
「いやあ、店員さんのおかげで、まるで俺の人生見違えたようだよ」
ウラカミさんは籠にお好み焼きパンとスプライトの復刻版、ザ・チーズバーガーを持ってレジに付くなり、そういった。長身に垢抜けたジーンズを穿き、上半身にはTシャツに今風の青いベスト、これからどこかのバーにでも行くのかと思わせるような黒い帽子を頭にかぶり、上機嫌な姿はどこからどう見ても近くの学園に通っている大学生だ。彼がこの姿でうちのコンビニに来るようになったのはつい先日からだが、その口調はこの姿で現れる前と一向に変わっていない。以前と全く同じで、それが逆にカウンターの内側でレジを打っている私を安心させてくれる。
「どういう仕組みなのかは全く分からないけど、便利な世の中になったものだね。やっぱり年老いていちゃあ、体を動かすのも億劫だし、ちょっと歩いただけですぐ疲れちまうから、ろくろく外に出ようとも思えねえわ。今日みたいないい天気の日じゃあ、暑くって日射病になるかもしれねえだろ? 普段だったら帽子をかぶってでも外に出ようとは思えねえんだが、まあ、今日は特別なんだわ……おい、店員さん、あんた人の話聞いてるかい」
「もちろんですよ、ウラカミさん」
愚痴なのか世間話なのか判断付かないウラカミさんの話をバーコードのスキャン音でかき消して、私はそろそろいつもの注文が来るころかな、と思ってくるりと後ろを振り返った。
「ああ、あとマイルドセブンのライトボックスを二つ」
「畏まりました」
やはり注文は変わらなかった、と思いながら、指定された青いボックスを二つ、煙草の棚から引っ張り出す。ウラカミさんの注文はいつもこのセットだ。毎日同じ朝七時半ごろに現れては、毎日同じものを買って、同じ値段を払って去っていく。メニューはいつも、お好み焼きパンと、スプライトの復刻版と、ザ・チーズバーガー、そしてマイルドセブンの八ミリショートボックスが二つ。
「お会計が、一三三一円になります」
そして価格は合計がいつも一と三の鏡数字だ。
「へいへい。ちょっと待っててね」
ウラカミさんは変わらない態度で持ってきた皮張りのバッグを漁って財布を探し始める。後ろには一人、二十代くらいのサラリーマンが並んだ。カウンターの外で商品陳列に精を出している相方さんに、申し訳ない、と思いながらもレジお願いします、と大きく声を挙げて、助けを求めた。
「そういや、店員さん、珍しい名字だけど、どういう字書くんだっけ」
「シオ、で普通にお塩の塩です」
「ああ、そうだった、昨日も聞いたような気がするんだけど、また忘れてたなあ、ごめんなさいね」
「いえいえ」
ウラカミさんが雑談に興じている間に、後ろにさらに女子高校生が列を作った。ウラカミさんはやっとのことで財布を取り出すと、千円札を一枚、ごつごつした指にはさんでレジに置いた。
「あと、三三一円ねえ……」
財布に付いている小銭入れに、武骨な指を突っ込んで十円玉を三枚取り出す。そうこうしている間に、女子高生の後ろにはさらにOLが並んだ。
「いやあ、いっつも三十円はすぐに見つかるんだけどね、百円玉と一円玉がなかなか見つからなくて困るね」
こちらを見ながら笑顔で言うウラカミさんにハハハ、と笑顔で返す。そうしている間にまた人が並んでしまった。現在こちらのレジには計四人。隣のレジも着々と人が集まってはいるが、皆素早く会計を済ませて去っているため、回転が速い。こちらのレジは、まだウラカミさんがあと一円を出しきれていない。
「よし! これで全部だね!」
「はい、丁度お預かりします」
自信満々にウラカミさんがレジに置いたお金を片手で入力して、29と書かれた客層ボタンを押し、ありがとうございました、と早口で言ってお辞儀をする。ウラカミさんは頭の帽子を軽く押さえながら、ありがとうね、と礼を言って、ひょこひょこと店のドアへと向かっていった。
「お待たせいたしました、お預かりいたします」
ウラカミさんの二分ほどの会計を終えるまでイライラしながら待っていたであろう、後ろの女子高生が商品を入れた籠をレジに置く。商品はポップコーンに緑茶のみ、どちらもこの店がフランチャイズ契約している本社のオリジナルブランドだ。メーカーの商品のようにブランド価値が付いていない分、少しだけ安い。
「お会計が、二九六円です」
言いながら、レジ下にある十ニ号の袋を引っ張り、その中にペットボトル緑茶とポップコーンを詰める。ふと見ると、レジにはウラカミさんが並んでいた時よりももっと多くのお客さんが列を作っていた。もう後ろのお客さんが何人いるのかもわからない。早くさばき切らなければ、またレジが混雑してしまう。私は焦ったが、目の前の女子高校生も後ろに並ぶ人々に配慮しようとしているのか、それとも単に自分が急いでいるのか、かなり早くバッグから財布を取り出して、レジにお金を置いた。百円玉が三枚。
「三百円お預かりいたします」
硬貨をレジ台で滑らせてキャッチ、そしてすかさず預かり金を入力後、客層ボタンを押す。
客層ボタンは、私たち店員が商品会計の時に何度も何度も押し続けるボタンだ。右側のピンク色のボタンが女性、左側の水色のボタンが男性で、それぞれ12から50まで、五つずつ、12、19、29、49、50と並び、計十個のボタンが置かれている。これを、お客さんの見た目に応じて、正確に押す。十二歳未満は12、五十代以上のお客さんは50のボタンでひとくくりにされる。今の場合は、女子高校生だから。
私は29と書かれたピンクのボタンを押した。
その瞬間、目の前の女子高生はすらりと身長が伸びて、急に大人びた顔つきになった。美しく手入れされ、ネイルアートが映えそうな綺麗な爪をもつ指が、袋に詰められたポップコーンと緑茶を引き寄せて、すぐにレジから離れ去った。
本人は気付く暇もなかったようだった。またやってしまった。背筋に嫌な汗が一滴、じわりと沸いた。きっと彼女は、学校に登校した際に、同級生や先生から「何事か」という目で見られるに違いない。もしかしたら、突然現れた妙齢の女性に、教職員・生徒・保護者、全員が大騒ぎするかもしれない。
「お次のお客様、どうぞ」
「あ、はい」
目の前で起きた出来事に一瞬固まっていた次の女性のお客さんが、私の出した声でようやくレジへと進みでた。おそらく彼女は何が起こったのか分からなかったに違いない。客層ボタンの存在自体、普通のお客さんは知らない。彼女が見たのは、自分の目の前にいた女子高生が、突然成長してそのまま店を後にした、という事実だけなのだ。
やってしまった。胸に苦い汁が充満していくような感覚に苛まれていたが、私はもう一度、バーコードのスキャンを開始した。ピーク時の客層ボタンの押し間違いはさして珍しいことではない。それよりも、今は目の前の列を出来る限り早く捌かなくてはならない。レジにはもう、自分の会計の順番を今か今かと待つお客さんで溢れている。
躊躇ってはいけない。例え、高校生を二十代の女性にしてしまっても、私たちコンビニの店員は、レジを打つため、店の商品を売るために存在しているのだ。手を止める店員は、存在価値を失っていると言っても過言ではない。だからこそ、躊躇ってはいけない。躊躇している暇などない。
今や、この店は売り上げよりも深刻な危機に直面していた。
それは、店員がレジで客層ボタンを押し間違えると、お客さんの姿が間違えた方の年齢に変わってしまう、という奇妙な事故だった。つまり、十代の女子高生がレジに並んでいる際に、客層ボタンで二十代のボタンを押し間違えてしまうと、十代女子高生はたちまち、二十代女性へと成長してしまう。客層ボタンの正確な入力は、今や顧客ニーズを計る商品開発部のマーケティングのためではなく、お客さんの外見を維持するために義務となった、うちのコンビニの店員の重要な使命だった。
***
客層ボタンを押し間違えるとお客さんの姿が変わってしまう、この奇妙な事故が最初に起きたのは、数日前の早朝だった。
私はその日も早朝のシフトに入り、いつものようにウラカミさんの相手をしていた。ウラカミさんはよたよたとした足つきの、七十代くらいのご老体だった。頭の毛はすっかり抜け切ってつるつるになってしまっていて、病気にでも罹っているのか、腰が曲がり、杖をついて歩いていた。その日もいつもと同じように七時半にやってきては、お好み焼きパンと、スプライトの復刻版と、ザ・チーズバーガー、そしてマイルドセブンの八ミリショートボックスが二つを買って、会計をしようとしていたところだった。
だがお金を預かり、客層ボタンを押そうとした際、私は誤って手を滑らせて水色の50を押すはずが、水色の29を押してしまった。しまった、と思ってはいたが、そのときはああ、またいつもの押し間違いだ、としか思わなかった。
しかし商品を詰めた袋をウラカミさんに渡そうと顔をあげた時だった。そこにいたはずの、頭がつるつるで、腰がほぼ直角に曲がったご老人の姿はなぜかどこにも見当たらず、その代わりに私より高身長の、顔に皺一つない、女子高校生が見ればイケメンと騒ぎ立てそうな大学生くらいの男性が忽然と現れたのだった。
私は一瞬、目にもとまらぬ速さでウラカミさんが商品を持たずにレジから去ってしまったのかと思ったが、あのよたよたとした足取りで、しかも杖を持って歩いていた彼がそんなことが出来るはずはない、とその考えを即座に否定した。代わりに思い浮かんだのは、目の前の成人男性が、実はウラカミさんの孫か何かなのではないか、というまだ現実的な発想だった。しかし、今までウラカミさんはこの店に一人で来ていて、今日に限って孫を連れてくるなんてことはありえないだろう、しかもこの男性はつい先ほどまでは店の中にいなかったではないか、と思うと、その考えもあっさりと打ち消された。
では、この男性は一体何者か。目の前にある袋の中身を見るべく、私は男性の手から膨らんだレジ袋を拝借した。
「ちょっと、失礼させていただいても宜しいですか」
「ああ?」
男性は不機嫌そうに眉をしかめたが、そんなことを言っている場合ではなかった。袋をこじ開け、その中身を確かめる。
お好み焼きパン、スプライトの復刻版、ザ・チーズバーガー、そしてマイルドセブンの八ミリショートボックスが二つ。間違いなく、ウラカミさんのいつもの商品だった。
「あの、大変失礼なことをお尋ねするのですが、お客様はウラカミさんですか?」
「ああ? さっきから店員さんは何をいっとるね。おかしな人だよ。何で今、目の前にいる客の顔を覚えてないん」
そういうあなたは毎日私の名前の漢字を聞いてくるじゃないですか、と皮肉の利いた冗談を言う暇もなかった。ウラカミさんのその返答は、揶揄するようではあったが、確かに「自分はウラカミです」と言っているに違いなかったのである。喋り方、買っている商品、突然現れる成人男性、これらのことから推測すると、この謎めいた現象は、実に非現実的な想像によってしか説明できない。
つまり。先ほど、私は客層ボタンを押し間違えた。この男性は、ボタンを押し間違えたことで、ウラカミさんが若返った姿である。
その日、ウラカミさんは私が掛け持ちしている夕方シフトの時間帯にもう一度店を訪れた。正しく言うと、見慣れた七十代のウラカミさんではなく、ボタンを押し間違えて二十代に若返ったウラカミさんが、朝と全く同じ商品を籠に入れて、私のレジへとやってきたのだった。見慣れない姿にウラカミさんだと気が付かず、私は黙々とレジを打ち始めていたのだが、商品を見てようやくウラカミさんだと気付いて顔を上げると、何やら洒落た格好をした成人男性は、「老獪な笑み」を浮かべて私に恭しくお辞儀をしていたのだった。
「店員さんよ、こりゃあ一体どういうことなのかね。鏡を見たら、三十年くらい前の自分に戻ってるし、家に帰ったら女房に驚かれるしで、訳が分からなくてねえ」
訳が分からないのはこっちだ、と思いながらも、私は「さあ……当方でもさっぱりです」と答えた。ウラカミさんはその返答にむっとしながらも、まあこんなことはそっちにも分からんよな、と言って、煙草を買って店を後にしたのだった。
怒られなくてよかった、と思う気持ち一方と、結局あの人はウラカミさんでよかったんだよな、と思う気持ち半分で、彼のまっすぐな背中が出て行ったコンビニの自動ドアを、私は何となく目で追った。
「はい、いらっしゃいませ」
別の仕事に移る暇もなく、直後にお客さんがレジにやってきた。いつもの通り、声をかけ、バーコードをスキャン、商品をレジ袋に詰めて、失礼します、と差し出す。
「お会計が、二六三円になります」
お客さんがお金を出し、それをレジ台で滑らせて回収し、客層ボタンを押す。一番押しやすい位置にある49のボタン。煙草を一緒に販売するときにも、未成年のボタンを押してしまっては販売できないので、お客さんが何歳だかわかりにくいときは、よく押す。それをやはり手を滑らせるようにして軽くプッシュした。
お客さんは急激に髭が伸び、それまでの瑞々しい肉体が突如、骨太でがっしりした体躯へと変貌した。
間違えた、今のお客さんは二十代だったのだ。ありがとうございました、と客層ボタンで変身させてしまったお客さんを見ながら、不思議なレジに内心慌てるしかなかった。
***
「塩さん、ちょっといらっしゃい」
夕方シフトを終えた午後十時。店長に呼び出されて、私はバックルームの事務机の椅子に腰を下ろした。煙草が許されているバックルームの空気はいつでも淀んでいて、入ると肺が汚い空気に汚染されて行くような気分になる。事務室がこんな状態でお客さんからクレームが来ないのが不思議だが、店長曰く、ちゃんと管理すれば大丈夫、とのことで通っている。
「いやあ、もう。今日も煙草臭いわねえ」
とはいえ、その店長も煙草は吸わない。許しているのは、一部の喫煙する従業員のためらしい。文句を言うくらいなら禁止にしては? と毎度思うのだが、店長は目の前の煙を払うような手つきで「ああ、いいのいいの」と手をぱたぱた動かすばかりで、今後禁煙にする予定もないらしい。
「それで、呼ばれた理由はわかってるでしょうね」
椅子に座るなり、店長は単刀直入に切り出した。まるで私を尋問するかのような口調だった。私は、店長の優しいながらも勇ましい口調と足を組んだ巨体に圧倒されながらも、はい、と素直に答えた。
「レジの件ですよね。お客さんからクレーム来ましたか」
「ええ、もう、これでもかってくらい大量に」
「でしょうね……しかし不思議な現象ですよ。聞いたこともないし、そんな、魔法か何かじゃあるまいし」
ふむ、と店長は顎に手を当てて鼻息を漏らした。剃り残しすら見えないまでに整えられた髭跡を確かめるように、指で何度か顎骨をなぞる。店長は男性なのに女性のように身なりに気を使っていて、口調や仕草は完全に女そのものだ。ただ、見た目がプロレスラーのようにがっしりと逞しいので、一見するとそれらと体とのギャップが凄まじい。
「すみません、店長。明日午前の発注なんですが」
後ろから今日の夕方シフトの相方である益田さんがひょこっと顔を出した。益田さんは私よりも二つ年上のこの店の先輩だ。
「あ、塩さん。ごめん、お取り込み中?」
「大丈夫ですよ。どうしました?」
話が頓挫しそうなところを、助けられたように益田さんを見た。
「いや、店長にね。発注を頼もうと思ってたんです。明日の午前は、ちょっと用事がありましてね。出られないんで」
益田さんは言葉を一つ一つ区切るように発音しながら「お願いします」と店長に発注リストを渡した。店長はノリのよい笑顔でそれを受け取り、載せられている商品にざっと目を通す。
「あらあ、明日の発注で新商品のフルーツ・クリーム・モンブランが入ってくるのねえ。楽しみだわあ」
家にいる主婦が通販の番組でいい品を見つけたときと似た歓喜の声で楽しげに一人盛り上がる店長。顔の前で平手を合わせて、花が咲いたような笑みを浮かべている。傍らで、益田さんがうへえ、と辟易して舌を出した。
「店長相変わらず甘いもの好きですね。酒とかたばこじゃなくてクリームモンブランに喜ぶ三十代のおっさんがどこにいるんです」
いい年して女子高生ですか貴方は、と益田さんが呆れ気味に両手を上にあげる。店長はむっとして発注リストを机の上においた。
「あら、失礼しちゃう。そんなこと言ったら明日の発注変わってあげないんだから。それに、クリームモンブランじゃなくて、フルーツ・クリーム・モンブラン、よ。クリームモンブランなんてどこにだってあるでしょう。これはね、モンブランにクリームという当たり前の組み合わせの中にフルーツをあえて使用すると言う禁忌を犯してまで、味わいを追求した究極のデザートなのよ? そんじょそこらのこじゃれた店のモンブランなんかと一緒にしないでちょうだい」
「そんなもの、コンビニで売る方が間違ってる気が」
怒涛の勢いで喰ってかかる店長に、益田さんが至極まっとうな意見で返す。だが店長は止まらない。
「いいえ! いずれにしても商品名を間違えるなんて言語道断。この店の店員としてあるまじきだわ。それに新商品に期待しちゃうのは誰だって同じでしょ。あなただって、この間、パソコンの前で新商品チェックしながら『ああ、新しい仮面ライダーの食頑出るのかー』なんて大喜びしてたじゃないの」
「う、何故それを」
「え、益田さんってライダーのファンだったんですか」
「ライダーって略すな! そこら辺にいるバイク乗りとか某型月のキャラに勘違いされるだろうが」
「あ、いえ、ここ店内なんですけど」
そして仮面ライダーをライダーって略している人はあなたの思っている以上に世の中にたくさんいると思います、益田さん。
「とにかく、あたしはクリーム・フルーツ・モンブランに大きな期待を寄せているわよ。これは少しでもおいしいデザートを求めて商品開発に打ち込んでいる本社の方々の贈り物よ。モンブランにフルーツって組み合わせも、話題性に事欠かない一品だと思わない? それに益田さんのいうようなモンブランに期待する三十代おっさんならちゃんとここにいるじゃないの。ここにいるってことは、似たような人もきっと世の中にはいるはずだわ。ねえ? 塩さん。そう思わない?」
「え? ……あ、はい」
「んー、さすが塩さん。あたしの言いたいことよく分かってるじゃない。それでこそうちの店員よ」
しまった。店長の迫力と物言いに押されて何となく頷いてしまった。褒められたが嬉しい以前に嫌な予感しかしない。
「これはもう当店のオススメポップ作るしかないわよ。『新商品! 新食感! 店長オススメ! フルーツ・クリーム・モンブラン』と大きく見出しを付けて、楽しげな感じにしましょう!」
勝手に盛り上がり続ける店長は、発注のリストをそのままにして、そうと決まれば早速準備しなくちゃね、発注は明日だし、と意欲のわいた小学生もかくやという足取りで文房具と厚紙を取りに向かった。ポップを作り始めるとなるとかなり長い時間が必要になってしまう。私は明日も早朝シフトがあるので、出来たらこの辺りでお暇したいところだ。
「店長、そろそろ、私はこれで」
「え、塩さん帰っちゃうの? 一緒にポップ作らないの?」
退勤を告げようと鞄を持った私に店長がさも私もポップを作るのだと思っていた、というような言い草で迫る。私はぴたりと動きを止めて店長を諫めようと作り笑いを浮かべる。
「明日の早朝もシフト入っておりますので。遅れたら困るのは、お店の方じゃありませんか」
「ええ、それなら一緒にここで一晩明かしましょうよ。寝ちゃったらあたしが起こしてあげるわ」
「ははは、そんな。御冗談を」
まるでウラカミさんに対峙している時のように、店長に乾いた笑いを向けるが、店長は冗談じゃないわよ、と逆に男性にはそぐわない極上の接客スマイルを私に返してくれた。まずい、もう逃げられないかもしれない。
咄嗟に益田さんに助けを求めようとしたが、益田さんは地面に手をついて土下座でもしてしまいそうなテンションで「仮面ライダーをライダーと略す塩さんでさえ店員扱いされているというのに、モンブランの商品名間違えたくらいで店員扱いされなくなってしまった自分は……」と呟いていて、私の方に向いてすらくれなかった。いやいや、益田さん。前後関係の脈絡が意味不明です。
「店長」
「ん?」
こちらこそ冗談じゃないです、と言おうとしたが、その言葉はお客さんに対してでもないのに接客スマイルを向けている彼の巨体にひるんで咽喉に絡み、寸前のところで留まった。
「……分かりました。ラミネーター取ってきます」
「あら、ありがとう」
代わりに出てきたのは自分でも思いがけない意欲的で素直な作業参加意思表明だった。バックルームの大型文房具置き場の深くで眠っている、段ボール箱にきちんと詰められているラミネーターを引っ張り出す。シートは確か、箱の中に入っていたはずだ。ポップを作る時にしか使ってなかったから、まだいくらか余っていたと思う。
時計を見ると、もう午後十一時を回っていた。たった一つの商品だから制作に大した時間はかからないかもしれないが、店長の気合の入れ方を見たところだと絵を描き始めたらかなりこだわりそうに思えた。納得のいくものを作るまで帰してくれないかもしれない。あの言い草だと、下手したら今夜は徹夜なんてことも、簡単に想像できる。
私はバイトにしては重いサービス残業にため息をつきながらラミネーターを店長の元へと運んだ。先ほどまでいた場所に戻ると、益田さんがまだ「自分は使えない」だの「いや一応、塩さんよりこの店での経験も長いはずだし、年齢だって上じゃないか」などと、何やらぶつぶつ言っていた。どうやらこれは再起不能のようだ。もう帰ってしまってはいかがでしょうかと、声を掛けたいのは山々だったが、下手に言葉をかけて皮肉と受け取られ、益田さんのプライドを傷つけてしまうと、それはそれで困るので、とりあえずそっとしておくことにした。ラミネーターを机の前に置く。どすん、と重たい音がした。
ところで私はポップを作るために店長に呼ばれたわけではなかったはずだったが、さて、本当の目的は何だっただろうか。
***
いらっしゃいませ、おはようございます、と言えば今日の業務が始まる。それがコンビニだと私は以前まで勝手に思っていたが、バイトであれば、時間外にその言葉を発することは少ない。が、逆にその言葉を発しなくても仕事をするということもあるのだということをこの店に来てから嫌というほど思い知らされることになった。コンビニには接客以外にも様々な仕事がある。品出し、検品、店内掃除、冷蔵庫補充、仮点検、送金、レジ回り整理にフランク類や中華まんやおでんの準備、シフトに入っているだけでもそれだけあるが、発注や店舗改装、その他シフト内で終わらなかった仕事は時間外に取り組まなくてはならない。実はポップ作りもその、時間外労働のうちの一つである。以前、塾でバイトをしている同級生に、塾講は時給が良いのでバイトとしては美味しい方だと思われがちだけど、予習や復習、通勤時間を加味すると、他のバイトと比較して実際に大した差はない、と聞いたことがあるが、コンビニの多種多様な時間外労働もまた、バイトとしては割に合わないものと捉えられそうなものである。
「出来たわあ! 完成よ」
甘美な声を挙げて店長が喜ぶ。完成したポップは、大きなモンブランにフルーツとクリームが強調されているイラストが施され、作る前に店長が考案したゴシックに似たフォントで装飾がなされている。シフトを終えてから実に約三時間後のことだった。
「いやあ、我ながら見事! 頑張って手を動かした甲斐があったわ」
意外なことに手先の器用な店長は配色センスも抜群で、確かに私の目から見てもそのポップは購買意欲をそそる出来栄えだった。店長は軽やかな足取りでバックルームを後にすると、早速そのポップを貼りつけに、売り場のデザートコーナーへと向かった。バックルームの外から、深夜の人が店長を見て、「あれ、まだいたんですか」と驚いている声が聞こえてくる。
一晩中かかるかと思ったが、案外早く終わった。シフト交代の時間まであと五時間近くもある。この分だと、一端自宅に帰って寝てきた方が効率もよいかもしれない。
益田さんは私たちがポップを作っている間にいつの間にか帰ってしまっていた。途中までポップ作りの傍らで必要なものを取りに行ってもらったりしていたが、三十分も経たないうちにあまりに暇になったので堂々と帰宅宣言をして店を後にしたのだった。夜も深まってきたから気をつけてね、と店長は優しく声を掛けた。益田さんは店長たちも頑張ってください、といって店外の闇の中に消えていった。
暫く深夜シフトの人と話をしていたのか、店の表から賑やかな笑い声が聞こえて来ていたが、少しして店長がバックルームに戻ってきた。ポップを貼り付けるのに使った文房具を両手に持っている。
「あ、わざわざありがとうございます」
「いえいえ。塩さんも、手伝ってくれてありがとうね」
店長は文房具を事務机の引き出しの中に仕舞った。
「そういえばさっき、深夜の子とも話したんだけど、あのレジ、真剣に対策を練らないとマズイわね。深夜の子たちもレジ売ってる間に客層ボタン間違えて打っちゃって、びっくりしたって言ってたわ」
ポップを作っている時とは打って変わったように店長が真面目に言ったので、私は一瞬何のことだろうと思ってしまった。が、レジの不具合を忘れていなかったのか、とすぐに思い直し、聞く姿勢に入った。
「不思議よねえ、客層ボタンでお客さんの見た目が変わるなんて」
呆れた、とか対処しかねる、とかそういうニュアンスが滲む言い方だった。
「本当に。あ、ポップ作りに夢中になってて聞き損ねましたけど、お客さんからどんなクレームが来てたんです?」
「そりゃあ、もう、『学校に入ろうとしたら、突っぱねられた』とか、『今日は得意先との重要な会議があったのにどうしてくれるんだ』とか、いろいろね。学生が二十代くらいの見た目になったり、サラリーマンが中学生くらいの外見になったり、果てまた管理職クラスの五十代くらいの人が四十代中年と間違えられたり。そのあたりからは、退職までもうすぐだったのに十歳若返ってまた十年分働かなくちゃいけないのか、なんてのもあったわ」
「見た目が変わるよりもそっちの方を心配する人もいるんですね」
「まあ退職金が目前なのにゴール地点が一気に遠ざかったかと思うと、その気持ちも分からないでもないわね」
店長はふふ、と笑った。
「というか、見た目が変わったからってよくうちの店のせいだってわかりますね。普通お客さんからだと客層ボタンって見えないじゃないですか。うちのクレームは、電話でしか受けてないはずですから、尚更凄いなあと思いますね。推理が鋭いというか。私だったら、例え見た目で学校から追い出されたとしても、泣き寝入りして終わっちゃうと思います」
「実は客層ボタン、お客さん側からでも見えるのよ。で、どこを押されるのかをきちんと見ていたお客さんがいたみたい。クレームが来た時に、『29のピンクのボタン押しましたよね?』って言ってきた方いたわよ。あと、『私はもっと若いわよ』って」
「いや、言い訳じゃないですけど、正直言って客層ボタンなんて割と適当に打ってますよ。混んでるときは大体49しか押しませんし、時々性別も間違えます。」
「まあ、そうよねえ。あたしもレジ打ちするときはお客さんを見ても大体の感じでしか押さないわ」
店長でさえそうなのか、と私は少し驚いた。こういう話は、あまり益田さんや他の従業員たちともしたことがない。他の人が客層ボタンをどういう風に押しているのかというのは、全然知らなかったし、疑問にも思わなかった。
「となると、店員が客層ボタンを間違えずに完璧に押すって言うのは、不可能って思っていいんですかね」
「実際、塩さんはどうなの? 出来ると思う?」
「無理です」
即答だった。返答の速さに店長が「お、おう」とどぎまぎする。
「正確に押すように心掛けてはいますけど、やっぱり見た目で年齢を判断するのってかなり難しいですよ。正直、49のボタンと50のボタンは、未だにどういう見た目で押し分けすればいいのか分かりませんし」
「あたしは、男性サラリーマンだったら白髪が多かったり髪の毛が後退気味だったりしたら、50のボタン押してるわ」
店長、それはそれでどうかと思います。
「お客さんの年齢を見た目で判断する時点で大分あやふやなのに、忙しかったり二つのボタンを指の腹で同時に押しそうになったりしたら、正確も何もないですよね」
「確かにそうね。じゃあやっぱり、従業員にボタンを正確に押しなさい、って命じるのは、あまり効果がないか」
店長は客層ボタンのクレームの件について、もう対策に乗り出そうとしているようだった。モンブランで大騒ぎしていた先ほどまでと同一人物とは思えない真剣な表情で、従業員の心がけの代替案を模索している。確かに、得体のしれない不思議なレジをあのままにしていては、客足は遠のき店の存続は危ぶまれる。私も店長の傍らで何かいい方法はないかと思案した。
「いっそのことあのレジを停止したらどうですか」
考えうる限りで最も簡単な方法を提案してみる。しかし店長は首を横に振った。
「本当のこと言うと、それが一番手っ取り早いのよね。けど、うちにはレジが二台しかないから、片方を休止にしちゃうと、お客さん捌くのが大変になっちゃわないかしら」
店長の言うことは尤もだった。都心の駅前に隣接するこのコンビニには、早朝に限らず全シフトに必ずピークの時間帯がある。特に、通勤客が多く行き帰りする時間帯である朝七時半と夜九時は二つのレジで対応していてもお客さんが列を作るくらいの混雑ぶりで、片方のレジを休止状態にしてしまえば、当然処理能力が半減し、その分お客さんの店に対するストレスがたまるであろうことは容易に想像がつく。業者に頼んでレジを交換するにしても、新しいレジが届くまでの時間はやはり片方のレジで対応しなくてはならない。そのように考えると、確かにやや効率が悪いとも考えられる。
「となると、新しいレジを買って、今のレジ一台を破棄、という形が一番早いし、都合がいいですかね」
次に考えうる最善の方法として、レジを休止する前に新しいレジを買ってしまうというのを思いつく。が、店長はこれにもすぐに異を唱えた。
「それにしても、新しいレジが届くまでの間は、一台だけで接客しなくちゃならなくなるわよ。あたしも出来る限り早めにこの問題を解決しようと思って、新しいレジの発注はもう済ませてあるんだけど、今日電話したら、本社の都合で届くまでに少なくとも二週間はかかるみたい。近場の他の店舗に余っているレジがあるわけでもないし、結局、本社から新しいのが来るまでは、あのレジを使い続けるか、休止にするか、どっちかなのよ」
「となれば休止に出来ない以上は、使い続けるしかないってことですか」
店長は黙って頷く。
「正直、この判断はどうかと思うけどね。クレームが来ている以上、店としてはお客さんに不利益がないように最大限努力すべきだし、そのための出費も惜しんではいけないわ。でも、例えそれらをこなしたとしても、今のこの状況は改善までに時間がかかり、その間にお客さんが不利益を被ってしまう。だから、根本的なところに立ち返って、私たちが何をすべきか、を最優先にするのがいいかなって。では、私たちの本来の目的とは何か。それは、お客さんに商品を売ることよ。お客さんの見た目を損なう恐れがあるのを選ぶか、レジが遅くなるのを選ぶか。究極の選択だけど、あたしたちの目的に立ち返れば、レジを打たないという選択肢は、ないと言い切れるでしょう」
なるほど、店長はあくまでも店と言う立場から、お客さんに物が売れないことは何としてでも避けるべきだと考えているらしい。事を起こしてしまった私たちバイトがあまりに多くても、レジを止めるのはコンビニの意義に反する、と言っているようにも取れる。それも一つの考え方だろうか。
「ですが、期間限定と言えど、あんな奇妙なレジを野放しにしておく、というのは、お客さんを危険にさらすのを黙認した、と解釈されても、おかしくないですよ」
「もちろんそれもそう。塩さんの言う通りよ。とはいえ、今のところこれに代わる案がないしね。他の方法があれば、あたしもそれに賛成したいところなんだけど」
店長は悩ましげにむっと黙って深呼吸をした。煙草で汚れた空気にむせて、大仰にごほごほ咳き込む。
「大丈夫ですか」
「大丈夫。平気よ」
胸を片手で押え、ハエを払うようないつもの手つきを見せる。時々眉をしかめて本当に辛そうな表情をするため、こちらとしても案じずにはいられなくなる。が、言葉どおりにすぐに姿勢を戻し、再度こちらに向き直った。
「まあとにかく。これからの方針としては、とりあえず様子見ってところね。従業員には、なるべくレジを打つ時に正確な客層ボタンを押すよう心がけてもらうため、今日の深夜さんに引き継ぎで、お客さんの顔の確認の徹底を回してもらうわ。これで根本的な問題が解決されるとは思ってないけど、今日頼んだ新しいレジが来るまでの、二週間の辛抱だと思って」
にっこりとほほ笑みを浮かべると、肉付きがよく角ばった顎の骨格が顕わになる。堀の深い端正な顔に釣り上がった眉が、店長の男性的でありながらも気品のある顔をより印象付ける。私は、そうですね、と笑って返して、席を立った。明日の業務に差し支えてはまずいので、と言い残し、退勤の挨拶をして店を出た。
帰り際はずっと、客層ボタンのことを考えていた。あれを押し間違えるだけでお客さんに迷惑がかかると思うと、気が気ではなかった。何よりも、これで店に来るお客さんが減ってしまうのではないかという懸念が、少なからずあると思った。その場合の責任は、客層ボタンを押し間違えた店員にあるのか、それとも、あんな状態のレジを野放しにしておく店長にあるのか。
いずれにしても、店ぐるみでお客さんに迷惑をかけている、というのは間違いないか、と思いながらその日は床に付き、泥のように眠った。
***
客層ボタンによるお客さんの変身騒動が人々に広まるまでにそれほど時間はかからなかった。大量のクレームがお客さん同士の間でも噂となり、異常が起きたレジには三日で人がほとんど来なくなる有様だった。常連のお客さんは騒動を知ると、どんなに並ぶことになっても異常のない方のレジで順番を待つ人もいた。五日もするとうちの店の噂は瞬く間に町全体に広がっていたようだった。レジからだけではなく、店からすら客足は遠のき、近くにある他のコンビニやスーパーなどに寄るお客さんも出始めたようだった。売り上げは目に見えて減っていったように思えた。バックルームで見られるパソコンの客数グラフはレジの故障の日を境に右肩下がりになり、元々一日あたり七百人超だったこの店の集客数は、私が故障以来三回目のシフトに入った時には、既に日に四百人を割っていた。
しかし皮肉なことに、お客さんが店に来なくなればなるほど、店員が客層ボタンを押し間違える回数もまた目に見えて減って行った。今まで捌き切るお客さんが多く、またコンビニのレジ店員に求めるスキルがファーストフードの店員と同じような迅速さのみであったことから、店員はお客さんがレジに並べば即商品バーコードをスキャンし、袋詰をし、お金を受け取り、客層ボタンを押して、お釣りを渡す、ということに常に焦りを感じながら動いていた。ところが、客数が減ってからと言うもの、今までレジ打ちに当てていた時間は大幅に縮小され、一人のお客さんあたりにかけられるレジ打ちの時間もその分長くなっていった。レジ打ちにゆとりを感じられるようになった従業員は、しっかりとお客さんの顔を確認してからレジを打つようになっていき、間違えそうになった時は手を止め、焦らずに見た目から推測できる年齢を押すようにした。どうしても年齢に判断が付かないときは、お客さんに直接年齢を尋ねる店員も出てきた。よく顔を見るお客さんは聞かれたときこそ訝しがったが、事情が分かると寧ろ年齢を間違えられたら困るのだ、と思ったのか、年齢の確認に積極的になった。気付けばクレームが来たのは、駅を利用する遠方から来たお客さんが、何も知らずに異常のあるレジに並んでたまたま店員が客層ボタンを押し間違えたときの一回きりになっていた。
店長の判断は物を売るという目的そのものから見れば、ほぼ裏目に出た、失敗と言える。しかし、お客さんが姿を変えられることが少なくなったという結果だけ見れば、目的とは違えたが逆に成功だったとも言えた。バイトをしている従業員同士では、減っていく客数を見ながら、このまま店が信用されなくなれば本部から閉店を命じられることもありうるのではないか、ともまことしやかに噂されていた。そこまでじゃないわよ、確かに前よりはちょっと大変かもしれないけど、とある時店長は冗談のように言った。店の経営にかかわっている店長から実際にそれを聞くと、何だかまるで今の店の状況が、雨の山で遭難していて救いを求めている集団のように思えた。
お客さんの足も遠のき始めたある日の夕方シフト。午後からの引き継ぎで、店長が暫く休養を取る、という連絡が回っていた。詳細は不明だったが、三日ほど休みを取るらしいとのことだった。お盆でも年末でもない時期に、二十四時間三百六十五日フル開店のコンビニの店長が店を空けるのは珍しい。よほど重大なことでもあったのだろうか。もしかしたら、最近のレジ騒動のせいで、本部から呼び出しがかかったか。あるいは、突然低迷し始めた客数を見かねた本部がいよいよ対策の必要を感じて、相談しに来い、と命じたのか。
その日、三回目の買い物に来たウラカミさんを見送って、今日受け付けた公共料金表の整理をしていると、仕事がなくなって暇になってしまったらしい益田さんから声を掛けられた。
「あー、また暇になっちゃったわ」
極めてのんびりとあくびをしながら、紙を整理する私の背後に立つ。お客さんのいない店の中では、テンポが遅い明るい曲調のバックグラウンドミュージックが流れているばかりで、私の作業を除けば人がいる音がしない。いらっしゃいませ、と声かけする相手もいない益田さんは、手持無沙汰にレジ回りをうろつくばかりだった。
「なあ、塩さん。今こんなに暇なのって、このレジの客層ボタンのせいなんだよな」
益田さんは私の背後にあるレジを指さしながら興味深そうに呟いた。私は一度、支払い用紙の整理の手を止め、益田さんの方を振り返った。
「そうですね。元はと言えば、そのレジの客層ボタンを間違えると、お客さんの姿が変わってしまうという現象のせいです。代わりのレジが来るまでの二週間、店長の意向でどうしてもレジを閉められないっていうので、まだ若干姿を変えちゃうお客さんがいますね」
それで店自体の信用が落ちてるみたいです、というと、益田さんは、ふむ、と頷いた。益田さんはレジの一件を話には聞いていたらしいが、実際にお客さんの前で故障した方でレジ打ちをしたことがないため、事件を実感しにくいらしい。自分は客層ボタンをいい加減に押すから、そのレジには絶対に入らない、と言い放ち、シフトの際には正常なレジの方に入るようにしていた。私と組んだ時も、常に壊れていない方を使っている。しばらく考え込んだ後、益田さんはまた「なあ」と思い出したように声を出した。
「何です?」
「塩さんは、仮面ライダー、好き?」
唐突に尋ねられたので、思わず失笑してしまった。それが何だというのだ。いい年してこの人の頭の中には仮面ライダーしかないのだろうか。今は業務中だし、第一、益田さんはこの間まで自分が仮面ライダー好きだということを隠していたのではなかったか。様々に考えながらも私は特に何と言うこともないように装って答えた。
「別に。あまり見たこともないので、好きでも嫌いでもないです」
「そうか。小さい頃に見ていたこともない?」
「ああ、小さい頃は割と見てましたよ。クウガとかアギトとか。戦闘シーンばっかり見てたんで、内容は全然覚えてませんけど」
そうかそうか、今の四〇代がガンダム見てたのと同じような理由だな、と何やら益田さんは何やら納得したように頷いて、レジから視線をあげ、私を見た。両手を挙げて、テレビの司会者のような格好で胸を張る。
「では塩さん。ここで問題です。仮面ライダーで、怪物に襲われてしまった一般市民はどうなりますか?」
え、と突然来た質問に意味も分からずに眉根を顰める。
「そりゃあ、死ぬんじゃないですかね」
「そう。普通怪物に襲われた人間は死ぬ。けど、子供が見る番組だから、そういう描写は数秒で終わらせてしまっていて、あまり主題としては持って来ないのが、特撮の演出方法だ。もちろん登場人物の死は思い切り描くけどね」
「はあ」
「では次の問題です。仮面ライダーと同じチャンネルで、仮面ライダーの前の時間枠にやっている番組は、何でしょうか」
益田さんの意図するところが全く分からないまま新しい質問を出題されてしまった。半ば呆れつつも、昔の記憶を引っ張り出して回答してみる。
「何とか戦隊何とかレンジャーって奴じゃありませんでしたっけ」
大正解です、と益田さんは大仰に声を挙げて軽く両手を叩いた。新しいお客さんはまだ来ない。二人しかいない店舗で、益田さんの拍手と解説の声が響く。
「そこまで分かってるならあと一息だ。最後の問題です。では、その戦隊もので、怪物に襲われた一般市民はどうなりますか?」
完全に白けきっている私に対して、益田さんは自分の畑の話をしている農民のように意気揚々と語った。私は最早まともに答える気力が失せて、片手で公共料金整理の紙を再度分け始めた。
「さあ。よく分からないですけど、死ぬんじゃないですか」
「ああ! 残念。外れ、外れ、大外れです。惜しいなあ、もうそこまで来てたのになあ」
何がですか、と聞くまでもなく、はあ、とだけ言って私は仕事を続けた。が、益田さんの勢いはとどまるところを知らない。
「いいかい、塩さん。戦隊ものは仮面ライダーよりも更に視聴者の年齢層が低いことが考えられる。もちろんマニアみたいな人も見てるっちゃ見てるけど、それ以上に男の子が見る可能性の方が高いし、制作側もそこをターゲットオーディエンスに据えて番組構成をし、話を作っている」
私の手は、公共料金の紙を水道・ガス・電気・その他、の四種類に分類していく。
「となるとだね。必然的に、一般市民が怪物に襲われた場合の描写のされ方も、仮面ライダーとは違ってくるんだよ。今は比較的低予算で番組製作がなされてるから、あんまりエキストラが出て来ないんだけど、最盛期のなんかはそれこそ大人数の一般市民が怪物の罠や術にやられたりしていたんだ。で、正義の味方が怪物を倒すわけ。そしたらね」
益田さんはそこで言葉を切って、重大な発表でもするかのようにぱちんと手を叩いた。
「何と、罠にかかった町の人々は、呪いが解けたかのように元に戻るのです! 死んでしまったかと思われた人々、行方不明になってしまった人々、その他事件に関係していた人は全て、怪物が倒されればきれいに元通り。ありがとう、何とかレンジャー! ありがとう、正義のお兄さんお姉さん! 町の人々は彼らがまるで救世主であるかのように感謝し続ける。怪物を倒してくれて、僕らは元に戻れた、と。まあ、幼稚園児や小学生低学年を対象にしているのだから当然、物語は希望に満ちたハッピーエンド。怪物を倒しても、行方不明になった人や、被害を受けた人たちが、そのままであるということはほとんどない」
「はあ」
何が言いたいのかさっぱりわからない益田さんの演説は一応今ので終ったようだった。話している間に公共料金の分類も丁度終わった。
「おいおい、重大なことを話しているのに、なんて生ぬるい返事をするんだい、塩さん」
せっかく大げさな身振り手振りを交えて説明した戦隊もののアプローチに全く意味を見いだせていないことを落胆するかのように、益田さんは私にずいと近づいてきて、肩を叩いた。
「だって、それ今のことと全く関係ないじゃないですか」
「いやいやいやいや、それは大いに違うよ。関係大ありだよ」
切実に嘆きそうな勢いで人差し指を一本立てて、レジへと向ける。
「いいかい。このレジは客層ボタンを押し間違えると、お客さんの見た目が変わってしまう変な仕様になっている。このレジは特撮で言うところの怪物だ。お客さんは、特撮で言うところの一般市民。そしてレジの客層ボタンの怪は、怪物の攻撃、もしくは呪いとしよう」
自信たっぷりに解説する益田さんの脇で、私はようやく言わんとしているところを理解しようとしていた。
「まさか」
「そう、つまりね、この店のこのレジの仕様だけど、仮面ライダーよりも戦隊ものの路線の可能性が、あるんじゃないか、って言いたいんだよ」
全く思いがけない方向性からの提案に、私は目を丸くした。益田さんは相変わらず自信満々といった表情で、お客さんが来ないレジに陣取ってにやにやしている。仮面ライダーよりも、戦隊ものの可能性がある。益田さんは、おそらくこういいたいに違いない。このレジを壊せば、お客さんが元通りになるのではないか。
「しかし益田さん、そんなことをされたら、それこそ解雇ものでは。警察から器物損壊の容疑を掛けられてもおかしくないですよ」
あまりに唐突な提案に私が狼狽していると、今度は益田さんの方がきょとんとした顔になった。
「ん? まだ実行するとは一言も言ってないよ。そういう可能性があるってことだけだ。それにそんな不確実で暴力的な方法よりも、もっと簡単な解決策がある」
「なんですか、それは」
これだけもったいぶっておいてそちらの方法を先に言わないとは、益田さんもなかなか憎い。益田さんは居住まいを正してレジを見た。
「これも、本当のことを言うと特撮の話なんだが、それで説明するとちょっと時間がかかってしまうから、塩さんでも知ってそうな、ドラえもんを例に出すとしよう」
「はあ」
「ビックライトは知ってるね? ドラえもんの道具で、ライトの光を当てると、当てられた人が巨大化するあれだ」
ふむふむ、と首を縦に振る。益田さんは続ける。
「ではまた問題です。あれは使った人が巨大化しても、元に戻れるのは、なぜでしょうか」
最近の番組に疎い私でもさすがにこのくらいは分かる。
「そりゃあ、スモールライトがあるからです。大きくなっても、スモールライトでまた小さくなれれば、結果として元に戻ったことと同じになりますからね」
正解、と益田さんは指を鳴らした。今度は鳴らした指で、客層ボタンを示す。
「それが答えだよ。今の客層ボタンはまさにその、ドラえもんのスモールライト、ビックライトの関係なんだ」
「え、どういうことですか?」
「ここまできてもまだ分からないかい」
促すように言われて、問題を解いている時に先生にどうしてわからないのと言われている小学生のように動揺する。私は床を見て考え込み、答えを見つけようとしたがどうしても思いつかない。やがて益田さんは、ああ、分からないならいいんだ、と笑って私を見ていた。
「簡単なことだよ。ビックライトにはスモールライトがある。客層ボタンには、正しいボタンと誤ったボタンがある、って言うだけの話さ」
ややまだ益田さんの意図が分かりかねている私にも、何となくぼんやりとした回答が見えてくる。が、丁度そのとき店の自動ドアが開く音がした。見慣れない顔のお客さんがレジにやってきた。
「いらっしゃいませ」
背を向けている私よりも、レジに近い益田さんがお客さんを迎えた。お客さんは急ぎ足でレジに接近し、荷物を置くと、レジの真ん前に置いてあったライターを一つ手に取り、台に投げだした。急いでいるのか、あるいはいらいらしているのか、いずれにしても店員にとって印象のよくない態度の定番だった。
益田さんは投げ出されたライターをいつも通りの調子で手に取り、バーコードをスキャンしていつも通りに会計を読み上げた。
「百二十円になります」
「おい店員さんよ!」
が、益田さんの声は不意に発された怒号によってかき消された。態度と言うよりは出された大声そのものに驚いて、私はびくっと肩を震わせた。反射的に首がお客さんとレジに立つ益田さんの方へと向く。しかし、そのお客さんは私に指をさし、「お前だよ、お前!」とまた野太い、今にも割れそうな声で叫んでいたのだった。
「おい、あんた。さっきレジ打ってた店員」
お客さんは四十代くらいの小太りの男性だった。サラリーマンらしく、ワイシャツと黒いズボンを身につけ、白髪まじりの髪の毛がやや薄い。顔を真っ赤にして、鋭い眼光を飛ばしてくる。呂律が回っていないところを見ると、酒で酔っ払っているのかもしれない。
「お前なあ、さっき何しやがったんだ、おい。女房が誰ですか、貴方は、つって家入れなかったじゃねえか」
耳障りな酔っ払いの声がじわじわと私を追い詰めた。これはもしかしたら、またあの客層ボタンの押し間違いか。私は恐怖で打ち震えている体に鞭を打って、一歩進み出、深々とお辞儀をした。
「申し訳ございません。先ほど、私、レジを打ち間違え……」
「ああ? 謝って済む問題じゃねえだろうが。どうしてくれんだ!」
お客さんの怒鳴り声がぴしゃりと謝罪しようとした私の言葉を遮る。違う、レジの打ち間違えをそのまま謝ったところでは、お客さんには何も伝わらない。第一、お客さんは客層ボタンの存在も、客層ボタンによって姿が変わると言う仕組みも知らないのだ。事を起こした所で謝っても何も解決しない。
「いいかい、こっちとら客なわけ。あんたらの店に金払ってやってんの。そんな店員さんじゃあ困るの。ちゃんと喋って謝って、責任とってくれないと」
「大変申し訳ございませんでした」
「だから謝ってるだけじゃ解決しねえって言ってるだろうが!」
呂律の回らない舌が力に任せて暴言を押しだす。立ちすくんだまま、上半身をお辞儀から戻すことが出来ない私に、容赦なく言葉の暴力は降り注ぐ。恥と怒りの熱量で擦り切れてしまいそうな思考回路を必死で繋ぎとめながら、お客さんの言葉の中から何か状況を引っくり返せない対処法がないかと探す。しかし、同じことの堂々巡りで、一体何を欲しているのか、それすら明確に捉える事ができない。
「あの、お客様」
私が謝り続ける脇で、益田さんがお客さんに声を掛けた。益田さんはいつもと何一つ変わらない調子でお客さんに言う。
「うちの者がご迷惑をおかけして、大変申し訳ありませんでした。つきましては、お会計の際に解決できますので、まずはお支払いの方をお願いしてもよろしいでしょうか」
「ああ? この上、まだ金を払えというのか」
「ライターがございます」
益田さんは指先を揃えてカウンターに手を出した。お客さんがレジの前に置かれたライターを見る。どうやら私に説教をしていてすっかり会計し忘れていたらしい。お客さんは眉をしかめつつ、いかにも気だるそうにバッグの中から財布を取り出し、お金を漁ろうとするが、途中で手を止めて、代わりに定期券入れを取り出した。
「スイカで」
「畏まりました」
益田さんは素早くレジを操作し、スイカでの支払い画面を出した。お客さんが定期券入れをカード接触部にかざす。短い電子音の後に、レジのドローアーが開いた。
「お客様、大変失礼なのですが、今おいくつですか?」
益田さんはすかさずお客さんと目を合わせる。お客さんはまた露骨に嫌そうな顔をしたが、益田さんの真剣な表情に圧倒されたのか、やがて表情を緩めた。
「今二十三だよ。それがどうした」
「恐れ入ります。ありがとうございます」
益田さんはお客さんに礼を言うとためらうことなく29の水色のボタンを押した。すると四十代と思われた目の前のお客さんは、お腹が見る見るうちに引っ込み、白髪まじりだった髪の毛が黒々とした艶を取り戻した。がっしりとした腕や足腰はすらりと細くなり、全体のバランスに見合った美しい四肢が完成する。先ほどまでの不躾な態度からは全く想像もつかないような好青年が、怒りと酒に顔を赤らめたまま、レジへと降って湧いたように現れた。
「こちらレシートになります」
驚く私に対して、益田さんは全く動揺した様子もなく、お客さんにレシートを渡した。
「お待たせいたしました。無事、解決いたしましたので、そのままご自宅の方へお帰りいただいて大丈夫ですよ」
皮肉の意味か、接客のためか、極上の笑みを浮かべて益田さんはお客さんに言い放つ。自分の身に何が起こったのか分かっていないらしいお客さんは、先ほどと同じく警戒を解かずに、ああ、本当かよ? と訝しがる。
「今度こそ、大丈夫です。駄目でしたら、またお越しくださいませ」
「へ。もうこんな店、頼まれたって二度と来ねえよ」
お客さんは買ったばかりのライターを持ってずかずかと店を後にした。益田さんはお客さんが店を出るまでその背中を見送り、ありがとうございました、と丁寧に、一音一音をしっかり発音するように挨拶をした。私もそれに合わせてお客さんに言葉を送ったが、内心もう二度と来るな、という気持ちで見送っていた。これで向こうから来なくなってくれると言うのであれば、願ったりかなったりだ。
お客さんがお店からまたいなくなると、益田さんはふう、とため息をついた。
「大丈夫、塩さん?」
私は、はい、と頷いて無表情を装い、整理した公共料金の紙を所定の位置に置きに行く。大丈夫なはずもなかったが、そんなことを考えている場合でもない、とすぐに気持ちを切り替えた。足が震えて仕方がないのを何とか抑え、戻って来てから、先ほどの話の続きを益田さんに頼んだ。
益田さんは極めていつもの通りににこにこしながら、まだ不安に顔が硬直する私に、肩を叩いてくれた。それから少し話をすると、段々気分が落ち着いてきた。
「で、さっきのビックライトとスモールライトの話ですけど」
「ああ」
「あれって結局どういう意味なんですか? 答えは何ですか」
益田さんは私の問いに口角を釣り上げて「さっきのお客さんの通りだよ」と教えてくれた。
「皆、勘違いしてるんだ」
「勘違いとは?」
「このレジの客層ボタン。一度間違えたら、お客さんの姿をもう一度変えることはできないと思ってる。けど違う。実際には、間違えれば間違えただけ、何度でもこの客層ボタンでお客さんの姿を変えることが出来るんだ」
「あ……!」
私はようやく益田さんの言わんとするところを得て、目の前の道が開けたような気分になった。
「ってことは、一度間違えてしまっても、お客さんが買い物した時に、もう一度正しいボタンを押せば、元に戻るってことですか」
「その通りさ。正しく言うと、元には戻らない。正しい年齢を新しく上書きすることによって、元に戻したように見せかけられるってことさ。さっきもビックライトとスモールライトの話を出したけど、ドラえもんがやっているのは、ビックライトの効果をスモールライトで消してるんじゃなくて、スモールライトの新しい情報を、対象に上書きしているってことだ。つまり、『間違いの間違い』を起こす。『反対』の反対は、賛成ってね」
なるほど、それは確かに盲点だった。店長を含めて、私たち益田さん以外の従業員は皆、正しいボタンを押さないとお客さんの姿を変えてしまう、という点にばかり着目しすぎて、いざ間違えてしまった場合の対処のことをほとんど考えていなかった。結果として、レジで客層ボタンを間違え、お客さんに迷惑がかかって店の信用を失ったとしても、対処のしようがないから仕方ないのだと諦めかけていた。お客さんが減ったことによって客層ボタンの押し間違いが減ったのは、怪我の功名みたいなものだったが、本音を言えば、こんな奇妙な現象はさっさと解決方法を見つけて、店の信用を取り戻し、元通りにレジを打てる環境にするのが一番なのだ。
私は益田さんの発見に目を輝かせて「凄い発見ですよ」と勢い込んで褒めちぎった。が、益田さんは褒められることなど何とも思っていないかのように淡々とまた語り始めた。
「ねえ、そういえばこのボタンって、誰がどのくらい変化しちゃうのかね。少なくとも今のところだと年齢は確定みたいだけど、他にも男女の切り替えもできるよね、このボタン」
また意外なところを突かれて、確かに、と思った。私は事件が始まって以来、客層ボタンを押す時に男女を間違えた覚えがないため、あまり考えていなかった。
「年齢を間違えると、年齢が変わる。男女を押し間違えると、性別が変わる、ということですか」
「うん、ついでにいうと、例えば年齢もそうなんだけど、あの見た目って、どういう理由があって変わってるんだろう。客層ボタンには年齢の幅があるでしょう。29と49の間には二十年もの年齢幅がある。三十代の見た目と、四十代の見た目はひとくくりにされるけど、お客さんの見た目に反映されるのは、そのうちのどれか一つの年齢のものだけだ」
言われてみるとそれもそうだ。たった一年でも顔つきの変貌が激しい若い世代も、19のボタンを押すとなぜか特定の年齢の顔がお客さんにアウトプットされる。五十代以上の場合では、それがさらに不明確になる。六十代であろうと、七十代であろうと、50のボタンで区別するしかないレジのキーでは、正確な年齢の特定などしなくてもいい。年代を間違えさえしなければいい、という少し幅の利いた解釈もできるが、お客さんに反映されるのは、その年代のうちの特定の年齢だけである。
「となると、何か法則性でもあるんですかね。幅広い年代のうちから選ばれる、年齢の一点に」
あり得そうな可能性を口に出してみる。が、益田さんは、いや、と反応した。
「自分もそれを考えたんだけど、そうすると性別の場合だとさらに面倒なことになりそうでね。全く別の生き物になっちゃうわけでしょ、性別がかわるって」
「ああ」
私は何となく益田さんの言いたいことが分かってきた。お客さんが去った後の、閑散とした店舗に、レジだけが嫌に印象的に見える。
「つまり、このボタンは必ずしもお客さんの個々人の未来や過去を吸いだして、吐き出してるってわけじゃないってことですね。性別が変わってしまったら、それこそ自分の今までの人生とは全く異なった人間となってしまう。歩んだことのない人生の一点を特定する法則性なんてあるはずがないと」
「そう。幅のある年齢の一点を決めるのに、本当に法則性があるなら、それはその人が本来経験してきた、もしくは経験する予定の人生の中で決められるはず。性別の間違いのように、全く別の人間になってしまう中でも年齢が特定されるようなら、それこそ、世界線とか、並行宇宙理論とか、パラレルワールドとかで、もうSFの世界だよ」
「まあ、もう今の時点で十分SFですけどね」
益田さんは私の一言に、それもそうだ、と言って軽く笑った。
***
益田さんから伝え聞いた対策は、その日の引き継ぎで全従業員に回すことになり、その日以降は壊れた方のレジで客層ボタンを間違えた場合、常連さんでなくても躊躇いなく年齢を聞きだして、元の姿に戻す、という対策が講じられた。店の入り口にはお客さん宛に謝罪と対策について書かれた文章が張り紙として掲示された。それによって、これまで迷惑をかけてしまったお客さんの外見を戻すと同時に、失ってしまった店の売り上げを少しでも回収するのが目的だった。私はそんな張り紙一枚で全てのお客さんの外見を元に戻せるとは思っていなかったし、また、失った信用は元のようには回復しえないだろうと思っていたが、他の従業員も概ね似たような考えらしかった。だが、皆、やらないよりはましだろう、と考え、店の新たな方針に従っていたようだった。
三日不在だと言われていた店長は予定より二日遅れて店に戻ってきた。店長は何やらやつれた様子で、髪の毛がぼさぼさで、顎には無精髭が生えていた。新たにレジへの対策が加わったのだと報告しても、ああそう、と生返事で、以前のように品がありながらも溌剌とした態度は見る影もなかった。店長のあまりの変貌ぶりに、従業員は皆心配した。皆の間では「レジのせいで売り上げが落ちたことを本部から指摘されて、いよいよ、店が潰れることになったのではないか」「大量に来るクレームにストレスで胃を痛めたのではないか」などと様々な憶測が飛び交った。しかし、結局のところ、休暇の間店長がどこに行っていたのかは誰も知らなかった。
そうこうしている間に、レジの騒ぎが始まってから、一週間と三日が経っていた。新しいレジが来るまで二週間と言う話が本当であれば、あと四日で壊れたレジは回収されるはずだった。店長に、レジは回収されるのか、と尋ねると、当初の通りあと四日だ、と淡々と返事をされた。もしレジが回収されたら、取り壊されるのだろうか。また、取り壊されたとしたら、益田さんの言っていたように、今まで年齢を間違えてしまった人たちは、元に戻ったりするのだろうか。そうであったとしてもなかったとしても、今私たちにできるのは、一人でも多くのお客さんにレジの謝罪と対処を施すことなのかもしれない。不確実な方法に、何もかもを委ねてしまうのは、楽観的に考え努力を怠ることでしかない。
早朝と午前シフトを通しで入った日の朝に、私はいつものように買い物に来るウラカミさんをレジで迎えていた。見た目、二十代のウラカミさんは、いつもと全く同じようにお好み焼きパンとスプライトの復刻版、ザ・チーズバーガーを籠に入れてやってきた。
「やあ、おはよう、店員さん。マイルドセブンライトボックス二つ」
「畏まりました」
チーズバーガーとスプライトを袋の中に入れ、体をひねって後ろの棚から取り出した煙草二つのバーコードをスキャン。同じ袋の中に入れる。
「お会計が、一三三一円になります」
あいよ、と返事をして、ウラカミさんは財布を取り出した。
「いやあ、それにしても、本当、人生って素晴らしいねえ。若いっていいねえ。今日も天気はいいし、若い子はかわいいし、うまいものは入れ歯なしで食えるし」
ええ、よかったですね、と返事をしつつ、私は先日益田さんが言っていたことを思い出した。このレジの客層ボタンで変わってしまったお客さんは、どの程度までその年齢に近づいているのか。どういった基準で幅のある年齢の中から、変わる年齢が選ばれるのか。益田さんは選ばれる年齢は不規則であり、一定の法則はないだろう、と言っていた。仮にそうだとするならば、この客層ボタンによって選ばれる年齢に、何も意味はないということなのだろうか。
「そういや、店員さん、珍しい名字だね。どういう漢字を書くんだい」
もう何度目になるか分からないウラカミさんの質問に、今日もまた丁寧に答える。
「普通に、おにぎりに掛けたりする、お塩の塩、でシオですよ」
「ああ、そうだった。そうだ。これいつも聞いてるねえ。いつも忘れちゃうんだよ」
ガハハ、と豪快にのどを鳴らして笑うウラカミさん。私がシフトに入る時には毎回聞いてくるところをみると、いくら見た目が若返った所で、認識能力や記憶力などが、年齢に見合った若返りをするわけではないらしい。体の中身までは若返らない、ということか。
ウラカミさんは短く礼を述べて、財布からお金を取りだし、カウンターに置いた。
「一五〇〇円お預かりいたします」
レジ台からお札を取り、逆の手で小銭を滑らせてキャッチする。一秒に満たない僅かな時間でレジに預かり金を入力し、客層ボタンを押そうとするところで、躊躇いが生じて突然手が止まった。
「ウラカミさん。今当店でご迷惑をおかけしたお客様に、姿を元に戻す対処を行なっているのですが、ウラカミさんはどうしますか」
私の問いにウラカミさんは一瞬、何を言われているのか分からないといった曖昧な表情をした。が、すぐに怒りに声を滲ませて「ああ?」と聞き返す。
「あんた、せっかく若返ったのに、俺にまた老い先短い六十なんぼの年に戻れってえのかい。俺はまだまだ人生終わらせたくねえよ」
知らなかった。ウラカミさんの実年齢は、六十歳らしい。
「しかし、このままだとまた二十代から人生やり直すことになってしまいますよ。それに、もしかしたら、このレジが壊れたら、元に戻ってしまうかもしれないじゃないですか。何か妙なことが起こらないとも限りませんし」
私は考えられる限りのレジの不幸について述べてみた。しかし、ウラカミさんはハハ、とそれを一笑した。
「そんときはそんとき。大丈夫。店員さんに責任を押し付けたりしねえから。今はまだ、この恰好を楽しみてえのさ」
ウラカミさんはひらひらと手を振り、袋の中からマイルドセブンライトのボックス二つを取りだすと、ズボンのポケットの中に押し込み、袋を片手に持って大股に歩いて店を去ってしまった。私が残された店内ではドアの開閉音が二、三度鳴り響いた。ウラカミさんのあとのお客さんがすぐに空いたレジにやって来たのを見て、フリーズしていた頭が働き始める。
いらっしゃいませ、おはようございます。お弁当温めますか。畏まりました。お会計がセンナナジュウハチエンになります。カードお願いします。オハシとスプーンはオツケイタシマスか。カシコマリマシタ。少々オマチクダサイマセ。オマタセイタシマシタ、コチラ商品ノオ返シデス。レシートノオ返シデス。アリガトウゴザイマシタ。
ウラカミさんのように、人によっては客層ボタンの効果をそのままにしておいて欲しい、という人もいるのだろうか。六十にもなる老人にとって、不意に訪れた若返りはそれこそ棚から牡丹餅に他ならないが、ウラカミさんは今まで生きてきた体に思い入れはないのだろうか。
そんなことよりにウラカミさんにとっては新しい身体を手に入れたのが嬉しいのかもしれないな、と思い、それ以上は考えないことにした。
暫くして早朝のシフトが終わり、午前の仕事に突入した。ベンダーさんが生鮮食品の納品を済ませ、通常午前シフトに入っている相方さんが「おはようございます」と挨拶をしてバックルームに待機する。早朝の相方さんに引き継ぎに行って貰い、私はレジを見ながら食品廃棄、ならびにゴミ箱の袋を替える。終わった後は、バックルームから機械を取って来てパンと生鮮の検品をする。
日や曜日にもよるが午前中はあまりパンの納品がない。一方で、生鮮の検品は腰を使う力仕事なのでなかなか骨が折れる。毎度のことだが、サラダ、サンドイッチを始めとしてお惣菜まで、生鮮は扱う食品の種類が多い。それらのバーコードを読み取り、数を確認してコンビニの保温庫に並べるまでが仕事で、その際まだ売れ残っている食品が売り場にあった時には、賞味期限を確認して古いものを手前に、新しいものを奥に配置し直す。これは廃棄時間をより効率的に確認できるようにするためのシステムだ。廃棄時間を過ぎた商品をバーコードスキャンしてしまうと、ピーと甲高いレジ音が鳴り響いて「廃棄時間を過ぎています」という表示が出てしまう。勤務時間が短いため、納品回数と廃棄回数が一番少ないシフトである午前が、その後のシフトの廃棄処理をより早く出来るように、しっかり賞味期限を確認するのである。
生鮮食品の検品のあとは、午前シフトの廃棄の仕事が待っている。十時四十五分を目標にして、当日付け午後一時の商品を回収し、全て籠の中に入れて、あとで処分する。米飯売り場からデザート売り場までの商品に目を通し、該当の時間に賞味期限の切れる商品を見つける。
私は、お惣菜売り場までで七つほどの廃棄品を見つけた。たまに他のシフトで廃棄すべき商品が廃棄の時に回収しきれずに混ざっていることもあるが、今日は特にそれはなかった。
一通り米飯、生鮮食品の賞味期限を見終わり、デザート売り場の商品廃棄に移ろうとしたところで、私の目に、綺麗な装飾を施した保温庫が飛び込んできた。上段にはケーキ類、中段にはシュークリームやプリンなどの洋菓子類、下段には水ようかんや栗大福などの和菓子類が並んでいる、一際華やかな売り場だった。赤と白のチェックビニールを敷き詰めた段に、個別に包装された菓子類が、買う人を待つように所狭しと冷蔵保温されている。私はその一角に、まだ売れ残っている店長のオススメ、フルーツ・クリーム・モンブランを見つけた。値段が高めに設定されているせいか、他のデザート類よりも心持売れ残りが目立つ。廃棄時間を調べると、二列に並べられているうちの前から四つが今日付けの午後一時の賞味期限だった。
私は見つけたフルーツ・クリーム・モンブランを他の廃棄品同様、籠の中に入れた。冷蔵庫から取り出したそれらはひんやりと冷たく、照明の当たらないところに移すと他のこれからゴミになろうとする廃棄品と同じ、商品らしからぬ彩りにくすんでしまった。あれほど店長が力を入れて作った商品ポップも、今や他の商品の販促物に紛れて少し見えにくくなっている。他の人が商品周りを整理するときに気付かずポップの前に販促物を置いてしまったのだ。私はそれらを退けて、フルーツ・クリーム・モンブランのポップを手前に出しておいた。
廃棄品回収の後暫くレジを打っていると、午前の相方さんが米飯の検品を始めた。壊れた方のレジを閉めて、正常な方のレジを開ける。正常な方のレジは、何度客層ボタンを押し間違えても、お客さんの見た目が変わってしまうことはない。片方だけで接客をする際は、いつもそのようにしようという、私と午前の相方さんの対策だった。
店の扉が開く。お客さんが来たのだと、声を挙げて「いらっしゃいませえ」と言ってそちらを目視すると、入ってきたのはお客さんではなく、店長だった。「おはようございます」と慌てて会釈する。店長は「おはよう」と首だけ下げた。
そのままいつものようにバックルームに行くのかと思ったが、店長は予想に反して店舗の商品を見始めた。昼食にはまだ早い時間だが、と私が思っていると、すぐにこちらに戻って来て、私が立っているレジとは別の方の、締め切られている壊れたレジの前に、持ってきた商品を置いた。
「塩さん、レジお願い」
「あ、はい」
店長が私を名指しでそちらのレジへ呼ぶ。私は戸惑いつつも締め切ったレジへぱたぱたと走った。たまにレジを締め切っていても並ぶお客さんがいるが、店長がそんな行動を取るのは珍しい。第一、コンビニでレジを打っていれば、休止中のレジに人が並ぶことが如何に店員を苛立たせるか、というのは分かっているから、大抵は自分で買う商品は自分でレジを打ったり、店員がいる方のレジに並んだりするのが常である。店長ともなれば、それが分かっていて当然なはずでもありそうだが。
私は何となく違和感を覚えつつも壊れている方のレジを開けた。店長の持ってきた商品は、あの、フルーツ・クリーム・モンブランだった。廃棄品回収後も残っていたモンブランは液体の染み出しもなく綺麗に形が整っていておいしそうだった。私は形を崩さないように入れ物を持ち上げて、バーコードをスキャンした。
「二百十五円になります。袋ご利用ですか?」
「いらないわ。スプーンだけお願い」
畏まりました、と店長の要望に応えて、レジ下の引き出しから透明プラスチックスプーンを一つ取り出し、テープでモンブランのケースに張りつける。店長はその間、財布から小銭を取り出して、モンブランのお金を探す。五秒にも満たない間に、レジにスプーンの張りつけられたモンブランと、その対価である二百十五円が並んだ。
「塩さん」
私が素早くその小銭を取ろうとしたところで、店長が一言私を呼んだ。はい、と反射的に返事をして顔を上げると、店長は何やら真剣な表情で私の方を見つめていた。何か問題があっただろうか。しかし袋を利用するかどうかは聞いたし、スプーンもちゃんと言われた通りに付けたはずだ。店員として何も問題はなかったはずではないだろうか。私が黙っていると、店長は「お願いがあるの」と何やらもったいぶったように一言付け加えた。
「はい、何でしょう」
「あのね、客層ボタン、ピンクの49を押してくれないかしら」
二百十五円を持つ私の手が意思とは関係なく止まった。ピンクの49のボタンを押す。店長は、所作や見た目こそ丁寧で女らしさを感じる部分があるが、実際の性別は男性そのものであり、骨格などから判断してもそれは間違いないはずだった。その店長が、彼が、今私にこの壊れたレジでピンクのボタンを押せと言っている。一瞬判断に迷った。私は顔を上げて店長を見返した。
「え、冗談ですよね」
「冗談でこんなことお願いすると思う?」
これは反語だ。
「店長、このレジは壊れてますよ。ここでボタンを押したら、店長は女性になってしまいます」
「そんなことは分かってるわ。だからお願いしてるんじゃないの」
「しかし、こんなレジの機能で女性になっても、体の中まで変われるかどうかなんて、分かりませんよ」
「それこそ、やってみないと分からないでしょう。大丈夫よ、今までのお客さんたちからも健康被害でクレームが来たことはないから」
「そういう問題では……」
「いいから押してよ。押さないと、店にあるフルーツ・クリーム・モンブランを、塩さんがボタン押してくれるまでひたすら一個ずつ買い続けるわ」
みみっちいですね、と突っ込みを入れる間もなかった。店長の決意はかなり固いらしい。自分でレジを打ったのでは見た目を変えることが出来ないからこそ、今こうして私にレジを打つように打診していると言っても良かった。店長の目は本気だった。このまま私が正しいボタンを押し続けたり、命令を無視したとしたら、もう一度デザート売り場から、あのモンブランをレジに持ってくるに違いない、と思わせる、決意に満ちた強い力を宿していた。私が何ともいえずに呆然と立ち尽くしていると、店長もじっと私を見下ろしているばかりだった。
「わかりました」
私は散々悩んだ挙句にそう返事した。店長が、あからさまにほっとしたような顔をして、緊張を解くのがわかった。
「けど、なぜ今更、突然女性になりたいだなんて」
「細かい理由は、あとで話すわ。あたしだって、この姿に全く未練がないわけじゃあないし、冗談で女になって、後で戻してもらおう、なんて考えてるわけじゃないんだから」
きわめて明瞭に意志を述べる店長。決まりが悪いのは寧ろ私だけらしい。当の本人は、あっけらかんと、早くしないとせっかくのケーキが冷たくなくなっちゃうわ、などと言っている。
私は意を決して握っていた二百十五円をレジの小銭入れに置いた。
「……丁度お預かりいたします!」
レジに一秒に満たない速度で金額が入力される。同時に、客層ボタンをよく確認し、店長の希望の通り、ピンクの49のボタンを、まだ震えの止まない指先で、軽く叩いた。
レジのドローアーがいつものように力なく開いた。左脇のプリンタからはフルーツ・クリーム・モンブランの商品名と値段と合計金額が書かれた短いレシートが印刷されて出てきた。それを右手で取り、お客さんへと差し出す。その前に、商品のお返し。いつもの通りの動作。だがやはり震えは止まない。踏ん張った足に力が入らず、がくがくと痙攣じみた動きが続く。
「レシートのお返……」
「ああ、いらないわ。そこに捨てておいて」
いつもの聞きなれた店長のものとは違う、明らかに甲高い女性の声が、私にそう命令する。はい、とレシートを見たまま、私は顔を上げた。店長は既にモンブランを取ってレジから去り、バックルームへと移動しようとしていた。見送った背中が服に対して妙に華奢で、大きかった肩幅は、すらりと丸みを帯びて美しい弧を描いていた。
本当に、ボタン一つで店長は女になってしまった。動揺に上がった脈拍が留まることを知らない胸の内で、私は仕事の間ずっと、ボタンを押した自分を責めたり、店長の命令を呑むしかなかったことを悔いたりと、酷く混乱をしていた。
休憩時間を迎え、昼食を買ってバックルームに入ると、三十代くらいの瑞々しい肉体の女性が、パソコンの前のアームチェアにゆったりと腰を掛けていた。見たことのない顔、かと思ったが、その人の顔にはよく見ると先ほどまで男だった人の面影が何となく見てとれる。それに気づいてようやく、ああ、この女の人は、店長だ、と思い直した。店長は店に来る時まで来ていた服ではなく、女ものの胸元を強調したぴったりと体のラインが浮き出るような服を着ていた。
「いつの間に着替えたんです」
私が問うと、店長はパソコンから顔をこちらに向けて、ああ、さっきね、と曖昧な返事をした。振り返った素振りから、必要以上に胸の形が変形する服装に、少し目のやり場に困る。
「これは、通勤前に妻の洋服箪笥から拝借したの。イケてるでしょ。なかなかセクシーよねえ」
店長、奥さんいたのか。普段から女らしい格好に女らしい趣向なものだったから、てっきり独身とばかり思っていた。と、そういった私の感想よりも先に、店長は、まあいらっしゃい、と手招きして、事務机の隣に腰掛けることを促した。言われた通り、私は店長の隣に腰掛け、目の前の机に昼食に買った品々を置いた。
「さてと。どこから話せばいいかしらねえ」
先に切り出したのは店長だった。腰かけたアームチェアに思い切り背を凭れると、軋んだ椅子のスプリングがギイ、と音を立てた。
「面倒だから一問一答で答えようかしら。塩さん、何か聞きたいことはある?」
店長は背もたれから一度離れて、肩に羽織っていたジャケットのポケットに手を突っ込み、蛍光ピンクの細い箱を取り出した。同じ場所からライターも取り出し、机の上に置く。この銘柄は確か、ピアニシモフランメンソールだったか。店長は箱から一本煙草を取り出すと、ライターで火をつけ、美しい豊かな唇でそれに口づけた。
「あれ、店長、煙草嫌いなはずじゃ」
男性であったときはそれこそ顔をしかめるほどに煙を払っていた店長が、何の心境の変化か煙草を吸っている。その様子にまず一つ聞く予定もなかった質問が出た。店長は人差し指と中指で煙草を摘んで、ふっと息を吐く。ラズベリーにミントが混じった香りが、店長の目の前でふわりと舞った。
「ああ、ちょっと吸ってみようと思ってね。人生経験の一つとして。これ他の煙草より少し安いし、良い匂いだし」
「はあ。値段ならピースの方が安いと思いますが」
「良いじゃない、別に。それにこれ結構いいわよ。塩さんも一ついかが?」
「いえ、結構です」
あらそう、と店長は言って、吸いかけの煙草を口に戻した。明るすぎる店内と比べて光の少ないバックルームで、煙草の先に灯した火がぼんやりと光っている。その光を見ていると無限に時間があるような気になってしまいそうだが、私は気を取り直して、本来の目的を思い出す。
「とりあえず、なぜ女性になりたいと思ったのか、ってところから、聞かせてもらえませんか」
真っ当な質問だろう、と自分でも思った。おそらく店長もそう思っていたのだろう、一つ、そうね、まずそこよね、と言ってまた椅子に背を凭れた。
「元はと言えば、私が女になりたいと思っていたのは、ずっと昔からなの。気が付いたら、女の人に憧れていて、自分もああなりたいと思った。けど、私は男だったのよ。どんなに女の人に憧れても、体は大きく武骨になるし、身長だって知らない間にどんどん伸びちゃって。髭も生えるし、筋肉もつくし、自分の体が変わっていくことに、戸惑うことが多かったわ。なんであたしは女の人になりたいのに、体は男の人になっていくんだろうって」
店長は摘んだ煙草を灰皿の上に置いた。
「最初は嫌いでも何でもなかった男の体が、成長していくごとに段々嫌いになっていった。腕とか足とか顔に、毛がボーボーに生えるのが気持ち悪くて仕方がなくて、毎日こまめに手入れしてたわ。学生時代まではたまに女装もしてた。彼女にプレゼントするんです、って言ったら、店の人は信用してくれたから、女物の服を手に入れるのは難しくなかった。で、親に見つかって怒られたりね。結局あまりに不利益が多いから、途中で男として生きていくしかないのかなあって、いろいろ諦めちゃったんだけど、とにかく女性になりたいっていう気持ちは、生まれつきって感じであったの」
「生まれつきですか」
口から吐き出した煙の向こう側を見るように目を細め、店長はええ、深く頷いた。
「でね、その後いろいろあって、今の妻と付き合い始めたんだけど、やっぱり向こうが男性として私のこと好きだったら、申し訳ないから、付き合い始めの頃に、そのことをカミングアウトしたの。そしたらあの子、はあ、で? って言って何でもないように言うのよ。分かってるのかどうか怪しかったから、気持ち悪くないの、とか、私中身は女よ、とか言って揺さぶってみたんだけど、それで結局あなたはどうしたくて、私とどう付き合いたいの、って言い返されちゃって。普通、こういうこと言ったあとって、考えさせて、だとか、驚いた、だとか言われるものだとばかり思っていたから、その反応が新鮮で、ますます彼女に惚れこんだわ。そのあと、何年かして、結婚もしたしね」
店長は思い出し笑いを漏らして、煙草の火を消した。奥さんの話は初めて聞いたがとても想像が出来なかった。そんな話があるとも知らなかったし、第一、店長が結婚していたということも、全く聞いたことがなかった。が、店長が奥さんによほど惚れこんでいるのは、白く化粧乗りのいい頬の(店長は私が来るまでの間に何と化粧までしていた)綻びを見れば分かった。
「けど、そうしたらもう、わざわざ女性になる必要もなかったんじゃないですか? 女性になったら、それこそ奥さんと夫婦、と言えなくなってしまうかもしれませんし」
「うん、まあ、それはそうなんだけどね……」
そこで店長は言葉を濁した。灰皿に落とした煙草を拾い上げ、その先端を、ぐりぐりと皿底に押しつける。
「塩さんはさ、“あなたに私の気持ちなんて分からないでしょ”って言われたら、どうする?」
「え、何ですか、いきなり」
「いいから。どうする」
私は一瞬黙考し、すぐに思いついたことを言う。
「そりゃあ、自分と相手は、人間が違うのだから当たり前です。でも、そこで止まるんじゃなくて、まずは、相手の立場に立って物事を考えるようにしますかね。とりあえず、相手が何を考えているのか、分かるまで徹底的に話し合って、それから自分に出来ることがないか、と考えます」
「そうね。素晴らしく模範的な回答だと思うわ」
店長は煙草を灰皿に押しつけたまま、私の方に視線を移して微笑んだ。
「でも、それで本当に相手を理解したことになるのかしら。それって、他人を理解したつもりになっているだけなんじゃないかしら」
が、直後に返ってきた反応に、足元をすっと抜かれる思いになる。
「どういうことですか」
聞き返すと店長は、ふと笑う。
「例えば、今の私の話を聞いて、塩さんは私がどれだけ女性に憧れて、女性の体を羨ましく思ったか、理解できた?」
「それは」
言葉に窮した。決して店長の話が分からなかったわけではない。だが店長が自身の肉体を憎らしくなるほどに、長い間、強く女性の体に憧れてきたというのは、あの短い話で理解できたなどと軽々しく言ってはいけない気がした。
「誘導尋問みたいになっちゃってごめんね。でもそういうことなのよ」
店長はまた笑っていた。
「違うものは、違う。例えその二つの間に距離感の差があったとしても、これは変えがたい事実なの。そして、その歴然たる事実があるからこそ、埋めがたい溝が出来る。当たり前のことだわ。どんなに綺麗事や正論を並べても、事実は事実。違うものは違う」
しみじみと、自身に言い聞かせるように、店長は言った。私は黙っていた。店長の言いたいことが、見えるような見えないような、まだぼんやりした影にしか捉えられなかった。
「ところで、この間、私が店を三日ほど空けたことがあったわよね。正しく言うと、五日だけど」
「え? ああ、はい」
突然変わった話に戸惑いつつも返事する。店長は、相変わらず煙草を押し付けたままだ。
「あれ、皆の間ではどういう話になってたんだっけ?」
「えと、あの客層ボタンのせいでお客さんが来なくなって、店が潰れそうだからその対策に行ったんじゃないか、とか、店長がクレームへのストレスで胃を痛めたんじゃないか、とか」
ハハ、と面白そうに店長は笑って、灰皿から手を離し、目の前のパソコンを指さした。そのままマウスを握り、手際良くウィンドウを操作する。
「見て」
指し示された先には、今月の売り上げの折れ線グラフが表示されていた。二週間前から徐々に下降してはいるものの、総売上額は今月初旬とほぼ同額だった。
「確かに客数は少し減ったかもしれないけど、この店の売り上げ自体は皆が心配するほど減ってはないわ。まだ店が潰れることはないから安心して」
ウィンドウを閉じ、店長はこちらに向き直った。ありがとうございます、と礼を述べる。
「それに見ての通り、私はあの程度のクレームで音を上げたりはしないわ。そんなことじゃあ、コンビニの店長なんて務まらないもの」
「それもそうですね」
「まあ、何も言わないで出て行ったのだから、そのくらいしか思いつくことがないのも当然と言えば当然なんだけど」
「といいますと……?」
何か他に理由があるのでしょう、と私が言いたいのを店長も理解しているようだった。
「実は病院行ってたのよ。妻がね、妊娠したかも、っていうから」
が、予想を遥かに超えた答えに、私はぽかんとしてしまった。
「え、にんしん……?」
「そう。で、検査受けてきたの。そうしたら、妊娠どころか、病気だって分かって、もう大騒ぎでね」
「え、ちょ、ちょっと待って下さい」
頭の整理がつかないのをアピールして、店長に待ったを掛ける。この数分の間に聞いた情報と、この二週間にあったことが、いくつも頭の中を駆け巡る。客層ボタンの故障。店長の不在。益田さんから教わったその対策。知らせより二日遅れて帰って来て、様変わりした店長。女性になりたかった店長。女性になった店長。店長の奥さん。休みの間に行っていたという病院。奥さんの妊娠宣告。調査してみたら、病気。
「そうしたら、店に遅れて戻ってきた、っていうのは」
何ら話の糸口の見えなかった先ほどまでの話と、店長の奥さんの話、さらに店長が女性になりたかったという話が、おぼろげながらに私の中で一つのまとまりを帯びてくる。同時にこんなところまで赤の他人である私のような人間が踏み込んでしまったのを、申し訳なく思った。
「そう。妻の側にいるのためよ。彼女ね、子供が産めない体になっちゃってたの。外傷がある訳じゃないから、看病とかはしなくて平気だったんだけど、結構精神的に辛そうでね。お医者さんに、暫く旦那さんが側にいてあげて下さい、って言われた。彼女、ずっと子供、欲しがってたから。で、仕事休んで言われた通り、一緒にいたはいいんだけどね、凄いショックだったみたいで、何を言っても不機嫌そうだし、心配すれば“あんたみたいなオカマに本物の女の気持ちが分かるわけないでしょ“って、これもう、酷い言いようでね……」
遠くの方でぼんやりと姿を滲ませていただけだった像が、輪郭を明瞭にしてはっきり私の前に現れた。
私は息を呑んだ。店長は続けた。
「それを聞いて、もう、本物の女になってやるしかない、って思った。その後暫く妻に付き添ってたけど、やっぱり駄目だった。所詮、男である限りは、彼女の辛さに近寄ることも、辛さを共有することもできない。だったらもう、女になるしかないわ。元々、この体は嫌いだったんだし、丁度よかった。男を捨てるのに、躊躇いはなかったわ。それを思いついたのは、本当、つい最近でね。気付いてしまえば、どうして今まで思いつかなかったのか、不思議なくらいで」
自宅に帰って鏡を見ると、暫く手入れしていなかった髭や髪が伸び放題なのが目に付き、このままでは駄目だ、と奮起したという。そして今日、大好きなフルーツ・クリーム・モンブランのポップを見て、いよいよあの壊れたレジの前に立ち、それを実行に移す、と決めた。
こんなことをして、妻が喜ぶかどうかはわからないけど、やらないより全然いいと思った、と店長は続けた。
「だってもう、私の彼女の間に溝はなくなるもの」
力強く、確実な芯をもって断言する。それだけで、店長が如何に今まで一人で奥さんのことを、女性の体のことを、真摯に考え、大切に思ってきたのかが伝わってくる。
重大なことを聞いてしまったという思いと、店長が私に頼んだことの責任の重さが、じわりと背筋に汗をかかせた。店長が私にこの話をしたのは、おそらくたまたま客層ボタンを押してもらおうとした時にレジにいたのが、私だったからだ。それが、まさかこんなことになろうとは、全く予期していなかった。
私は店長に対して何も言えず、ただ沈黙を貫いた。こんなときにどういう言葉をかければ、一人で問題を抱えてきた店長を慰めることが出来るのかわからなかった。大変でしたね、やお疲れさまでした、は、何かが違う。接客では足りない別の気持ちを、言葉にする術を知らなかった。
それきり、休憩時間は終わってしまった。私はまた持ち場に戻り、何度打ったか分からないレジの前に立った。店長が本点検を済ませてバックルームから出てくると、午前の相方さんが大いに驚いた様子で、誰、あの人? と私に尋ねてきた。店長ですよ、と返しても、相方さんは最初信じようともしなかった。理由を全て割愛し、私がボタンを押したんです、と話すと、相変わらずあの人も物好きだねえ、という反応が返ってくるだけだった。
***
四日後、私と益田さんが夕方シフトに入っていると、当初の予定通り、客層ボタンの壊れたレジを回収する業者がやってきた。撤去と新しいレジの設置作業はつつがなく進行した。片方のレジが完全に閉まっている状態で夕方に訪れる大量のお客さんを捌くのは大変だったが、商品の袋詰や、煙草や肉まん、おでんなどレジ回りにあるものを取りに行くのを益田さんが手伝ってくれたお陰で、一回のお客さんを捌く時間が短縮できた。
「どうも、弊社の商品がご迷惑をおかけして、大変申し訳ありませんでした。店長様には、無事撤去が終わりました、とお伝えて下さい」
回収業者はレジを取り去り、私と益田さんにそう言い残して去って行った。新品だから当然だが、新しく取りつけられたレジは、壊れていなかった方のレジよりも目に見えて綺麗で、埃や泥一つ付いていないのが逆に見ていて眼に痛かった。
「ああ、もうこれでこの一件は終わりなんだな」
益田さんはため息をついて回収業者が夜闇に消えていくのを見送っていた。
「二週間、豪い疲れたよ。あのレジに立つ度、お客さんにドヤされたり、年齢聞いたり」
「益田さんあのレジに殆ど入ってないじゃないですか。あそこで苦労してたのは、私です。もう疲れました」
ハハ、だよな、塩さんお疲れさん、と、益田さんは私を労った。疲れているというより、あのレジによって考え込むことが多くなってしまった。その思考回路に、自分自身が疲れていたように思う。
「ところで益田さん」
「何だい」
「あのレジ、回収されたら、結局どうなるんでしょうね。確かまだ、正しい年齢を押し直していない人が、ちょこちょこいると思うんですけど」
以前益田さんが、仮面ライダーと戦隊ものに例えた話を今更ながらに思い出した。益田さんは、何だ、まだそんなこと気にしてたの、塩さんは真面目だなあ、と冗談みたいに言い放った。
「どうなるかなんて、全然わからないよ。文字通り、箱を開けてみなければ、仮面ライダーか、戦隊ものかも不明だ。ちょっとしたブラックボックスだね」
レジは白いですけどね、などと言い返すと、益田さんはちょっと笑って、塩さんも言うようになったね、と口にした。
しかし実際のところ、私はレジが壊された後に今までのお客さんがどうなるのか、個人的にとても気になった。
店長が客層ボタンで女性に変身したということは、私が次のシフトに入るまでの間に、既に従業員中に広まっていた。皆の間では、店長は元々女っぽいところがあったから客層ボタンで女性になることを自ら望んで実行したのだろう、という意見で一致していたし、当の本人もその説明で合っている、と頷いていた。だから私以外に、店長がなぜ女性になったのか、その本当の理由を知る者はいない。店長は店長で、相変わらず妻がいることを誰にも言わなかったし、自分の昔の話についても誰にも教えていなかった。本人いわく、プライベートのことにまで従業員に教えるものではない、噂が噂を呼んで、自分に対する偏見で店の利用客や売り上げが少なくなったらそれこそ困る、とのことだった。そのとき店長に、じゃあなぜ私にだけ教えてくれたんです、と問うと、塩さんは実行した人として知る権利があったし、口堅いからとウインク混じりに返された。
仮に、以前益田さんが言ったように、レジを壊したら今までのお客さんの見た目が元に戻るのだとしたら、それこそただの一時の騒ぎに過ぎなかったね、という感想で、この件には幕が下ろされる。が、それは子供を産めない体の奥さんのために自ら女性となる道を選んだ店長にとって、必ずしも良い結果ではないはずだ。店長は出来ればこのままずっと女性として生きて奥さんを支えたいと思っているはずだし、その覚悟があったからこそ、レジに立ったあの時、押さないなら押すまでレジに並ぶ、といって私にピンクのボタンを押すことを迫った。その店長の決心を、高々一時の騒ぎのもとに終わらせるだけでいいのだろうか。確かに、お客さん全員のことを考えれば、益田さんの言うように戦隊ものの法則であるに越したことはないはずだが。
益田さんは、塩さん、と呼んで私の眉間に人差し指を軽く当てた。少しくすぐったくなって、私は額を押さえた。
「何難しい顔してるのさ。もう終わったことだよ。それに結果は、いずれ分かるようになる」
そうですね、と曖昧に返事して、私はふとため息をついた。考え過ぎるのも良くない。益田さんは、そうそう、力抜いて、今は仕事に集中だ、と私の肩を叩く。
「これからはレジが新しくなった分、お客さんの足も戻ってくるよ。それこそ片方だけじゃ足りない。もしかしたら人手も足りないかもしれない」
「それは言い過ぎだと思いますが、おおむね同意です」
よし、と益田さんは私に頷いて見せる。そうだ、今は考えなくてもいいのかもしれない。例え私が考えようと、考えまいと、店長のことは店長のこと。お客さんのことはお客さんのことだ。私がこの件に関して出来ることと言ったら、もうきれいさっぱりなくなってしまった壊れたレジの代わりに来た、新しいレジの客層ボタンを出来る限り正確に打つことくらいだ。今度は間違えてもお客さんの姿は変わったりしない。ただ、メーカーのマーケティングに貢献するだけの、軽い責任しかない。
自動ドアが開く音がして、店内にお客さんが何人か入ってきた。私と益田さんは、いらっしゃいませ、と声を張り上げる。
「そういえば、この間益田さんの大好きな、特撮ヒーローものを久々に見ましたよ」
気分を変えようと、一つ新しい話題を提供した。益田さんは、えっ、何だって、とぶら下げた餌に物凄い勢いで食いついた。
「そうかそうか、塩さんも遂に特撮の良さが分かるようになったのか。どういう風の吹きまわしだかは知らないけど、気に入ったら今度映画やるから見に行くと良いよ。あ、あと、その作品だけじゃなくて、今までの作品も見てみると良いよ。特に昭和初期のあたりの作品はお勧めだね。なんてったって映像の重みが今のCG多めの戦闘シーンとは段違いだ。何ならDVDあるから全部貸そうか。あ、今だったらDVDよりも、ブルーレイの方がいいかな」
「そうではなくてですね」
怒涛の勢いで一人喋り続ける益田さんにストップをかけ、私は言葉を捻りだした。益田さんは不服そうに、何だい人が調子よく話しているのに、とでもいいたそうに眉根を寄せていた。
「益田さんは、戦隊ものと仮面ライダー、どっちが好きですか?」
「え、何それ」
「いいから。どっちが好きですか?」
似たようなことをどこかで話したな、という既視感が過ぎるのを尻目に、益田さんに無茶な質問を振る。が、益田さんはすぐに、あのねえ、君は全然わかってない、と返す。
「戦隊ものと仮面ライダーを比較すること自体が間違ってるんだよ。それぞれには、それぞれの良さがある。どちらか片方を選ぶなんて言うのは、初心者の発想だ」
「私、初心者なんですけど」
「自分は少なくとも、初心者を温かく見守るポジションくらいの玄人ではありたいね」
じゃあ初心者にも分かりやすく答えて下さいよ。売り言葉に買い言葉で言いたくなったが、これ以上争っても益田さんは到底応えてくれないだろうと考え、代わりに自分の考えを述べる。
「私は、どちらかというと仮面ライダーの方が好きですね。小さい頃は、戦闘シーンにしか興味ないから分かりませんでしたが、ストーリー追っていくと段々分かることが増えていく感じが、戦隊ものより仮面ライダーのほうが多い気がするんです。以前、益田さんは、仮面ライダーよりも戦隊ものの路線の方がある、なんて仰ってましたけど」
「いや、それとこれとは関係ないでしょう。あんなのただの例え話じゃない。え、今は塩さんの好みの話じゃないの?」
頭こんがらがってきたよ、それより、さあ、仕事に戻らないと。益田さんはレジに置いてあった籠の山を持ち上げると、売り場の四隅に置いてある籠置き場に向かっていった。先ほど入ってきた何人かのお客さんが売り場で品定めをして、ゴンドラの前をうろうろしている。もうじきレジが混むだろう。
益田さんに言った感想は、嘘じゃないですよ、と心の中で言ってみる。私は戦隊ものより仮面ライダーの方が好きです、どちらかといえば、ですけど。ただ、前にしたレジの例え話でも、仮面ライダーの方が、今は魅力的です。おそらく益田さんは、実際そうだったらうちの店の対応とか責任が、それこそ面倒だよ、と顔をしかめるでしょうね。
うろついていたお客さんが一気にレジへと歩き始めた。いらっしゃいませ、お預かりいたします、と挨拶をしながら、新しい方のレジの前へと進み出る。目の前には、お客さんが三人、早くも列を作っていた。売り場に出たばかりの益田さんに、申し訳ない、と思いながらも、レジお願いします、と大声で呼びかける。すぐに隣のレジに益田さんが入り、後ろにいたお客さんの一人が移動を始める。
「やあ、こんばんは、店員さん」
私のいる方のレジに最初に並んでいたのは、レジが回収された今もなお変わらず二十代の姿をしているウラカミさんだった。こんばんは、と挨拶をし、さっそく持って来られた籠の中に、いつもの、お好み焼きパンとスプライトの復刻版、ザ・チーズバーガーを見つけて飛びつき、バーコードスキャンを始める。ウラカミさんはおや、レジが新しくなったんだね、これで他のお客さんが変わっちゃうこともなくなったんだ、よかったね、とまたいつものように気さくに話しかける。スキャンが終わると、「マイルドセブンのライトボックスを二つ」、例の煙草の注文が来る。
いつもの通りだ。ウラカミさんはどんな姿でも、どんな時間帯に来ても、変わらない注文をする。お会計が一三三一円です、と告げると、すぐにその金額がレジに置かれる。レジが古くても新しくても壊れていても、ウラカミさんはこの店に来る限り、ずっと同じ買い物をして、ずっと同じ煙草を注文し続けるだろう。それはおそらく、自分の見た目が変わっても、店長の見た目が変わっても同じだ。
ウラカミさんのお会計を受け取って、一秒に満たない時間で預かり金を入力する。次いで飛び出したドローアーから一五〇〇円のおつり、一六九円を順番に用意する。百円玉が一枚、五十円玉が一枚、十円玉が一枚、五円玉が一枚、一円玉が四枚、左手に収めてまとめる。プリンタから出来てきたレシートを右手で取り、お返し金額を言いながら、お客さんの手へと渡す。ウラカミさんはそれを受け取り、私がその合間に袋詰めした商品を持って、レジを後にする。
「ありがとうございました、またお越しくださいませ」
「どうも、ありがとうね。お塩の、塩さん」
レジ袋を提げたウラカミさんが片手を挙げて笑顔で言う。一瞬、名前を言われたのに反応できず、あ、はい、と生ぬるい返事を返してしまったが、すぐにウラカミさんが、今まで覚えていなかったはずの私の名前を呼んだのだと気付いて、少し嬉しくなった。
もしかしたらこの先、少しいいことがあるかもしれない。
ウラカミさんの会計の時に押したのは、水色の50のボタンだった。合っているかどうか、正しいか正しくないかは分からない。しかしもう、客層ボタンを押すことでお客さんの姿が変わることはない。ボタンを押す以外の方法で、何かが変わることはあるかもしれないが。
ウラカミさんが私の名前を覚えてくれた喜びに浸る暇もなく、次のお客さんが、新しいレジに籠を置いた。いらっしゃいませ、お預かりいたします。そう言って、また商品に取りつけられたバーコードのスキャンを始める。