オリジナル小説 同人誌

小説作品

見えない

見えない


 これはおよそ数年間にわたり、私が実際に経験した出来事です。話によってはもう何年も前のことになるので、細かいことは所々抜けていますし、先に断っておきますが、今となってはあまり思い出したくもないことでもあります。忘れてしまった部分は、もう確認しようがありませんし、ここでこうして彼女にまつわる出来事を記すこと、それ自体には何の意味もないのかもしれません。しかし、そうと分かっていても、私はこの話を覚えている限りでここにまとめておこうと思います。それには何の目的もありはしません。私がただ、彼女の行動や、覚えている限りのことを書きとめていくに過ぎません。しかし、万が一にもこれが誰かに見つかり、読まれ、ここに書かれていることと似た現象が発見されるのであれば、私がここに今から記すことは、意味をなしたということができるでしょう。願わくば、これを読んだあなたが、私の過ちを許してくれることを祈ります。出来たら今から書くことを、あなたの友人・知人・家族などに広めてくれると助かります。そうすることでいつしかこの話が誰かに伝わり、私が彼女とまた対面できる可能性に賭けたいのです。

***

 私には、Aという友人がいました。Aは私のご近所に住んでいる、同い年の女の子です。普段は明るく活発な子なのですが、実は彼女は他の子にはない不思議な力がありました。それは人が書いたものを読むと、それを書いた作者の行動や気持ちが分かると言うものでした。
私が中学の時にそのAの不思議な力のことを聞かされたのは、Aと行動を共にしてから暫くのことでした。最初Aからその話を聞いた時に、私は、絶対嘘だ、そんなことあるはずない、と言って全く信じようとしなかったのですが、Aは、嘘じゃあないよ、本当だって証明してあげるよ、と言って、鞄から一冊のノートを取り出し、私に差し出しました。それは交換ノートでした。薄い水色の縦じまの模様が入っていて、鍵がかけられるような仕組みになった、A5サイズのものでした。Aは言いました。
「今日、学校から帰ったら、そのノートの一ページめに、あったことを書いてきて。明日、私がそれを読んで、××(私の名前)ちゃんがそのとき考えていたこと、当てるから」
 私は学校から帰るとすぐにその交換ノートを開き、一ページめの記入欄にその日あったことを書こうとしました。一度でも交換ノートをやったことがある方はご存知かと思いますが、そのページには色とりどりの飾り枠で、その日の日付、通信欄(いわゆる記事のことです)、しりとりコーナー、注目のテレビ、今日のご飯、恋話など、様々な話題を記入する場所があります。私はまず左ページの一番上にある、日付欄に数字を入れ、今日の担当の所に名前を書きました。忘れもしません、この日は確か、平成二十年の五月二十九日です。それから隣のページに、その日見た『宇宙忍者スペース・タイタン』というアニメについての感想を書きました。これは当時、私のクラスで大人気だった、空想ヒーローアニメです。その日は、スペースタイタンが長年の宿敵であるゼブラ伯爵を倒す回だったので、タイタンの勝利で興奮しきった私は事細かに戦いの様子を交換ノートに記したものです。
 しかし三十分くらいした頃でしょうか、タイタンの熱き勝利に筆を躍らせ注目のテレビ欄にびっしりと文字を書き切った私は、ふと、他の欄にまだ何も書いていないことに気が付いたのでした。注目のテレビ欄は、自由記述通信欄の四分の一の大きさもありません。そこにずらずらと文字が書いてあるものですから、他のまだ書いていない部分の余白が、とても大きく見えました。この部分に、タイタンと同じ文量の話を書かなくてはならないことに、私は少し目眩がしてきたのでした。しかも、私のその日の一番のニュースはタイタンの勝利でしたから、他に何か書こうにも、話のネタがありません。
 私はどうしよう、と少し焦りました。机に向かって頭を抱えて、おそらく十分くらい、時計の秒針がカチカチいうのが聞こえるほど静かな部屋で、沈黙していました。次第に話題を探す集中力が切れて来て、机の前でぼうっとしているだけになりました。それから急にはっと我に返って、突然「いや、こんな日記、どうでもいいじゃないか」という気になりました。何だか、机の前で交換日記に書く話題を探している自分が、馬鹿馬鹿しく思えてきたのです。Aの不思議な力の話なんて、どうせ嘘に決まっている、証明してあげる、と彼女は言ったけれども、明日交換日記を彼女に見せたら、「あんなの冗談だよ、本気にしたの?」なんて笑われないとも限らない。あるいは、単にこの交換日記を始める口実に、そんなキャッチーな言い分を考えただけで、特別な力なんてただの出まかせではないのか、とそういう考えに至ったのです。
 私はその考えが根拠もないのに何だか妙に正しい気がして、それ以上、何も書かずに交換日記を閉じました。筆圧の高い私の字はシャーペンの芯の色がかなり濃くページに残っていて、一旦表紙を閉じてからもう一度記入したページを見返すと、所々に黒い煤が移って余白ばかりの隣のページを汚していました。私は一度ため息をついて、交換日記に鍵をかけ、鞄の中にそれを放り投げて、その日出されていた宿題に手をつけ始めました。結局、私は交換ノートを書き終えずに寝てしまいました。
 翌日、私はAに課された交換ノートを持たずに学校に行きました。書きかけのノートを持って行ってAに見せても、Aはきっと文句を垂れるだけであろうし、例の不思議な力の証明にもきっとならないであろうし、何より私はAが昨日言っていたその話を、完全に嘘や出まかせだと決めつけていたのでした。ならばいっそ、交換ノートを家に忘れたことにして、まだ書き終わっていなかった欄を埋めてから、後日ちゃんとした形でAに渡せばいいではないか、とも考えていました。ただ、Aの昨日の態度からすると、交換ノートのことは、必ず聞かれるだろう、とは思っていました。交換ノートを家に置いてきたのは、そのための言い訳だったのです。
 予想していた通り、Aは最初の休み時間に私のところにやってきました。宿題の答え合わせが終わったプリントをそのままにした机で、私は何となく、眠たそうに目を擦っていました。Aはやってくるなり、また予想していた通り、交換ノートの返却を要求したのでした。私は瞼を擦りながら、机の横にかけておいた手提げ袋を引き寄せて、その中から交換日記を探す素振りをして見せました。
「あれ」
 私はAの前でいかにも、そんな馬鹿な、という風に眉根を寄せて手提げ袋を漁りました。Aは私が手提げを引っくり返すのをじっと見ていましたが、ただならぬ緊張を放つ私にやがて、「どうしたの」と尋ねてきました。占めた、という気分で、私は表情をそのままに、Aに訴えました。
「ん、持ってきたはずだったんだけど、交換ノートがないや」
 少し残念そうに、声を落として言いました。Aもこうすれば諦めてくれるだろう、と思っていたのでした。Aは私の顔を、じっと見ています。
「忘れてきたの?」
「そうみたい」
 私は頷いて、Aにごめん、と謝りました。Aは無表情に、そう、と俯きました。残念だったのかな、と思いましたが、私はAがその時落胆する理由が分かりませんでした。私に不思議な力の証明が出来なかったから、というわけでもないし、単純に交換ノートが受け取れなかったから、というわけでもないような気がしました。不可解に思いましたが、いずれにしても私は交換ノートを彼女に差し出すことはできない、今日帰ったら昨日の続きを書かなくてはな、と既に心は下校後のことを考えていました。
「ねえ」
 ですからその時のAの呼びかけに私はワンテンポ遅れてしまいました。変に彼女の声が冷たい感じがして、ドキリとしたのも良く覚えています。私は、何、と一瞬の後に声を出しました。彼女は私の目を見てはおらず、机の上に置かれたプリントの方を見ていました。
「本当は、忘れてきたんじゃなくて、おいてきたんだよね、交換日記」
 私は彼女のその言葉に硬直して、息をすることすらかないませんでした。
「ずっと考えてたんでしょ。宿題をしている間、交換日記が埋まらなかったけど、どうしよう、って。日付と、テレビの欄だけは埋めたんだけど、他の場所がどうしても書けなかった。それで、結局昨日埋められなかったから、持ってくるのを諦めたんだよね。で、忘れたことにしちゃおうって。それで今日帰って書きなおせばいいやって思ってた。違う?」
 図星でした。まさしく彼女の言うとおり、私は交換ノートが書き終わらずに、家に忘れた振りをして、それを置いてきたのでした。彼女の指摘に、暫し何も言い返せずにぽかん、としていました。昨日の、一部だけが黒くて、残りが真っ白なノートが私の頭に浮かびました。私は彼女を見るのを止めて、視線を手元に移しました。机の上にある宿題のプリントには、最後の方にたった一行、「並べられた漢字を使って、文章を書こう」という問題がありました。それ以外は、ただの漢字練習のためのプリントでした。
「これで証明できたかな」
 Aはプリントから顔を上げると、今度は私の方を見ていました。少し意地悪そうな笑みを浮かべて、まあそんなに焦って書かなくてもいいけど、嘘をついたらいけないよね、と言って机にあった私の宿題を、つ、と指でなぞりました。そのとき丁度チャイムが鳴り、私が恥かしさと罪悪感とで何も言い返せないうちに、Aは自分の机に戻ってしまいました。
 どうして分かったのか、など、考えるまでもありませんでした。Aが前日に言っていた、「文章から書いている人の気持ちを読み取ることが出来る」という力は、本物だったのです。Aは宿題のプリントに書いたたった一行の文章から、私が交換ノートを書き切れなかったことも、ノートを家に置いてきたのが嘘だったということも、全て分かってしまったのです。宿題をしながら、次の日Aに何と謝ろうか、とずっと考えていた、私の頭の中を、彼女はいとも簡単に読み取ってしまったのです。そんなことがあるものか、とお思いの方もいるかもしれませんが、私もその日Aに思考を見破られるまでそのように思っていたのですから、実際あなたがAの前で文章を書けば、私の気持ちが分かると思います。
 ともあれ、私はその日からAの不思議な力を認めざるを得なくなりました。まだ半信半疑ではありましたが、Aの力は本物であると仮定しておいた方が無難だと思い、以後私は文章を書くたびに彼女に考えを読みとられることを前提にしておきました。私はそれから交換ノートを彼女と続けていましたが、どんなに言葉を雑に連ねても、Aは私の思っているところをずばりと当てることが出来ました。最初のうちこそ、少し怖いな、と思っていましたが、彼女はそういう思いすらも文章から読みとってしまいますし、何度もノートを書いて彼女に見せるたびに「昨日は、こういうことを考えていたんだね」と彼女に言われることが、私自身次第に気持ち良くなってさえいくのでした。その頃よくお母さんに、建前と本音を使い分けられるようにならなくては駄目よ、と言われていたので、Aの前でその使い分けをしないで済むのは、本当に楽なことだったのです。

***

 Aは、国語の授業と本を読むことが殊更嫌いでした。交換日記をしてはいましたが、私は彼女がそのノートに目を通しているとき以外に、文字を読んでいる姿を見たことがありません。私たちの学校には、登校時間から教室で朝礼が始まるまでの三十分ほどの間、読書タイムが設けられていたのですが、Aはその時間いつも、ハードカバーの本を立てて陰になるところで目をつぶって、居眠りをしていました。国語の時間も同様です。本を読もうとする時間になるとAがいつも机に伏せるので、先生やクラスメイト達は彼女のことを眠れる森のAとか、眠り姫、などと物語の名前を取ったあだ名で呼んでいました。
 ある時私は頑なに本を読もうとしないAを不思議に思って、なぜそんなに読むのを拒むのか、と尋ねました。Aは言いました。
「だって、本に書かれたことを読んでいるのか、作者の気持ちを読んでいるのか、わからなくなるんだもん」
 Aは片手で国語の教科書の背を持って、ばたばたと仰ぎながら、ね、と言いました。A曰く、同じ本を読むにしても、物語文は特にストーリー性が強く、作者の考えと乖離した世界が展開されるのでさらに分かりにくいとのことでした。
「何それ」
「言ってみれば、世界が二重写しになるような感じだよ。物語の登場人物が動くと、誰それはこう考えて、なんて字の文が入るでしょ。それがね、作者が考えていることも一緒に頭の中に流れ込んでくるから、話を読んでいても作者の考えに邪魔されて、登場人物の動きが良く見えないの」
 不思議な力を持っている、Aならではの悩みでした。私にはAのような物語の読み方はやろうと思ってもできませんから、彼女のその話には想像が及ばず、ただ、そうなんだ、と頷くことしかできませんでした。
 私が納得行っていなさそうだと分かってしまったのでしょう、Aは説明を続けました。
「簡単に言うと、カレーを食べながらラーメンの味がわかるか、ってこと。ラーメンって、スープの深みとか、麺との合わせ具合とかを味わいながら食べるものでしょ。けど、カレーをそこに無理やり混ぜたら、どんなにおいしいラーメンだったとしても、カレー独特の匂いが邪魔して、本来のおいしさが味わえない。私の感覚もこれと同じで、小説を読む時って、普通登場人物の動きを想像して読むんだけど、そこに作者の意図っていう強烈なスパイスが加わっちゃうの。だからどんなにスリリングな展開を持って来られたとしても、作者がそれをどういう意図のもとに書いてるのか、っていうのが丸分かりで、全然感情移入できなくなっちゃう。あと、さっき言ったとおり、物語とは別に、作者の意図が声になって聞こえてくるから」
 彼女の言っていることは分からなくもなかったのですが、それを自分ではっきりと表わすのは、何だか煙の中から霞を探すように難しい気がしました。読書をしている最中に雑念が混ざってなかなかページが先に進まないという経験は私にもありましたが、どうやら彼女の感覚というのはそれを酷くしたもののようなのです。
 共有しがたい感覚に終始、頷き返すばかりの私でしたが、おそらく彼女はその適当な返事を見破っていたことでしょう、何度も別の表現を当てながら、自身の難しい感覚についてあれこれと説明をしてくれました。文章を読んでいる時は、小説よりも説明文の方が楽だということ。広告やパンフレット、町中にあふれるキャッチフレーズなどからも、文章にさえなっていれば、作者の意図は読めるということ。そしてそれらが読みとれてしまうと、活字を読むこと、それ自体に興味が失せてしまうのだということ。
 私は読書が大好きでしたので、作者の意図が読み取れる彼女を羨ましく思う面もありましたが、彼女にその意を伝えると、酷く顔をしかめられました。
「読者は、作者の気持ちなんか知らない方がいいよ。作品自体に感動しても、作者が暗い気持ちで書いてることを知ると、その時の感動が台無しになるし。表面上は面白く見せるために笑わせる部分も、作者がすごく苦労しながら作ってるって知ると、何だか笑えなくなっちゃうし」
 団扇代わりにしていた国語の教科書が、はたと動きを止めました。Aがそれをぱらり、とめくって、教科書の丁度真ん中あたりにあるとある話の先頭を開き、題名を読みあげました。
「……『時のプリズム』」
 聞き覚えがあります。それは私たちが受けた国語の授業で最も人気の高かった話でした。授業中は、先生が朗読をしている間、クラスメイト達は熱心に耳を傾けてその話を聞いていました。
Aは、続いて数ページ先にある作品末の部分を開きました。
「この話。最後の一行、『輝きを増した太陽の光を反射するプリズムが、静かに僕の見つめる先を照らしていた』ってあるでしょう。もやもやして先の見えなかった自分の心を照らすみたいな表現で、読み手はこれを見て、きっと主人公の将来は明るいんだろうな、めでたしめでたし、って思うわけ」
これは私のお気に入りの話でもあったので、特にAが指摘した最後の一文は、絶望の中から主人公に一筋の光が見える象徴として、七色に光を反射するプリズムが何とも印象的で、美しいと想像していました。
 授業中の先生が言っていましたが、この作者は将来性のある子供たちに、苦悩しもがき、それでもしっかり自分の道を踏みしめていくことを伝えようとしているのだそうです。私はそれにも感銘を受けてわくわくしていたのでした。おそらく作者は、私たちに輝かしい未来と希望を持つように、こんなカラフルで美しい描写を残してくれたのだと思っていたのでした。
「けど実際は違うの」
 Aは言いました。
「本当は、この作者は病気だったのよ。二十を過ぎた息子が仕事中の事故で足をなくして、親だった作者はその子の介護をしなくてはならなくなった。でも息子は足を失くしたことでとても傷ついてしまって、懸命に介護をする作者に辛く当たり散らすようになった。周りに頼れる人がいなかった作者は、息子とどう接すればいいか分からずに途方に暮れ、息子と距離をおくことも、息子を励ますこともできないまま、ただ悩み、眠ることすらできなくなって、遂には精神を病んで自身の仕事を辞めてしまった」
 働くことが出来なくなった作者はますます気分を曇らせ、貧困と介護の二重苦に喘ぎながら、少しでも希望が欲しいと、この話を書いたのだそうです。言ってみればそれはどん底から見えた世間の眩しさのようなものでした。それを、運良く出版社に勤める知人に拾い上げられ、作品が公開されるといった経緯に至ったのだ、とAは語りました。
「この話にそういった背景が語られていないのはね、作者が自分の素性を嗅ぎまわられるのを良しとしなかったから。世間からとやかく言われることを恐れて、ひたすらに経歴を隠して、表にもほとんど出て来ない。そりゃあまあ、作者がそう思うのも不思議じゃないわ。こんな現実じゃあ、サクセスストーリーにもならないもの」
 Aは何とも言えない表情で、持っていた教科書を閉じて机の中に仕舞いました。哀愁とも憐れみとも退屈とも違う、ただ目の前にある事実を淡々と説明していくような口調でした。事実、作者に共感や同情を寄せる心があったなら、彼女はそんなことを私に話したりしなかったでしょう。心の中に留めて、ただ何となく自分でその作者の経歴を了解して、それで終わりだったはずです。私は今しがた告げられた作者の事実に少なからず衝撃を受けながら、彼女をぼんやりと見つめていました。自分が信じていたものが彼女によって簡単に覆されてしまった――おそらく彼女にそんなつもりはなかったのでしょうが――まるで期待を裏切られたときに近い気持ちでした。ですが私は彼女を慮ればこそ、その事実に対して素直に感想を吐けませんでした。彼女には、彼女にしか見えないその話が、見えていたに違いなかったからです。誰もが知りえない話を知っているAに、私のようなただの人間が反論をしようものなら、それこそ無知無謀も甚だしいと言えるでしょう。ですから私は何も言えず、次の時間の準備をしている彼女の机の隣で突っ立っているだけした。それはまるで、おいしい料理の原材料が見慣れないグロテスクな虫であるのを知ってしまっても、まずいということもできず、おいしいということもできず、ただ静かに苦笑いを浮かべざるを得ないときと同じような、苦く複雑で気持ちの悪い時間でした。
 暫くしてから次の時間の始まりを告げるチャイムが鳴って、私はようやく自分の席に戻る気が起きたのでした。

***

 Aと交換日記のやりとりをする間に、私は文章を書くことに段々抵抗がなくなり、加えて洗練された表現が出来るようになって行きました。Aの不思議な力はテレパシーめいたものではありましたが、私の考えを的確に言い当ててしまう彼女の表現力は、同時に私を感化し、新たな語彙に目覚めさせてくれるものでもありました。私はAと交換日記をする間に、自分の思いをどう言葉で表現すればいいのかを学び、学校で課題にされる作文を書くのが、徐々に楽になって行きました。作文だけではなく、この時から自分でお話を作ってみたいとも思うようになりました。お話と言っても普段思っていることをつらつらと書き連ねるだけの簡単なもので、胸をわくわくさせるような冒険も、あっと驚くような話のどんでん返しも全くありません。それでも私は思うままに文章を綴り、その中で自分が良く出来たなと思うものだけを、時々Aに見てもらうことにしました。Aは元来の読書嫌いから私の話を読むのを最初は嫌がりました。しかし、私がどうしてもと頼むと、彼女はしぶしぶ原稿用紙を手に取り、ゆっくりと、私が読むよりもかなり長い時間をかけて、拙いお話を読んでくれました。
「これは、交換日記の話と一緒だわ」
 太陽が教室の窓からじわじわと熱を運んでくるある夏の暑い日、交換日記と原稿用紙を一緒に手渡しいつものようにAに読んでもらうと、一言そっけない感想が返ってきました。
「やっぱりそう思う? 自分でも、ちょっと影響受けたかな、って思うところはあったんだけど」
「ちょっとどころじゃないわよ。影響受けたも何も、考えていることが交換日記書いている時と全く同じじゃない。あんたどれだけタイタンが好きなのよ」
 私がAに差し出したのは勧善懲悪モノのアクション小説でした。タイトルは『ワイルドワイヤー』。ワイヤーを武器とする主人公が、急速な環境汚染によって発生した突然変異の怪物たちと戦うストーリーです。その週のスペースタイタンを見て似たような話が書きたいと思った私は、思いがけずかなりタイタンに近い話を書いてしまったようでした。交換日記でもタイタン、小説でもタイタン、の私にAはかなり大きなため息をついて言いました。
「少しは別のものを書いてみたらどうなの。アクションから離れて家族ものとか、恋愛ものとか。××ちゃんの場合、全く別のものじゃないと、読んでて頭の中にタイタンばっかり出て来ちゃって、つまらないわ」
 酷い言われようでしたが、Aがそういうのも無理はありません。おそらくAは私の文章を読むたびに、頭の中でタイタンの戦い、タイタンの考え、タイタンの台詞を何度も反復していたはずなのです。とはいえタイタンで頭がいっぱいの私に彼女の望むような話が書けるとは到底思えませんでした。無理、と即答すると、Aは、そこはせめて努力するとか言おうよ、と反論するのでした。
「そんなこと言ったって、あんまり書く気が起きないもの。それに、Aが満足してくれるような話って、多分プロの小説家でも書けそうにないよ。」
「それは書いてみないと分からないよ。案外、身近にいる××ちゃんが書いてる小説の方が、どこの誰とも分からない遠いプロが書いてる作品より、面白いかもしれない」
 何を持ってそんなことを思ったのかわかりませんでしたが、Aは妙に胸を張って言いました。それじゃあ今の小説のままでも十分なのではないか、と思ったりもしましたが、Aは私の描く作品については、もっと枠にとらわれない小説が読んでみたいのだと言います。読書が嫌いなAからそんな言葉が出てくるなんて思ってもみなかったので、これはそれなりに評価されていると考えていいのかな、と苦い薬を飲まされた後に甘い飴を与えられるような誇らしさを味わいましたが、そうしてAから与えられる課題に答えようとするのは、なかなか難しいことかもしれない、とも思いました。日々あったことを書き連ねるのは交換日記で十分でしたし、何より私には、経験が乏しいのです。恋愛ものを書くにしても、家族ものを書くにしても、私の日常は山もなく谷もない平凡な更地のようなものでしたから、書いてみたい話と言うのが全くと言っていいほど思いつきません。
「じゃあさ、毎日一つお題を出すから、それについて書いてきてよ。一つで足りないなら、三つでも五つでも、××ちゃんの書きやすい数でいい。それで書く練習をしてみてよ」
 困り果てていた私にAが助け船を出してくれました。それでも少々自信がありませんでしたが、何もないよりはましか、と考え、じゃあそうしよう、とAに返事をしました。気前の良さそうな笑顔でよしよし、と頷くと、Aは早速、じゃあ今日のお題は、と考え始めるのでした。
 今から思えば、この頃から私が小説を書く立場、Aがそれを読む立場であったことには、何かしら意味があったのではないかと思わざるを得ません。私が書く立場であり、彼女がそれを見る立場でなければ、おそらくあのような出来事は起きなかったに違いないのです。

***

 日々与えられるお題の内容は、その日のAの気分によって異なりましたが、どれもこれといった共通点がなく、作品内で登場させ、結びつけるのが難しいものばかりでした。ある日は、ファイル、髪の毛、電源コード。またある日はトンボ、サンバ、時計の秒針、ボールペン、留守番電話。壇ノ浦の戦い、キーボード、海。テニスコート、チュニック、桃。シャンプー、学校の怪談、黄砂、空飛ぶさんま、なんてときもありました。これらのお題に、一日で必ず起承転結をつけて小説を書き、Aに提出し続けられたのはまさに若き発想力の賜物であると言えるでしょう。今の私にそんな芸当ができるかどうかはわかりません。少し練習してあの時の感覚を思い出せば出来ないこともないかもしれませんが、今はもう、それをしたところで自分に意味があるとは思えないので、そうして楽しく物語に頭を悩ませていた頃と比較すると、自分も落ちぶれたなあ、などと自嘲して見せるのです。
 Aとの交換日記は、お題小説が始まってからもずっと続けていました。ほぼ毎日書いていたので一冊終わりまで行き、新しいノートを買い直しました。事実上、私は交換日記とお題小説の両方、加えてもちろん学校の宿題も毎日こなさなくてはならず、学校から帰ると一日中机に向かっている子どもになりました。毎日、明日こそAを驚かせてやろう、明日こそAが楽しんでくれるような話を書こう、とそればかり考えて鉛筆を動かしていました。手を動かしていたため漢字は必然的に書けるようになり、漢字テストでは毎回ほぼ満点、母には「××ちゃんはよく勉強する子だねえ」などと褒められましたが、それは目的のための手段にすぎません。そんなことより、私に課題を与え、私の話を唯一読んでくれている読者に如何に面白い、如何に楽しい、如何に美しい物語を届けるかのほうが、よほど重要だったのです。
 そうしてAと交換日記とお題小説を続けているうちに、私たちは高校生になりました。私とAはもちろん同じ高校に入学し、そこでも相変わらず交換日記とお題小説を続けていました。しかし、どういうわけか入学後しばらくして、妙な事件が起きたのです。
 私はいつものようにお題小説を書いていました。その時のテーマは「豚」「自由帳」「ガラスの小瓶」で、養豚業を営む老夫妻が子供の自由帳に描いてあった瓶のデッサンを見て、自分たちの出会いもガラスの小瓶から始まったのよね、と呟く所から回想に入ります。中学の頃に同級生だった二人は特に接点と言う接点もありませんでしたが、夫があるとき妻に一目ぼれしてしまい、何とか彼女と話が出来ないかと考えます。夫は何の関わりもない人が直接話し合おうとしても怪しまれるだろうと考え、手紙を書いて汚れないように小瓶に詰め、妻の下駄箱に置いてみることにしました。妻は最初その手紙を訝しがりますが、顔を知らない相手から手紙が来た割にちゃんと差出人の名前が明記されているし、いたずらだったらこの人に返事をすればわかることだと考え、丁度家族の営んでいた養豚場の豚たちの調子を書いて送ることにしました。最初の手紙には住所が書かれていなかったので、妻は送られた時と同じようにして手紙を小瓶に詰めて夫の下駄箱に入れておくことにしました。夫は下駄箱で小瓶に入った妻からの返事を見て内心喜びましたが、手紙を彼女が他の者に見せて返事を作ったことも否めないため、内容を見るまではうかつなことを考えないようにつとめました。自宅に帰って開けてみるとその内容がほとんど豚の話ばかりで少し残念に思いましたが、噂伝いに彼女の家が確かに養豚場を営んでいることを知っていたので、これだけ豚のことが書けるのは彼女以外にあり得ないと思い、暫く文通を続けた後に妻に告白することに決める、という話でした。
 私はこの話を最初いつものように調子よく書いていたのですが、その日何度目かの手詰まりを感じた時、反省のために再読してみると、ふとこの養豚場の夫婦が、小説の内容とは全く関係ない何事かについて語り合っている光景が浮かんできたのです。それは本当に他愛のない会話で、例えば、食器棚の上に置いておいたあの子のマフラーはどこに行ったのか、とか、冷蔵庫にまだジャムはあったか、といった日常的な話でした。私はそのとき初めて、自分の構想と全く異なる不必要な光景がはっきりと目に見える体験をしました。ですが、それを物語の中に入れては分量が多くなりすぎますし、Aとのお題小説は手短に終わらせることが望まれていましたから、私はその光景を一端忘れて、また作った話を最初から読みなおし、考えていた通りの道筋で話を書いて行こうと思いました。
 しかし、どういうわけか何度読み返してみても当初想定していた構想が、その老夫婦のどうでもいい会話に流されて思い出すことができません。お題小説はAから題材を聞いてから頭の中で物語を組み立てていたので、構想のメモなどもなく、一度忘れてしまうと描いていた筋書き通りに書くことができないのです。
 私は三十分以上ノートを見つめて微動だにしないまま、結局思い出せなくなったその老夫婦の話を、当初の筋書きとは違う形で完結させることにしました。そこには読んでいる間ずっと頭の中で浮かんでいた、老夫婦のどうでもいい会話をまさに流れてきた順番に適当に書きました。今日の豚たちはとても腹を空かせていたね。家を離れた子供は一体今何をしているだろうか。きっと一生懸命絵の練習をしていますよ。あいつはそろそろ卒業のはずだけど、無事に食っていける道を探せるのだろうか。しっかりしてるから大丈夫でしょう。そうかなあ。そうですよ、子供のことを親が信頼せずに誰が信じてくれるというのですか。そういうもんなのかなあ。そういうものですよ、あなたは父親だからわからないかもしれませんが、私は実際にお腹を痛めてあの子を産んだんですから、信じてあげない方がかわいそうでしょう。
 駄目だ、これ以上は書けない、と思いました。完結とは言い難い場面で、会話が途切れてしまうのです。思えば再読を進めるときに会話が流れてくるとは言え、その間はずっと自分の小説を読み続けていなくてはならないのです。手を止めた場面で小説を読み終えてしまえばそれ以降、老夫婦の会話が流れてくることはありません。例え会話を書き続けて行ったとしても、やはり何か物足りない感じがずっと拭いきれないのです。完全に八方ふさがりでした。
 次の日、私は書き終えることができなかったその話を持って、Aと学校で対面しました。Aは書きあがらなかったその小説を読みながら平素どおり作者の考えを見ているようでした。しかし、いつもならば無表情に私の思考を読みとりながら垂れた目を動かしているAが、この日はやけに険しい表情で眉間に皺をよせながらノートに目を通していました。やはり完結させるまでに意味のない会話を私が見ていたことが、彼女にも伝わっているのでしょうか。話を読み終えるとAはノートを閉じ、一呼吸おいてから机の前で言葉を待っている私を見上げました。
「××ちゃん、これ、書いてる時に途中で筋書き変えたんだね」
「うん、読んでてわかったでしょ。凄く気持ち悪くなっちゃってさ」
「気持ち悪く……?」
 Aは眉間に寄せていた皺を更に深くして尋ね返しました。私はあれ、と思い、その時点でいつも自信に満ちた様子で私の考えていることを言い当てているAとは異なる何かを感じました。
「ほら、見えなかった? この話書いてる時にね……そう、ここまで書いて、ここから先はこの老夫婦のさ、意味のない会話が聞こえてきたんだよ。それで、考えてた内容、全部忘れちゃって」
 何を隠す必要があろうというように、昨日の出来事をありのまま話しました。その時はまるで車酔いをしているときのように右から左から様々な気持ち悪さに襲われたのでとても印象に残っています。話を書きすすめられずにずっと深い穴の底に落ちていくような、合わせ鏡を見ていてその中に引きこまれてしまうような感覚を、書いている間ずっと感じていたのです。
 しかしAはますます神妙な顔をするばかりで私の言うことをそのまま受け流しているだけでした。話し終えて暫く黙っていると持ってきた交換日記を鞄の中に仕舞い、お題小説のノートを私に返してきました。
「見えなかったよ、それ」
「え……」
「私が見たのは、××ちゃんが唸りながら、この小説の筋書きを途中で変えた所だけ。しかもかなりぼやけた感じでしか見えない。だから原因が分からなくてむずむずした」
どうやらAがしかめっ面をしていたのは普段書いている時に当初の筋書きを殆ど変えない私が、突然路線変更をした理由がわからなかったからのようです。
「それって、どういうこと? Aでも文章から読めないことがあるの?」
「さあ? こんなことは初めてだし。わけがわからないね」
 訳が分からないのはこっちの方でした。Aはこれまで文章を書いている間の私の考えを全て読みとっていたはずなのに、今回は違ったというのです。一体どういうことでしょうか。
 Aの見えなかった老夫婦の会話に私は頭を悩ませましたが、そんなことはひとまず置いておこうとばかりにAは新しくその日の分の題材を言い渡しました。「ポンカン」「液体糊」「講演」。学校から帰って机に向かい、早速小説を書き始めようとしましたが、書きだす前にふと昨日の出来事が頭をよぎり、今日は主たる登場人物を出さずに、モノだけで書いてみようという制約をつけました。主要人物がいなければ、無駄話が当初の作品のイメージを塗り潰してしまうなんてことは、あり得ないはずだと考えたのです。
 しかし、物語中盤くらいまできた時に、今度は作中に登場させていたポンカンが作られるまでの映像が頭の中で突然再生され始めました。それまでは柑橘系の食べ物であるポンカンの中から異常発生したでんぷん質が見つかったたことが一大事となり、このでんぷんは何かに応用され得るのか、人体に影響はないのか、活用していくならばどの方向性でいくべきか、でんぷんならば糊の原材料としては使えないだろうか、という内容で研究者が各地で講演を開いていた、という話を書いていたのに、それとは何の脈絡もなく、だだっ広いポンカン畑で作業員が殺虫剤を撒き、燦々と輝く太陽の元で一つ一つの実を緩やかに撫でている様子が浮かんでくるのです。これには私もまた手を止めざるを得ず、それまで書いていた話を読み返して始め着地させるはずだった場所を探そうとしましたが、やはり何度見ても、途中から畑の映像が浮かんできてしまい、結末を思い描くことができません。
 仕方なしに昨日と同じく途中で路線変更して結末をポンカン畑の映像を流す場面へと落としこみましたが、翌日Aの所に持って行ったその小説も、やはりAから見れば途中で結末を変えただけで、ポンカン畑で働いている人の光景は見えなかったというのです。これまでAの能力を数年間目の当たりにしていた私からすれば、この話はかなり不可解で、一時は、Aが嘘をついているんじゃないかとも考えたのですが、そんなことをして何か得があるとも思えませんでしたし、逆に長い間続けていた私たちの関係を悪くするだけではないか、とも思えました。
 その後続けたお題小説では前二日と同じことが立て続けに起こりました。大統領がテレビに出る話を書けば徹夜越しで原稿に明け暮れる新聞記者の姿が見えてきましたし、夫婦で洗濯物を畳んでいる話を書けば使われた洗濯機の内側の羽構造がどのようにして開発されたのかということが頭を巡りました。もちろんそれらも当初の構成が思い出せなくなるほどに強く私の考えを引っ張り続けて結末を書き変えて、その度にAに、また途中で変えたのね、と言われるようになりました。今度は結末を書き変えずに書こう、と思っても必ず書いている途中で雑念が頭を過ぎって最初の考えを全て消してしまいます。砂浜に描いた落書きが、波にさらわれて台無しになって行くように、私の構想も書いては消えて、消えたものを修復しようとしても元に戻らないという状態に直面していたのでした。
 もう何度目になるか分からない、構想が消えながらの執筆を繰り返したころ、Aは私にお題小説の中止を言い渡しました。結末がひっくり返る小説を私が書き始めてから、いつか言われるであろうと予想していたことでした。一応、「なんで」と理由を求めるとAは答えてくれました。
「だって、つまらなくなっちゃったんだもん。××ちゃんの小説」
 何年もかけて続けてきた結果がこれか、と当たり前ですがショックを受けました。ですが私はそう言われること自体にあまり抵抗はありませんでした。私自身、これ以上Aに結末だけが変わり続ける小説を読ませることに苦心していましたし、Aはあるときから感想に同じことしか言わなくなったので、きっとつまらなくなったんだろうな、と予想していたのです。元々、気まぐれで始めたことがここまで長く続いただけでも十分だ、まだ続けている交換日記の方に集中しよう、勉強も難しくなり始めていることだし、お題小説を書いていた時間は勉強に当てることにするのが丁度いい、と半分あきらめかけたように勉強に集中することにしました。
 とはいえ長年染み付いた習慣とは恐ろしいもので、私はAとのお題小説を打ち切られた後も泉のように湧きでるアイデアを前に書き物を続けざるを得ませんでした。勉強をするんだと意気込んだはいいものの、目的のない暗記や計算と言うのはいかんせんやる気に支障を来たしてしまうためでしょう、机に向かってもすぐに飽きてしまい、代わりに参考書に向かっている傍らで話を考え続ける思考が回り続けているのです。考える頭があるとそれを書きたくなってしまい、結局いくつかプロットをメモしてあとで書き起こすことが止められませんでした。誰に見せるわけでもない小説でしたが、「この知識をいつかネタに使ってやろう」という思いから不思議と勉強にも意味を見出すことが出来、あらゆる科目において意欲的に取り組むことができたのです。もちろんAとの交換日記も続けていました。直接的に聞かれこそしませんでしたが、おそらくAはお題小説が終わっても私が書き続けていることを、日記の文面から読みとっていたに違いありません。交換日記を書きながら、たまに手を止めて習慣となってしまった小説のネタのことを考えたこともありましたから、Aを置いた一人の耽溺を隠し通せていたはずがないのです。とにかく、書き物は中毒的に私の思考を蝕み、時間を奪い、Aと私との細く長い繋がりを作っていたはずなのです。
 そしてこの頃からでしょうか、Aが何かにつけて目をこすりながら、「見えない」と言い始めたのは。移動教室の時や体育の着替えの時など、ぼんやりと虚空を見つめながら呆けているAの姿を、私は遠くからしばしば目の当たりにしました。あ、Aだ、と思って暫くそれを眺めていると、彼女はぼそっと一言、「見えない」と口にしていたのです。それを見る度、私は結末が書き変えられ続けた小説を最初に手渡した時、「見えなかったよ」と告げる彼女の眉間に皺を寄せた顔を思い出しました。そのために、何となく声をかけるのが憚られて、そのまま見なかったことにして脇を通り過ぎるのでした。

***

 お題小説が終わってから交換日記のやりとりのみでしか言葉を交わさなかった私たちですが、高校三年の春に一度だけ、Aに買い物に付き合ってほしいと頼まれたことがありました。私は相変わらず小説を書きながら勉強を続けていた上、誘われた当日が雨の日だったので外に出る気になれず、親と行けば、とか、他の友達でもいいんじゃない、とか適当なことを言って断ろうとしたのですが、そのとき初めてAと買い物に行ったことはなかったなと気付き、では行ってみるかと重い腰をあげました。
 雨の降る中を、待ち合わせ場所の公園にAは長らく見たことなかったカーティガンを着てやってきました。高校に入って以来、ずっと制服を着ていたので、Aと休日に外で買い物にいくというシチュエーションがあまり想像できなかったのですが、その日のAの買いたいものは眼鏡だったので、そのカーティガンは普段つける眼鏡に合わせようとして持ってきたものなのだそうです。
「本当言うといつも着るものなら制服に合わせた方がいいんだけど、休日まで学校の服じゃ息が詰まるからね。今日はこれに合わせることにした」
 羽織ってきたカーティガンを指さしてAは言いました。私たちは公園を出て、眼鏡屋へと歩き出しました。
「それにしても、A、そんなに目悪かったっけ」
 受験勉強という大きなハードルがありましたが、私の知る限り、Aはあまり勉強をしているようには見えませんでした。中学の時同様、国語の授業中はずっと寝ていましたし、他の科目で良い点数を取っているという話を聞いたことがありません。本人よりも親が焦りを感じ始めているのか、最近では塾に通い始めているようでしたが、交換日記に書いてくることは大体塾の講師の愚痴ばかりでした。なのでてっきり、目が悪くなる要因は勉強ではないと思っていたのです。しかし、Aは頷いていました。
「うん、結構前から少しずつ見えなくなっていった感じ。もう三列目より後ろだと黒板の字、見えないよ」
「そうなんだ。何か、意外」
「じゃなきゃ一緒に眼鏡買いに行こうなんて言わないよ。この間の健康診断の視力検査でも、結構見えなくってさ。眼科で検査してもらったら、今0.3くらいしかないらしい」
「ええ、そんなに!」
 私はもう0.1が見えないくらいの近視でしたが、それは私が読書と勉強ばかりしているからだと思っていたので、終始走り回っているAがそれだけ視力を落としていることに驚きました。Aの目が悪くなる原因など、私には何も心当たりがないのです。それとも人は年を取ると無条件に視力が衰えるものなのでしょうか。
 他愛のない話をしている間に眼鏡屋に着きました。眼鏡をかけた人あたりの良さそうな店員が、いらっしゃいませ、と笑顔で私たちを迎えてくれました。Aがその店員に、眼鏡を作りたいんですが、と話かけ、受付で眼鏡のレンズを選ぶように指示されました。
 Aがレンズを選んでいる間に、私は店内のフレームを見て回ることにしました。丸型、角型、縁なし型など様々な形のフレームが、電灯の淡い光を浴びて極彩色に輝いています。日用品にも関わらず千差万別な特徴を宿す姿はまるで宝石のようで、華やかでありながらも、どこか触れるのも躊躇われるような静謐さを持っているように見えました。これらを全部持ち帰ってディスプレイケースの中に並べ、今と同じようにオレンジの照明の下で飾っておいたらどれほど美しいことでしょうか。似たようなことを、昔お菓子売り場にいるときにも感じたことがありました。色とりどりのパッケージが丁寧に色彩ごとに棚に並べられ、小分けされた袋は先頭にあるお菓子の後ろにきちんと敷き詰められているのです。棚から離れて一望すれば、照明は通路を照らしている光だけなのに、見事にそれを反射して、大都会百万の夜景よりも美しく輝くのです。
並べておくことそれ自体に価値があるような、周りと一体になってこそそのうちの一つが美しく見えるような感覚は、見る人にどことなく、その中の一つを選ぶのを躊躇わせるような声で語りかけているようだ、と私には感じられました。整然と並ぶ集合の中の一つであることにこそ意味があり、選んでそこから切り離されてしまうと、途端に魅力が消えてしまう。百万の夜景よりも美しかったお菓子は、家に帰って包みを開けるとただの食品になってしまったのが、昔の私にはとても残念でした。あまりにがっかりしたため、せっかく買ったお菓子を食べずにそのまま腐らせてしまったことさえあります。
Aが受付から立ち上がり、商品を見ていた私の方へとやってきました。店員にフレームを見るように勧められたようで、並べられた眼鏡を一瞥し、手に取り、鏡の前でかけたり、フレームの硬さを確かめるように少したわませたりしています。私はAに近寄りました。
「レンズ、決まった?」
「うん。長く使いそうだから、一番丈夫なやつにした」
 ガラスだけなのにやたら高かったよ、予算足りるかな、とフレームを見たまま言いました。迷っているらしいAの傍らで、宝石のように光るフレームを、私も一緒に眺めました。
「デザインとかは? 何色がいいとか決めてるの?」
「んー、それがまだ。初めての眼鏡だからあんまり目立たないのがいいかな、とも思ってるんだけど、ちょっと大穴狙ってかわいいのもありかなと思ってる」
 まあ、お金次第だね、とAは持っていた黒縁眼鏡の値札をかなり顔を近づけて見ました。一瞬大きく目を見開いてから、フレームを畳み、その眼鏡を元あった場所に戻しました。
「これはない。金額的に、ない」
 見ると確かにかなり高額でした。私の持っている眼鏡の約1.5倍の値段です。どうやらどこかのブランドもののようでした。Aはまた、フレームが半分だけの別の眼鏡を手に取りました。
「下縁なしは、結構壊れやすそうだけど、どうなんだろう」
「動きやすいって話もあるよね」
「はは。私もうそんなに運動しないんだけど」
「あれ? バスケ部じゃなかったっけ」
「もう引退じゃん。高3年の春だし。これからは受験、受験、受験、ってネコも杓子も勉強だしさあ、つまんないよねえ」
 てか交換日記に書かなかったっけ、とAはまたフレームを持ったまま言いました。Aがバスケ部に所属していたことは一年生の頃に日記で読んだような気がしましたが、引退の話は聞いていませんでした。私は部活に入っていなかったので、部の引退時期がこのタイミングだった、というのも知らなかったのでした。
「いや、日記には書いてなかったな。そっか。今までお疲れ様。というか、0.3の視力でバスケしてたのね」
 私もAの持っている眼鏡の隣にあったものを手に取って持ち上げました。つるの部分を伸ばして少し力を入れると、金属製の眼鏡よりも弱い力で大きな角度に撓みました。
「出来ないこともなかったよ。メンバーはゼッケン着てるからわかるし、別に小さい文字を読む機会もなかったしね」
 Aは持っていた眼鏡を掛けて鏡を覗きこみました。顔を近づけて、自分の写り具合を確かめています。
「××ちゃんは、部活とかしてなかったけど、今までずっと勉強?」
 振り返りざまに眼鏡を外してそっと畳み、元あった場所に戻しました。
「いや、勉強もそこそこしてたけど、小説書いてた」
「まだ書いてたの」
「何かさ、書かないと逆に集中できなくなっちゃって。やっぱりネタは吐き出す場所が必要なんだよ」
 私も持っていた眼鏡を置いて、Aに向き直りました。
「でもお題小説の時はどうでもいい会話が邪魔して先が書けなくなったって言ってたよね。今はどうなの」
 そういえばそんなこともあった、と二年前お題小説を終わらせたときの遠い記憶が蘇りました。あれから暫くして、自ずとネタの吐き出しのために小説を書かねばと思った時、先に構成をメモしてから書き始めると、不思議とお題小説を書いていた時のように、考えていた構成が妙な会話に邪魔されることはなくなりました。何故なのかはわかりません。ただ、その後小説を書き始めてからは勉強、読書、執筆のトリプルパンチを食らったせいか、急激に目が悪くなって、こことは違う眼鏡屋で自分の眼鏡を作りました。
「へえ、じゃあ今は元通り普通に書けるようになったんだ」
「うん。ネタを思いついたら、筋書きを先に書いて、書き始めてる。そうすると、途中で何か思いついても忘れないから」
 私はそのことを交換日記には書いていませんでした。それらは誰にも見せないものと自分で決めていましたし、Aはもう私の小説をつまらないものと決め付けて、読んでくれないと思っていたからです。特に隠しているわけでもありませんでしたが、自分から進んで伝えたいと思うようなことでもありませんでした。それにAには例の作者の考えを文面から読みとる力があります。わざわざ日記の内容として書かなくても、文面から私の思考を読みとれるのだろうと思っていたのです。
 Aは何個目かになる眼鏡を新しく手にとって私が先ほどしたように縁を弛ませて強度を計りました。眼鏡をかけて鏡を覗き、暫くして、ああ、これは可愛いかも、と頷きました。
「どう? こんなの」
 振り返ったAはオレンジの半縁眼鏡をかけていました。顔の周りがすっきり見えて色も肌になじみ、明るい印象でした。
「いいね、カーティガンにも合ってるよ。顔色がよく見える」
「ん、××ちゃんがそういうなら、これにしよう。フレーム、上半分しかないけど」
「まあ、その代わり軽くていいといえば、そうだよ。こういうのは、硬さの代わりに柔らかくして衝撃を吸収してるらしいし」
「なるほど、確かに言われてみれば他のよりちょっと軽いような」
 左右の人差し指と親指で眼鏡を摘んで、上下させながら重さを確かめています。納得したように二、三頷くと、Aは値段を見て受付の方へと向かい、会計を済ませて戻ってきました。
「はい、お待たせ。届くのは三日後だって」
 一たび決めるとあっさりと会計を終わらせてきたAにやや拍子抜けしながらも、じゃあ、帰ろうかと眼鏡屋を後にしました。外では相変わらず雨が降っていて、駐車場のアスファルトの窪みに小さな水たまりが出来ています。店先に置いてあった傘立てから自分の傘を取り、静かに二人で歩きだしました。
「じゃあさ、今度何か書いたら、また読ませてよ」
 降りしきる雨の中を小さな声で突然言われたので一瞬何のことか分からず、少し間が空いてしまいました。が、すぐに先ほどの小説の話だとわかりました。
「珍しいね、私の小説読みたがるなんて。最近は読書嫌い直ったの?」
「まあね、直ったというか、私はやっぱり××ちゃんの小説じゃないと読めないんだなあって思って。二年前だっけ、お題小説終わらせてからさ、私、結局あれ読むの好きだったんだって気付いて。今は多少、本読むのにも慣れたかなあ」
 数年経つと人も変わるということでしょうか。それとも受験勉強のために通い始めたという塾で、必然的にものを読む機会が増えてきたためでしょうか。あれほど読書嫌いだったAが私の小説を読みたがるなどということは、全く想定の範囲外でした。あまりに驚いたのでその場で手を滑らせ、持っていた傘を落としそうになってしまいました。ですが、Aは確かに、私の小説をまた読みたいと言ってくれたのです。それは長い間書き続けてきた私にとって、どれほど幸福な言葉だったでしょうか。
「本当に? じゃあまた、私の小説、読んでくれるの?」
 勢い込んでAに詰め寄ると、もちろん、と元気のいい頷きが返ってきました。
「××ちゃんが今までに書いてたって奴ももちろん読むから。あとで学校に持ってきて渡してよ。それが読み終わったら、今度は新しく書いたのも読んでいくからね。だから手を休めずに、新作も書き続けてね」
お題小説が終わってからネタの消化のためだけに作られ続けた読者不在の小説たちが、一斉に「やったあ」と声をあげて喜ぶのが聞こえてきました。もう私の中では溢れんばかりのアイデアの洪水が押し寄せるようで、先ほどAと行ってきた眼鏡屋でも、フレームを見ている時に感じた宝石の輝きも、今日の雨の天気でさえも、全部小説のネタとして使えそうな気がしてきました。
「わかった、わかったよ。私、書く。受験勉強中だけど、時間の許す限り、どんどん書くし、どんなジャンルでも書くよ。Aに見てもらうために、とことん面白くする。難しい語彙も勉強する。何だったら、小説をベースにして、漫画だって、朗読CDだって作ってもいい。今までの話が気に入らないっていうなら、違う結末の書き換えをしてもいいし、同じプロットで表現を変えて書いてみるのもいい。何でもする」
「いやいや、そこまでしなくても」
「とにかく頑張るよ、また読んでくれるって言うなら」
 降っている雨が私の周りだけ蒸発してしまうのではないかと思うほどの熱気で、Aに必死で作者としての気持ちを伝えました。Aは、もう、大げさなんだから、と言ってくすくす笑っていましたが、たった一人の読者を失っていた作者がまたそれを取り戻すのがどれだけ嬉しいことか、これは書いている側の人間にしか分からない気持ちだと思います。何万字にも表現しがたいこの感動を、Aに伝えるためには態度と口調で示すしかないのです。
 私とAはそのまま歩いて待ち合わせていた公園で別れました。じゃあね、とブランコの前で手を振ると、待ち合わせからここまで来るのにずっと降り続けていた雨が止んでいることに気付きました。
帰り際、今度はAのために、長編小説にでも挑戦してみようか、と思いました。丁度、あの眼鏡屋で体験した、複数の中から一つ選ぶのが躊躇われる感覚を、お菓子売り場のノスタルジーに絡めて、懐かしいけれども大人になっても通じる、温かいヒューマンドラマを紡ごう。枚数はどのくらいになるか分からないけれど、今まで作ったことのないような複雑な構成と、書きたい限りの描写を思いつくだけ詰め込んで、子供が大きなおもちゃ箱を覗きこむときのような胸躍る気持ちを、Aに届けよう。そうだ、今までの小説を学校でAに渡すのも、忘れないようにしないと。こんなに嬉しいのは久しぶりだ――私は畳んだ傘の雫を振り払い、スキップして自宅に戻りました。飛び越えた水たまりが、日の光を浴びてきらきらと輝いているように見えました。

 ああ、もしこれを読んでいる方がいるのであれば、もうそろそろお気づきではないでしょうか。私はこの時、Aが自分の小説を再び読んでくれることに浮足立ってしまっていましたが、本当ならばどこかがおかしいと気付くべきだったのです。どうしてあれほど読書嫌いだったAが突然私の小説を読みたいなどと言い出したのか。なぜAは、読書嫌いから抜け出すことができたのか。例えこれに気付くことが出来ても、後に知ることになる真実に近づくには難しかったかも知れません。しかし、少し考えてみれば分かるはずだったのです。そしてもし、その時その、とても些細だけれども重大だったことに気付ければ、あんな取り返しのつかない事態は避けられたかもしれないのです。

***

 Aが私の小説を読みたいと言い出し、再びお題小説をしていたときのように書いたものをAに届ける日々が始まってから、Aの読書量は飛躍的に上がっていたようでした。それというのもこれまで書いてきた読者不在の小説は特に時間制限も制約も設けず気の赴くままに書いたものでしたから、枚数もお題小説の時とは比較にならないくらいあったのです。最初の小説だけでも原稿用紙換算で七十枚はあったでしょうか。そこから段々と量が増えていって、一番新しいものは既にその倍近くの量になっていました。おかげでAは国語の問題を読むのがとても速くなったと喜んでいて、そんなところにも自分の書いたものが影響していくことに、私は少なからず驚きました。
 秋風が肌を冷たく撫ぜるようになり、志望校が大体固まってきた頃、私は休日に頻繁に模試を受けるようになりました。思うように執筆時間が取れなくなりましたが、例の長編小説の構想を練りながら、思いついた話を書くことは相変わらずしていましたし、それをAに見せるのも続けていました。あるときAに交換日記を届けに行った際に、読み終わったという書き溜めた小説の感想を聞くことができました。
「これはまた、何だか野蛮な話だね」
 第一声で手厳しい意見でした。結末が暗い話だったので、そう思うのも無理はないかな、と予想してはいましたが。
「うん、ちょっとやりすぎたかな?」
 小首を傾げて問うとAは、やりすぎってほどでもないけど、と言葉を足しました。
「何だろう。読んでも何が言いたいのかさっぱり伝わってこない」
「はは。ずいぶんばっさり言ってくれるなー」
「話の筋としてはわかるんだけど、何がウリなのか見えてこないんだよなあ。ストーリーが今までと大体同じで、ちょっとワンパターンだし、純文学みたいな不思議さとか言葉の面白さで魅せるにはぶっ飛び方が足りないし、全体的に中途半端だよ。今まで読んだ中ではお題小説後半といい勝負」
「おお、そこまで行っちゃうんだ。割とまともに考えて構成しただけにちょっと残念」
 小説に対して褒められることはあまりありませんでしたが、ここまで手厳しく言われたのは初めてだったので内心では相当に傷つきながら苦笑いを浮かべました。が、Aはなおも食い下がりました。
「これ結局何が書きたかったの? 主人公の死? 周りの登場人物たちのドロドロ?」
「どっちもというか、最初にやりたかったのは周りの登場人物のカオスな関係かな。そこから主人公を作り上げていったら、最後はこいつ殺しておかないと何も役に立たないなって思っちゃって」
「それなら主人公を周りの人物を奮い立たせるような性格の人物造形しておいた方がよかった気がする。やっぱ主役は回りと違って抜きんでる何かがないと、物語を見ている方としては面白くない。××ちゃんが主題に何を持って来たいのかはがっつり書けばいいと思うし、否定もしないけど全体的なまとまりを考えると主役は主役として立てる形にしておいた方がいいよ」
「なるほど、ありがとう。じゃあ今度はそれを意識してみる」
 Aに手渡された原稿を受け取り、鞄の中に仕舞いました。酷評を受けながらも次回へのアドバイスを受けられたような気になりましたが、Aは私のことなど特に気にした様子もなく、眼鏡を取ってハンカチでレンズを拭き始めました。ぼんやりと焦点の合わない目に手元を近づけて、熱心に指を動かしています。眼鏡の汚れが気になるでしょうか。口でレンズに息をはあと吹きかけて、眼鏡ケース付属の柔らかい布越しに指を滑らせています。それにしても拭き過ぎな気もしました。
「そんなに拭かなくても大丈夫だよ」
「ん」
 私は笑って言いましたがAは水晶玉を磨くような手つきで丁寧に拭き続けています。
「何かね、最近、またいろいろなものが見えなくなってきてて」
 言いながら、レンズに息をはあ、とかけてまた布越しにこすりました。
「よく拭いてるんだけど」
「それ、眼鏡のせいじゃなくて、視力が落ちたんじゃない? 勉強してるんだし。最近私も度が上がったよ」
 さすがのAでもそんなことに気付かないことはないだろうと思いましたが、気の抜けた返事がくるばかりでした。
「まあ、もちろんそれもあるんだろうけど、他にも」
「他って?」
 眼鏡を拭いていた手を止めて、ハンカチをポケットに仕舞いました。かけなおすと遠くを見るように目を細め、少し息を吐き、思い切ったように口を真一文字に結んでいます。何となく、訊いてはいけないことを訊いてしまったような気分になりました。しかし今更、引き返す道はありません。
「前にさ、私には作者の考えが読める、って話をしたじゃない」
「うん」
「あれね、実はもう、見えないんだ」
「……」
「いや、見えないと言うと少し嘘になるかな。ほとんど見えない。だからさっきの小説も、何が言いたかったのかわからなかった。もう、前みたいに世界が二重写しになるような感覚はなくて、今はただ文字通りの物語しか見えないんだよ」
 どういうことでしょうか。淡々と言ってのけるAに対して、混乱しているのは私の方でした。確かにAは自分の能力のことを、邪魔だとしか思っていなかったかもしれません。本を読むときには必要ない能力なのだと言って、ずっと前に、読者は作者の気持ちなど、知らなくてもいいのだと話していました。ですが私からすればAの不思議な力は今の私を作るきっかけとなったものであり、これまで私を支えてくれていたありがたい力でした。あの能力がなければAではない、などと冷たいことをいうつもりはありませんが、空を見上げてふと月が雲に隠れているのに気付いたときのように、当たり前にあるものがないことへの不安な陰りがその時の私を満たしました。
「……そっか。よかったじゃない」
 しかし、私の口をついて出たのは全く逆の歓迎の言葉でした。
「だってさ、前に、その力があると大変だって、話してたでしょ。受験の時期に国語の問題で、作者の気持ちを答えなさい、って問題に答えにくくなるのは残念だろうけど。これで普通の人と同じように、ううん、それ以上にたくさん本が読めるなら、悪い話ってわけでもない」
 Aは表情を崩さずに私の話を聞いていました。真剣な目は何を語ってくれるわけでもなく、腑に落ちていないようにも見えましたし、納得しているようにも見えました。
「まあそうなんだよね。目はすごく悪くなったんだけど、読むスピードも速くなったし、言うとおり大して悪い話じゃない。とはいえ、今まで見えていたものが見えなくなると、それはそれで違和感がね」
「まあそうだろうけど」
 何気なく破頑したAに安心しました。気に掛けてはいるけれども、日常生活に支障がなければよい、ということでしょうか。陰りを抱えつつも、私も緊張が解けました。
「いつからなの? それ」
 あー、と思い出すように瞳を逸らして考えて、もう一度こちらを見ました。
「明確には覚えてないんだけど、段々見えなくなっていった感じ。多分、××ちゃんが結末よく書き変えてたころが最初かな」
 それから最近急に酷くなった、と付け加え、Aは椅子から立ち上がりました。もう最終下校時刻になっていました。Aが今日は一緒に帰ろうと誘ったので、私たちは並んで教室を出て、下駄箱へと続く階段を降りていきました。
「ところでさ、勉強の方はどうなの××ちゃん。もう行きたいところ決めた?」
 玄関に着いて下足入れから落とした靴が着地してモルタルに反射する音を立てるとき、Aが思い出したように言いました。私は頷いて、同じように下駄箱から自分の靴を取りだしました。
「うん、とりあえず、どこの大学とかは決めないで、文学部を受けようかと」
 Aは大きな声でほおう、といい、ふんふん首を縦に動かしていました。本好きで小説を書いていて、文章に対して一際熱心な普段の態度からすれば、そのチョイスは当然だよね、というような反応でした。
「偉いねえ、××ちゃんは」
「どして?」
「私は、そういうのないから。とりあえず先生に勧められたところ受けてみようかなって。塾の先生に聞かれてもいっつもどうしようかなあ、で逃げてるし」
 行きたいところとか言われてもねえ、と言って踏み潰した踵を指で起こし、つま先で床を叩きます。
「ちゃんと決めた方がいいよ、将来のことなんだから」
「や、それは分かってる。分かってるんだけどさ、見えないんだって」
「何が」
「将来」
 何を言い出すのかと思えば、またさっきの話の続きでしょうか。しかしなぜか、Aがにこにこして言ったこの一言に、私の胸は少し高鳴りました。現実にはそぐわない、思いがけない返答だったからでしょう。
「そんなの、私だって見えないよ」
 靴を履くときに少しずれてしまった眼鏡を指で押し上げて、当たり前のことに当たり前のように答えました。
「そりゃあそうだね。眼鏡をよく拭いても。目を一生懸命細めてみても。全然、将来は見えないね。見えない。けど、目標が見えてる人と、見えてない人は、随分と違うものだとは思わない?」
 靴を履き終えて鞄を小脇に抱え、私と同じように眼鏡を押し上げました。
「で、私にはそれも見えない」
 同じような行動をしているにもかかわらず、そんなことを言いながらとそうでないのとでは、並んでいても違って見えるものなのでしょうか。先ほど心に落とされた不穏な影が、私の中で再度頭をもたげてきたのを感じて、振り切るように、ははは、と声を出してみました。
「何ですか。文章から作者の考えを読みとる力の次はまさか千里眼ですか。もう私より、Aが書き手になった方がよくない? そういう妄想も、小説の中だったら全部叶うよ。自分を主人公に据えてもいいし、好きなだけ暴れても現実には誰も困らないし。あ、何だったら試しにやってみようか、Aが書き手で私が読み手。立場を入れ替えてみれば……」
「はは、それはだめだ。私が全然面白くない」
 切って捨てられてしまいました。名案だと思ったのですが。
「そういえば例の長編小説の方はどんな感じ? 気合入れてるって話だから、凄い楽しみなんだけど」
 校門を出て通学路に指定されている道を、二人で駅に向かって歩いていきます。私は例の長編を書こうと考えていることを、Aとの交換日記に書いていました。自分に書きあげるためのプレッシャーを掛けるためです。そうすることで、完結させずに逃げるという退路を自ら断つことにしたのです。構想としては二百ページを超える大長編になる予定でした。
右手には田んぼ、左手には住宅街が広がる道に一つだけある自動販売機の前まで来たときに、あ、ちょっと喉乾いたから何か買ってく、といってAが立ち止まりました。硬化を入れ、何を選ぼうか迷っているようで、上から下へと目を動かしています。
 私はAの後ろからひょいと顔を出してコーラのボタンを押しました。取り出し口に落下した缶が、ガコンと音を立てました。
「あ、ちょっと」
 落ちた缶を拾って、プルタブを起こすと、今にも呪いをかけそうな目でAがこちらを見ていました。構わず口を付けようとしましたが缶をひったくられ、買主の手に戻ったコーラはAの喉奥へと消えていきました。一息に飲み終えると、炭酸で喉を傷めたのか、一つ咳払いをしたあと、渋い顔でAが睨んできました。
「これ! 私の一二〇円! なんで勝手に飲もうとするの」
「だって、迷ってそうだったから」
「や、理由になってないし。おかげで大して飲みたくないもの飲むことになっちゃったじゃない」
「そんなことないでしょ。結局飲んだんだし」
 空いた缶を自販機隣にあったゴミ箱に投げ入れて、また歩き始めました。そりゃあそうだよ、もったいないもん、と唇をとがらせてすねています。
「じゃあそんな感じでいいじゃん」
「何が」
「志望校選びだよ。悩み過ぎても仕方ないんだって。将来が見えないとかなんだとかいっても、出たとこ勝負である程度乗り切っていかないと、時間もお金ももったいない」
「何それ。缶ジュース一本選ぶのと大学選ぶのとじゃ全然重みが違うよ」
「缶ジュース一本選ぶのに迷う人が人生で大事なこと決められるのかって話さ」
 膨らませた頬をさらに大きくして、不機嫌ここに極まれりといった顔でAは隣を歩いていました。納得できそうにないAに、何かを話しても無駄だろうかとも考えましたが、私は決して間違ったことを言ってないという自信があったので、謝りはしませんでした。
「まあさ、何かを選ぶのは難しいけど、最後に頼れるのは直観だよ。よくお菓子を選ぶときにそうしてた。だから今回も妥当な道を直観で決めたんだ」
 嘘ではありませんでした。小さいころ、輝かしいばかりのお菓子の棚から一つだけ選ばなくてはならないと言われたとき、最後の最後に持ち帰れるものを、私は直観で決めていたのです。値段もパッケージも何も共通点がないのでおそらくそれがそのとき一番欲しいものということなのでしょうが、それを渇望するというわけではなく、欲しいなと思うこともなく、ただ自然に手が伸びるものを、なんとなく欲しいものだと思い込んで買うことにしていました。志望校を選ぶときは、今まで自分が積み重ねてきた読書歴や執筆歴が判断材料となったのでしょうが、それも後から理由付けが簡単だったからそうなったように思えました。第一、文学部に行って何ができるのかもわからない現状では、大学に入って本当にしたいことができるのかどうかすらわからないのです。本当はやはり直観で選んで、後から理由を付け足したように、私には思えてなりませんでした。
「は? お菓子って何の話?」
「うん、今書いている小説の話」
 自分でも会話の整合性が取れてないなと思い、適当にごまかしました。これもほとんど感覚的・直観的に出た言葉でした。Aは、ますますわけがわからないという顔をして、最後は興味なさそうに、ああそう、と言い捨てました。
「で、それはいつ完成するの?」
「わからないけど、大学生になってからかな」
 まだ書き始めてすらいないし、とは言いませんでしたが、長くなりそうだねー、頑張って、とAが笑ってくれたので、いいかな、と思いました。

***

 それからしばらく怒涛の勉強生活が続いたのち、冬に大学入試が終了し、私もAも希望の大学に進学しました。Aは結局高校時代に自分のやりたいことを見つけることができず、就職に有利そうだからという理由だけで商学や経済学部を中心に受験し、最終的に一番偏差値が高くて名の通っている大学に行くことに決めたようでした。交換日記でお互いの日常をつづる日々はまだ続いていましたが、卒業後は会う機会もなくなってしまうだろうということで、最後の一ページを私が書いてAに渡して終えることにしました。大学に行ってもお互い頑張ろう、と当たり障りのないことを書き連ねて、例の長編小説ができたら持っていく約束を最後のフリースペースに書いておきました。
 入学してから大学一年生の終わりまでの日々は、夢のように早く過ぎていきました。大学でも小説が書けるようにと文芸サークルに入部しましたが、その原稿と並行して、Aへの長編小説も書いていくのはかなり大変でした。しかし、夏休みに入る直前にその小説を何とか書き終えることができ、期待に胸を膨らませてAの家へと届けました。長らく時間が空いてしまったのでAが出てきたら玄関先で立ち話でもしようかなと考えていましたが、たまたまAはその時不在で、代わりに専業主婦であるというAの母親が出てきて原稿を受け取ってくれました。
「あなたね、いつもAが話している××ちゃんっていうのは」
 Aの母は自分の娘の話題の人物をようやく把握できたことを喜んで、人当たりのよさそうな柔和な笑みで私を迎えました。長らく付き合っていましたが私がAの母を見たのは、その時が初めてでした。
「Aさんに高校時代大変お世話になりました。よろしければ、彼女にこの原稿を渡してください。約束してたもの、と言えば、わかると思います」
「まあ、ありがとう。最近あの子ずっと、あなたから受け取った小説を読んでいるみたいなの。やっぱり面白かったんだ、って言ってね。相変わらずたくさんお書きになってるのね」
 手渡した原稿を受け取って、Aの母は穏やかに言いました。昔渡した原稿をまたAが読んでいるという話を聞いて、私は俄かに誇らしい気持ちになり、ありがとうございます、と頭を下げました。特にそれ以上用事もないので、私はAの母に会釈し、その場を立ち去ろうとしました。が、そこでAの母が、あ、ちょっと待って、と私を引き留めました。
「はい、なんでしょう」
 振り返るとAの母は真剣な目でこちらを見ていました。いつかAが私に、自分の力が衰えたのを話した時の目にそっくりでした。
「あの、変なこと聞いて申し訳ないんだけど、このあたりで……いいえ、県内でも隣の県でもいいわ。いい眼科知らない? できたらなるべく、難しい治療も請け負ってくれるようなところ」
 Aの母の声は震えていました。溺れる者は藁をも掴む、とはよく言いますが、まさに難破しかけの船の客が添乗員に脱出の方法を尋ねるときに出しそうな、力の弱い嘆きのようでした。なぜそんなことを聞くのだろう、と思いましたが、私が分厚い眼鏡をつけていたからでしょう。近頃高校時代に輪をかけて目が悪くなり、町の眼科医からそろそろ別の病院でも見てもらった方がいいかもしれないと、診断書をもらったばかりでした。その眼鏡を見て、もしかしたらAの母も、そろそろいい歳だから、目の検査をした方がいいと思ったのかもしれません。
「県の南の方に網膜の手術までしている大病院があるそうです。この町の眼科は検査だけですが、そこに行けばかなり本格的な治療が受けられると思います」
 知っていることをそのまま話しただけですが、Aの母は花が開いたようにぱっと明るい表情をしたのち、ありがとう、と礼を言いました。私はAの母に紙とボールペンを持ってきてもらい、その病院の名前を書き渡して家に帰りました。
 原稿を届けてから数日、Aから何らかの反応があるかと思って自宅にいるときは胸が騒がしくて仕方がなかった私でしたが、ひと月経っても何の連絡もないのを知ると、いよいよAもあの分量に参って読む気がなくなったのではないか、と疑うようになりました。何せ二百枚以上の枚数があるので自分で読むのはともかく、人に読ませるのは大変な量です。いくらAといえども、あの量を読むのはなかなか億劫なはずです。同時に長編小説を書きあげた高揚感が徐々に薄れていき、改めて書き終えた小説を手にとって読んでは、この表現はもっと別の書き方ができなかったのだろうか、ここの部分は全体の構成からすると不必要な部分だったのではないかと欠点ばかりが目立って見えるようになり、もしかしたらAはこの小説を読んであまりに稚拙だったから感想を伝えに来る気にもならなかったのではないかとも考えるようになりました。手渡した時のAの母の話では、Aは私の小説をずっと読んでいるとの事だったので、その長編が読まれない可能性よりは、読んで失望された可能性の方が高そうだと思ったのです。
 Aから感想をもらうのを諦めかけた私は、今度はその小説の目立った箇所を推敲していく作業に徹しました。書いているときはもちろんベストを尽くしたつもりでしたが、読者のつもりで粗探しをしていくと想像以上に修正の必要が多く思えてきて、浮かび上がってきたそれら修正箇所を何か月もかけて丁寧に添削していきました。一つの小説にこれほど時間をかけたのはおそらくこれが最初で最後だと思います。いうなればただの自己満足だったのですが、時間をかけた割にその小説が誰にも読まれなくなるかもしれないのは何となくさみしくて、どこかで発表できないだろうか、と考え、翌年春が締め切りの文学賞に落選覚悟で投稿しました。文芸サークルの部誌に乗せるのも考えたのですが、生憎枚数が増えすぎていたので他の部員の迷惑になりそうなので止めました。
けれどもそんなことをしていても、私はまだ心のどこかで、Aがこの小説を読んで何らかの返事をくれることを期待していました。どんな酷評でもいい、どんな投げやりな感想でもいい、とにかくAから何かの反応があれば、私はそれで満足できました。そしてその待ち望んでいた小説の感想は、思いがけない形で私の元に届いたのです。

***

月日はめぐり大学二年生の十月。木の葉も色めき出しそろそろ二度目の学園祭の準備で忙しくなった頃、自宅に一本の電話が舞い込んで来ました。全く心当たりのない番号だったので無視しようかとも思ったのですが、留守電に切り替える前にしつこく何度もベルが鳴ったので重要な用事がある人からかな、と考え直して受話器を取りました。どこかで聞き覚えのある柔和な声が、電話口からもしもし、とこちらに呼び掛けて来ました。Aの母親でした。
「××ちゃん、申し訳ないんだけれども、近いうちにこの間教えてもらった、例の病院に来てくれないかしら」
 何やら切羽詰まっている様子を悟り、私はすぐに何も知らないまま了解の返事をしました。Aの母親はそれを聞くと安心したようで、電話口に安堵の息がかかるのが聞こえましたが、私が理由を尋ねると再度緊張したように、少し間を置きました。
「Aがね、あなたに会いたがっているの」
「Aが」
 驚きました。大学に入ってからというものAと私は一度も会っていないのに、突然会いたいと言われたのです。驚くなという方が無理といえるでしょう。その名が出た時、私の心臓は一瞬大きく撥ね、無意識のうちに封じ込めていたこれまでのAとの長い、長い日々が、走馬灯のように蘇ってきました。
「お母さん、Aは今どこにいるんですか。どこでどうしてるんですか。どうしてAが私に直接ではなく、お母さんを介して連絡してくるんですか」
 私は勢い込んで尋ねましたが、電話先のAの母は迷っているのか、言いたくないのか、黙り込んで答えてくれません。興奮しきってしまった声を落ち着かせるように深呼吸して、お願いです、教えて下さい、と語りかけるように言うと、受話器からゆっくりと、それはあの子から直接聞いた方がいい、Aもそうしたがってるの、とどっちつかずな答えが返ってきました。言いようのない胸騒ぎがしましたが、わかりましたと一先ず答え、病院に向かう日にちをAの母に伝え、受話器を置きました。
 数日後、大学の講義が午前中で終わった日に指定されていた病院に直接向かいました。受付フロアでは既にAの母親がソファに腰掛けて待っていて、私が来たことに気付くとすぐに、いらっしゃい、といって病院の廊下へと歩き出しました。Aの母に着いていっている間、私は電話で伝えられなかったAの話に嫌な想像ばかりをしてしまい、Aの母と何も喋ることができませんでした。
 ここです、と言ってAの母親が立ち止ったのは入院患者の一室でした。貼られている患者の名札入れには、あろうことかAの氏名が入っていました。恐れていた事実をまざまざと付きつけられ、背中から冷たい血液が駆けあがってくるかのようでした。思わずその場から逃げだしたくなりましたが、足が震えて動くことすら叶いません。落ち込んでいる子供にするときのようにAの母が私の肩に手を置き、「中で、あの子とお話してやって頂戴」と促されてようやく動けるようになり、意を決して病室の中へと入って行きました。
 病室内はベッドが一つだけ置かれていました。開けた扉の音で気付いたのか、ベッドの上で窓の外の方を向いていた人物がこちらに向き直りました。
「誰? お母さん? ……じゃあ、なさそうだけど」
 こちらを向いたその人物は頭の上半分に包帯を巻きつけて、私の入ってきた病室のドアの方を向いてじっとしています。体型からすれば二十代前後の女性で、その母と同じく柔らかく心地よい声の持ち主です。私はこの人を知っています。しかし目を覆い隠すようにして巻いてある包帯は、それまでの彼女の顔を想起させるのを邪魔して、私の側からも、彼女の側からも、お互いの姿を見るのを阻んでいました。
 私と彼女の数年ぶりの再会でした。しかし、包帯を通してお互いの姿が見れない状態の再会は、果して意味あるものなのでしょうか。
「あ、もしかして、××ちゃん?」
 旧知の友人の半分覆われた顔に咽喉が絡み声も出せずにその場に立ちすくむ私に、ベッドの上の人物はいたずらっぽく言ってのけました。私はどきりとして肩を震わせ、その人の方へと近づいて行きました。
「××ちゃん、××ちゃんなんだね。ああ、来てくれたんだ、そうだよね、ああ、お母さんに頼んでおいてよかった」
 まだ返事もしないうちから、Aは私のことをすっかり私だと見破っているようでした。どうしてわかったのでしょうか。
「A……お久しぶり」
「ん、お久しぶり、元気だった? 本当はね、もっと前に愛に行こうと思ったんだけどさ、何か、ごたごたしちゃってて」
 恐る恐る呼んだ名前にあっけらかんとした返事。こちらが怯えているのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、Aは以前の通りの声音で、少しも変るところがありません。呼びかけてしまってから何を言えばいいのか分からなくなって、言葉を詰まらせていると、逆にAが遮るようにして、あのね、と私に語りかけました。
「あのね、××ちゃんの書いたあの長編小説、この間読んだよ。目が悪くなる直前。私が最後に読んだの、××ちゃんのあの小説なの」
 何を言っているのでしょう、こんなときに。あのあと何度も修正した小説の感想なんかよりも、もっと私に、説明すべきことがあるのではないでしょうか。どうして今私がここにいるのかとか、どうしてお母さんを介してしか連絡してこなかったのか、とか、高校卒業してから今までどうしていたのかとか、その包帯は何のためにあるのか、とか。私が知りたくてたまらないことが、他に幾らでもあるのに、なぜかAはここにきて小説の話をするのです。いつもそうです、彼女は訳がわからないことばかり言います。
「凄くよかったよ。今まで読んだ中で一番面白かった」
 思い出に浸るように、ゆっくりと話し、ああいう気分はどことなく懐かしい、今の私にも、××ちゃんにも必ずあった気持ちだもの、と付け加えました。その後暫くAはその長編の感想を事細かに述べたのですが、私は気が動転してそれどころではなく、いつ何を切りだせばいいのかおろおろと惑うばかりで、ちっともAの感想が頭に入ってきませんでした。
「あの小説ね、いつ完成するのか楽しみだったから、××ちゃんにちゃんと感想が言えるように、今までのも全部読み返してたんだよ。そしたらさ、思った以上に目が悪くなっちゃって。馬鹿だよねえ、私。せっかく大学に入ったのにさ、せっかく××ちゃんと一緒に眼鏡まで買いに行ったのにさ」
「ねえ、A」
 くすくす笑うAにリラックスしたのか、私はようやく声を絞り出すことができました。
「その目、一体」
「ねえ、××ちゃん」
 私の質問を遮り、Aは自分の顔の包帯に触れました。自分の眼球の大きさを確かめるように、指を動かしてそっと顔のくぼんだ部分をなぞります。目尻を人差し指で押し、睫毛に沿って爪の先で線を引き、鼻緒に近づいた所で手を止めました。
「私ね、××ちゃんの小説が最後に読めてよかった」
「最後……?」
「こんなに素敵な話、ちゃんと自分で読まないともったいないもの。人に聞かせてもらうよりもさ、自分の目で字を追って、××ちゃんが何考えてたのか、自分で考えて、登場人物に心酔して、ああ懐かしいなあって思いながら読むんだよ。きっと××ちゃんもそう読んでほしくて、こんな話を書いたんだろうって思った。読んでる間、ずっとそんなことを考えていたんだよ」
「ちょっと待って、最後って何」
 半ば叫ぶような形で捻りだされた声にも関わらず、Aは肩一つ振るわせずにじっとしていました。お互いの間を沈黙が制し、顔を合わせているのに全くすれ違ったまま、混乱している私にAは何かを言うわけでもなく、ベッドの上でただこちらに顔を向けているだけでした。
「だからね、もう卒業しよう」
「卒業って何から? ねえ、私の話聞いてよ」
「××ちゃん、あのね――」
 その途端、病院の一室のベッドも、Aの顔も、病室の窓の外で葉を落としていた銀杏の木も、面会のために開かれていたカーテンも、眼鏡のレンズよりもずっと歪みの強い温かい膜で覆われてぼんやりとしか見えなくなり、同時に全ての音が水の中に入ったときのように消えてなくなりました。自然と瞳から溢れだす雫に胸がカッと熱くなり、聞こえているはずのAの声が遠くなっていって、頭がその言葉を理解するのを拒みました。どうして、そんなことを言うのでしょうか。せっかく久々に会えたというのに、どうして表情を隠すほどの包帯を巻いているのに分かるほどの落ち着いた笑顔で、そんな重要なことを、平然と言ってのけるのでしょうか。私はAからその説明を受けることを望んではいてももっと順序立てて聞きたかったのです。いきなり事実を突き付けられてぼんやり霞んでいく視界の中で、私はさらにベッドに近づいて、Aの傍らに立ちました。いい加減なことをいう彼女に何か言ってやろう、と思いましたが、やはりまた咽喉に溜まった熱がそれを邪魔してしまいます。飲みこんだ息はそのまま嗚咽となって荒く吐き出され、私が何かを言おうとする度に、醜い雑音にかき消されるばかりなのです。
 滔々と、まるで卒業式の祝辞のように穏やかな言葉を語り続けるAに、私はただただ立ちつくして涙を流す以外にありませんでした。一通り話し終えたAに、一言、わかった、今までありがとうね、と絡む咽喉を押し切って言って、病室を後にしました。扉の外ではまだAの母が待っていて、泣いてぐしゃぐしゃになった私の顔を見て、大丈夫? と声を掛けてくれました。泣き疲れていまって、上手く言葉が出せず、私はAの母に一礼して、病院を去りました。
 涙で霞んでいく視界を抱えて街路樹が色づいた町へ足を向けると、忘れていた秋の冷たい風が火照った私の額を撫でました。外に出てしまうと、年のためか泣き続けることも躊躇われ、眼鏡を外して一度袖で顔を拭い、前を向いて歩きました。が、もう私の知っている、過去を共にしたAの姿をこの目に収めることはないのだと思うと、また先ほど頭に包帯を巻きつけて滔々と自分のことを語っていたAの姿が思い出され、混乱した意識が何度もその内容を否定しにかかり、暗澹たる気持ちが胸のうちから溢れてきそうでした。もう何もかも忘れた方がいいのかもしれない。これまでのことも、Aのことも、全部ないものと考えて、いっそのこと小説を書き続けるのも辞めてしまえば、何もかも楽になれるのではないだろうか、と考えました。そうです、これまでのことをなかったことにしてしまえば、いっそ私もAも楽になれるのです。彼女は最後に「だからもう、卒業しよう」と言いました。おそらくあの言葉は、私との関係を終わりにしようと望んだ彼女が、あえて遠まわしに言うことで私の気を少しでも鎮めようとしたのではないでしょうか。唐突に突き付けられた事実に私が驚くのも全部彼女はお見通しで、あえてあんな明るい態度で私を呼んで話をしたのではないでしょうか。そう考えると、私がその提案を受け入れない理由はなく、同時にAのためにもそうするのが最善であるように思えてきました。きっと内心では、本人以上にいつまでもめそめそ泣いてるんじゃない、と渇を入れたかったのを押さえこんでいたに違いありません。やっぱり彼女は最後まで私に優しかったのです。
そう自分に言い聞かせながら、街路樹の続く道で、涙を拭い終えた私は、呆けた頭でひたすら家路を進んでいきました。気分転換に途中で見つけたコンビニに立ちより、いつもならば真っ先に向かってしまう雑誌・本売り場を横目に見ながら、今日だけはここには寄らないと固く心に決め、お菓子売り場の棚で特に買う気もない商品を眺めました。色とりどりのパッケージに包まれた、ポテトチップスやチョコレートやスナック菓子やグミや煎餅やマシュマロやアメやガムや自分を選んでくれとばかりに煌びやかに主張をしてきますが、何も買わないと決めている私はそれらを手にとって眺めるだけで、レジに持っていくことは決してありません。これらは私が眺めるだけでも一向に文句を言わない静かな存在で、集合であることに意味のある存在で、どれか一つを選んで持ちかえってしまえば、たちまちその魅力を失ってしまうものなのでしょう。眺めている間は美しく、大都会百万の夜景に匹敵するこれらは、周りと同化して並んでいることに価値がある。その選ばれる前の荘厳な様子は、コンビニに行っても、スーパーに行っても、眼鏡屋に行っても普遍的なものでした。あの長い小説に私が書いたことは、こんなところでもやはり同じ感情を私にこみ上げさせるのでした。
バッグに入れた携帯電話の突然のバイブレーションが、お菓子売り場に魅惑されていた私の意識を呼び戻しました。メール着信時の二回の振動を過ぎてようやく電話の呼び出しだと気付き、慌てて鞄から最近買ったばかりのスマートフォンを取りだしました。見慣れない電話番号からでしたが、通話ボタンを押して応答すると、やはり全く聞き覚えのないハキハキした男性の声が電話口から、もしもし、××さんですか、と尋ねて来ました。沈んだ気分にはい、と返事をすると、わたくし、○○出版のものですが、と忘れていた知らせを随分遠くから私に呼びこんだのでした。
瞬間、瞳に先ほど滔々と何かを語り続けていたAの姿が蘇ってきました。包帯を頭に巻きつけてこちらを向いて卒業しようと告げる彼女の姿が見え、電話口で喋る男の声よりももっと近くで、まるで囁くようにして、Aの声ははっきりと、私の耳元で何事かを喋っているのです。あの病室でのAの言葉をほとんど覚えていませんが、Aは確かにこう言いました。その言葉だけはしっかりと、私の耳に届き、脳に焼きつき、内側から熱い慟哭を呼びさまし、咽喉を閉鎖し、そして静かな涙をあふれさせたのです。忘れるはずもないのです。聞こえなかったはずの、見えなかったはずのそれが、なぜこの時になって見えたのか、それすらも私には分かりませんが、Aがこう言ったのは確かに事実なのです。
「××ちゃん、あのね。もう、この目、治らないんだってさ」

***

 大学三年の春、自分の小説が載った雑誌を目にした時の感想は、あれだけ時間を割いて書いた作品も、冊子にしてみればこの程度の枚数にしかならないのか、というものでした。Aの見舞いに行った日にコンビニで電話を受けてから、信じられないほどにとんとん拍子で新人賞の出版の話が進み、そのまま書き続けるのであれば、作家としてデビューすることも可能です、是非いかがですか、と言われて、私は悩んだ末に結局それを受け入れました。丁度小説を書くのを辞めよう思っていたところだったのにどうしてその申し出を承諾したのか。今となってはもう分かりませんが、出版社に出向いて担当の方と話すうちに、やはり夢を諦めずに追ってみようと考えた、小説への意欲がまた湧いてきた、なんてありきたりで大それた理由ではなかった気がします。いうなれば、いつかAに話した通りの、ただの直感に過ぎなかったのでしょう。話を書き続けることに何等抵抗もなく、人びとに消費されるだけの存在になるのであれば、それもまた一興かもしれないと、それだけを考えて小説家になることを承諾したのです。ですが、私がそのときしたその選択は、今から考えれば非常に正しいように思えます。こんなことをいうと、おそらく大半の人は私を軽蔑の眼差しで見るに違いありませんが、私はきっと、卒業しようと言ったAとの関係を、未だに引きずり続けていて、今こうしてこの話を綴っている現在でも、あらゆる人を犠牲にしてまで、Aのためだけに人生を消費し続けているのです。
 私は小説家としてデビューしてから、一層目が悪くなりました。単純な近視だけではなく、眼圧がだんだんと高くなり始めて、先日お医者さんに診てもらったところ、緑内障という視野が欠ける病を患うリスクが極めて高くなってきたというのです。現にその病院で視野検査して受診してみると、端の方から徐々に視力が欠けてきていたことがわかり、進行を食い止めるためにそろそろ目薬を処方していただかなくてはなりません。あまり目を使い過ぎないように、との診断を受けましたが、そういうときに限って滝のように勢いよく流れ出るアイデアは留まるところを知らず、私に執筆を促してくるのです。仕方がないのでやはり書き続けているのですが、デビューしてから五年、私の担当の編集さんが計三回代わり、その全員が目に何らかの疾患が生まれたのが原因だというのです。また、初期の方から私の作品を読んでいるという方々からも、ファンレターで「私も近視なのですが」とか「少し目が悪いのですが」といった意見が多く寄せられるようになりました。先日大学の文藝サークルに所属していた同期の友人と会った時も、実は視力が今どんどん落ちていて、という話を聞きました。
 これはもう、偶然とは言えないのではないでしょうか。きっと私にも、Aの力に似た、普通の人には考えられないような不思議な力があるのだと思います。おそらくAとお題小説を開始してから雑然とした会話が聞こえるようになり、Aが「見えない」と言い始めるまでの間のうちのいつかに発生したのでしょう。それ以来、私は彼女に呪いを掛け続けていたのだろうと思います。交換日記からも、私の小説からも、彼女はずっと私の呪いを受け続けていて、力がなくなった、いろいろなものが見えなくなったと告げた日からも、彼女の運命は急激に私の呪いによって蝕まれて行ったのです。
 何と罪深いことでしょうか。私は一番身近にいたたった一人の親友であり、読者であった彼女に、あろうことか恩の代わりに呪いを返したのです。思いの丈を書きつづった小説や交換日記の黒々とした文字は彼女の力を奪い、視力を奪い、読書の出来ない体にしてしまいました。私はもう、彼女に合わせる顔がありません。謝ることすら叶いません。もしかしたら、彼女は私の文字によって傷つけられたのではなく、言葉そのものによって影響された可能性も否定しきれないからです。私の話の、私の言葉の、一つ一つが誰かの身体にとっての害悪となり続ける可能性さえあるのなら、どうして他人の体を傷つけてまで、自分の主張を聞いてほしいなどというふざけたことが言えるのでしょう。ただただでさえ目を潰すような禍々しい黒い文字を書き連ねることしかできない私に、Aの前に現れる資格も、謝罪の言葉を述べる権利もないのです。私はもう、私自身の力でAを助けることは出来ません。黒い文字と言葉の呪いは、人を傷つけることはできても、直接的に助けることはできないのです。出来るのは、Aとは全く無関係の場所で大人しく日々を消化し、このどうしようもなく残酷な力を利用して彼女を助けだせる人を探すこと――今まさに、私がしていること、くらいなのです。
 話は変わりますが、先日私の新しい小説が市場に出回りました。詳しいことはお話しできないのですが、とある賞を頂いた関係でマスコミからの取材も多く、読書が好きな人たちの間ではとても有名な作品になりました。近々ドラマ化もするとお聞きし、今丁度、監督やスタッフさんたちと忙しく打ち合わせをしているところです。具体的な話を持ちかけられるまで知らなかったのですが、ドラマでは私の小説を原作として脚本は別の方が書くそうです。その分、私の呪いは薄れるので安心ですが、ドラマを見て原作に手を伸ばす人たちもこれから多く現れてくることでしょう。もしかしたら、その中で私の作品をもっと見たいと思い、過去の作品を読んでくれる人もいるかもしれません。こうして、以前までA一人しかいなかった私の作品の読者は日に日に増えていき、いずれは都心を歩いていれば自分を知っている無数の人々とすれ違うことになるでしょう。
しかし私は、その読者たちから誰かを選ぶなんてことは、到底できないのです。今でも周りには大勢のファンの方がいますが、眼鏡屋にいる時、お菓子売り場にいるときと同じく、それらは私にとって集団としての意味しか持ち得ません。それはこれからドラマが始まって読者が増えたところで同じことです。私が本当に心配しているのは、ずっと昔にいた、たった一人の読者である、Aだけなのです。
 さて、ここまでお読みのあなたはそろそろご理解いただけたのではないでしょうか。最初に私は、この話には目的がないと言いましたが、それは嘘です。あなたにAのことや、私の呪いのことについて知ってほしくて、この話を書くことにしました。騙すような形になって大変申し訳ないのですが、小説家というのは常に現実の中に虚構を作り上げ、読者をだまし続ける存在です。美しく言いかえれば夢を見せ続ける存在です。いわばこれは職業からくる性分、なんて言ってしまえば少し聞こえはいいでしょうが、この呪いの話は、読まれなければ意味がないものであり、最初から手の内を明かしてしまうと読まずに破棄される可能性の方が高いため、あのような書き方であなたを誘い込んだのです。私の作戦は成功したのでしょうか。それはあなたがこの作品を読み終えることが出来たかどうか、結果としてはそれだけです。もし読み終えることができたのならば、あなたには既に私の呪いの手が及んでいます。いずれあなたはAや私と同じ運命を辿ることになり、個人の体質によっては私の編集担当の方と同じように、近いうちに闇の中で、大きな分岐点を迎えることとなるでしょう。
 それまでに、ご自身を救う方法をどうにかして探して下さい。友人知人、家族など他の人にこの話を広め、自分が私たちと同じような道を辿らないように努力するのも良いでしょう。インターネット上でこの話を都市伝説として載せるのも良いでしょう。異能の専門家の話を聞いてみるのも良いと思います。とにかく私の話を読んだり聞いたりした以上、それまでと同じようにものが見えるとは思えませんので、何とか手を尽くしてこの呪いを解く方法を探しだしてくれれば幸いです。私も執筆歴が長かったために自分自身が呪いにかかり、視力も視野もどんどん欠けていっていますが、呪いの張本人であるだけに他の人よりはまだ時間があると思います。もし、ご自身が助かる方法が見つかった暁には、やはり何かの媒体で発表するか、直接私の元を尋ねてその方法をお話していただければと思います。自分が助かるかどうかなどは興味ありませんが、出来ることなら最後の私からの言葉として、Aにその方法を教えてあげたいのです。もし、方法が見つかり、私の居場所を特定することができれば、の話ですが。
 最後に。Aはとてもいい子でした。彼女は気まぐれな人でしたが、自分があれだけの目に遭っていながら私を気遣うほどの優しさがあり、本当なら読みたくなかったはずの小説を読み続けて新しい面白さを発見ていった、我慢強い人でした。彼女と私が出会って友達になり、お互い交換ノートをやりとりする関係になったのも、何かの巡り合わせなのかも知れません。彼女が例の力を持っていると言わなければ、私はこの呪いに対して認識すらせずにのうのうと生きていて、このように呪いを逆に利用して何かをしてやろうなどとは考えなかったはずです。私の側にいたのが彼女であり、彼女の側にいたのが私だったからこそ、私はこの呪いに気付き、せめてもの罪滅ぼしにここに彼女との日々を綴ることができたのです。作品や小説家としての立場を犠牲にしてでも、私の作品を楽しみにしてくれている読者に呪いを掛けようとも、私たちの力と似た人が発見されるようにと、そう願わずにはいられなかったのです。身勝手でしょうか。偽善でしょうか。何と言ってくれても構いません。私は自分が彼女に対してしたことの責任を受け止め、どんな方法を使ってでも彼女を助けたい、それだけなのです。そして助けた後、出来れば直接、私から、それが叶わないなら、どんな形でも構わないから、誰かから、私の懺悔の言葉をAに伝えて欲しいのです。××はいつまでもあなたのことを思っていました、と。ずっとあなたを救いたいと願っていたと。それが伝わりさえすれば、私はもう、自分の身がどうなろうと、その先がどうなろうとどうでもよくなって、安心のうちに目を瞑ることができるのです。
 私の未来が見えなくなるのも、もう少しのはずです。

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