下記レポートは、2000年5月に放映されたNHK製作のテレビ番組「失われた10年」にメールスタッフとして参加した際に提出しました。コーディネーターとして村上龍氏も参加していました。

 

 

「失われた10年」につて その1

 

「失われた10年」バブル発生前後何に投資すればよかったのでしょうか、の問いに、結論から言うと「何も無かった」と考えます。

 バブル崩壊後10年を経た現在、未だ景気は、明確な向上への指標を出していません。この間景気は、小さな山谷を経て、減税、低金利、財政支出、地域振興券まで出し、ケインズ手法による景気向上策は出尽しています。経過した時間の長さと、政府が行った経済政策を考えると、この長期にわたる景気低迷の原因は、バブル崩壊による後遺症と考えるより、日本経済が高度成長を達成したことによって抱えた、構造的な不具合と考えたほうがよいのではないでしょうか。現在の経済政策は、病人に合わない薬を長期に与え、古い経済構造を温存させている面もあると思います。

 

 同時期に、ほぼ同じ生産力を持ったアメリカ経済は、「ニューエコノミー」とまで呼称される長期の景気向上を継続しています。このような状況から考えると、経済先進国の生産力向上によって起こった生産される財の変化と、日本とアメリカの国民性、経済制度の違いから、日本経済の問題点が浮かびあがるのではないでしょうか。

 バブル崩壊の前、日本経済は軽薄短小と呼ばれた製品群を、高品質かつ低コストで生産することにより、一人あたりGDP世界一を達成しました。当時生産された物の中心は、車と弱電気製品で、製品として新たな発想は少なく、従来の技術と生産プロセスの高度化が極めて効果を発揮しました。また、全員参加という国民性に適合した家族的経営とQC運動が、品質、コスト面で有効でした。生産の中心は大企業が担い、護送船団行政といわれる官の横並び指導で、高度成長が可能でした。その後、経済はより生産力を向上し、生産拡大の中心は、軽薄短小という製品群から、選択的消費(人々の生活維持に必ずしも必要とせず、心的要因で需要が発生する消費)と呼ばれる分野にシフトしてきたのではないでしょうか。代表的なものとして、パソコンのソフト、インターネット、マルチメディアのコンテンツ、テーマパーク、若者の携帯電話、ブランド商品などがあげられます。

 

 選択的消費の対象となる財の特性を整理すると下記のようになると思います。

@再生産過程を持たない。

  (人の生存維持のうえで必需品でない)

A需要が一定しない。

  (技術の進歩、流行などで、商品寿命が短いものもある)

B様々な生産・分配・消費の過程を持つ。

  (従来の生産過程のような、原料、設備投資、在庫、流通チャネルを持たないものもあ  る)

C需要を創造できる、あるいは創造しなくてはならない。

  (マーケティングが有用あるいは必要)

D新たな財が無尽蔵に開発される分野。

  (科学技術の発展により、何が生まれるかわからない)

 

 以上のように整理すると、選択的消費財を生産する企業では、起業、廃業のサイクルは短く、生産される財(物とサービス)はあたりはずれがあり計画的生産になじまず、ユニークな発想が重要となります。

 選択的消費財を効率よく生産する上での、日本とアメリカの国民性、風土、経済制度の相違が、現在の好、不況の差ではないでしょうか。当時から現在までになすべき方策として、かってアメリカが日本的生産を研究したように、アメリカの、国民性、企業風土、経済規制を研究し尽くすことが肝要でしょう。

 

 国民性、企業風土として、日本の自立志向の弱さがあげられると思います。赤信号みんなで渡ればといった横並び意識、就職時の大企業志向、官による企業指導、同業他社を見る企業経営、企業内での、根回し、全員参加会議など仲間意識優先のデシジョンメークなど、経営におけるスピード、独創性に欠けています。

 

 規制緩和として、選択的消費財の生産を拡大させるという視点から、以下のような環境整備が考えられます。

 @容易に起業、廃業できる経営環境。(ベンチャーキャピタルの制度充実、倒産企業経  営者のリスタート環境整備)

 A個人の個性に会う企業への自由な移動。(労働者市場の整備、派遣労働の規制緩和)

 B年金、医療保険の制度改革。(長期勤務者、大企業勤務者の優位を改める)

 C通信の自由化。(おもちゃとして使われる携帯電話に規制の必要はなく、公営化して  でも料金を引き下げ、マルチメディア産業を育成する〕

 C農業の企業化。(農地法の改正により、農業を企業化する)

 D海外企業の参入自由化。(価値生産の機会を増やすという観点から)

 

 規制緩和は、選択的消費財の生産、流通、消費を拡大するという、はっきりした目的を持って行われるべきと考えます。一方、従来からの生活必需的財や生産財の生産も存在し、存在し続けます。規制緩和も、企業風土の変革も生産される財の性格により、セグメント化されたより細かい対応にならざるを得ないと考えます。就業者も自己の資質を考え変化と競争の激しい選択的消費財を対象にする企業に行くか、経験や、熟練さを重視する職場を選ぶのか、個人が決めるようになるでしょう。そための情報の整備、機会を多く作ることが、社会の生産性向上、活性化につながると考えます。

 

 方策として、さらにつけ加えると、選択的消費は、生活維持に必要としない消費なので、消費者が可処分所得を十分に所有していても、家計の将来に向けた安定が期待できないとき、消費として実現しません。安定成長が見込める経済運営が望まれ、そのためにもセグメント化された規制緩和、市場原理の優先が必要とされます。自由放任の市場経済ではないと考えます。また日本の給与生活者は、勤務実績による年俸制になれていません。格差の大きな年俸制への移行は、住宅や車などのローンをともなう消費を、萎縮させていると考えます。

 

 

「失われた10年」について その2

 

 編集長の質問が、Q:001からQ:002に変わったことは、現在の経済停滞、低成長はバブル崩壊の後遺症が原因でなく、その間に日本経済の転換があり、そこを問題にしなくてはならないということだと思います。

 

 私は、日本経済の産業構造に変化があったと考えています。

 それは、日本経済の生産力拡大によって、「豊かになった」ことにより、選択的消費がGDPの向上をリードせざるを得ない構造に転換していると思います。

 

 時期としてはバブルの最中で、メーカーが生産拠点をアセアンへ移転させたころではないでしょうか。

 

 選択的消費の対象となる商品は、生活必需品のように需要が一定せず、マーケッティングもフレキシブルです。商品のライフサイクルも短かったり、会社の存続期間も短かったりします。ポケベルや、PHSなどです。いわゆる日本の家族主義的会社経営で、生産するにはなじまない、サービスや商品の生産拡大をにゆかねばならない経済土壌に変化してきたのではないでしょうか。

 

 日本的経営と、QC運動がマッチした軽薄短小の多品種少量生産が、GDPを押し上げれる時代が、経済自らの発展の中から生み出した変化により、生産対象を変化させ、経営方法まで変化せざるを得ない状況に、バブル期を通じて転換していたのではないでしょうか

 

 ここに規制緩和(ニュービジネスへのインフラ整備)、ベンチャーキャピタル(起業、廃業のインフラ整備)、401K(自由なJOBローテーションのインフラ整備)、などの施策が、選択的消費を拡大するため、サプライサイドから求められていると考えます。

 

 同時に経済学も、転換を迫られていると思います。ケインズ政策による、公共投資、低金利政策、減税等は、可処分所得を充分蓄えている消費者に対して、GDPを動かすような効果をあげません。古典派はバブルの評価をできず、需要と供給の相関という必需品のマーケットからしか市場を見れない。選択的消費というセグメント化した見方をすれば、市場もセグメント化され、貧富の差の拡大も緩和する、新たな経済の枠組みも作れるのではないでしょうか。

 

 

「失われた10年」その3

 

私なりに「失われた10年」という表題について考えるところを述べさせていただ

きます。「私にとって1990年代・・・・・」には少しずれるかもしれません。

 

NHKスペシャル「失われた10年」と、このメーリングリストの目的をこの10

年を否定的に捉え、将来に向けて二度と繰り返さないようにするための場と、この段

階では考えさせていただきます。

 

そうなると当たり前のことかとも思いますが、バブル(市場性商品の生産性向上

率からかけ離れた上昇)とバブル崩壊の評価を考えないといけないと思います。

私は、バブルもバブル崩壊も否定したいと考えます。

バブルは、そのまま続けばよい良いという主張もあるかと思いますが、子細に

社会現象まで含めて見ると、ひずみが多く決して肯定できないと考えます。した

がって現在のアメリカ経済も、株高という負の遺産を背負いつつ必死で軟着陸

を模索している、決して喜ばしい状況ではないとみます。

バブルの崩壊も、非生産的生産システムの淘汰とする市場経済例礼賛型の意見

も聞かれますが、やはりなくてもよいものと考えます。

 

今の日本経済の方向を考えると、一方で上記のような把握によるバブル崩壊

に対する市場経済の否定的評価と、ニューエコノミーと呼ばれるアメリカ経済

の好調から市場経済を肯定する、規制緩和、競争重視のマネージメントにゆ

れ動いているのではないでしょうか。

 

私は、いま生産性向上を後押しする市場経済の利点と、政府の規制により市

場経済の負の側面をのぞく、第三の経済の道を模索したいと考えています。

問題解決の鍵は、生産される財の社会的役割ではないかと思います。生活必

需である、衣・食・住・医と生産財、金融サービスについては公営、あるいは規

制されてよいのではないでしょうか。選択的消費(人の生存維持に必ずしも必

要としない消費)にたいしては、市場原理が生きるように運営されてよいのでは

ないかとかんがえます。

時代に逆行するようですが、通信は公営にし公衆回線は無料、専用線のみ有

料とし、インターネットを普及させるのはどうでしょう。自家用車を普及させた道

路の運営と同様にします。

株式市場の、値上がり率は規制して構わないのではないでしょうか。

新古典派かケインズ派、あるいは大きな政府か小さな政府かではなく、両者の

良い面をくみ取る、第三の道です。豊かになった社会では選択的消費のGDP

の役割は増加し、安定的な成長の重要性が増していると考えます。

 

最後に、

生命保険会社から参加しているので、一時払い養老保険について触れます。

当時私も販売しました。営業現場を去ってから、長プラを上回る利率で、売る

不思議について、大蔵省が意図的に、生保の株による含み資産を吐き出させ

ているのかと考えました。しかしMOF担を経験した同僚に聞くと、そのようなこ

とを大蔵省で考えていた人はいないだろうとのことです。

 

「失われた10年」その4

 

「銀行員が地道に..........」について

 

皆さんと見解の方向が違うようなので、反論を期待します。

 

バブルの主因は、「経済制度」にあると考えます。

人類が自ら生み出した、資本のコントロールがいまだうまく機能していない

ことが問題の本質ではないでしょうか。

古くは、オランダのチューリップ投機、1929年の金融恐慌、日本のバブル

ロングタームキャピタルの救済、最近の東南アジア金融危機。

日本のバブル崩壊が金融恐慌に至らなかったのは、報道機関がうまく

ディスクローズしてくれたからか、資本コントロールがうまく機能したのか、

研究が必要だと思います。

 

人類は科学技術の進歩により、生産力を拡大し、資本制生産にたどり着き

ました。アダム・スミスは、各人が自分だけの利益だけを考えて行動してい

るにもかかわらず、社会全体として望ましい状態が実現するとして、「神の

見えざる手」と名付けました。経済の歴史は、必ずしも市場経済が神ほど

全能ではないことを証明していると考えます。

 

したがって、いまの経済制度では「銀行員が地道に努力すれば、それが

真面目でかつ道徳的であればあるほど、バブルを大きくすることがある」

と考えます。

 

国の経済運営制度として、土地、株、債券などの経済成長率からかけ

離れた上昇は、規制すべきだと主張します。

 

また、皆さんが指摘される、日本的組織文化、問題の先送り、経営者の

モラルのなさ、責任の回避。バブルの崩壊がなければ、表面化しなかった

ことを考えるべきだと思います。経済の高度成長期の中でも、上記の行為

体質は否定されるべきです。

 

したがって、会社の制度として社外取締役、監査制度を機能させ、会社の

違法行為、内部に巣くう悪い体質を規制すべきと考えます。

 

 

 

「失われた10年」その5

 

全体の流れと相違するかもしれませんが、

〇〇様のメールに添って、私の見解を記させていただきます。

 

1.バブルとバブル崩壊とモラルについて

この問題について、「責任のとり方」「日本型システム」として主題にするのは、

無理と考えます。

理由は二つ。

ひとつは、高度成長期においてモラルが善かった、その後モラルが下がった、とい

った内容を報告する文書、理由が見当たらないこと。したがってモラルの低下から

、バブルの発生と、崩壊を説明できない。

二つ目は、バブルが継続していなければ(今のアメリカのように)不良債権が発生

することもなく、銀行員の営業活動責任、幹部の決済責任、問題にならないでしょ

う。

モラルの問題は、いつの時代にも存在し、経済の状況と本質的にはかかわりなく存

在するのではないでしょうか。

本質的かかわりなく、リーダー待望のような記述を見ると、世界恐慌の時ドイツ国

民を引きつけたヒットラーを考えます。

また、会社の倒産がいまだ受け入れられず、ベンチャーの風土が育たない、日本の

状況は、昔なからの責任論に一因があるのではないでしょうか。

 

2.終身雇用制だいすき!について

私は、実績主義、年功主義(終身雇用)もセグメント化されて運用すべきと、仮説

を立てて考え始めています。実績主義が効率の良い企業、年功主義がトータルとし

て効率の良い企業、生産する財の性格によるのではないでしょうか。また企業の中

でも実績主義がうまく機能する部署、年功主義がうまく機能する部署とがあるので

はないでしょうか。いまの日本の経営者のように、いぜんと同じように横並びで実

績主義をとるのは疑問です。社会の中で二つのシステムが動き、自己責任で選択で

きる環境を作るのがよいのではないでしょうか。

実績主義の、年俸制は、なれない日本の給与生活者の消費を減退させ、景気低迷の

大きな部分を占めているのではと、推測の範囲内で考えています。

 

3.バランスシート不況について

私は、今の長期低迷はバブル崩壊をきっかけにしましたが、現在は生産構造が経済

成長により変化したことによる、構造的なものではないかと考えています。

少々長くなりますが、以前JMMに投稿したメールを送ります。

 

 私は、日本経済の産業構造に変化があったと考えています。

それは、日本経済の生産力拡大によって、「豊かになった」ことにより、選択的消

費がGDPの向上をリードせざるを得ない構造に転換していると思います。

 時期としてはバブルの最中で、メーカーが生産拠点をアセアンへ移転させたころ

ではないでしょうか。

 選択的消費の対象となる商品は、生活必需品のように需要が一定せず、マーケッ

ティングもフレキシブルです。商品のライフサイクルも短かったり、会社の存続期

間も短かったりします。ポケベルや、PHSなどです。いわゆる日本の家族主義的

会社経営で、生産するにはなじまない、サービスや商品の生産拡大をにゆかねばな

らない経済土壌に変化してきたのではないでしょうか。

 日本的経営と、QC運動がマッチした軽薄短小の多品種少量生産が、GDPを押

し上げれる時代が、経済自らの発展の中から生み出した変化により、生産対象を変

化させ、経営方法まで変化せざるを得ない状況に、バブル期を通じて転換していた

のではないでしょうか。

 ここに規制緩和(ニュービジネスへのインフラ整備)、ベンチャーキャピタル(

起業、廃業のインフラ整備)、401K(自由なJOBローテーションのインフラ

整備)、などの施策が、選択的消費を拡大するため、サプライサイドから求められ

ていると考えます。

 同時に経済学も、転換を迫られていると思います。ケインズ政策による、公共投

資、低金利政策、減税等は、可処分所得を充分蓄えている消費者に対して、GDP

を動かすような効果をあげません。古典派はバブルの評価をできず、需要と供給の

相関という必需品のマーケットからしか市場を見れない。選択的消費というセグメ

ント化した見方をすれば、市場もセグメント化され、貧富の差の拡大も緩和する、

新たな経済の枠組みも作れるのではないでしょうか。

 

 

「失われた10年」その6

 

 「村上龍氏への感想」と「2000年の自分について」同時に書かせて

ていただきます。

 

 JMMのメールマガジンを当初から読ませていただき、きわめて興味深

い体験をさせていただきました。当初から「失われた10年」という表現

に違和感を持っていました。村上龍氏が今回のエッセイで「失われた10

年」という捉え方では、見えてこないことがあると、書かれた点だと思い

ます。ここで「経済の本体が根元から腐っていた」と指摘されたいますが

私は、経済の構造的変化(選択的消費のGDP内での比重増加)、が起き

ていると捉えます。日本の生産構造と社会システムがこの変化にうまく対

応できず、長期の景気低迷に見舞われていると考えます。

 

 村上龍氏のエッセイと「2000年の自分について」二つの問題として

考えています。経済の問題と社会共同性(あいまいな表現ですが)の問題

としてです。前提として、両者とも一つの体系を持ち、合わさって社会現

象が表出するといった捉え方をしています。

 

@経済の問題

 人類は科学技術の発達により、効率的な価値生産(生活必需品から、生存

維持に必要でないものを含めた)が可能となった。結果蓄えとして余剰な

貨幣を、国民的規模で所有するようになった。このため、株、債権、土地

など思惑で値上がりする商品が、バブルを発生させるようになっている。

計画経済の破綻で、市場経済にアドバンテージがあるようにも見えたが、

市場経済も生産力の発展という内部要因から、不具合を生じ始めている。

新たな経済理論が必要とされていると考える。

 計画経済も、生活必需品のみを生産する上では、効率のよいシステムだ

ったと考える(フルシチョフまでのソ連)。したがってこれからの経済に

おいて、社会に必需な、金融、福祉、医療等は、政府による規制の下でも、

かまわないのではないか。その他の分野において、市場原理の競争が行わ

れるのは、むしろ良いのか、しょうがないのか判断できずにいます。

  私案として、ケインズ経済学と古典派経済学を、対象とする市場により

使い分ける、第三の経済学を志向しています。

 例をあげると、市場経済をベースにしつつも、株、債権、土地の値上がり

値下がりを厳しく規制してはどうでしょうか。現在行われている株式市場

での個別銘柄に対する、ストップ高、ストップ安を日経へいきんやダウに

もかぶせ、何年という期間でもかぶせます。GDPの伸び率から際立った

数字を規制します。その上で、成立しない買い注文や、売り注文は、抽選

にします(NTT株であったように)。このようにしても、市場経済の生

産性向上での効率性に、ブレーキをかけることは、ないのではと考えるの

ですが。

  証券会社に勤務されていた方のご意見を、聞かせていただければと思い

ます。

 

A社会共同性の問題

  村上龍氏は、エッセイのはじめに「ほとんどの日本人が言葉にならない

不安を持っているのではないだろうか」と書かれています。

  法政大学教授の金子勝氏は岩波書店出版の「市場」の前書きで近代的人

間の分裂を、「一人で自立して生きたい」と思うけども、人は「一人では

生きて行けない」と書かれています。

  先進経済国では、飢えの不安から開放されるという、人類がかって経験

したことのないステージに立っていると考えます。この中で人が社会的存

在であるという共同性をいかに作って行くかが問題となり、人々は言葉に

ならない不安にかられているるのではないだろうか。家族、生産組織、地

域社会での、生存を維持する為に生活必需品を得るという、一つの共同性

の軸が失われたことによる、精神的な不安なのではないだろうか。ここか

ら学級崩壊、少子化、パラサイトシングル、オカルト教団のような社会現

象を説明できないかと考えています。周りで見る限り、大人も子供も、あ

まりにも人と感情的に衝突することを怖がりすぎています。性格的問題で

はなく、生理的な問題のように見えます。

 

  このように2000年の状況を捉え、村上龍氏が指摘する「ゆたかな時

代」になったというコンセンサスの中で、どのように問題を解いたらよい

のか。モラル等ではなく、人類が新たな経済、社会に至ったことによる問

題として考えて行きたい。

  その過程で、自分はひょっとしたら何も知らないのではないか、自分が

所属する共同体を外側から見る視点をもつこと、重要な提言だと思います。

  今日の新聞広告で見た、立花隆氏の「脳を鍛える」も読んでみたい本で

す。