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人間ヴィジョン

人間ヴィジョン


 長さ一・五メートルの物干し竿に引っかけられた洗濯物の一群に、春の穏やかな光が降り注ぐ。丈の短いTシャツや股上の浅いジーンズ、フリルのついた花柄のワンピース。わずかな長さの棒に並べられたそれらに反射された陽光は、照り返された直後にはほんの少し黄色みを帯びて見えるが、すぐに認識可能な色を超越してただ白っぽいだけの、あるいは透明なだけの色に変化をして拡散し、不特定の形となって目に侵入してくる。
 四月の天気は、ここ一週間ほど快晴でありながらあまり気温が上がり過ぎず、すごしやすい日が続いている。五月も近づいた今日とてその例外ではない。青く澄んだ空には雲ひとつ見当たらず、輪郭のはっきりした白く小さな太陽がちょうど頭の真上にあるのみだ。こうした日和を受けては、南向きのリビングの正面の庭で洗濯物をする私の手も自然と軽やかなものとなる。竹の皮で編まれたバスケットの、濡れた衣服から漂うシャボンの香りは、休日の正午ごろ、決まって一人で、それらを干している私の鼻孔を優しく慰撫する。水を含んで重くなった洗濯物を外まで運び出すのに上がった息も、そうした淡い香りの空気で深呼吸をすればたちまち元通り。春においてはこのシャボンの香りに乗せて、庭でそれぞれ咲き誇る花々の芳香も味わうことができるから、普段は退屈になりがちのこんな作業でさえ、ちょっとした楽しみになっている。
 そんなことを考えながら、私は籠から一枚一枚服を取り出してハンガーにかけ、物干し竿に吊るしていた。
昨日、フリースの下に着たアンダーシャツに、一昨日着たブラウス。洗濯機を回す際に使った柔軟剤の効果で程よく弾力を持ったスカートは、皺を残さないようにきちんと叩いてピンチハンガーにかける。そうして一時間ほど作業をこなしていくと、最後に私の体を余すことなく覆い隠せるだけの面積を持つバスタオルが、バスケットの底に残った。
「あ」と思った。
これを地面に付けないように高く持ち上げ、広い幅を取って物干しにかければよい、のであるが、生憎私にはこれが最も大変な作業なのである。何しろ私は身長一五〇センチあまり。物干し竿に洗濯物を掛けるときでさえ、身長が足らないために少し背伸びをしなくてはならない具合なのだ。元来、無理そうだと思ったことは最後に回す性質である私は、洗濯物を干す際、必ず最後にはこのようにバスタオルを残す。
何も出来ずに突っ立っているわけにもいかないので、タオルを一度半分に折りたたみ、出来た隙間に両腕を肘の辺りまで通して思い切り背伸びをする。裏側をつまむようにして指でしっかり持って、それを端の方から順に物干し竿を跨がせる。「順に」というのは、一回で完全に半分を干すことが出来ないため、まずは右のほうを、次に左のほうをくぐらせてバランスをとり、最後に真ん中を逆の側から引っ張る、という工程を経なければならないからである。
水を含んだバスタオルをずるずると引きずるようにまず右側を物干し竿に引っ掛けた。気を引き締めないとバランスを崩してバスタオルが地面に落ちてしまいかねないので、私の意識は必然的に自分より高い場所にある物干し竿と、それにだらしなくかけられているタオルの右端に集中する。綿を掴んでいるかのような少々おぼつかない感覚で反対側からタオルの隅を引っ張ると、洗濯物と接触した部分がするすると音を立て、全面積のほぼ三分の一を、うまく物干しに吊るすことができた。
第一段階は無事終了。思わずため息が漏れる。
同じ調子で今度は左側に手を伸ばす。右側を引っ掛けると、タオルの重さは自然と物干しのほうにかかるため、左側を乗せるのは少し楽になる。腕の力を抜き、タオルの右側を物干しの下から軽く押さえながら、左右の重さが心持均等になるように生地を均す。皺を作ってしまうと後で戻すのが面倒なので、出来る限り真っ直ぐにしようと心がけつつ、バレリーナがするような爪先立ちでちょこちょこ移動していく。
目を普段使っているときよりもはるかに上に向け、腕も足も伸ばせるだけ伸ばす。首が上に常時向いているせいで若干肩が痛むが、集中力が切れてしまえばバスタオルは落ちる。痛かろうが苦しかろうが、じっと耐えて作業を進めなくては、今日の洗濯物は終わらない。
と、そうして集中するように促していたさなか、私は不意に視界の端にあるものを捉えた。
それは外壁に貼りついた固まった泥のようなものであった。普段窓を開け閉めするときに、部屋から同じ場所が見えていたはずだが、なぜか今まで私はその泥の塊のようなものには気付かなかった。それは湿っぽい屋根の陰に隠れるようにしてひっそりとそこにあり、それ自体がまるで何か忌まわしいものであるかのように、不気味な陰を落としていた。
はて、あそこにあるものは一体なんだろう。
意識がふとそちらへ向いたほんの一瞬、私はバスタオルと格闘している自分を忘れてしまった。そしてその一瞬の間に手を緩めてしまっていた。「しまった」と思ったが、もうそのときにはすでに遅く、バスタオルは再びずるずる音を立てながら地面に落下しようとしていた。
私は何となく目を瞑ってしまった。その時どこかから「あ」と声が漏れた――
瞬く間にバスタオルは地面に急降下し、せっかく洗った布地は砂にまみれてもう一度洗いなおす羽目になる、はずだった。しかし私が目を開いたとき、タオルは不思議なことに地面ではなく、目の前に突然現れた男の手の上にあった。
「大丈夫?」
 彼は何でもないように視線をタオルに送りながらそう言った。
 私よりも二十センチ以上高いであろう背丈。頭を小ざっぱりと短く切り揃え、横から見ても見事に整った顔のパーツの配置。Yシャツをラフに着こなし、ハイブランドの青いジーンズを穿いた姿形は、どこかのファッション雑誌のモデルではと思うほどの完成された統一感をそこに有している。捲りあげられたYシャツの袖から伸びる腕は、あまり日に当たっていないためなのか白く細いが、先ほど反射神経の鈍さゆえに私が落としてしまったバスタオルをくるくると容易に巻きとるだけの力強さを持っている。
「……よく、取れたね」
 そう言いつつ、タオルを回収し終わって腰を伸ばしたその人物、大西翔と視線を合わせる。彼は「まあ」と曖昧に笑って言葉を続けた。
「ちょうど玄関から出てきたら君がバスタオルに悪戦苦闘していたからさ。絶対落とすだろうと思って見てたんだけど」
 案の定、落としたから、洗い直しになる前に助けてあげようと思って。目だけ笑いを浮かべたまま、翔はそんな風に述べる。
「見てたの?」
「あれ、気付かなかった?」
 気付かなかった。集中していたせいだろうか。必死になっている自分を見られたことが、何となく恥ずかしい。
「見てたなら言ってくれればいいのに」
「言ったら、それはそれでタオル落としそうだったし」
 それもそうだ。どうも彼にはかなわない。私は何も言わずにただ笑みを浮かべた。
「はい」
 翔が持っていたバスタオルを私に手渡す。洗剤の香りのしみ込んだそれは、陽光の熱を吸収したためか、湿っていても少し温かった。私は受け取ったそれを、今度は翔と協力して干しにかかった。しかし言うまでもなく、私よりも遥かに身長の高い翔は、あっという間にほぼ独力でそれを干し終えてしまった。

***

 私と翔が出会ったのは高校二年の秋だった。
 隣のクラスに絵に描いたような超人がいる、という噂が、クラスの女子の間で広まっていた。彼女たちはしきりに「かなりかっこいい」だの「あんな完璧な人は他にいない」だのといって騒ぎ立てていた。
高校に入って一年目は、高校生になったんだという達成感と、新しい環境になじめるだろうかという不安で一杯で他人のことなど気にする余裕もなかったのだろうが、二年になるとこの意識が薄れ、風紀が乱れてくるのだろう。こういう話題は日が経つごとに過激な内容になり、最終的に大西翔にできないことは他の誰にもできないのだ、と言われるまでになった。
実際のところ、一見すると大西翔は非の打ちどころがないように思えた。勉強面では県内有数の進学校である我が校において、一年の中間テストから総合点数ではほぼ学年一位をキープし続けていたし、本人が苦手と称している教科でさえ、学年順位一ケタから下に落ちたことがなかった。
運動においてはどんな競技をやらせても、たいていあっという間にコツをつかんでしまい、殊にサッカーに関しては「部活に入ろうとは思わないけど、結構好き」というだけのことはあって、毎授業必ず一回はシュートを決めていたらしい。後から聞いた話では、毎授業中、一人で一点入れるのを目標としていて、それが達成できたらチームのフォローに回る、という自分なりのルールを課していたとのことだ。彼はあまりにも簡単にそう言うが、実際には幼いころからサッカーに精通し、サッカー部のレギュラーを取る者でさえ、毎回毎回そんなことができるかどうかは怪しい。
大西翔の伝説はこれだけにとどまらない。女子たちが姦しいほど騒ぎ立てる容姿の優に始まり、一度会って話をした者は必ずその虜となってしまうといわれる竹を割ったような性格。女性が最も安心できるとされる低く安定した声音、誰もが憧れるほど高い身長(大きすぎず、低すぎず、ちょうどいい高さだったことがまた功をなしているといえる)。重ねて言うならば父親が最高裁判所裁判官で、母親が近年営業成績を伸ばしつつある大企業の女社長。長男なので何もしなくても母の会社を受け継ぐことができる、御曹司のお坊ちゃんなのである。
他にも優れた点を挙げればキリがないが、とにかく、一般的な私たちの感覚からしたら、本当にこの世の中にこのような人間が存在するのだろうかというほど、彼はさまざまなものに恵まれていた。
そんな恵まれた人間ならば、噂を聞いた直後にすぐ会ってみたいと思うのが人の心理であり、現に私のクラスメイトにもそのような者がたくさんいた。八クラスもある学年なのに、彼が隣のクラスにいるということ自体が、運命だの、奇跡だのという輩もいた。しかし私は噂を聞いても「そんな人もいるんだ」程度にしか思わず、会ってみたいなどとは考えたこともなかった。
だが高校二年の秋、何の巡り会わせか修学旅行の班分けで、たまたま大西翔と同じグループになってしまったのだ。
どうやらクラス間の交流を促進する、という目標のもと、一組から八組まで生徒を出席番号順に並べ、一グループあたり六人になるように機械的に分けていった結果らしい。同じグループには大西をはじめとし、やたらと「大」で苗字が始まる人が多かった。私の苗字である「大島」も、その例に漏れなかったというわけだ。
言うまでもないかもしれないが、当然全員一致で大西が班長になった。彼は皆に行きたいところを手っ取り早く聞いて、自由行動の計画もあっさり立て終えた。どの場所で写真を取り、どこでどのくらいの時間を割くか、そんなことまでいちいち考えていたようだった。
そして修学旅行当日の自由行動時間、私はかつてない疎外感にさいなまれた。もともと口下手である性格が不幸な方向に働いて、グループ内で完全に孤立してしまったのだ。
班の構成は男女各三人ずつ。私を除く二人の女子は、どうやらもともと顔見知りだったようで、何をするのもとにかく二人一緒だった。割って入るのは躊躇われたし、例えその輪に加わることが出来たとしても、三人というのは話しにくい。
一方男子はというと、同じく大西を除いた二人は顔見知りであった。しかし学年中で話題になっている大西が入ってそれを拒むものはいないし、彼は私なんかと違って三人でもうまく会話を成立させる能力を持ち合わせていた。故に私は、三対二対一という、六人を分けるにはあまりに不公平な比率の中歩かねばならなかった。
おそらく人生最後になるであろう修学旅行がこのような形で進行していくとは思ってもみなかった。それだけに私は内心複雑な思いであった。町を歩く足取りは嫌でも重くなった。話し相手もおらず、特に気にかけてくれる者もいない。口下手なのを理由に班内のメンバーに話しかけなかった私が悪いのだから自業自得といってしまえばそれまでなのだが、例えばこれであと一人でも私と同じ状況の者がいたら、私は迷わずその子と行動を共にしたことだろう。六人なのだから二対二対二で分かれる可能性は十分にあった。だがその一人が大西だったばかりに私は一人残されることになってしまった。そう考えるところもあった。勝手なことだとはわかっていたが、私が彼に最初に抱いた感情は憎悪と嫌悪感。それ以外の何ものでもなかった。

自由行動が終わり、帰りのバスの中。私は煮え切らない思いを抱えつつ、行きと同じ席に座った。帰りは座席を変えてもいいと言われていたが、最初から孤立が決まっているような私には最早関係のないことだった。自由な選択というのが苦手な私は、グループの子達の意見も聞かぬまま、それを回避した。
二人用の席なので必然的に私の隣に座る者は暇であろうと思われた。女子二人は必ず固まるだろうから、男子三人のうち、行きで大西と同席しなかった一人が隣に座るのだろうとばかり思っていた。
「あ、俺、大島さんと座るわ」
 だが予想に反して隣に座ると言い出したのは大西であった。正直このときばかりは何を考えているのか全くわからなかった。大西が私の隣に座ることで得るメリットは何もないし、帰りで同席するのを楽しみにしていた男子をがっかりさせるだけだからだ。
 行きで同席しなかったほうの男子が「はあ」と小さく声を上げたが、大西は自由行動のときにたくさん話したからいいだろう、などという大分適当な理屈でそれを受け流した。少し残念そうにしながら、大西以外の二人は席に着いた。大西も私の隣に座った。
 どうせ座ったところで話しかけられないであろうと思っていた私は、行きの時と同じく、大して眠くもないのにすぐさま背もたれを軽くリクライニングさせ、寝る体勢を作った。荷物を床に置き、いかにも疲れました、というようにため息を一つつく。
「疲れた?」
 予想外にもそのタイミングで大西が話しかけてきたので、私は首を縦に振った。
「まあそうだよね、あれだけ歩いたんだし。俺も足ぱんぱんだよ」
 嘘つけ。お前さっきまで軽々歩いてたじゃないか、と思いつつ私は座席にもたれさせた体を車窓のほうに向ける。会話に対して応答もせず、大西には背中だけが見える形になる。
大西は何を思ったのか、少し息を深く吸って、沈黙した。先に私も黙していたので、二人の間には妙な空気が流れた。
やがてバスが全身を震わせるような荒いエンジン音をたてて駐車場を出発した。
 大西は黙ったままだった。私が拒絶していることに気づいたのかもしれなかった。それならそれで好都合だ。そうだ、そのまま大人しく私に寝たふりをさせて、お前は本でも何でも読めばいいじゃないか、どうせ私はあんたと違って身長も低いし、三人で会話できるようなコミュニケーション能力もないし、反射神経だって鈍い。学園アイドルのお坊ちゃまとは住む世界が違うんだ、構わないでくれ。私は取り留めのないそういった思考を背中に駄々漏れにしていた。
これでもう後は大西と一言も話さず帰れればそれでいいとさえ思った。だが事はそう簡単には運ばなかった。バスが発車して五分経っても、十分経っても、大西はなぜか、私を無視して本を取り出したり、他の席の子と会話を始めようとしたり、私のように寝ようとする素振りを全く見せなかったのである。実際に見てないのだからそんなことわからないだろう、と思われるかもしれないが、私にはなぜかわかった。彼は何もしなかった。何でもいいから私を無視して行動してくれればよかったのに、大西は、ただ同じ姿勢でぼんやりしていただけだった。
 バスが発車して二十分経ったとき、私はあまりに居心地が悪くなって体をもぞもぞ動かした。そして遂に、負けた、とばかりに大西のほうに向き直った。大西は我に返ったようにハッとして私の方を見た。
「……暇じゃないの?」
 最初に口をついた言葉がそれとは何とも情けない、と自分でも思うのだが、それが本心だったのだから仕方ない。私は顔をしかめて大西を睨んだ。
「俺は大丈夫。それよりごめん。自由行動のとき話しかけられなくて」
 突然、そう謝罪された。私はやはり大西の真意が読めずに、ただただ混乱するばかりだった。このタイミングで謝るとは一体どういうつもりなのか? 謝ることで善人ぶって、私を取り込むつもりなのか? 
「別に」
 しかし反射的に口から出た言葉は実に無愛想で簡潔だった。もっと言いたいことがあったはずではないか、大西を思いっきり罵りたかったんじゃないのか。そう思っていても、口から出たのはそれだけだった。
 大西は私の返事に一瞬、二の句を継ぐのに困っていたようだが、もう一度、とばかりに切り出す。
「……俺、大島さんのことよく知らないし、班で孤立してるのを見てどうにかしなきゃって思ったんだけど、他の奴らを跳ね除けるわけにもいかないし」
「だから、別に気にしてないってば」
 嘘つけ。お前、大西を妬むほど寂しくて仕方がなかったくせに。
「何でそこまで私に話しかけようとするの。何の得もないじゃない」
「損とか得とかって問題じゃなくて、単に俺がいろんな人と話したいだけだって」
 言われて、ああそうか、と気付く。大西は「クラス間の交流を促進する」という先生たちの言葉を真に受けて、それを律儀にも達成しようとしているのだ。あんなの明らかに班割を考えるのが面倒だった先生たちの建前であろうに。頭がいい割にこういうことは見抜けないんだ、この男は。
「……そういうところが、駄目だと思うんだけど」
「え?」
 私はうっかり考えていたことの延長を口に出してしまっていた。大西がきょとんとした顔でこちらを見た。私はため息をついて、この際だから一気に言いたいことを言ってしまおうと思った。
「あなた、何でも完璧にこなさないと気が済まないんでしょ。今だってそう。自由行動の時に私に話しかけられなかったから、バスの中でわざわざ隣の席にしてもらってまで話そう、なんて考えた。他の全員とは話せたのに、私とは話せなかったから。要は、私と会話しないと、完璧主義のあなたは満足できなかったわけだ」
 言葉はとめどなくあふれてくる。他人を非難する感覚に、だんだん思考が塗りつぶされていく。
「傍から見れば、一人ぼっちの私に話しかけることはいいことのように思えるけど、それって別の面からみれば、あなたが私の考えを無視して、話し相手になってもらえることを勝手に期待してるだけでしょ。ただの自己中心的な行動じゃない」
 強がりすぎて、隠したい気持ちを遠ざければ遠ざけるほど、何だか訳のわからない話になっていった。
「物事って何でもそうなの。固定的に存在するものは、ある面からみれば正しいけど、ある面から見れば正しくない。完璧主義のあなたには申し訳ないけど、私は完璧なものなんて存在しないと思っている。だって、完璧っていうのは、何もかもが実現可能ってことでしょう。人間として存在していれば、その他の生き物としては存在できないってこと、この時点で完璧とは程遠い。他の生物なら実現可能なことも、人間であれば実現不可能なんだから」
 次第に、話に熱がこもってくる。言いたいことが抽象的になってくる。
「完璧なんて、幻想なの。実現不可能なの。いろいろなことができない人間が作り出した、単なる憧れの概念にすぎないの。よく、神は実在するかって話し合う人がいるけど、それも何だか変な話ね。存在した時点で、存在しないという事実が実現不可能になる。神が完璧だとすれば、存在するという事実と存在しないという事実の両方が実現可能なはず。つまり――」
そこで私はなぜか言葉に迷った。つまり、結局、何が言いたかったんだろう。大西を非難するつもりが、いつの間にかただ持論を展開するだけの妙な話になってしまっていた。話が脱線しすぎて、自分でも何が言いたいのかわからなくなってしまった。最終的に何を目的として、今までごちゃごちゃと話してきたんだっけ。
「つまり、完璧なんて存在しえないから、そんなのを目指すのは止めろ、ってこと?」
 あれこれ考えている私に助け船を出すように、大西が今までの話から推察した結論を述べる。私は話を無理矢理まとめられた感じがしてひどく不快だったが、何となくそのような気がして、思わず「そういうこと」と肯定してしまった。
 そして、その次の瞬間、ふと垣間見た、いや、垣間見てしまった大西翔の顔は、二年半経った今でも忘れられない。
彼はあらんかぎりの力で、眼球が突出してそのまま外れてしまうのではないかと思うくらいに大きく目を見開いていた。口元には、はっきりと顔に濃い影ができるほどの笑みを浮かべ、眉根は広く保たれていたが、その顔全体の表情は純粋な笑みとは程遠かった。彼の瞳の中には喜びとも悲しみとも怒りとも判別しがたい、重くどす黒い何かが渦巻いていた。それは荒々しい海に平気で人を突き落とすような悪魔のようにも見えたし、ただ無意味に広大なだけで何も存在しないブラックホールのようにも見えた。
この人物は、優等生で有名なあの大西翔なのか。そんな疑問が脳裏をかすめた。
だがそう思った次の瞬間には、彼はもう元の大西に戻っていた。そして「そっか、それもいいかもね」と呆気ないほどに軽々しく爽やかな笑みで返事をした。不意を突かれて相槌を打ち損ねた私に、「そういう風に駄目だししてくれると、俺も助かるよ」という至極当たり障りのない会話で応じた。

***

洗濯物が全て干し終わってから、翔は昼食をとろう、と提案してきた。彼が洗濯物の最中、外に出てきたのも、どうやら私を昼食に誘うためだったようだ。
二人で翔の車に乗り、行きつけのイタリア料理屋へと向かった。十九歳という年で自分用の車を持っているのはひとえに大西家の財力のため、といえる。今私たちが同居している下宿も、元はと言えば大西家の別荘のうちの一つで、大学に近いから、という理由だけで私たち二人を住まわせてくれている。ぽん、と車に金が出せるあたりも、大西家にすればそれと同じようなものらしい。
レストランに着くと、翔はお気に入りのアラビアータのセットを頼んだ。私はカルボナーラを注文した。
「いつも思うんだけどさ」
オーダーし終わってから料理が来るまでの間に翔が言う。
「なんでそんなに自分で洗濯物を干したがるんだい?」
忙しいんだから家政婦でも雇えばいいのに、そうでなくても、俺に頼めばバスタオルくらい簡単に干せるのに、と翔は心底不思議そうな顔をする。
私は手元に置いてあった御手拭きのビニール袋を引きちぎり、中からきっちり畳まれたウェットタオルを取り出した。
「自分でやることに意義があるんだって、前に言ったような気がするんだけど」
出来ないからと言って自分で挑戦しようとしないと、いつまでたってもできるようにはならない。
これは確かに、以前私が翔に言った言葉だ。大西家には金が有り余るほどあったから、やろうと思えば専属のドライバーを雇うことだって可能であったが、翔はこの言葉を聞いて、わざわざ教習所に通い、車の免許を取得した。
「そっか。そういえばそんなこと言ってたね」
納得したように頷き、微笑む。語尾が上がり調子の、無意味に爽やかさを振りまくような笑顔。
「それより、家の外壁に土の塊みたいなものがくっついてたんだけど」
ウェットタオルで手を拭きながら、今度は私から切り出す。
「あれ何? 洗濯物の時に気が散った」
翔は逡巡したのち、ああ、あれか、と声を出した。
「多分、蜂の巣だと思う。小さい穴みたいなのが見えたし」
「穴? そんなのあったっけ?」
思い返してみてもやはりそれらしいものはなかったように思う。
「あったよ。結構上のほうに」
断定的な口調で言われる。もしかしたら単純に目線の高さが違うから見えなかっただけなのかもしれない。
「蜂の巣ねえ」
「今度取ってもらうようにお願いしておくよ」
別にいいのに、と思いながらも、あえてそれは口に出さない。今の下宿は大西家の所有物だから、私がとやかく言うべきことではない。
そうこうしている間に注文の品が運ばれてきた。私たちはフォークとスプーンで丁度いい硬さに茹であげられたパスタを口に運んだ。
クリーミーなソースとアルデンテのスパゲッティが程良く絡み合い、まろやかな味わいが舌に広がっていく。卵とベーコンをベースに作られた濃厚なクリームも、ほんの少し加えられた胡椒が味を引き立てているためにどれほど食べても飽きが来ない。旨いカルボナーラとはこういうもののことを言うのだということを、翔にこの店に連れてこられて初めて知った。

***

大西翔は、大学生になるまで誰とも付き合わない。
高校三年になって一カ月あまりの時期、格言のように流れてくる彼の噂を小耳にはさんだ私は、残念ながらそいつは嘘だ、と言ってやりたい気分であった。大西が誰とも付き合わないのではなく、彼に告白した女子が悉く振られているだけだ。これは一見同じに見えるかもしれないが実は大きく違う。大西は付き合えないのではなく、付き合わないのだ。ではなぜそんな噂が流れたのか。彼の父親が裁判官だから、不貞を犯してはならないと厳しくしつけられたらしいと恋に破れた女子たちが口を揃えて言ったのだった。
この噂を聞いてなぜ私が、嘘だ、と思ったかと言えば、その前の年度の冬から、修学旅行以来もう会うことはないだろうと思っていた大西と再び接点を持つことになってしまったからだ。

私たちの高校は県内有数の進学校であったが、三年時の生徒会活動が認められていた。指定校推薦をもらうのを目的で生徒会役員に立候補した私は、運良く二月の選挙で承認の票数を得て会計に選ばれた。
当然と言えば当然かもしれないが、そこに大西もいた。もちろん役職は、学年の人気を独り占めにしている彼にふさわしい生徒会長だった。推薦をもらうためという極めて不純な動機で立候補した私とは違って、大西は皆に出てみないかと散々勧められ、自分もその気になってしまったから立候補したのだという。
三年の時点で生徒会長と会計に選ばれた私たちは、否が応にも話し合いの場で顔を合わせなくてはならなくなった。しかもさらに悪いことには、会計というポジションはやたらと生徒会長と行動する機会が多かった。生徒会の運営のための代金なども会計がまとめて生徒会長に提出、という過程を経なくてはならないし、部活動の予算の相談は、各部長と会計、生徒会長と会計という組み合わせでなされる。
修学旅行のバスの中であれだけ「あなたのことなんて嫌いです」と言ってしまったに等しい言葉を吐いた私には、これはかなり由々しき事態であった。仕事をするうえでいわゆる上司にあたる生徒会長に嫌われていたのでは、円滑に進む物事も上手く行かないかもしれない。そういうわけで生徒会長を補佐するとあらば、会計よりも副会長だろうと思い、出来る限りの努力で副会長に同席を求めたが、この年の副会長は私と同じ推薦狙いの者で、大西に言われたこと以外何もしないと決め込み、私の言うことになど耳も貸さなかった。
かくして奇妙な縁から大西と仕事をすることになってしまった私であったが、最初は事務的な会話以外ほとんど大西と話すことなく、一年を終わらせる、つもりだった。どうせ人気者の大西のことだから、たった一度同じ班になった私のことなど覚えてもいないだろう、と思っていた。
だがここでも、とんだ番狂わせが起こった。
旧生徒会からの引き継ぎ式――選挙で決まった新生徒会役員が、初めて全校生徒の前にお目見えする式の日の朝であった。先日掲示板に、いつもの登校時間よりも早く生徒会室に集まってくれと新生徒会員に連絡があり、私はその集合時間よりもさらに四十分も早く学校に訪れていた。生徒会室は校内一奥まったところにあるため、行きなれないと迷うかもしれないと思ったからであった。
校門に入ってから十分後には生徒会室に着いた。まだ集合時刻にはあと三十分もあった。私はどうせ誰もいないだろうと思って、生徒会室の扉を勢いよく開けた。
「おはよう。また一緒だね」
しかし予想に反して、中には大西翔がいた。彼は初めて生徒会室に入った私に、そう声をかけてきた。
廊下にも部屋の中にも、他には誰もいなかった。彼は明らかに私のことを覚えていた。
内心では何で覚えているんだ、と思いつつも、それを悟られまいとして無理矢理表情を作り「うん」と短く返事をした。大西はいつも通り、何もかもを包むような、無駄に優しく爽やかな笑みで答えた。
「早いね」
「そっちこそ」
「まあ、ここ遠いだろうと思ったから。生徒会長が初日から遅刻じゃ、他の人たちに示しがつかないし」
 奇遇だ、たまたま私も同じことを考えてこの時間に来たんだ、ただし単なる恥を恐れてだが。などと、思ってはいても口には出さない。大西と同じ考えの自分に、軽く腹が立つ。
ちらり、と彼が横目で私を一瞥する。
「何しろ初めてだからね。いろいろ至らないことがあるかもしれないけど、そのときは前みたいに言って貰えると助かるよ」
言い終わるなり、視線を窓外に向けて沈黙した。
二人きりの生徒会室に、中庭から漏れ聞こえてくる雀の鳴き声ばかりが響く。
気まずい。私は直感した。大西は、表面上ではああして笑顔を向けてくるが、それはあくまでも仕事をこなしていくうえで支障が出ると困るからだ。腹の下では私と同じく今の気まずい状態をどうにかしようと必死に考えを巡らせているに違いない。一般で言われるところの頭がよく、気立てのいい彼のことだから、そうしたことを考えていても全く表情に表わさないし、平気で笑顔を振り撒けるだけだ。実際には何を考えていても不思議ではない。
「ねえ、大島さん」
不意に窓の方に向けていた視線を私に戻して、大西は名前を呼んだ。その声は心なしか震えていて、それでいながら今にも眠ってしまいそうなほどに安らかだった。
私は、あれ、と思い、そして手から嫌な汗が出てくるのを感じた。何かが、おかしい。自分が今まで考えていたこと、それは大西も私と同じように沈黙を紛らわすための会話を探すのに必死なのではないかということだった。しかし今の状況は、天敵と対している時のような緊張や緊迫と言った空気とは程遠い。何かが違った。大西の考えていることと私の考えていることは、決定的に何かが違った。
「俺、大島さんのこと……好き、だ、多分」
「……は?」
突然小さくなった彼の声になってしまった発言を聞いて、思わずそんな言葉が出る。寧ろそんな言葉しか出ない。完全に理解不能になっていた。
大西は恥ずかしそうに目を泳がせ、今し方、自身の放った槍に胸を貫通されたかのようにギュッと瞼を閉じた。きちんと毎週洗っているらしい真っ白な上履きの爪先で、板張りの床をトントン蹴っている。右手も左手も、拳を握っていた。
好き、彼の口は確かにそう言った。多分とは付け足したものの、おそらく嫌いではないという意味だ。だがなぜ嫌われなかったのか、理由がわからないし、このタイミングで好き、と言われる意味もわからない。しかも、大西と顔を合わせたのは今回で二回目だ。多少お互いの印象というものは理解していても、それで好きも嫌いもあったものではない。私は勝手に大西に嫌いなタイプだというイメージを持っていたが。
大西の言葉の真意がさっぱり理解できないまま、「駄目かな」という彼に対して首をかしげた。「何が駄目なの?」と問い返すと、大西はまた顔をそらして口籠った。それから一言「ありがとう」と言った。
訳が分らなかった。女々しすぎる反応に、彼の思考の中で完結している話に、私は苛立たずにはいられなかった。また二人の間には気まずい空気が流れ始めていた。お互い何も言わず、私は訝しさに眉間に皺を作り、大西はひたすら背を向けて押し黙っているばかりの空気。結局、二人の沈黙を破ったのは、集合時間より少しだけ早めにやってきた生徒会役員が廊下を歩いて近づいてくる音だった。

それが男女の関係という意味での告白だったことがわかったのは、その三日後、大西が連絡網を使って私を高校からは結構遠いところにあるイタリア料理屋に誘ったときだったのだ。
恋人でいうところのいわゆる初デート、のはずなのだが、当時は全く自覚がなかったため、ただ生徒会の付き合いで「嫌いではない」私に昼食を奢ってくれただけなのかと思った。大西家は金持ちだから、生徒会長として他の役員一人一人と真剣に向き合うために、このようなことをやってのけるのだ、と勝手に思っていた。
その時もカルボナーラを注文した。そして純粋に旨いと思い、何も考えずに声に出した。昼食を食べる場では、どういうわけか私も天敵である大西と対面してもいつもの刺々しい感情になることはなく、フォーク片手に彼が語るこの店の評価などを聞いていたものだ。
だが最後に大西が口にした言葉に私は違和感を覚え、そこで自分が如何に鈍感であったかを思い知らされることになった。
「君が喜んでくれたようで、よかった」
君、とはいくらなんでも馴れ馴れし過ぎではないだろうか。私たちは生徒会長と会計という立場であって、一夜限りの舞踏会で運命的な出会いをした王子と姫というわけではない。だから尋ねたのだ。
「何、その呼び方」
そして私は驚愕の事実を突き付けられた。
「いいだろ。もう恋人なんだし」
やたらに気障ったらしく、やたらに幸せそうな笑みを浮かべ、大西は籠の中の鳥をうっとりと見つめる目で私を見ていた。
訳が分からなかった三日前の行動に、全て合点がいった。
その後のことは、ショックが大きすぎてはっきりと覚えていない。だがさすが大西翔というべきなのか、昼食に誘うという目的で私を呼んだからには、昼食が終わったらすぐに帰す、と言って無理にデートらしいデートのようなことを強制はしなかった。お陰でこの初デートは会食のみで幕を下ろしたのだが、謀らずして大西翔の恋人となってしまった私は、真っ白になった頭で必死に考えていた。
学年一の人気を得ている大西翔が、わざわざ他の女子たちの告白を断って、私のような者を彼女にした。このことが他の女子に知られたら、私は確実に過激派からの虐めの対象になろう。そうでなくてもこれから一年は受験シーズンが到来し、精神的な負担が今までより遥かに増える。そんな不安定な時期に、人気者の大西翔と付き合っている者がいる、なんて噂が飛び交えば、下手をしたら学年全体の勉強に対するモチベーションが下がりかねない。
ここは事なきを得るべく、二人の関係は是が非でも隠し通さねばならない、と考え、私は大西に「恥ずかしいから絶対に二人の関係は秘密にしよう」という大嘘も甚だしい趣旨のメールに、付き合う上での注意を記して送った。
まず学校でそれらしい言動は慎むこと。幸いなことに私はまだ大西を異性や人間としての意味で好きになったわけではなかったし、大西もどうやら奥手のようだから、これは元より心配していなかった。
次に個人的に会う場合は学校から遠い場所にすること。あまりに人が多そうな場所も誰かに見られると危険だから控えよう、という話になった。
最後にお互いの携帯電話のメールでそれとわかるような内容は届いた直後、すぐに消去すること。付き合っている恋人が浮気をしていると気付くのは、決まってメールと電話の着信履歴だ。電話の場合は「生徒会の関係だよ」と誤魔化せるが、メールの場合は跡が残ってしまうだけにすぐに消す必要がある。
まるで何かの手引書のような内容だが、大西は何を考えたのかここまで厳しい条件もあっさりと飲んだ。もしかしたら本人も薄々、自分の影響力に気付いていたのかもしれない。

そして流れ始めた、大西が大学生になるまで誰とも付き合わないという噂。
大西には何も聞かされていなかったが、私はこの噂の正体を何となく察した。上手い理由をつけたものだ、とも思った。この噂は良い方向にこそ働けど悪い方向には絶対に働かない。少なくとも大学受験が終わるまでは、大西翔のスキャンダラスな話題で学年の戦意が下がることはない。何せ、誰とも付き合わない、とは裏を返せば、誰か一人のものではなく、皆の大西翔であるからだ。

***

何かと大変だった時期も、デートの際はいつもこの店で食事をしていたのを思い出す。その度に私はカルボナーラを注文していたはずだが、やはり何度食べても飽きは来ない。
受かった大学が、高校時代からの行きつけであるこの店の近くだったことは奇跡としか言いようがないし、そもそも天才的な頭脳を持つ翔と、確かに女子で一番成績は上だったかもしれないが、努力で困難を乗り越えてきた私が、同じ大学に通っているということ自体が奇跡的だと何度思ったことか。生徒会に立候補した根本的な目的であった推薦入試にも、翔に勧められるままに別の学校を受験してしまったので結局出願しなかった。彼との関係を振り返ってみても、その道筋は曖昧で、不思議なことばかりだ。
「ん? どうしたの? スプーンをじっと見つめて」
翔に指摘され、ハッと我に返る。少し平たいスプーンの上に、カスタードクリームのよう滑らかな黄色をしたパスタがきれいに収まっていた。皿の上には食べかけのカルボナーラが、まだ三分の一ほど残っている。一方翔はと言うと、いつの間に注文したのか、もう食後のコーヒーに入りかけていた。
「いや、気になってたんだけど」
私は考えていたことを口にする。
「翔、私のどこが気に入ったの?」
恋人同士なんだからこのくらい聞いても罰は当たるまい、というより、付き合い始めてもう二年になると言うのに今まで話題に上らなかったほうが不思議だった。何せ告白されたのは二回目に会ったときだ。それに、大西翔ともなれば私のほかにも彼女候補だったら選り取り見取りであっただろうに。
「どこっていうか」
翔は飲んでいたコーヒーカップをソーサーに戻しながら言う。
「君みたいな人は初めてだったから」
「初めて?」
「うん。出会い頭に俺を非難してきたって言うの? しかもその非難の理由が、単に嫌いだからっていうのじゃなくて、自分の考えがしっかりあって、さらにそれが深い。頭いい人なんだなあ、って思ったし、こんな凄い人がうちの高校にいたのかと思うと、何かぞくぞくしたんだよ」
具体的に、と言われたら、よくわからないけど。翔はそう言って、またコーヒーカップを手に取った。
唖然とした。よくそんな理由で、どんな性格かもわからない人間に告白が出来たものだ。普通なら、「嫌な奴」という印象をつけてもう二度と近寄りたくないはずだ。それに翔に頭がいい人だと言われても、何だか素直に喜べない。お前のほうがいいだろう、と言ってしまいたくなる。
いい意味でも悪い意味でも、結局彼は箱入りだったのだ。新しい風が吹いてきたから、思わずそれを掴んでみたかったのかもしれない。
「じゃあ、そういう君は」
翔が不意にこちらを向いた。
「俺のどこが、いいと思ったの?」
私は思わず食事をしている両手を止めた。そのまま、視線を上げて、翔の顔を見た。
彼の、どこがいいと思ったのか。
私が翔を恋人だと認識したのはいつだろう、いや、認識だったら告白されて三日後の、この店に来たときにしていた。そうではなく、翔に心を許したのはいつだろう。最初は妬んでさえいた大西翔。嫌いでさえあった大西翔。付き合い始めてさえも、人間的に好きになれなかった大西翔。
金持ちだからとか、背が高いからとか、頭がいいからとか、声がいいからとか、そんなのは大西翔を取り巻く一面に過ぎない。それが理由ならば出会った段階で嫌いになんかならなかったし、付き合い始めた時点で、ラッキーとさえ思っただろう。しかし確実にそんなことはなかった。映画や小説、その他物語に表わされるような、文字通り「落ちる」という動詞を使うのが的確な恋、トキメキ、そんなものは私と翔の間には存在しなかった。私にしてみれば、知らない間に付き合うことになって、その延長で今、同じ屋根の下で暮らしたり、同じ席で食事をしたりしている相手。でも間違いなくパートナーと呼べる存在。それが大西翔なのだ。
自分で話題を振ったものの、改めて考えてみれば私も翔と同じくらい抽象的な理由しか思いつかなかった。違う。抽象的なものさえ思いつかない。
そもそも恋人だと認識させられたとき、なぜ私は大して好きでもない彼を、拒絶しようとしなかったのだろう。「恋人なんだから」と言われて、「そんなのになった覚えはない」と言ってしまえば、それまでだったはずなのに。
翔の顔を見詰めたまま、私はただ店内の音楽を聞くともなしに聞いていた。
やがてウェイターが食事の済んだ翔の皿を片づけに来た。それでも私はまだ翔の問いかけに答えられないまま、食事にも手をつけられないままであった。
「鳴海?」
そう彼が私の名を呼んだ時。
唐突に、あまりにも唐突に、翔の懐の携帯電話から着信音が鳴り響いた。
翔は一瞬だけ私から目を逸らし、「ごめん」と言って通話ボタンを押した。私と食事を共にしている時の、どこか落ち着いている声の調子が、すぐに緊張して対人向けのそれに代わる。
電話口から「来週のレポート」とか「お前がいないと困る」とかいった声が漏れて聞こえた。会話の相手はどうやら同じ大学の学生らしかった。翔はそれに対し、手短に二・三言葉を連ねて「わかった」と応対し、電源ボタンを押した。
「ごめん、これからちょっと大学に行かなくちゃならなくなった」
翔はそう言うが早いか、上着の胸ポケットの中に携帯を仕舞った。そして鞄の中から鶏みたいに丸々太った財布を取り出すと、福沢諭吉の描かれたお札を一枚、テーブルの上に置いた。
「すまないが、これで会計を済ませてバスで帰ってくれないか。どうにも急がなきゃならないらしい」
私は声も出さずに頷いた。翔はデート中に彼女を放って大学に行かなければならないことに相当抵抗があるのか、何回も詫びてから駐車場の車で店を去って行った。

***

卒業式の日に、何人もの女の子から「大学生になったら付き合ってくれないか」と告白され、その度に謝らなくてはならなかった。
受験が終わったあとの春休み。二人で翔の家近くの川辺に散歩に出掛けた時、大西翔の伝説にまた新たな一ページが加わったことを、私は本人の口から聞かされた。
その時何と謝ったのか、と私が問うと、父親の知り合いで予てから付き合ってほしいと頼まれていた人がその大学にいるのだ、とこれまたありもしないことをその場ででっちあげた、と翔は言った。毎度毎度、よくそんな大西翔だったらありえそうな話を作れるものだ。皆が信じてしまうのも無理はない。
私たち二人が合格した大学には、同じ高校の同級生は他に誰もいなかった。高校のホームページに毎年の大学別合格者数が発表されるのだが、そこには現役浪人に関わらず、男子一、女子一という数字が記されているだけだった。
翔は、母親の会社は弟に任せ、父親のような裁判官を目指すつもりだと言って、法学部に入った。裁判官になるためには司法試験の合格が不可欠だ。それは確かに本人の努力の域ではあるが、実際の合格率は全体の一%にも満たないため、出来る限りその勉強に集中できるような環境を整えるべきだと父親に教わった。翔はその言葉に従って、大学も司法試験に直結する勉強ができるところを選んだ。足りないと感じたら、専門学校にでもロースクールにでも行って勉強する、と見ている方が滅入るような強烈な熱意を持っていた。
一方私はというと、翔の勧めで同じ大学を目指すことになり、運良く工学部に入ることができた。文系の翔と理系の私が同じ学校に入ることができたのは、この大学が総合大学でありながら文系(しかも主に法学)に特化していたためだ。確かに一般的に偏差値の高い大学ではあるが、その中でも法学部は群を抜いて難しい、らしい。工学部はというと、英語が少し出来なくても数学で挽回できれば受かるくらいだ。入試の得点は返ってこないので実際はわからないが、多分私もそのパターンだった。

歩き疲れたので二人で土手に座り、少し休憩することにした。話に夢中になっていて気付かなかったが、結構歩いたらしく、日はもう沈みかけていた。受験で暫くプライベートな話をしていなかったため、話のネタは一向に尽きなかった。そうして話しているうちに、ふと翔は私に尋ねた。
「そうだ。鳴海はこれから、どうやって大学に行く?」
「どうやってって」
急に聞かれたものだから少し返答に困った。大学までは、私の家から電車とバスを乗り継いで、およそ二時間かかる。
「電車じゃないの。かなり遠いけど」
「やっぱりそうか」
翔は待ってましたとばかりに話を切り出す。
「実は大学の近くにうちの別荘があるんだ。庭も結構広いし、南向きだから日当たりもなかなかいい。大学受かったら父さんにそこを貸してもらう予定だったんだが、よかったら君も一緒にどうだい?」
「別荘」
そんなものまで持っているのか、というのが最初の感想だった。確か、高校の時、翔は車で三十分ほど送り迎えをしてもらっていたと聞いた。となれば、それはおそらく自宅からだったのだろう。大西家の財力は底知れない。
「それは助かるけど、下宿は親が何て言うかわからない」
何しろ私も一応女子だ。男子と一つ屋根の下で暮らすとなれば、金は助かっても他にもいろいろと問題も発生してくることだろう。
「それもそうか」
「相談はしてみるけどね。でもいいの? 勝手にそんなことしちゃって」
翔は、ああ、と短く答えた。
「俺もそうなった場合はもちろん連絡するけど、誰と居ようが、誰を雇おうが、基本的には俺の自由みたいだから」
金は父さんか母さん持ちで、税金も家賃も生活費も勝手にそこから落ちるって聞いたし、大丈夫だろう、と言う。
「それに、正直そろそろあの家を出てもいいんじゃないかと思うんだ」
そう言うと、翔は川の向こう側を見るように目を細めた。私には、その理由はよくわからなかった。ただ、そう言った翔の横顔は夕日に照らされているためか、顔半分が明るく、もう半分が陰りを帯びていて、それがひどく危うげな何かを映していた。
私は一瞬その表情に見とれて言葉を返し忘れるところだったが、「そう思うんなら、そうなんじゃないの」と何とか相槌を打つことができた。少し体も休まったと思ったので、その場で伸びをする具合に立ちあがって、翔とまた歩き出した。

大西翔と私が付き合っていることは、私が彼の恋人になったと知った日に、親に報告していた。そのため、大西家の別荘に下宿してもいいかどうかを尋ねるのも簡単だった。
親は多少心配していたが、そうしてもらえるならそうしてもらった方がいい、という結論を、私が話を持ってきたその日のうちに出した。実際、大学に通うとなると時間がかかるし、下宿をさせれば金がかかるだろうとのことで、どうすればいいか迷っていたらしい。
どうやら両親は、私以外の女の子が言い寄ってきても見向きもしないことや、私と付き合い始めてからの約束を徹底的に守るといった翔の真摯な態度が気に入ったらしく、それだけ堅実的な人なら娘を預けても大丈夫だと判断したようだった。付き合っていた一年のうちに、翔の家族や本人の性格についてもいろいろ話していたので、それで余計に安心できたのかもしれない。
翌日、翔の携帯に下宿の話が許可されたという旨のメールを送ると、彼は相当嬉しかったのか、送信して三十秒もしないうちに、よかった! という返信をよこした。さっそく父親に相談して、下宿の準備をすませるから、何か別荘について知りたいことがあったら遠慮なく言ってくれ、とも書いていた。

***

大西家が用意するだけのことはあって、私たちの下宿は翔が言っていた通り庭が広く、南向きで日当たりがいい。今日その庭で干したたくさんの真っ白な洗濯物は、まるで運動会の応援旗のように、ひらひらはためいて私の帰りを歓迎した。
翔と別れてからバスに揺られること十分。ようやく下宿に着いた私はその光景を見ながら、まだレストランで彼に言われたことを引きずっていた。
私は、大西翔の何に惹かれたのか。
彼が普通の感覚からしたら魅力的であることは重々承知だ。でもそれだけではどうしても納得できず、私はあれからずっと、彼との思い出を振り返っては、どこかにそのヒントがないか探している。そうしなければいけない気がした。例え不可抗力で彼の恋人になったとしても、それを続けている以上、どうして彼に惹きこまれたのか、どうして彼と一緒にいられるのか、その答えを自分で見つけなければならない気がした。
翔との思い出自体は、高校三年の時から数えれば二年分もある。だが一年分の彼とのメールは全て末梢してしまったし、大学生になってからは、逆にいろいろありすぎて覚えていられなかった。手がかりになりそうなものが、もし大学生になってからの生活の中にあるならば、高校生の私は何のために彼と付き合っていたのかということになる。やはり理由があるとすれば高校時代だろう。
私は、下宿に何か高校の思い出となったものが残ってはいないだろうかと、いくつもある部屋の中を探ってみることにした。まずリビングを、次にキッチン、私に割り当てられている部屋を、最後に何もないであろうと思いつつも客間を、きっかけを求めて隅々までチェックした。しかし、やはりというべきなのか、大学から住み始めた下宿には、ここ一年間の生活の断片こそあれ、高校時代を思い出すものは何一つとして見つからなかった。結局帰ってきてから数時間かけてやったことと言えば、部屋を調べがてら、ところどころに見受けられる部屋の埃や塵を掃き掃除したくらいだった。
探し疲れたので再びリビングに戻り、お湯を沸かして一人でコーヒーを飲んだ。時計を見ると、時刻は既に午後四時を回っていた。久しぶりに集中して物事に取り組んだだけに、少し肩が凝った。もうほとんど何もする気力がなかった。だが未だに自分と翔がなぜ一緒にいるのかということが気になって仕方がなかった。探すだけ探して八方ふさがりだ、もういい加減諦めてもいいんじゃないかとさえ思えてきたが、その矢先、まだ下宿内で探していない場所があることに気付いた。
それは翔の部屋だった。そこは、出来る限り入らないでほしい、と言われていたので、私は今まで、ほとんど存在しないものとして意識の外に放り出していたのだった。そのせいですっかり忘れていたが、彼の部屋にあるものを、未だかつて見たことがなかった。あの部屋には、一体何があるのだろうか。
思い立ってから私はコーヒーを一飲みにし、カップをキッチンの流し台に放置した。翔の部屋の前に到達すると、ドアノブに鍵がないことを確認し、ゆっくり扉を開いた。
中は予想に反して何の変哲もない普通の部屋だった。勉強用と思しき机と椅子が一組と、いつも翔が寝ているだろうシングルベッド、それに二つの本棚があるくらいだった。あまり使っていなかったからか、部屋の壁面には黄ばみ一つ見当たらない。確かに居候の身である私の部屋より美しくはあるが、入って欲しくないという理由は、私よりいい部屋を宛がわれているから、というわけではないだろう。
他人の部屋を詮索する時に起こる少しばかりの罪悪感を抑えつつ、私は部屋に入って何か気になるものはないか探してみた。ずらりと並んだ法学系の参考書が私を監視しているような気さえしたが、あえてそれも無視した。本の中やベッドサイドなども隈なく探した。たぶん翔が部屋に入るな、と言った理由は、ベッド下から見つかったいくつかの成人向け雑誌のためだろうが、別段それに関しては何の興味も湧かなかった。男性とは得てしてそういう生き物であることは、中学の保健体育の授業で聞かされていたし、半裸の女性を眺めてニヤついているくらいなら可愛いものだ。
だが最後にあさった翔の勉強机の中から、思いもよらないものが出てきた。
「これは……」
それは写真のアルバムだった。特別な装丁がしてあるわけでもなく、写真屋に行けば普通に買い求めることができる安っぽい代物だった。表紙部分の青い印刷がところどころ禿げており、他の全てがきちんと並んでいる翔の部屋の中では、一際異様な存在感を放っていた。
開いてみると、一ページ目の一番上の段に、修学旅行の自由行動で撮った集合写真が入れてあった。通行人にでも撮ってもらったらしく、大西翔と私以外はもう名前も思い出せないが、班のメンバー六人全員が映っていた。右側には私を含めた女子三人。仲の良い二人はピースをして、笑顔でこちらを見つめている。私はと言うと、無理矢理仏頂面の口を釣り上げて笑みにしたような顔。本人は頑張っているつもりなのだろうが、全然笑っているように見えない。左側には男子三人が固まっている。知り合いだろうと思われる二人の男子は嬉しいような恥ずかしいような複雑な表情で大西翔を囲んでもたついていた。大西翔は、いつも通りの無駄に明るく爽やかな笑みでカメラを直視している。背景を全て切り抜けば、証明写真と言っても通じそうだ。
ひどく不格好な昔の自分を見せられて、なぜ翔はこんなものをまだ持っているのだろうと思ったが、彼にしてみればこれが私との最初の出会いなので取っておくのは当然か、と思い直した。それより私はまだ何かこの写真に引っかかるものを感じていた。そして暫くその場に立ち尽くして、数分、じっと写真を凝視した。そして、思い当った。
修学旅行、笑み、彼との出会い。そうだった。私は大西翔に惹かれた理由を忘れていたわけじゃなかった。日常的に起こる出来事が多すぎて、それを思い出す機会がなかっただけだったのだ。本当はずっと覚えていた。彼に惹かれた理由を、本当はずっと覚えていた。

確信的な理由を掴んだ私は、その日の翔の帰りをずっと待っていた。
翔の部屋から出た後、夜気に冷やされると困るだろう、と思って庭の洗濯物を取り込んだ。あの重いバスタオルも、何とか地面につけずに回収することができた。洗濯物は水を飛ばした分いくらか軽くはなっていたが、それでも量が量なので持ち運びにはかなり時間を要したし、畳んでクローゼットの中に仕舞うのにも苦労した。それらが全部終わったのは午後七時くらいで、直後に夕食の準備を始めなくてはならなかった。
だが夕食を作り終え、それを一人で食べ終え、それからさらに風呂に入り終わっても、翔は一向に帰ってこなかった。時刻はもう午後十時を回ろうとしていた。ここまで遅くなるなら、几帳面な彼のことだから連絡の一本くらい来てもいいはずだが、それすらなかった。仕方がないから私の方から連絡をしてみたが、どうやら携帯電話の電源を落としているらしく繋がらなかった。翔の部屋の机の中に置いてあったプロフィール帳を頼りに大学の同級生に順に尋ねてみても、レポートについての話し合いは三十分くらいで終わったから、今帰宅していないのはおかしい、という情報しか得られなかった。
これは何かあったのだろう、と思った。不安が先行して、良からぬ想像ばかりが次々に脳裏を掠める。どれか一つの予想が当たらぬことを祈りながら、今夜一晩待って帰ってこないなら、警察にでも届け出ようか、とさえ思った。待っている間、私はテレビさえつけなかった。静かにぼんやりと彼の帰りを待とう、と決めたのだった。

午後十一時を少し過ぎたころだった。リビングで体をソファーにもたれてまどろんでいた私の耳に、聞き慣れた車のエンジン音が飛び込んできた。私はすぐに身を起して玄関に向かった。それは確かに翔の車の音だった。ようやく帰ってきたのだ、と思い、こんな思いで今まで翔の帰りを心待ちにしたことがあっただろうか、これじゃあまるで主人の帰りを待つ飼い犬だ、と自嘲した。しかし不思議なことにあまり腹立たしくはなかった。
「お帰り。ずいぶん遅いじゃない」
扉が開く瞬間に、すぐにいつもの調子を装って、あまり感情を込めないように言った。外からは、確かに大西翔が入って来た。
「……ああ」
だが彼は俯き加減でこちらを見もせず、そう呟いただけだった。茫然自失、いつもの大西翔からは想像がつかないほど、今の彼にはその言葉がよく似合っていた。翔は無言のまま靴を脱ぎ、頭を垂れたまま、リビングに向かった。私もその後を追う。
「何か食べた?」
「いや」
「一応、電子レンジの中に夕食あるけど」
「……食べたくない」
毎日三食きっちり同じ時間に食事をするのに、珍しい。そもそも、理由も説明せずこんな時間まで外にいて、それで食事すら取っていないなんて、どうかしている。
「……大丈夫?」
思わずそんな言葉が口をついて出る。今まで彼を思いやった言葉をかけたことなどなかったが、今回ばかりは少し事情が違う。ずっと俯いたままの大西翔なんて、見たことがなかった。何かあったなら、お互いに言いあっていたのに、今更隠し事なんて水臭い。
絶対に何かあった。私には言うのを躊躇われるほどの、何かが。
「鳴海」
翔は私が声をかけて数秒後、リビングの扉の前でごく自然に足を止め、振り返った。私は息を飲んだ。今、彼も私も、重大な出来事に向き合っていた。
その時に見えた、大西翔の顔。
いつもの曖昧な顔でもなく、気障ったらしい笑みでもなく、恋人を見つめるときのうっとりとした表情でもない、大西翔の本当の素顔。
断崖絶壁から人を平気で突き落とせるような悪魔を飼っているかのような、そうかと思えば、ただ無意味に広いだけのブラックホールを宿しているようにも見える、ひどくどす黒い感情を内包した、眼球が突出しそうなほどの笑み。
私は、その本当の大西翔に、再び対面した。この顔だ、と思った。私が彼に惹かれたのは、他の誰にも理解できない、この笑みのためだった。修学旅行、彼との出会い、笑み。そのキーワードが頭の中でごちゃごちゃに混ざりあい、初めて彼に会ったときから、私は彼に惹かれていたのだと、やっと気付いたのだ。
「君は、俺の、どこに惹かれたんだい」
その顔のまま、翔は私に尋ねた。私は背筋に何かぞくぞくするものを感じた。本物の彼、見せかけではない彼と、今私は対話をしているのだ。昼間された質問と同じだったが、今なら答えられる。今だったら、私は確信的な答えを、翔に言うことができる。
無意識にかいていた手の汗を、ぬぐう。
「私は」
大きく息を吸い込む。
「私は、あなたの、その目の裏にいる、黒く潰れた不完全な感情が、好き」
やっと、言いきった。
ずっと覚えていた。初対面の彼の中で唯一今まで印象に強い部分。価値観の崩壊を迎えた時に、彼が見せる唯一の顔。完全と言われた人間の、それでも絶対に完全にはなりきれない、大西翔の本当の顔。
私はそれが愛しかった。
翔は私の告白を聞いて、「ああ……」と呟いた。ゆっくりと息を吐き、何を思ったのか、私の髪に力なく触れた。それから酷く疲れた表情を、元の端正な顔に浮かべた。彼の頭が、私の小さな肩に乗せられ、少しどぎまぎしたが、そのうっすらと見える首筋をなでながら、私は翔の次の言葉を待った。

「……子供を、轢いたんだよ」
少ししてから、翔はかろうじて聞こえる声で、そう言った。私は言葉に迷って「そう」と相槌を打った。
翔が今まであったことを話し終わるのには膨大な時間がかかった。話し合いが終わり車で帰宅する途中で、公園から子供が飛び出してきたこと。咄嗟にブレーキを踏んだがギリギリで間に合わなかったこと。子供の母親がそれを見ており、血まみれでぐったり倒れる我が子を抱いて、泣き叫んでいたこと。自分には救急車を呼ぶことしかできなかったこと。警察に呼ばれて、事故の状況を何度も説明したこと。取り調べ中に子供が息を引き取ったのを知らされたこと。その瞬間に、今までの何もかもが頭から消え去り、その他の取り調べは、何も覚えていないこと。子供の両親を訪ねに行ったときに「あんたに殺されたんだ」と罵倒されても、何も言い返せなかったこと。自分が代わりに死ねたらどんなにいいだろうかと思ったこと。そして前科者の自分と一緒にいたら、大島鳴海が不幸になるのではないかと考えたこと。
粛々と語られる事実一つ一つを、私は「そう」と返して聞いていた。寧ろそれしか言えなかった。今まで父親の背中を追って順風満帆な人生を送り、裁判官を目指してきた彼が、私の話を聞いて免許を取った車で人を轢き殺した。言うなれば彼に免許を取らせた私も、その子供を轢き殺したようなものだ。いや寧ろ、私にこそ非はある。翔は私に言われなければ、車の免許なんて取ろうともしなかったはずなのだから。
一通り話し終わったところで、翔は先ほど、何も言わずに変な話題で切り出したことを詫びた。しかしそれは、自分が犯罪者になったとしても一緒にいたいと思うかどうか、ということを確かめるためであったらしい。金や親の地位といったものと答えたら何も明かさずに去り、ルックスや性格と答えたらもっと他にいい人もいるよ、と強がって去るつもりだった。何に惹かれていたとしても、最早自分の魅力など犯した罪に比べれば取るに足らない。それでも最後に、私が何を思って今まで付き合っていたのか知りたかったし、正直手を差し伸べてくれるのではないかという一抹の期待を抱いてもおり、私にその問いの答えを求めたのだった。
「俺は」
虚ろな瞳が私を見ていた。
「俺は、やはり、君と共にありたい」
その漆黒の瞳の奥にいる、何かが私に呼び掛ける。
俺は神じゃない。俺は悪魔じゃない。
俺は不完全で、未完成で、何もかもを受け入れるにはちっぽけ過ぎる、ただの人間にすぎないのだ、と。
そしてそう訴える瞳の奥の何かが、彼を構成している全てのちっぽけな人間の瞳が、大西翔の認識そのものが、他の何にも代え難く、誰よりも美しいのだ、と私は思った。

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