大曾根が即座に声高く返事した。いつになく上機嫌だ。一方、岩崎は額に手を当てて唸っている。こちらに会釈をしただけで、返事はない。藤枝はトランクの鍵を開けて、二人の荷物を預かった。聞くまでもないかもしれないが、一応尋ねておく。
「どうだった、結果は」
「私が一六〇点、ショータ君が一四六点で、私の勝ちです」
 大曾根がやりました、というように誇らしげに笑う。二人が同時に点数票を見せた。確かにその通りの点数だった。センターの数は大曾根が五、岩崎が四。大曾根の点数は、第一シリーズ第二シリーズ共に、丁度八十点ずつだった。岩崎は、第一シリーズが七十点、第二シリーズが七十六点となっている。
岩崎がオーバーリアクションに、あー負けたあ! と叫ぶ。
「練習中は六点とかかなり出てたけど今日は七点ばっかりだったから割といい点取れるんじゃないかなって期待してたのに負けたあ!」
 一息に捲し立ててまたうわあと大声を上げて頭を抱える。それを見て、大曾根が肩に手を置き、ふふっと笑う。
「まあしょうがないよ。相手が私だったんだもの。さあ、ショータ君。ハーゲンダッツ買いに行こうか」
「鬼! 悪魔! 何だよ何だよ、良い気になりやがって畜生」
「男に二言はないはずでしょ? つべこべ言ったらカッコ悪いよ。あ、私ストロベリーがいいな。クレープに包んだ奴」
 言うだけ言って大曾根は車に早々に乗り込む。閉会式までにはまだかなりの時間があるようだから、それまでにちょっと出かけて来ましょう、というようなニュアンスを含んでいるようだ。観念したらしい岩崎が相変わらずの様子で後部座席のドアに手を掛ける。はあ、と一つ盛大なため息が聞こえた。負けたことがよほど悔しいらしい。気持ちはわかる。
「ショータ、そんなに落ち込まなくても大丈夫だよ。ビームライフルで八割を越えるなんて、大曾根さんはかなり凄い方だ。もしかしたら入賞するかもしれないくらいだよ。ショータだって、七割を越えたし今までの中で一番良い成績じゃないか。勝ち負けよりも自己ベストを更新できたことを喜んだ方がいい」
 苦し紛れに、また一年前の自分に言い聞かせるように声を絞り出して慰めると、岩崎は、そうっすよねえ、と穏やかに笑ってこちらを向いた。
「ここでやる気をなくすよりも、悔しさをバネに練習すべきなんですよね。俺も先輩たちに負けないように今後頑張ります」
 ありがとうございます、と一つ頷いて車に乗り込む。落ち込むほどでもなかったようだ。気持ちの切り替えの早いタイプなのかもしれない。藤枝も運転席に乗り込む。借りたスズキの軽自動車を走らせて三人でコンビニに向かい、予定通り岩崎の奢りでハーゲンダッツを買った。駐車場に戻って来てから、車の中でパッケージを開ける。程よく溶けた滑らかなアイスの口当たりがよい。大曾根と岩崎も試合後の気だるい体に冷たいものが心地よいと見えて、夢中で舌を出して舐めている。
「ハーゲンダッツとか食べたの久しぶりだよ。ありがとうな、ショータ」
 いえいえ、と岩崎は恭しく前かがみに腰を折る。俺も普段はあんまり食べないんですけどね、と付け加えられた。
「普通、アイス食べる時にあえてハーゲンは選ぼうとしないでしょう。ちょっといい気分になりたい時に食べるのよ。今みたいに」
 天平先輩みたいなよほどのお金持ちは別ね、と大曾根が力説する。あいつはこんな旨いアイスを毎回のように食べているのか、と考え、藤枝は天平がコンビニの冷凍ケースの前でハーゲンダッツを選んでいるところを想像してみた。あり得ない光景でもないのだろうが、少し難しい。そもそもあいつは甘いものを食べるのだろうか。
「そういえば、カズ先輩とイズミ先輩ってデキてるんですかね?」
「ぶふッ!」
 何の脈絡もなく飛び出した岩崎の爆弾発言に、藤枝は危うく舐めていたアイスを落としそうになった。大曾根も目を丸くして口に含んだアイスを吹き出しそうになっているところを、慌てて手で押さえている。何とか車が汚れることは避けられたようだ。
「ちょ、ちょっと、ショータ君! いきなり変なこと言わないでよ。レンタカーなんだから汚すと大変でしょ」
「ああ。ごめんごめん。や、今何となく思い出しただけだって」
 他意なく、他愛なく、と岩崎が強調する。大曾根は口の周りについてしまったアイスを拭って岩崎を睨みつけた。気まぐれに言ったことのせいで口が汚れたじゃないか、という恨み声が聞こえて来そうである。クレープに包まれてるアイスを食べているのに、口を汚すほど驚くのもなかなかできることではないと思ってしまったが。
「でも確かに私もそんな気がしてたわ。随分仲よさそうだし」
 岩崎が大曾根に身を乗り出して、だよね! と同意する。高校生から上がり立ての初心な一年生二人には、あの二人のじゃれ合いが仲良く見えるらしい。
「ね、先輩。ぶっちゃけどうなんです? あの二人」
 岩崎が興味津津というように目を輝かせて尋ねる。大曾根は少し話して窓の外の方を向いてしまったが、こちらも気になる様子であるようで、聞く姿勢は崩していない。何だか面白くなってきた。少しからかってみよう。
「仮にあの二人が付き合ってると分かったら、君らはどうするつもりなんだい」
 自分としては少し意地悪な質問を投げたつもりだった。が、岩崎は大して動揺もせずにしれっと言い放つ。
「どうもしませんよ。ただこれから二人を見る度に笑いがこらえられなくなること必至ですが」
「それは困るなあ。たまたまカズなりイズミなりが射撃中に視界に入ったら、笑いで練習どころではなくなってしまう」
「大丈夫です。カズ先輩は自分の練習するとき以外、射撃場に来ることはありませんから」
 カズ、お前今年入ったばかりの一年生にも怠け者だと見透かされているぞ。あの態度なら当然なのかもしれないが。
 少し話しこんでいてアイスが垂れそうになって来て、藤枝は手元に垂れかけた雫を舌で丁寧に舐め取った。ただでさえ甘いくクランキークランチのチョコレート部分から溢れたキャラメル味アイスは、先ほどよりも甘みが増しているような気がした。話しながら食べることが分かっていたのだから岩崎のようなカップタイプにすればよかったと今更ながらに思う。大曾根は早々に食べ終えてしまったようだ。
 適当にごまかそうとしたが岩崎はさらに、で結局どうなんですか、と追及してくる。まだ大曾根がどうするつもりなのかを聞いていなかったが、彼女も対して岩崎と変わらない答えしか持っていないのだろう。ちらり、と一瞥された。何でもいいから早く教えてください、と言われている、おそらく。これでは逃げ場がない。
「いやまあ、確かにそうなんだけど」
 おお! と二人がざわめきだった。大曾根と岩崎が顔を見合わせ、やはり、やはり、と示し合わせたように囁き合っている。そんなに驚くようなことだろうか。
 天平と桐原が付き合い始めたのは一年の後期からだったと記憶している。確か大学祭から少しした後だ。大学祭では自分たちの代は新入生が三人しか入らなかったため、計四日あるシフトを埋めるのが大変で、後年のことも考えて積極的にシフト枠に入ってくれと先輩たちから頼まれていた。しかし、藤枝は丁度そのとき避けられないバイトが入っていたので四日間開催されるうちの二日を先輩たちや天平と桐原の二人に任せた。その二日の間に何があったのかは知る由もない。が、後期の納会飲みの席で酒も飲んでいないのに空気に酔った桐原が、大学祭の後からカズと付き合うことになりましたあ、と間の抜けた声で藤枝だけに宣言してにやにやしていた。冗談かと思って後日それとなく天平に尋ねると、アホらしいが事実だと断言されたので、藤枝の知るところとなったのだった。
ちなみに二人の関係を知っているのはどうやら部でも藤枝だけだったらしく、三年の荒巻や栗塚は完全に蚊帳の外だった。桐原が自分にだけ天平と付き合った宣言してきたのは、おそらくこの年頃の女子にありがちな恋愛を周知することで相手と付き合っているという実感を得るためなのだろうが、それにしても意外だったのは天平があの破天荒極まりない桐原の告白を受け入れたということだ。元々気楽に話せていたようだったので相性は悪くないのだろうが、天平が桐原相手に恋愛をしている姿が全く想像できない。というより、天平も桐原も恋愛している姿があまり想像できない。今まで近くにいすぎたからだろうか。
「ああ、そうですよねえ、カズ先輩イケメンっすから」
 ひそひそ話が終わった岩崎がうっとりして呟いた。藤枝は我に返って二人を交互に見る。岩崎が食べ終わったアイスのカップをコンビニの袋に入れて、俺捨てて来ますんでゴミ下さい、と藤枝に向けて手を出した。藤枝はゴミを渡してお願い、と声を掛ける。岩崎が車から出て、会場に備え付けのゴミ箱に向かう。
大曾根は先ほど試合前に岩崎に勝負を持ちかけたのと同じような企み顔で何事かを考えてはうふふ、うふふ、と怪しい笑みを浮かべている。あまりの意味不明さに怖いというのを通り越して心配になってくるが、あまり話しかけてはいけない雰囲気を察し、運転席右手の窓から岩崎が帰ってくるのを待った。知らない間に今度は随分と時間が経っていたらしい。そろそろ閉会式が始まる時間だ。
 二人を閉会式に送りだしてから受付付近のホワイトボードに掲示されたスコアを書き写して式が終わるのを待った。戻ってきた大曾根は惜しくも入賞を逃して女子四位となったが、岩崎に奢ってもらったためかさして悔しそうではなかった。入賞景品がハーゲンダッツ券だったからですよ、と笑って答えていた。彼女の思いつきに、彼女自身が救われたというところだろうか。
 大会終了後、駐車場を後にして二人を赤羽駅で降ろし、藤枝はトランクに荷物を積んだまま大学へと車を走らせた。下道に連なる信号に車の停止を何度も強いられながら、首都高速インターチェンジを探す。ナビがなければ分からない道を、何度も曲がる場所を間違えそうになりながら音声案内に従って進んでいくと、ようやく目的の高速道路入口が見えてきた。料金所を抜けた先のカーブにハンドルを思い切り傾け、合流ゾーンからアクセルを踏み込み、追い越し車線に移動する。が、首都高速環状線は、関越自動車道と違って車の数が多く、あまりスピードが出せない。藤枝は関越の方がスピードを出せる分、走っていて気持ちいいと感じる。都会の高速はカーブや分岐点が多いので苦手だ。
一年生は初々しい、と今日の大会を振り返りながら改めて思った。きっと彼等は今後、初心者講習会を受け、受かれば空気銃に触れ、ビームライフルとは異なるエアライフルの初めての触り心地に驚く。引き金が思ったより軽く暴発しやすいことや、一時間以上銃を持って姿勢を維持し続けることの難しさを知り、学生連盟の公式大会や他校との交流戦で各々の成績を更新していくため練習する。岩崎は大曾根に負けたことを少し意識していたようだが、これから男女が公式試合で同じ条件で戦うことはないのだから、彼なりに目標を決めて練習に励むのだろう。自分のように、部内に倒すべき特定の相手がいるような練習はしてほしくない。何かにつけて否が応でもその特定の相手を意識させられてしまい、苛立ちばかりが募ってしまう。その点、岩崎と大曾根のような関係は羨ましいとさえ思う。意識するにしても相手が異性では、同性のように本気で苛立ちを感じることは少ない気がするからだ。
 藤枝は長い間存在すら忘れていた天平と再開した一年前の春のことを思い出す。
 四月八日。新入生歓迎イベントで盛り上がる大学構内を、藤枝は肩で風を切りながら一心不乱に走り抜けていた。右手には他の部活の勧誘から貰った新入生歓迎会のチラシ。左手には広い構内を歩くためのパンフレット。藤枝はこの日、長い間憧れてきたとあるサークルに入部するため、広い大学構内の道を人に尋ね尋ね、その部室を目指していた。
 藤枝にとってこの大学に入れたのは幸運だった。金がないと言いくるめられるそうになるところを安い学費のところを選んで受験したのだ。受験勉強は今振り返ればあっという間だった気がしたが、一年間勉強に打ち込んでいる間はとても長く感じた。。長い受験勉強を経て、ようやく合格した大学。藤枝がこの大学を志望した理由の一つに、とある特殊なサークルの存在があった。確かに大学に入るのは将来性を考えての目標でもあったが、中学・高校と勉強に集中するため、部活動に入らず必死だったのも、思えば今日この日、この大学に入り、そのサークルに入るためだったともいえる気がした。受験勉強は辛かったものの、その部活で今まで触れることのできなかったアレが、実際に触れるのかと思うと、その苦労もハードルの一つに過ぎないと思えてくる。
 総合校舎の脇道を抜け、体育館のすぐ手前を抜ける。パンフレットに載っていた、青々とした芝生の茂るグラウンドが見えてきた。この先を直進、ゴミステーションの突きあたりを左に曲がれば、目的とするサークルの部室だ。藤枝はもう一度、地図で部室の位置を確認した。いよいよだ。いかんともしがたい幸福感が藤枝に波のように訪れる。真っ直ぐ進む。一歩一歩の実感をかみしめながら、ゆっくりと進む。地図にある通りの部室があった。Rifle Shooting Clubの英字が目を引くポスターが、開きっぱなしになった重そうな鉄製の扉に張りつけてある。間違いない、あそこだと、藤枝は足早に接近して行った。
 開きっぱなしのドアの影に、先客がいた。顔を見た直後、呼吸が止まるかと思った。高校時代の同級生、天平和義だった。髪の毛の色こそ薄赤く染められ変わってはいたが、人相は高校の時そのままで、そのやる気のなさそうな目つきからしても見間違いようがない。強いて言えば、高校の時は雄々し過ぎるほどに体回りに付いていた筋肉が、少し落ちて弱々しくなっているくらいだ。
 天平は立ちつくしている藤枝に気付いて一瞥すると、少しだけ驚いたように目を見開いて、すぐにまた落ち着きを取り戻した。
「よう。何だ、お前か」
 藤枝は言葉も出なかった。ああ、と生ぬるい返事をしただけで、二の句が継げずにただ立ちつくした。どうしてここにカズがいるのだろう。自分よりも遥かに金持ちの彼が、なぜ自分と同じ大学の、しかも今自分が入部を希望しようとしている、この部活――ライフル射撃部のドアの前に立っているのだろう。第一、彼はもっと上の大学に行くのではなかったのか。受験勉強で必死になる友人たちにやる気なくどこでも金さえ積めば入れるだろうと言っていた彼ならば、東京あたりの優秀でオシャレな大学に入っていてもおかしくないはずだし、実際そうだと思っていた。
「やあ、お久しぶり、カズ」
 だが脳内に去来する様々な疑問の代わりに出たのはいつもの毒にも薬にもならないような挨拶一言だった。天平は何でもないように藤枝におう、と片手を挙げて応じる。
「お前がこの大学に来てるなんて知らなかった」
「お前こそ。もっと違うところにいるかと思ったのに」
「やる気がなかったんだよ。受験勉強」
 あっさりと言ってのけて、ぼりぼりと頭を掻く。自分が努力すればもっと上に行けた、というような態度が如何にも彼らしい。藤枝は曖昧に笑った。これまでただの気まぐれで乗り切ってきた天平に、努力も才能のうちと言う言葉はきっと理解できないだろう。だが裏を返せばそれは、自分が天平との差を努力で埋めたということも意味している。どんな事情はあれ、天平に追いついたのだ。これは喜ぶべきことなのかもしれない。そう思うと悪い気はしない。頬のあたりに少し力が入る。
「でも大学ってこんなもんなんだな。人生を決めるほど大事な場所だって言う割には高校までと違ってかなりのんびりしてるし、ここに来るための受験勉強も意外とあっという間だったと思わないか? お前と俺が同じ所に来たなんて、少し不思議なくらいだよ」
 先ほどまで渦を巻いていた感情はどこへ行ってしまったのかというように饒舌になって笑った。あえて挑発しているとも取れるような発言を天平も察したのか、普段から不機嫌そうに歪められた眉間にさらに皺が寄る。天平は数瞬の後に、何事かを思いついたらしく、藤枝を睨みつけた。
「お前が俺と同じ所に来たのは確かにまぐれなんかじゃねえだろうけど、行こうと思えばもっと高みに行けたはずだろ」
「いや、俺は」
 お前と違って金がない。行きたい所はここ以外になかった、と言おうとして素早く遮られた。
「高みに果てはない。俺と並んで、こんなところで満足してるんじゃねえ」
 藤枝の言うことなど聞きもせずに言って、天平はそれきり口を閉じた。藤枝は天平の考えていることがわからなかった。俺と並んで満足しているんじゃねえ、とはどういう意味なのだろう。売り言葉に買い言葉だとしてもなぜそんなことを言うのだろうか。不必要に煽られ挑発されて、良い気がしないことは確かだ。だが彼の言う高みに果てはない、というのはその通りである気がする。自分ばかりが彼を意識しているのではないだろうか。不思議と、また天平に借りを作ってしまったように思い、胸の奥から湧き出た冷たい感情に奥歯を噛みしめた。なぜこんなに天平に忠告を受けると、強い苛立ちを覚えるのか。
 返す言葉もなくなった藤枝と口を開くのも面倒だと言う天平の気まずい空気を破ったのは、その後たまたま見学に来た桐原泉だった。関西出身だと言う彼女の独特のトークと高いテンションは、藤枝と天平を引き摺ってその場の空気を壊し、先輩たちが来るまでの間を埋めてくれた。桐原はいちいち発言に真面目に返す藤枝よりも怠惰に相手をする天平の気だるさをボケと捉えて事あるごとに突っ込むのを好んでおり、この二人が付き合ったらずっとこんな感じで面倒くさがりの天然ボケと破天荒な突っ込みが続くのだろうかと思わされたものだったが、まさか本当に付き合ってしまうことになるとは考えもしなかった。その人となりのせいなのか、あるいは彼女の射撃の成績が芳しくないからなのかは分からないが、練習態度が怠惰でも藤枝は桐原に苛立ちを感じたことはない。そこには少なからず、彼女が異性であることも関係あるのかもしれないが、いずれにせよ藤枝自身は天平の方が気になるばかりで、桐原は彼を介した先にいる、という印象だ。
 車は神田橋ジャンクションを抜けて都心環状線に入った。目的地の到着予定時刻まではあと一時間以上もある。あと三十分くらいしたらどこかで休憩を取った方がいいかもしれない。普段の大会では運転手を途中で交代するが、今日は藤枝一人での往復になる。下道で帰っても良かったが、渋滞が起きているからとナビが知らせたので高速で行くことにした。高速を降りたら、どこかのガソリンスタンドに寄って、二人の荷物を部室に置いた後、レンタカー屋に車を返そう。自宅に戻ってからは、来週の本新歓のためにメーリスも回しておかなくてはならない。次のバイトのシフトもそろそろ決めておく必要があるだろう。やることは多いが、一年生の試合に臨む態度を見ることが出来たので、今日二人の引率に来たことに後悔はない。
 次のイベントは部室の掃除かな、と思いながら藤枝は左折ウインカーを出して、通常車線に移動した。

***

 六月第四週。本新歓の日がやってきた。藤枝はビームライフル大会後にとったメーリスのアンケートを参考に、飲み屋に予約を入れ、集合時間である十二時半に間に合うようにマンションを出た。部室に向かって体育館脇を歩いていると、前方に見慣れた人影を発見した。岩崎以上の身長とそれを支える小太りの体型。後ろから見てもわかるほど丸まった背中からは、長らく坐り通しの作業ばかりしているらしい彼の私生活が伺える。三年の栗塚だ。藤枝は一言、先輩、と声を掛けると、栗塚に近づいて行った。駆ける音に気付いた栗塚が、こちらを振り返る。
「おお、藤君じゃん。お久しぶり」
「お久しぶりです」
 栗塚は肉付きの良い丸い頬をほころばせながら藤枝を迎えた。最後に栗塚に会ったのは一月半ほど前になる。三年になってからあまり授業がないため、学校に来ること自体が少なくなり、部室で顔を見かけることも少なくなったのだった。三年同期の荒巻をサポートする名目で、役職は副主将を務めているが、本人いわく特に仕事らしい仕事はないらしい。
「珍しいですね、栗塚さんが来るの。失礼ながら、てっきりまた何か理由をつけて来ないのかと思っていました」
「いやあ、久々に飲めると聞いたら行かないわけはないよ」
「綾田さんがいても、ですか」
「おいしいご飯が食べられるなら面子は何でもいいのさ」
 確かに綾田さんは厄介だけどね、と言って微笑む。つられて藤枝も笑った。
 そのまま二人で歩いて部室に辿りつくと、ドアの前に靴が二足置いてあった。使い古された青いスニーカーと、洒落たコサージュ付きの女性靴だ。あの二人が早く来ているとは珍しい。
「あれ、この靴」
「天平と桐原のですね。もう来てたのか」
 藤枝は自分も靴を脱いだ。もしかしたら今日が本新歓であることを意識して、二人で早めに部室の片付けを始めていてくれたのかもしれない。それならば、自分にも話を通してくれれば手伝ったのに。一人でも多い方が片付けも捗るというものではないか。
 藤枝は鉄製の扉を二回ノックした。中から返事はないが、構わずにドアノブを回す。
「はい、こんにちはっと」
 適当に挨拶して正面を見る。と同時に動きが止まった。部室の片隅で天平と桐原が抱き合い見つめ合いながら、キスしていた。しかも電気も点いていないため、薄暗い。昼間だと言うのにカーテンも閉めっぱなしだ。
「ふあ……あ、あれ、藤君?」
 後ろを向いた天平に抱きしめられている桐原が藤枝に気付いた。良い夢から覚めた寝起きのようなうっとりとした声、薄く開けられた瞳がこちらに向けられる。と数瞬後、とても恥ずかしいことをしていたのではないかとはたと気付いたらしく、顔を真っ赤にして未だ抱きついたままの天平の背中を激しく叩いて身悶えた。
「おい、ちょっと! カズ! 離れんかこのどアホ!」
 桐原に背中を叩かれた天平がようやく体の重心を後ろへと戻す。いつも通りの気だるげな様子で、桐原から離れて、部室のドアの前で固まっている藤枝を見やった。
「何だお前か。今日はいつになく早いな」
 それはこっちの台詞だ、と思いながら藤枝は、はは、と曖昧に笑った。後ろから栗塚が、ちょっと藤君早く中入ってよー、と背中を叩いてくる。そうだ、彼がいることを忘れていた。ああ、すみません、と答えて部室の中に入る。当事者の桐原は、天平とも藤枝とも気まずそうに目を逸らしたまま、口元を押さえている。下を向いたり上を向いたりと忙しい。耳まで真っ赤だ。天平はと言うと、桐原にも藤枝にも口を開かず、何事もなかったかのように本棚から漫画本を取り出し、いつものように目を通し始めた。部室であんなことをしていたというのに、髪の乱れ一つないのがひどく癇に障る。
 というか、一応ノックしたんだからそれならせめて返事くらいしろよ、お前ら。
 部室に上がってきた栗塚が、おお、カズ君、桐原さん、こんにちは、と場違いに呑気な挨拶をして、席に着いた。天平も桐原も、声も出さずに会釈して答えたが、栗塚はあまり状況がわかっていないようで、どうしたの? 二人とも今日は元気ないね、と頭に疑問符を浮かべている。
「とりあえず、先に部室の掃除をしましょう」
「頑張れ」
「おいカズお前」
 漫画を取りあげてやろうと手を伸ばした直前に、薄赤い髪の毛が何者かの襲撃によって前につんのめる。
「って」
「口答えせずにさっさと始めんかい、こんのアホんだらぁ!」
 顔も耳も真っ赤にした桐原が口角泡飛ばしながらわなわなとふるえ、天平を怒鳴り散らした。
そんなに見られるのが嫌なら待つように言うとか、最初から人が入らないように部屋に鍵を掛けるとかすればよいのに、と思いつつ、この場の桐原の行動に心の中で感謝した。

***

 暫くして大曾根、岩崎、荒巻の三人が合流し、部室の掃除は順調に進んだ。散らかっていたゲームや漫画はひとしきり棚に収納し、破れたカーテンは破棄。机の上に散らかっていた文房具類も、あるべき場所にきちんと戻した。今使われていない射撃コートは、使えそうなものだけを残して燃えるゴミとして捨てた。
 見違えるほどすっきりした部室を見て、栗塚が頷く。
「うん。きっとこれなら大丈夫。だよね?」
 同意を求められた荒巻は、これだけ捨てれば、と答えた。
「これも君たち一、二年生のお陰だよ。僕らだけじゃ無理だ」
 現三年生は主将の荒巻と副将の栗塚しかいない。本来この部を機能させるためには、部長兼主将、副将、会計、渉外、主務の最低五人は必要なはずなのだが、部室が大学の僻地に位置しているためか、はたまたライフル射撃という名の活動内容に渋い印象を持たれているためか、知名度が極端に低いこの部活は例年新入部員の確保に難航し、学年によっては現三年や一年のように二人しか入らないこともある。部で管理している銃の数にも限りがあるため、あまり多く入りすぎても困るが、少なすぎると運営自体が立ち行かなくなる恐れもあり、毎年少ない部員の中での役職決めが重要になっている。主将と副将は三年と二年に各一人ずつ設けられるはずだが、今年は栗塚が他の役職を回された場合に就活と被って仕事が出来ないからという理由で副将となり、比較的仕事の重い渉外、会計、主務の役職が二年生に回ってきているというわけだ。
「ところで、未だによく分からないんすけど、どうして本新歓前に部室の掃除なんかするんすか? ここにはOBの人たち来ないんじゃないでしたっけ」
「はあ?」
「あれ、説明してなかったの?」
 天平が不機嫌そうに声をあげ、荒巻が当然説明しているものかと思った、というニュアンスを込めて首をかしげる。そういえば先日は本新歓の内容だけを説明したに過ぎなかったのだと、藤枝は思い出した。
「実はこれからとある人が部室に来るんだよ」
「とある人?」
「あ、私分かりました。綾田さんでしょう」
「その通り。さすが大曾根さん」
 藤枝は首を縦に振る。
「というか、その話はこの間天平先輩がしてましたよ。綾田さんが来るから部室を片付けなきゃって。ショータ君が言いたいのは、なぜ綾田さんが来ると部室を片付けなきゃならないってことなんじゃないでしょうか」
「まあ、そうなんだろうけど、そればかりは来れば分かるとしか言えないというか」
 言葉を濁した藤枝に一年二人を除く部員たちの間に苦笑いがこみ上げる。あの人を具体的にどのように説明すればいいのか。皆言葉のチョイスに悩むのだ。年度末に行なわれるOB・現役対抗戦でも未だに好成績を残し続けるほどの射撃の実力があるだけに、見習うべき点も多くあるのだろうが、それ以上に部の状況に関しての口出しが多い。OBなのだから現在の部がどのような状況にあるのか知りたがるのは当然なのかもしれないが、それにしても他のOB・OGからは綾田のようには干渉してこないし、半ば愚痴に近いような説教もあるため現役生としては手をこまねいているのだ。しかし下級生の手前、それを直接口にしてしまうことは憚られる。皆も同じようなものだろう。
「と、そんなことを言っている間に、もうそろそろ時間じゃない?」
 荒巻が時計を見ながら尋ねる。確かにもうすぐ綾田の来ると言っていた時間だ。
「出迎えた方がいいね。俺が行ってこよう」
 栗塚が迎えのために外へと出て行った。皆は荒巻の指示で先に整列して椅子に座り、綾田が来るのを待った。栗塚は二分も経たないうちに帰ってきた。どうぞ、綾田さん、ようこそいらっしゃいました、と普段聞かないような栗塚の丁寧で高い声が、ドアの外から聞こえてきた。それに反応して、皆の背筋が伸ばされる。
「よう、お久しぶり」
 栗塚の案内の直後に、白髪混じりの見た目四十代くらいの男性が部室に入ってきた。ようこそいらっしゃいましたあ、と立ち上がり、皆が一斉に声を合わせて出迎える。部長の荒巻が一目散に駆け寄り、本日は貴重なお時間を頂き、ありがとうございます、と折り目正しい挨拶でお辞儀をした。男性は手刀を切ってそれに答え、案内された部室の入口一番近くに置いてあったパイプ椅子に腰かける。そこが彼の定位置だ。去年と全く変わらない。
 綾田蓮。以前、一年に天平が説明していた通り、この部活を十年前に卒業したOBである。年度末のOB・現役対抗戦はもちろんのこと、毎年、本新歓の前には必ずこのように早めに部室を訪れ、現役生の様子を見に来る。主将には大会前に時々直接電話を掛けてくることもあり、何かと部への提言が多い。他のOB・OGと一線を為す射撃の成績の腕前と特別な部への思い入れのためだろうと踏んでいるが、果してそれがあったとしてもどうなのか、と藤枝などは思ってしまう。
 遠路はるばる北陸からやってきた綾田は椅子に腰かけるなり辺りを見回した。
「部員はこれだけだっけ?」
「はい、四年生がいませんが現役として活動しているのはこれで全員ですね」
「少ないねえ。体育会の部としてどうなの、全部で七人って」
 荒巻の返答に綾田が不服そうに声をあげる。来年はもっと部員確保に力を入れないと、そのうち潰れちゃうよ、というもっともな指摘もされた。綾田曰く、多くの部員の確保が部の安定した存続につながるらしい。
「自分たちも、一応部のHPを作成したり、サークルの日にビラを配ったりもしているのですがなかなか入らなくて」
「それは他のサークルもやってるでしょ。もっと差別化をしていかないとこの部活には入ってくれないよ。それにね、何より女子が少ない。今だって三人集まってないから、団体にも出られないでしょ、大会の時」
 ライフル射撃の公式試合には予選・本戦があり、予選のボーダーを越える得点を取れたものが本戦に行くことが出来る。予選でボーダーの得点を越えられなかった者が本戦に行くためには、団体でエントリーして出場権を得なくてはならないが、その人数は三人一組となっている。今の女子部員は桐原と大曾根の二人だけなので、団体が組めない。必然、二人が大会に出るためにはそれなりの好成績を残さなくてはならなくなるが、綾田は本戦出場のチャンスそのものが減ることを懸念しているようである。部のためならばそう考えるのも道理であるが、こればかりは部員を勧誘しなければどうにかなる問題でもない。
「それにこの部室は女性に入部してもらうには汚すぎるし。まあいいや、その話は後で。それじゃあ始めましょうか」
 閉口する一同に対して話を打ち切り、持ってきたバッグから紙を取り出して配る。回ってきた紙には見覚えがあった。射撃部入部に当たっての心構え。一部作りかえられてはいるが、去年の本新歓前に綾田が配ったものと同じものだ。
「ええ、新入生の皆さん。入部おめでとうございます。私はこの部活のOBの綾田です。今年は男性一人、女性一人とやや少ない人数ですが、来年はもっと多くの部員を獲得できるように勧誘に力を入れてほしいと思います。さて、今日は、一年生の皆さんに射撃部に入部するにあたっての覚えておいて欲しい心構えを持って来ました。そこにコンプライアンスの順守、と書いてありますね。一年生の二人、コンプライアンスとは何のことだか分かりますか? 法令、のことです。射撃部は空気銃という非常に力を持った道具を使うスポーツですので、コンプライアンスは順守しなくてはならないのは言うまでもないです。そこに大学生が銃を持ったことで起きた事件の記事を載せました。目を通して分かる通り、犯人も皆さんと同じく銃の所持許可を受けていた人で……」
 その後、綾田の話は一時間以上続いた。

***

 皆を伴って本新歓会場の居酒屋に入り、OB・OGと現役生が全員集まった所で、藤枝が前に出て挨拶をした。乾杯の音頭と同時に様々な方向からグラスを鳴らす涼しい音が聞こえ、暫し一年生とOB・OGが対面で話しあっていた。自己紹介が終わって席移動が自由になると、何やら疲れ切った様子の岩崎と大曾根が席を外して藤枝が座る場所へと移動してきた。隣に天平もいる。先ほどまで桐原もいたのだが、久々に三年生と話したいと言って、二年生席から少し離れたところに移動していた。
「はあ……」
「お疲れ、二人とも」
 盛大なため息を吐いた岩崎と眉根を顰めて静かに疲労を顕わにする大曾根に声を掛ける。予約席上座に配置された新歓用の一年生の席では、綾田を始めとしたOB・OGがこの日のために用意してきた話題を散々ぶつけていたのだろう。特に一年生の今の時期では今後、この部活に入ってどうしたいのかが固まりきっていないため、綾田の詳しい追求からは逃れようがない。おそらく食事を楽しむどころではなかったのだろう。
藤枝は二人をねぎらうべく、鍋の具財を取り分けて二人に差し出した。白滝やネギ、白菜などを煮た鍋をお玉で掻きまわし、自分の器にも適当な具材を盛る。二人はありがとうございます、と礼を言うが、その顔に笑顔はない。
「何と言うか、先輩たちが本新歓を前にして焦る理由が何となくわかりました……」
 がっくり、というように頭を垂れて身震いする岩崎。大曾根が、うんうんと青い顔を縦に振って同意している。よほど疲れたらしい。
「まあこれが終われば一年生は解放されるから。二年生になったら新歓準備は忙しいけどね。とりあえず今のところは、冷めないうちにタダ飯を満喫しておけ」
 器に盛られた鍋を指す。味噌ベースのスープに絡められた白菜や鶏肉から湯気が立ち上り、スパイスに入れられた香辛料の香りに食欲がそそられる。岩崎と大曾根は言われるままに器に手をつけ、具材を咽喉の奥へとかき込んだ。夢中で食べている。かなりの空腹に耐えていたようだ。綾田の相手で何となく手が出しづらかったのも理由にあるだろう。
 二人が一通り鍋の具財に食べている所に、桐原と話し終えたらしい荒巻がやってきた。鍋取り用の小皿と箸を持っている。
「おや、随分と良く食べてるね」
「俺が勧めたので」
 はは、そりゃあたくさん食べなきゃダメだ、と冗談っぽく笑う。荒巻は空いていた藤枝の左隣の席に腰をおろした。一年生二人を見やり、一度簡単に挨拶を交えたあと、興味深そうに言う。
「ねえねえ、君たち、今年の二年を見ていてさ、ぶっちゃけどう思う?」
 思わぬところから問いかけられた質問に、岩崎と大曾根が狼狽する。右隣で粛々と鍋を啜っていた天平も、いきなり何を言い出すんだこの人は、というような気だるい視線を荒巻に投げた。普通、こういう話題は、本人たちのいない場所でするものなのではないかと藤枝も思う。
「ね、どう思う」
「どうって、まだ入ったばっかりで良く分からないですけど、とてもお世話になってます」
 私も、と大曾根が岩崎に同意する。大曾根の場合は二年紅一点の桐原がいるだけに尚更だろう。
 荒巻はふむふむと頷いて天平と藤枝を見た。
「確かに今年の二年は射撃の成績は三年よりもいいくらい頑張ってるしねえ。カズ君と藤君で、部内のツートップ。今の一年生のいいお手本だ。君たち二人も、見習うと良いよ、今の二年を」
 いまいち意図の読めなかった質問からなぜか褒められた。良く分からないが何となく照れる。隣の天平は、話が右から左に抜けているようで、表情一つ変えない。一年生二人はぽかんとしながらあまり話したことのない三年主将に恐縮している。実際、彼等から見れば三年生はOB・OGと変わりなく見えるのだろう。が、藤枝にとっては一年の時から面倒を見てもらった相手であるだけに、荒巻の言葉には卒業生よりも含蓄がある。一年の最初の大会で、慣れない手つきから暴発して始末書を提出するように言われた際、履歴から雛型を探しだし現地にメールで送ってくれたのは荒巻だ。荒巻の柔和な笑みを見て慰められるだけで、不思議と自分に自信が持てるような気がする。
「でさあ、ここからが本題と言うか、部長として聞いてみたいことなんだけど」
 綾田さんも気になってるっぽいことみたいなんだけど、と付け加えた。藤枝と一年二人が耳を傾ける。
「今の二年生で、来年の主将誰になるのかなあって思ってさ。成績からすると、ツートップのうちのどっちかなのかなって思うって、さっき桐原さんと話してて。まあ三年の俺が口出しするようなことではないかもしれないんだけど、カズ君と藤君は、どう思う?」
 思いがけない質問だった。先ほどといい、今といい、この人の話題は唐突で、一瞬にして会話に巻き込んだ相手を悩ませてしまう。自分と天平のどちらが主将に相応しいかなど、成績からすれば聞かなくてもわかることだが、そんな先のことを、この酒の席で今決められるはずもない。自分は部内で永遠の二番手だ。力ある者こそ主将に相応しい。それを認めなくてはならないのは、藤枝自身にはとても心苦しいことではあるが、事実は変えようがないのだ。二番手である自分は、主将となった者を補佐するために、副将として活動していればいい。
「俺は」
「俺は主将にはなりません。主将には、藤枝を推薦します」
 藤枝が口を開こうと思った矢先、隣からはっきりと聞こえてきた天平の宣言に考えていた言葉がかき消された。はっとして、思わず素早く右隣を見る。同時に耳を疑った。今彼は何と言ったのか。主将を自分に任せる。そう言わなかっただろうか。
 天平の宣言に荒巻がほう、と唸る。品定めするような、いつもと違う鋭い眼光が、天平を射抜く。
「カズ君は部で一番成績いいのに?」
「主将に必要なのは成績だけじゃないでしょう」
「君なら人望もあると思うけど」
「俺は面倒くさがりですから部をまとめるには不向きです」
「何かあった時の対応力も大事だよ」
「どこぞの誰かから電話がかかってくるような立場になるのは嫌です」
「でも誰かがやらなきゃならない」
「だから藤枝を推薦してます」
 ふむ、とまた荒巻は押し黙った。自分が口出しするようなことではないと前置きをしておきながら随分と天平に詰め寄っている。
「そこまで言うなら、藤君に……」
「ちょ、ちょっと、待って下さい」
 藤枝は思わず飛び出した。天平と荒巻の視線が同時にこちらを向く。
「まだ自分は意見を言ってません。俺は天平が部長の方がいいと思います。金のない自分がバイトと掛け持ちで主将をするなんて、到底無理です。こいつなら、時間もたくさんあるはずです」
 責任ある立場になることに特に抵抗はない。だが、自分よりもその立場に相応しいものがいるならそこにはその人物が入るべきだ。金がないことを盾にするつもりはなかったが、こういえば天平が断れなくなるのではないかと藤枝は思っていた。それならばいっそ、自分のどういう状況でも利用してしまえばいい。
天平は苛立った様子でこちらを睨みつけていた。一瞬だけ心の奥底まで入り込んでくるようなどす黒いオーラを感じたが、すぐにいつもの態度に戻る。どうかな、と詰め寄る荒巻に、天平は軽く舌打ちをして、テーブルの上に肘をついた。頑なに引き受けようとしない。彼にしては珍しい。ちらり、と天平の視線がこちらに泳ぐ。瞳にうっすらと反射する天井の暖色の光が、僅かに揺れた気がした。
「俺はお前を信じて推薦している。主将には俺より、お前が適任だ。金がないなら今まで通りバイトと掛け持ちしろよ。仮にお前がそれを出来ないと言いだしたとしても、何にせよ、俺は主将なんて引き受けねえからな」
 天平はそれだけ言うと、箸と小分け皿を持って席を移動してしまった。普段からやる気のない彼ではあったがここまで物事に拒否を示すのは未だかつて見たことがない。何か、面倒くさい以外に主将を引き受けたくない理由があるのだろうか。
事態を静観していた岩崎が唸る。
「カズ先輩、どうしたんでしょう」
「ねー。そんなに嫌なのかな、主将。確かに大変だとは思うけど」
 天平先輩ならアリだと思うのに、と大曾根までもが言う。
「少し意地悪しすぎたかな」
 残念、と言って、荒巻は飲み干してしまったグラスにビール瓶に手を伸ばす。それを見た岩崎が、ああ、俺がやります、と積極的に瓶を持ち、以前教えた通りの手順で慣れたように金色の液体を注いでいった。OB・OG相手の席でかなり鍛えられたのか、七対三の見事な割合で、ビールと泡が分かれる。ありがとうねえ、と上機嫌に笑う、荒巻の顔は赤い。
「先輩、それ何杯目です?」
「忘れた」
 藤枝の質問にあっけらかんと言い放ち、主将の件は君たちで何とかしてくれと言わんばかりに荒巻は追加でグラスを煽った。最終的に主将が誰になるのか、決まるのは大学祭後だ。それまでかなりの時間がある。
 その間に、天平が引き受けてくれる気になることを藤枝は酒の席で密かに願った。

***

 月が変わって七月の第一週。藤枝はバイトからの帰宅後、間近に迫ったレポート作成に集中するために、図書館へ向かっていた。自宅だと集中できない、という大学生は藤枝だけではない。この時期の図書館は同じことを考える学生たちで溢れかえっていて、たとえ一人であろうと席の確保が難しいのだ。出来れば早い時間に家を出たかったが、バイトから帰って来てのんびりしている間に、すっかり時間が経ってしまった。我ながら情けない。
 道すがら、人がまばらに歩いているのを見る。一人で歩いている者が多い。食堂周りにはこれから昼食を取ろうという集団もいる。図書館脇の木陰で談笑をする人の声が聞こえる。サークルの次の練習日をどうするかということで話し合っているようだ。もうじき昼休みになる構内には段々人が増えてきた。一先ず図書館に行く前に食事を取っておくのもいいかもしれないと思い、藤枝は購買へと向かう。適当なパンとお茶を買って店から出てきた後、図書館に向かおうとすると、緑生い茂る中の喫煙所に、見知った赤みがかった髪が溶け込んでいるのを見かけた。天平だ。一人で粛々と煙草を吸っている。喫煙所には天平の他に人はいなかった。が、彼はまだ未成年ではなかっただろうか。
 見て見ぬふりをしようと思ったが、先日綾田からコンプライアンスの順守がどうのと言う話を聞いたばかりなのに、同じ部活のメンバーが未成年喫煙に及んでいる姿を見て注意しない、というのは何となく躊躇われる。藤枝は天平の方へと近づいた。地面の上にコンビニに置いてあるような細長い鉄製の灰皿が直接置かれている喫煙所からは、肺を侵すような匂いの煙が立ち上っている。喫煙可のゲームセンターに立ち寄った時に嗅ぐ匂いだ。喫煙者はこんな環境に長時間いてよく耐えられる。自分ならばすぐに咳き込んでしまうだろう。
藤枝に気付いた天平は持っていたライターで口にくわえた煙草に火をつけながらこちらを一瞥した。やあ、カズ、と声を掛ける。天平は手を挙げて答えた。
「お前煙草吸うのか。未成年だろ」
 挨拶の後に間髪いれない指摘をする。あ? と、天平はやや不機嫌そうに、眉根を寄せた。
「吸うけど。大学入ったら年齢なんてあってないようなものだろ。細けえことは気にするな」
「細かくない」
 咥えた煙草を口から離し、ため息を吐くように煙をゆっくり吐き出す天平。密度のきつく重い煙の中から、僅かにミントの香りがした。人差し指と中指で摘んだ吸殻を、灰皿の灰落としに軽く当てて揺すると、黒ずんだ灰が零れて赤く燃える刻みが現れる。天平はもう一度フィルター部分を口に含んで、周りの空気を巻き込みながら煙草を通して息を吸う。
「生真面目だねえ、何でもかんでも。お前はクラスの委員長か何かかよ」
「体に悪いだろう。肺活量が少なくなると競技にも支障が出る」
「お前には関係ない」
 やる気なさそうに、また肺から大きく煙を吐き出す。普段煙草を吸わない藤枝は、周りで匂いを嗅ぐだけでも体の奥に悪いものが蓄積されて行くような気分になった。天平は吸ってどのくらいになるのだろうか。仮に長期間吸っていたとしても、天平の成績が落ちている所は見たことがない。
 思い返して、いつもの黒々とした、どこにぶつけるでもなかった感情が沸き起こる。なぜ天平はいつもこう自分勝手なのか。練習の時といい、本新歓で主将の話題を振られた時といい、いつも身勝手で、礼儀なんて言葉を知らないのではないかと思うほどに挑発的な態度ばかりとる。
「関係なくなんてないさ。俺はお前を越えるのが目標なんだ」
「はあ?」
 気付けば藤枝は認めたくないと思っていたことを本人に直接吐き出してしまっていた。口を開いたせいで咥えた煙草を落としそうになって、天平は慌てて煙草の巻紙を強く摘んだ。何を言っているんだこいつ、というような呆気に取られた表情で驚いている。いつも垂れ目がちな瞼が、今は驚きに見開かれていた。気分がいい。もっと言ってしまいたい。
「覚えているか、カズ。俺ら、同じ高校で受験勉強してただろ。俺は、金がないことからお前に引け目を感じていたんだ。受験の時も。お前は恵まれててどこにでも行ける。けど、自分はそうじゃないんだって。だからお前より勉強して、いい大学入って充実した生活送ろうって思った。俺小さい頃から銃好きだったから、射撃部のある大学をわざわざ選んで。そうしたら、またお前がこの部活にいて、しかもサークルの中にいてもずっと成績もトップで」
 一息にこれまで思っていたことをはっきり述べる。天平は呆然として藤枝の言葉を聞いていた。短くなりつつある煙草から口を離そうともせずに、黙っている。藤枝は更に詰め寄った。
「お前は練習も適当で、面倒なことから全部逃げ出していい気なもんだよな。その陰でどれだけ他の奴が努力しているのかもしれないで、ただただ面倒くさいって言っていれば済むと思ってる。この間の本新歓で荒巻さんに主将を勧められたときだってそうだ。お前は面倒くさいから俺に来年の主将を押しつけようとしたんだろう。信じてる、なんて言葉まで出して。今だって、俺が煙草は体に良くない、って注意しているのに聞きもしない。それいつから吸ってるんだよ。凄くいい姿勢で銃撃てるのに、銃を捨ててまで貪り付きたいのかよ、そんな葉っぱに」
 才能に恵まれている彼が羨ましかった。いくらでも投資が出来る彼が羨ましかった。面倒くさいが理由で自分が手にできるものを切り捨てられる彼が妬ましかった。努力しないと自分が手に入れられないものを、何もなしに手に入れてしまう彼が眩しかった。だからこそ、そんな全てを持っている彼が、いつも怠惰なのが許せない。そして自分自身は、そんな怠惰な彼に負け続けているのが、悔しくて仕方がなかった。そんな彼を越えることで自分が努力した証を残したかった。藤枝の思いはぶつけられるようにして天平を罵倒する言葉になり代わっていく。彼の全てが憎いと言わんばかりに、今この状況を、今彼が自分に従わないことを、怒りのままに暴言として並びたてていく。天平はそれを、ただ黙って聞いていた。何も言い返さずに、ただ煙草を燻らせ、激情する藤枝など意にも介さないように粛々と煙を舐めていた。
「だから、俺はお前を越えたい。お前と戦える最高の場所で、お前を越えて今までの努力が無意味じゃなかったことを証明したい。だからお前がそんな態度で射撃に臨んでたんじゃ、意味がないんだよ。本気になれよ、カズ」
 やがて藤枝は全てを吐き出したようにそう締めくくると、憤怒したために酸素が行き渡らなくなった頭を冷やすように一つ深呼吸をした。が、天平の吐き出した煙に邪魔されて、うまく呼吸が出来ない。咽喉元に引っ掛かるような濃厚な密度で汚れた空気に、胸が苦しくなってごほごほとせき込む。
 天平はその藤枝の様子を相変わらず黙って見ると、今仕方吸い終わった煙草の吸殻を灰皿に押しつけてふっと天に向けて息を吐いた。そして一通りせき込んで少し胸が楽になった藤枝が姿勢を直すと、空に顔を向けたまま、くはは、と小さく笑った。
「それって、要するに逆恨みじゃねえか」
「逆恨み?」
「だってそうだろ。俺はお前に何もしてない。お前が勝手に俺の状況を解釈して、勝手に嫉妬してるだけだ。俺を越えたいだとか、俺を真面目な奴にしたいだとか、結局俺を下に見たいっていうお前の願望を叶えるための、ただの自己満足じゃねえか」
 藤枝は何を言われているのか一瞬分からなかった。
 正論だ、とでもいうように天平は冷静に指摘する。煙草を吸い終えた天平は、片付けるときに舞い指先に着いた灰を落とすために人差し指と親指を擦り合わせた。藤枝はその態度に、また悲しいほどに憎い気持ちがこみ上げてくる。
「そういうところがムカつくって言ってんだよ!」
 感情のままに怒鳴り散らす。この場所が奥まった場所でなければ、その悲痛な声を聞きつけて誰かがやってくるのではないかと思うようなひどい叫び声だった。その叫びには何の理屈もなかった。いつも押さえつけている彼に対する妥協や、自分のプライド。そういったものを全て取っ払い、心の奥底から何の自制もなく絞り出した、生々しい悲鳴が舌に乗せられた。ともすれば今すぐ天平の首根っこに飛びかかっていってしまいそうな煮えたぎる思いが、降って湧いてを繰り返す。悲しいくらいに悔しい。自分が彼を越えられないのが。自分が彼に見下され続けているのが、冷たい感情となって渦を巻く。
「やっと本心を出してくれたな」
 だがそんな崩壊しかけた表情の藤枝に天平が掛けたのは想像もしていなかった言葉だった。藤枝は一瞬呆気に取られて前のめりに掛けていた体重が急に軽くなったような錯覚に捉われた。天平はまた、いつもの面倒くさそうな瞼が垂れさがった無表情に戻っている。何が言いたいのだろうか。
「お前、言いたいことに任せて何かを見失ってるぞ。そのくせ、いつもニコニコしてっから何考えてるか全然分からなくて、こっちが混乱するっつうの。もう大学生だろうが。ちったあ自分で意思表示くらいできるようになれや」
 またも正論を返してきた天平に、藤枝は言葉が出ない。ただひたすら、煙草の煙と同じような気持ち悪さだけが胸を侵している。天平はさらに続けた。
「俺もお前のことを意識はしてたんだ。一応、同じ高校出身だし、それ以前に俺のすぐ後ろにいた奴だからな。どんなときだって」
「すぐ後ろって」
「お前の方こそ、俺のことをちゃんと見てないし分かってるつもりになってるだけだ。もともと、お前と俺に大した差なんてねえんだよ。何勘違いしてるんだか」
 腰に手を当て、くく、と咽喉を鳴らす。ぶっきらぼうに言い放たれた天平の大した差というやつに、おそらく金銭的な問題は入っていない。彼が言いたいのは、もっと別の、才能や考え方の部分のことだろう。何かこれまで天平を見ていて見逃していたことがあったということなのか。
「俺はいつだって本気だ。面倒くさがってるのはお前と違って、泥臭いのが嫌いなだけだ。もがいているのを他人に見られて気持ちいいと思うか、気持ち悪いと思うか。それが俺とお前の差だ。それが唯一違う、成績の二%の差だ」
 天平の口に初めて射撃の成績の話題がのぼり、藤枝は弾かれたように顔を上げた。今までのどんな罵倒や侮蔑の言葉よりも衝撃的な彼の告白は、記憶に鮮烈に刻みつけられてしまった彼の昔の姿を思い出させる。友達と下卑た笑みを共有していた天平。しかしそれは、藤枝が見ていた天平の姿に過ぎない。
では、本当の彼の姿とは?
「覚えてないのかよ」
「……何を」
「俺が今までしてきたことだよ。ずっと嫉妬してたんなら分かるんじゃねえのか。まあ知らないんだろうけどな」
 誰にも通じないような言い方に、藤枝はまた眼を伏せる。天平を見ていた時間は自分が一番長いと自負しているのに、天平が堂々と言ってのけるその言葉の真意が全く理解できない。
「部でいつもやる気がなさそうに、練習そっちのけで漫画読んでる」
「他の奴らも似たようなもんだろ」
「会計なのに、仕事をサボってる」
「サボってるわけじゃねえ、お前らが聞く間が悪いだけだ」
「弾の購入数だって一番少ないだろ」
「そんなことねえよ」
「嘘付くな。お前はまだ一缶も使いきってない」
 弾の購入ノートにまだ天平の名前がないことを、藤枝は以前ノートを確認したので知っている。が、天平は何か思い当たったようで、ああ、と声を上げた。
「俺の使ってるのはファイナルだ。R―10は、確かに一缶も使いきってないな」
「ファイナル……?」
 気が付かなかった。言われてみれば、部で使える弾には二種類あったのだ。藤枝を含め殆どの部員は弾代の安いR―10を使っている。てっきり天平も同じものを使っていると思いこんでいたが、どうやら彼はもう一つの種類である、ファイナルを使っているらしい。確かファイナルの弾は、値段が高くなる分、R―10と比べて僅かだが撃ちやすいと聞いたことがある。
「そうだ。ファイナルの弾購入ノートは普通のノートとは別に管理してる。今年は俺の他にファイナルを買いそうにないし、どうせ最後に処理するのは会計だからってことで、そのノートも俺が持ってるんだ。で、その消費量。今年に入って五缶目だ」
 五缶目、というと一缶二百五十発だと考えて、少なくともこれまでに千発は消費していることになる。それだけ天平が練習しているということなのだろうか。しかし、彼がそこまで部活で熱心に練習をしているところなど見たことがない。また、仮に個別に練習していたとしても、去年空気銃の所持許可証を持ってから今の時点で千発を消費するなど、物理的に不可能ではないのか。
 言葉も出せずにうろたえていると、天平がまたクク、と笑った。
「今、そんな弾数使うの無理だ、とか思ったろ」
「え、ああ……」
「だからお前はいつまでもお前なんだ。そりゃあ暇な時間にこっそり毎日練習すれば使いきれないこともない。それこそ、朝方なんて誰もいないしな。お前が必死に金稼いでた時間帯に、俺は射撃の練習をしてたんだ」
 もしその話が本当だとして、彼が一体どれだけの時間を射撃に費やしてきたのかを考えてみる。今年度に入ってから四カ月。一月当たり二百五十発として、一週間に約六十発。きちんと計算してみれば確かにやってやれない数ではないが、部活の時間と一部空き時間にしか練習ができない藤枝の努力の比ではない。天平の実力は、彼の努力の賜物だったのだ。
「ずるいな、お前は」
 思わずそんな感想が口を吐いて出た。誰にも努力している姿を見せずに、一人で先を歩いて、皆のいるところでは怠けている。天平は人前でもがくのが好きじゃないだけだと言ったが、それにしても限度というものがある。藤枝は結局、自分から見える天平の姿しか見ずに嫉妬をしていた。すっかり騙されていたことになる。後ろめたい気持ちが勝り、藤枝は天平から視線を逸らした。
「そうだ。何とでもいえ。俺はずるい。ずるいついでに、気分が良いから今日はもう一つ教えておいてやる」
 天平はまた煙草に口をつけた。まるで食事をするように濁った空気をうまそうに吸うと、一つふっと息を吐く。
「俺、留学するんだ。今年の十月から、丁度一年。来年の同じ時期まで」
「は?」
「だから、主将は受けられない。荒巻さんにあの場でお前を推薦したのも、それが理由だ。確かに押し付けになるかな、これは」
 今度呆気に取られることになったのは藤枝の方だった。留学? この天平が? 何かの冗談に決まっている。こいつはそんな真面目な奴じゃない。
「ちょっと待て、そんな話全然……」
「今言ったばかりだ。俺はそういうのを人に知られるのが嫌いだと」
「だって、そしたら、今年の会計はどうするんだよ」
「あとで帳簿の付け方教えてやるよ」
「でもじゃあイズミは」
「ここであいつは関係ねえ」
「成績だって、お前がトップなのに」
「俺が抜ければお前が一番になれる」
 クク、と不敵に天平の口元が歪んだ。嬉しいだろう、とでもいいたそうな、人を食ったような笑みだった。
「忘れろよ、俺のことなんか。抱え込んできたものも全部忘れて、お前が一番の部活を、あいつらと一緒に作っちまえばいい」
恐ろしい奴だ、と思うと同時に、そんなものに縋りつかせようとしている天平に、また冷たい悔しさがこみ上げてくる。こいつは俺をどれだけ馬鹿にすれば気が済むのだろう。自分のことを値踏みできていないのは、寧ろ天平の方だ。
確かに今まで自分は天平を退けて一番いい成績を掴むことにこだわり続けていた。だがそれを、天平がいなくなったことで成し遂げても、何の意味もない。
「そんな風にして一番になっても、嬉しくなんかない」
 苛立ちを隠さずに、ありのままに告げる。拳に力が入る。それは間違いなく、藤枝の本心だった。絞り出した答えを聞いた天平が、煙草を地面に落として靴で踏み潰す。
「ほう」
「俺は俺のやり方でお前を越えてみせる。十一月ってことは、秋関予選には出られるだろ。そこで、俺と最後に勝負しろ。俺が勝ったら、来年戻って来てからまた一緒にあの部で撃つことを誓え」
 これは賭けじゃない、願掛けだ。来年の十一月以降に天平が戻ってきても、四年の引退時期までは時間が短い上、オフシーズンも含めたら活動期間など殆どないに等しい。だが約束をすることで藤枝が天平に何が何でも勝つために、自らを追い込む。そのための宣言だ。
「良いだろう。そこで俺が勝ったら、今までの俺のことは忘れろ。帰ってきたあとも、もうあの部活には行かない。ただ、仮に俺を越えられたとしても」
 天平はそこで言葉を切った。いつになく鋭い視線が、藤枝を射抜く。
「俺を越えたくらいで満足するんじゃねえ。もっと先を目指せ。いいな」
 思ってもみない言葉に虚を突かれ、一瞬反応が遅れたが、約束に乗ってきた天平にわかった、と告げる。天平は持っていたライターをポケットに仕舞って喫煙所に背を向ける。
「ああそれと」
 そのまま去っていくのかと思った矢先、天平が振り返る。
「留学の話は、部の他の奴らにはするなよ。無駄に騒がれたら出発するまでがうっとうしいから」
 天平は今度こそ背を向けてどこかへと歩き始める。返事をする間もなかった。しかし、自分を越えた程度で満足するなとは、天平も大概思考回路が読めない。前にも同じことを言われた気がしたが、未だその真意は闇の中だ。
天平の様子を見送った後、藤枝は居ても立ってもいられず、射撃場に向けて歩き始めた。課題のために学校に来たが少し撃ちたい気分だった。藤枝は銃が好きだから撃っている。同時に今までは、競い合う天平と言う存在がいた。そこに追いつきたかった。だが今は、秋関予選までにもっと力をつけて、何が何でも彼に追いつき、追い越さなくてはならない。天平以上の努力で、残りの二%の差を埋める。彼の姿をずっと覚えておくためにも。そして、彼を越えた先にある更なる高みを目指すためにも。

***

 夏休みが明けて、秋の関東大会予選会。会場である埼玉県長瀞射撃場では前日までの刺すような日差しはすっかり曇天の雲に覆い尽くされ、気温の低い日となった。湿気を多く含む空気がじめじめと体にまとわりつく。山間に位置する射撃場の天気は良くもなく悪くもなくといったところでコートを着て競技に臨む選手たちにとっては寧ろこのくらいがちょうどいい。一同が会場に着いたころには、既に各校の選手団がうちっぱなしのコンクリートに腰をおろして仕事や射順についての話し合いをしていた。他の部員たちが同じように話し合いやお喋りに興じている間、藤枝も天平も必要なこと以外は殆ど話さなかった。桐原と三年の二人は、各々慣れ切った準備に手際よく取り組んでいる。天平と藤枝は、お互い特に言葉を交わすこともなく同じ射郡に臨んだ。
 射撃開始のアナウンスと同時に藤枝は銃を構えた。サイトを覗いた先にいつものように潰れた饅頭みたいな黒い小さな点が見える。本射前の試射は無制限。用意した的四枚に蜂の巣のように穴が空くまで、何度でも試し撃ちが出来る。が、撃ち過ぎて本射の精度が落ちるようでは意味がない。試射はあくまで足位置を決めるために必要な練習であって、一枚に掛ける時間や後に残す体力などを考えながら撃つことが大切だ。意識を前に向け、照準がはっきりと黒点を捉えるまで待つ。腕は下げ過ぎず、上げ過ぎず。引き金を引く。パコン、と乾いた音と同時に、突き飛ばされた時のような衝撃が腕に訪れる。試射では時間短縮のため、一発一発を確認することはない。電動射撃機のスイッチで的を射座まで戻す前に、もう何発か撃っておく。空気銃のレバーを引いた。玩具のようなカチャという音に続き、銃上部のラッチが開く。グローブをしていない右手で鉛の弾を詰める。銃を構えてサイトを覗く。先に見える、潰れた饅頭みたいな黒点。照準が少し高い。グローブ越しに伝わってくる銃の重みに少しだけ左手を委ねる。照準が下がった。が、今度は低すぎる。これではセンターどころか八点圏内にすら収まらない。銃の重みに逆らうようにして左手拳に力を入れる。まだ低い。支えの右手で銃身を脇に引きつけ、固定した。再度、円筒の穴を覗きこむ。丁度照準の中に収まっている、黒点。これなら行ける。右手の人差指を動かす。パコン、という乾いた音。衝撃に対して、姿勢は安定している。上手く撃てたかもしれないが、結果を確認するのはあと何発か撃ってからだ。今のポジションはよかった。この流れに任せたまま、撃ち続けたい。銃を引き寄せ、立てた膝に銃床を当ててレバーを引く。カチャ、と玩具のような音。鉛弾を詰め、ラッチを閉じる。銃床を肩につけて構える。照準は、丁度黒点を捉えている。このまま撃てば、おそらく真ん中に行くはずだ。
もう一発、二発と撃ちこみ、試射的一枚に五発撃ったところで、藤枝は的を射座に戻した。九点圏に小さめの二つ、十点圏に大きめの穴が一つ空いている。暴発した覚えはない。センターにどれだけ当たったかはわからないが、中央の大きな穴は、九点圏以外の三発が抜いた痕跡である。どうやらかなり正確に撃てたようだ。おそらく先の姿勢を保ち続ければ、自ずと銃を持つ手も固定され、安定的に十点圏に撃ちこめる。
これならば、天平を凌ぐことも夢ではないかもしれない。
 藤枝は無我夢中で残りの試射的を撃った。呼吸に乱れはない。機械のように正確にまっすぐ、銃弾は的の十点圏に飛んでいく。的を戻すと悉く真ん中に大きな穴が空いていた。本射に入ってからもそれは何等変わらなかった。一ミリに満たない的の中央を、重い銃から放たれた五ミリない銃弾が正確に貫き、十枚終わった第一シリーズの成績は、九点圏が一枚、残りはすべて十点圏もしくはセンター。シリーズ得点は、百点満点中の九十九点。
 不思議と銃と一体になっているような感覚に捉われる。肩から脇へ、脇から胸へ、胸から腕へと筋肉の流れに沿って出来た空間に、ぴったりと、まるでそこにあることが自然であるかのように、銃が体に張り付いている。ここまでは息の乱れも体の疲労もない。藤枝は無心で標的に向き直り、姿勢を固定した。一発、二発と、吸い寄せられるように弾は的の中央へと向かう。電動射撃機のボタンを押して戻ってきた的は、またセンター圏が射抜かれている。まるでそれが当然であるかのように、何度撃ってもセンターが抜かれた的だけが戻ってくる。銃を撃つ時にあるのは、ただの無心だった。
 藤枝はそこで何度も目にしてきた潰れた饅頭のような黒点の前に、無心で銃を構えていた。もうあの黒点も怖くない。はっきり目に写る一瞬のうちに、人差し指に僅かな力を入れて、それを蹴散らしてしまえばいい。考えるまでもなく体を動かす。誰かが、例えば天平がいるから、自分は射撃をやっているわけではない。あくまで彼は目標だったのだ。自分が本当にやりたかったことは、無心で銃を構え、あの潰れた饅頭のような黒点をひたすら撃ち抜くことだけ。何百発、何千発も撃っても届きそうにない、気が狂いそうになるほど遠い遥か彼方の十メートルの距離の前に、ただ無心で立ち、銃を構え、的を射抜く。
藤枝にとっては、それが射撃だった。無心に銃を持ち、目の前の的を射抜くことだけに集中する。そうしているうちに、徐々に自分の中にある何かが忘れられる気がした。自分と相対して留学すると言った天平の表情も、人を食ったように笑みを浮かべる彼も、全て射抜くことによって忘れられる気がした。あるいは投影と言ってもいい。これまでの自分を的に投影し、それを射抜くことによって自分の馬鹿げた以前の嫉妬を払拭出来る気がした。それは悪く言えば、依存。例えば人、例えば物。何かに集中している時だけ、今の悩み事から解放される。その瞬間、心の底から、銃と射撃が好きになれる。他の皆が、例えば天平が、何を思って射撃をしているのかは知らない。知らないが、藤枝にとっての射撃は、自分を投影してそれを撃ち抜くもの、他人を投影してそれを撃ち抜くもの。あるいはもっと別の、単純に真ん中を射抜いた時の快感。何十発撃っても、何百発撃っても、決して射抜かれそうにないあの真ん中が、初めて射抜くことが出来た時の快感。そして今は、それをただひたすら繰り返していく。
人に依存できないなら、と藤枝は思う。物に依存すればいい、ひたすら物に依存してやる。射撃にのめり込んで、何もかもを忘れるこの瞬間だけ、無心で前を向いて引き金を引き続ける。変わらず弾はまっすぐ的を射抜く。隣でパコンと空気の抜ける音が聞こえても、カタンとレバーを引く音が聞こえても、それが気にならないくらいに今は自分のペースを保つ。無心に、ただ無心にレバーを引き、弾を詰め、前を向き、引き金を引く一連の動作を繰り返す。十点、また十点と点数が上乗せされて行くが、最早それも気にならない。冷めた頭がただ動作を繰り返すことだけを欲して体を動かす。空っぽの状態が、最高に気持ちが良い。前に銃を向けて引き金を引くことが、最高に心地よい――
 それが競技中、ただひたすらに藤枝が感じたことだった。気付けば第六シリーズ、時間にして一時間十五分はあっという間に終わっていた。コートに絞めつけられた腕、胸、足を解き放つ瞬間、いつもならばまるでさなぎが羽化するかのように感じていた解放感が、今はただ名残惜しいとさえ思った。このまま姿勢を固定して、まっすぐに弾を撃ち続けても、おそらく体は疲れないのではないか。その証拠に、呼吸一つ乱れていない全身が、もっと撃ちたい、もっと先を目指したいと訴えている。的に投影された自分や天平を、無心で貫き続ける快感にうち震えている。首や脇を伝う汗が、心から湧き出る熱に蒸発するような気分さえする。
 興奮冷めやらぬ藤枝の後ろで記点を担当していた他校の学生の目が、合計得点を計算しながら僅かに大きくなったように見えた。それが良かれ悪しかれ、何点でも構わない、と藤枝は思った。今は、今この瞬間だけは、純粋にただ競技を楽しめた。純粋に射撃に没頭できた。それで十分だったのだと分かった以上、他の何を意識する必要もないのだ。
 同じ射郡の選手たちは、まだ殆ど射撃の途中だった。控室に戻るときに天平の射座を見たが、彼も藤枝が終わった直後、まだ射撃を終えていなかった。

***

「いやー、藤君すごいやん。いつの間にこんな強うなったん」
 パソコンに向き合う桐原の第一声で藤枝は目を通していた銀座銃砲店のカタログから顔を上げる。秋関予選から一週間後の土曜日。学連の公式ホームページに先日開催された予選会の結果がアップされていた。藤枝はカタログを閉じて桐原のパソコンのディスプレイを覗きこむ。成績は五七三点。出場者中十位と、かつてない好成績だった。そして、自分以上の成績九人のうちに天平の名前はない。彼の最終得点は五百七十点。藤枝は遂に、天平を凌いだ。
「いやあ、でも惜しかったなあ。あと二人抜きすれば決勝行けたのに」
「でも、先輩凄いっす、これなら本当に全国も夢じゃないんじゃないですか」
 脇から成績を見て興奮気味に岩崎が語る。以前桐原が同じことを天平に言っていたと思いだして、そうかな、と生返事でそれに応答した。全国、と言われてもあまり想像が及ばない。正直、まだ天平を追い越したという実感も薄い。確かに天平と話したあの日から、毎日のように射撃場に通い夏だと言うのにコートを着こんで汗だくになりながら死に物狂いで練習を続けたが、そのうち銃を撃つことそれ自体に没入するようになり、成績のことを忘れかけてさえいたのだ。それは努力と言うよりも、娯楽に近かった。今はもう、楽しむ以外に銃を撃つ方法を、藤枝は知らない。自分はこの先、ただこの部活でひたすら銃を撃ち続けているだけではないのか、という想像ばかりが脳裏を埋め尽くす。秋関予選の時と同じく、目の前の的だけに集中して人差し指に僅かな力を加え、ど真ん中を撃ち抜く。おそらくそれだけが、今の自分に与えられている射撃を続ける理由なのだ。もしかしたら、天平が桐原からこの賞賛をうけたときも、同じような気持ちだったのかもしれない。彼は自分と違って、もっとはっきりとやる気のなさをアピールしていたが。
 部室には天平以外の現部員が集まっていた。大曾根は相変わらずスマートフォンに目を向けたままだ。最近ダウンロードしたアプリのゲームが面白くて止められないのだと言う。今日は荒巻と栗塚もいる。荒巻はいつもの笑顔を顰めて眉間に皺を寄せ、自分で持って来たらしい分厚い文庫本に目を通している。
「まさか、藤君がカズ君を抜かしちゃうなんてねえ。驚き通り越して感動の域だよ」
「ええ? お前酷くね、それ藤君遠まわしに貶してんじゃん」
「貶してなんかいないよ。俺は二年生には皆期待してたんだ。ただ、これだけ短期間に差が縮まるとは思ってなかったからさ。きっと藤君、凄い努力したのかなって」
「あいつのお陰ですよ」
 荒巻の呟きに藤枝は答える。何が? と荒巻から疑問が飛んできそうだったところを、彼の額ぶつかったオレンジ色の球体が遮った。荒巻の額から落ちた球体が床に転がる。球体が発射元にいたのは、栗塚だった。
「って。何すんだよ、栗!」
「それは栗じゃなくて、ミカン」
 さも言ってやったぜという面持ちで栗塚がにやにやする。天平は突っ込みを入れる気も起きないようで代わりに短くため息を吐いた。呆れ顔の主将の表情から、何言ってるんだこいつ、というような声が聞こえて来そうだ。
「まあお前は講釈垂れる前にミカンでも口につっこんどけってことだよ。ほれ、もう一個」
 手品のようにどこからともなく出現したミカンが荒巻の方へと投げられる。やめろやめろと逃げる荒巻。床に悉く落ちていくミカンを一つ拾い上げ、藤枝はその皮を剥いて口に放った。瑞々しい果肉が歯の奥で潰れて舌に酸味を与え、咽喉の奥へとジューシーな果汁が抜けていく。皮の色は大分黄色っぽかったが、食べてみると存外、甘く熟れている。
「おいしいですね、これ」
「藤君! 呑気にミカンなんか食べてないでこいつ止めて!」
「先輩も食べて下さい、おいしいですよ。さすが美食家、栗塚さんの勧めるものは違いますね」
「でしょでしょ」
 言いながらも荒巻へのミカン攻撃を止めない栗塚。食い物で遊ぶな! と怒号を飛ばす荒巻は、もう部室の隅の方へと追いやられている。危ないところだった。荒巻に追及されたら、藤枝もつい言うつもりのないことを言ってしまったかも知れなかった。天平と桐原が部室でいちゃついていたときは呑気な人だと思っていたが、意外とこの人は鋭いのだろうか。おいしいミカンをごちそうになったことも含め、栗塚に感謝すべきかもしれない。
 今日は、天平が部室に来る最後の日だ。彼は次の部活がある来週の水曜には、もう日本から遥か彼方の地、地球の裏側にいる。
 自分がここまで成績を伸ばせたのは、天平に俺を越しただけで満足するなと言われたからだ。構内で煙草を吸う天平を発見したあの日理解できなかった言葉が、今になって身に沁みている。天平自身が、おそらく誰か明確な対象を越えることよりも、高みを目指して満足するタイプだったのだろう。改めて思うと、彼と最初に競った受験時代に言われた通り、物事の追求に果てなどなかったのだ。天平は藤枝に追われることで高みを目指しながらも負けたくないという緊張感を得ていたのかもしれない。藤枝は秋関予選で天平を下して彼と同じ立場になって、ようやくそれが実感できた。そのことは、誰に語るつもりもない、自分だけの秘密にしておこうと思う。天平が部室に来る最後の日だからこそ、これまでの柵を全て忘れたように送りだしてやりたい。それを天平がどう受け止めるかは分からないが、藤枝はそうして彼を送り出すことで、天平に囚われていた自分自身に折り合いをつけることにした。
だがそれは天平があの日言ったように、彼の姿を忘れる、ということを必ずしも意味しない。これまで競ってきた相手の姿は、忘れようにもはっきりと頭に残ってしまっていて、これから先も決して忘れることなどできるはずもないのだ。天平は誰にも代えがたい、最高の競争相手だった。意固地にならずに最初から認めてしまえばよかった。彼の代役などいない、と。嫉妬するほど醜い感情を抱えていたくせに、今まではそんな簡単なことができなかった。だからこれからはいっそ、彼の存在を、彼の姿を覚えたまま、もっと先を目指そう。そして天平が来年帰国した時、遥か彼方から今度はお前が俺を追いかける番だ、と言ってやるのだ。
 部室の分厚い金属製のドアが数回叩かれた。時刻は午後二時。部活開始時刻から一時間半経った今になってこの場に現れるとは、何とも彼らしい。最後の最後まで遅刻をしてきたのは、いつもの怠慢か、それとも何か理由があるのか。藤枝は食べ終わったミカンの皮をゴミ袋に入れ、用意したものをバッグから取り出し、今席にいる皆にそれを放り投げた。部室にいた全員が、各々向き合っていたものを素早く片付け、慌てて藤枝が投げ渡したそれを手に取る。準備は一瞬だった。ノックされた部室のドアが、ちわす、というやる気のなさそうな声のあとで、ゆっくり開く。
 瞬間。乾いたクラッカーの音が四方八方から響いた。煌びやかな歓迎テープと幾重にも連なる紙吹雪が、六ヶ所から同時に天平の頭へと降り注ぐ。ぽかん、と呆気に取られる彼を置いてけぼりにして、クラッカーを捨てた十二の手から、割れんばかりの拍手を送られた。
「せーのっ!」
『カズ! 留学、おめでとう!』
 口々に示される歓迎の声。そう、今日は彼が部室に訪れる最後の日だ。同時に、現部員全員でその門出を祝う日でもある。この日のために、藤枝は事前に彼の留学の話を全員に話し、それぞれに彼をもてなす方法を考えてもらっていたのだ。天平は部室を見渡している。壁に張り付いた留学を祝う言葉。殺風景だった天井に垂れる色とりどりの藤飾り。座る主を待ち受けていたお誕生日席には座布団が敷かれ、ゲームが置かれていた机に、菓子やジュースなどが並べられている。
「いやあ、カズ君水臭いよ。俺らに何も告げずに一人で留学しちゃおう、なんて」
 拍手が止んだあと、栗塚が用意した紙コップにコーラを注いで手渡した。おいしいミカンも用意してきたからね、と小声で言って、満面の笑みで迎える。天平はきょとんとしたまま、空いていたパイプ椅子に案内された。何が何やらわからない、と言った顔で着席する。
「せやで。あんたときたらこの期に及んでも遅刻してくるんやもんなあ。全く相変わらずしょーもない奴や」
 言いながら、既に桐原は机に並んだ菓子の袋を破り始めていた。キングサイズののりしおポテトチップスが、パーティ開きになって机の上に現れる。
「いや、イズミ先輩。ここはあれっすよ、ヒーローは遅れて登場するって奴ですよ。今日のヒーローはまさしくカズ先輩。そこを見越してあえて遅れて来たんでしょう、さすがって褒めておくべきっす」
「ショータ君。今日、遅刻しなくて本当によかったね」
「ああ、そうだね、今日遅れてきたら危うく俺も先輩と一緒に留学することに……ってそんなわけあるか! 大曾根さん酷い!」
 いつもの調子でショートコントを繰り広げる岩崎と大曾根が皆のクラッカーの空き箱をゴミ箱に捨てていく。難しい顔をしていた荒巻が、その様子を見ながら笑い、頷いて天平の肩に手を置く。
「主将の話を振った時にちゃんと理由を言ってくれればよかったのに。そういう所、いつも素直じゃないんだから。君はいい友達を持って、幸せだねえ」
 まだその言葉を飲み込めていないらしい天平は呆気に取られている。荒巻の視線が藤枝の方に向いた。つられて、天平もこちらを向く。何となく、藤枝は優しい笑いがこみあげてくる。
「藤、お前」
「そういうことだよ、カズ」
 続く言葉を聞かなくても、藤枝は天平が何を言いたいのか分かった。
「約束、破って悪いな。お前は勝手に来週からいなくなるつもりだったんだろうが、そう何度も、俺だって負けてられない。飲み会の段取りに関しては、渉外の俺が、一番よく分かってるってことだ」
 藤枝は椅子から立ち上がり、依然状況が呑みこめていないような顔の天平に近づいた。
「はい、これ皆から。大事にしろよ」
用意してきたものを手渡す。中心にセンターの撃ち抜かれた射撃的が貼り付けられ、その上に「留学おめでとう」の文字が躍る色紙。この日のために藤枝が皆に呼び掛けて作ってもらったものだ。買った時はスペースが広すぎて六人で埋めるには余るだろうかと思ったが、それぞれが送る言葉を自由に書き連ねたお陰で、今や殆ど余白がない。

 カズ先輩、留学おめでとうございます! 先輩のイケメンっぷりには毎度痺れました。海外に行って一層カッケー英語身につけて帰ってきて下さい。また部で会えるのを楽しみにしてます!
岩崎 翔太
 留学おめでとうございます。あっちに行っても、金髪碧眼の色白美女なんかに浮気しないで、遠距離でも桐原先輩と末永くお幸せに。(笑)
大曾根 真央
 カズ君、留学おめでとう。君が戻ってくる頃には僕らはもう部を引退するけど、いつかまたどこかで会えたら嬉しいな。そのときは一緒においしいものが食べたい!
栗塚 和馬
 留学おめでとう、カズ。海外でしか学べないことを、たくさん学んで帰ってきて下さい。カズのおかげで、もしかしたら再来年、留学生が勧誘できるかも?
荒巻 駿
 カズ、留学おめでとう。まさかあんたがこんな意識の高い奴だとは思わなかったけど、その分知らなかった新しい一面を見させてもらった。暫く会えなくなるのは寂しいけど、部は私と藤君に任せて、のんびりしておいで。海外の珍しいお土産、期待して待っとる!
桐原 泉

 それぞれの言葉が、思い思いの字で綴られている。時に荒々しく、ときに繊細な六人の字の癖が、色紙の空白を余すことなく使いきっていた。天平の目が、呆気に取られた様子でその個性豊かな文字たちをじっくり攫い、僅かに動く瞼に遮られる。何も言葉を発しない彼からは、まだ感情が読みとれない。
「向こうでも達者で暮らせよ。帰ってくるまで、俺がお前の残した会計と、来年の部を背負ってやるから」
 藤枝は思いがけない言葉が口から出たのに何となく恥かしくなり、すぐに席に戻って天平に背を向け、自分の分のジュースを紙コップに注いだ。天平はまだ話さない。ぼんやりと口を開いて、留学を祝福する部員一同と、手元の色紙を交互に見比べている。
「おおい、カズ! 今の気持ちを一言!」
 桐原が手でマイクを持つ真似をして拳を天平に突き出す。呆然自失だった天平は彼女の声ではっと我に返り、桐原を、岩崎を、大曾根を、栗塚を、荒巻を、そして最後に藤枝を見た。ふ、と顔が綻んだかと思うと、一瞬、部室に入ってからずっと忘れていた表情を取り戻したかのようにくしゃくしゃに笑い、俯いた。
「お前ら」
 声が震えていた。彼らしくない、何か耐えがたいものを無理やり押し殺しているかのような声だった。次に天平が顔を上げた時、部室にいる全員が、彼の瞼の裏から沸く雫に我が目を疑った。
泣いていたのだ。普段何者にも乱されることなく、堂々と自信に胸を張っていた、あの天平が。僅かだが、自分を祝う者に心を揺らし、僅かだが確かに涙を流していた。
「ありがとう」
 穏やかな笑い声が、彼の感謝に答える。一人粛々と涙を流しながら、天平は続く言葉を探そうとしたが、上手く言い切れずに戸惑っている。藤枝はそれを見て注いだ手元の紙コップを傾け、荒巻に合図した。合図に気付いた荒巻が自分の席に置かれたコップを持ち、皆を見回す。
「それじゃあ、主役も来たことだし。カズ君の留学を祝って……乾杯!」
 荒巻の声に合わせて皆が紙コップを合わせた。器に注いだ炭酸飲料を一気に煽ると、爽快な咽喉越しに乾いていた咽喉が震える。
「これから忙しくなるなあ、藤君」
 桐原が早速破いたポテトチップスに手をつけながら言う。天平が去る来週が終われば、すぐに月が替わる。おそらく、秋関本戦はその直後だ。十一月頭には大学祭も控えている。その会計を担当するのは、直々に天平から仕事を任された藤枝だ。大学祭には例年、テントで射的屋を催すことになっている。景品の駄菓子や目玉商品のゲーム、巨大ぬいぐるみ、道具であるエアガンやBB弾などの調達で、会計は何度も財布のやりくりを迫られるだろう。一年で最も大きく収支が動く時期に、仕事が回ってくることになったことは確かに厄介でもある。
「でも、迷ってる暇なんてないさ。やらなきゃいけないことは山ほど出てくる。今年も、それに来年もね」
 そうだ、と自身に言い聞かせる。立ち止まっている暇など、もう藤枝には与えられていない。天平の姿を忘れずに射撃に打ち込むことも、彼の残した今年の会計を完遂することも、現渉外として残りの数カ月を乗り切ることも、そして次期主将として皆を引っ張っていく覚悟を持つことも、これからは全てが求められる立場にある。もちろん、ここでの活動費を賄うために、バイトも続けなくてはならない。弱音を吐いている余裕などないだろう。天平だったら、と考える暇もない。秋関予選の射撃中と同じく、ただひたすらに目の前にあるものを片付けていくだけだ。あの僅か十メートルという、近くて遠い距離を埋めていくように、無心にあるがままに没頭し、突き進んでいくより他ない。
 別れを惜しむように部員と楽しげに話す天平に、自然と藤枝も顔が綻ぶ。何や藤君、今日は随分機嫌良さそうやね、と桐原にへらへらしながら肘で小突かれて初めてそれを自覚した。
「そうかな?」
「せや。何か、迷いがなくなったみたい」
藤枝は笑う。曖昧にではなく、今感じている喜びを最大限に表現するように、大口を開けて笑った。いきなり人が変わったように感じたのか、桐原が大きく目を見開いて驚く。悪い悪い、と謝り、しかし実際に迷いがなくなったことでこんな自分が出せるのが桐原にさえ筒抜けになっていたのが、おかしくてたまらない。今の自分を見たら、少し前までの自分はどう思うだろうか。何そんなくだらないことでいちいち大騒ぎをしているのだ、と馬鹿にするだろうか。それとも天平にすっかり絆されたことに、また嫉妬を募らせるだろうか。だがこのくらいでなければ、おそらく天平の色紙に、あんなことは書けなかっただろう。それどころか、彼との約束を従順に守り、誰にも事実を伝えずに一人の旅立ちを見送っていたかもしれない。彼との約束を破ってまで皆に知らせたのは正解だった、と藤枝は珍しく楽しげな天平の表情を見て、思う。その選択には、まるで後悔がなかった。きっとこの天平の笑顔も、これから先、ずっと覚えている。憧れてやまなかった彼との距離を、今はもうすぐそこに感じている。

留学おめでとう、カズ。いろいろあったけど、お前と高校の時からここまで一緒だったのを、最後の最後でよかったと思えたことが、俺はとても嬉しい。帰ってきたらまた同じ大会で一緒に撃とう。それまで部の運営は俺らに任せて、向こうに行っても元気でやってくれ。改めて、今までありがとう。来年の終わりにまた会おう。
藤枝 隼人

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